少年の正義
十六歳の時、僕は初めて人間を殺した。
初めて殺した相手は、自身の祖母だった。テレビドラマで観る様な、殺害時の緊迫した昂揚感は無く、呆気ないとさえ感じてしまった。それは、年が明けて間も無い頃で、僕は未だ高校の冬休みの最中だった。父親と母親が仕事に出掛け、僕と祖母が留守番をする事になった。祖母は軽度の認知症を発症しており、日常生活において見守りが必要な事も有った。
午前十時頃、祖母が腹が減ったと言って騒ぎ始めた。
「婆ちゃん、昼は未だだよ。もう少ししたら、昼ご飯にしようね。」
何とか宥めて落ち着かせようとしたものの、祖母は一向に聞く耳を持たず、僕の左頬をピシャリと叩き付けた。
「何じゃ!儂はお前の尊属じゃぞ!儂に飯を食わせん気か?」
酷い剣幕で、僕は仕方が無く早めの昼食を準備する事にした。其処でふと、僕の中に悪い考えが頭を擡げて来た。
「出来たよ、婆ちゃん。正月の残りが有ったから、今日は餅を焼いてみたんだ。」
僕は焼き立ての餅を祖母に装い、態と咽易い黄粉を用意した。
僕は台所に立って、祖母が餅を口にする様子をじっと眺めた。案の定、食べ出してから間も無く、祖母は咽始めた。時折、水が欲しそうに此方に視線を向けたが、そんなものを用意してやる訳が無い。祖母は次第に激しく咳き込み始め、仕舞いには椅子から滑り落ち、苦しそうに床を転げ回った。僕は傍まで行くと、祖母が苦しむ様子をじっと見下ろした。眼を見開いたまま苦悶の表情を浮かべ、助けを乞おうとでもしたのだろうか、祖母は僕の方に腕を伸ばして来た。
「汚いな。」
祖母の腕が触れる既の所で、僕は軽やかに身を躱して逃れた。そして、そのまま二階の自室へと向かい、冬休みの宿題に取り掛かった。
一時間程が経過した頃、僕は期待を込めて一階に向かった。祖母は既に動かなくなっており、僕は本懐を遂げた喜びで、口元が弛むのを抑えられなかった。その後、僕は涙を流しながら救急車を呼んだ。自画自賛だとは思うが、我ながら名演技だったと思う。
祖母の事は、昔からずっと嫌いだった。昔気質の人間で、家庭内でもやたらと上下関係を気にした。食卓では、自分より先に箸を握る事は許さず、入浴も必ず一番に行った。嫁いで来た嫁はいびるのが当然とでも言う様に、母親には辛く当たってばかりだった。料理の味付けには文句を言い、家事は何度も遣り直しをさせ、女中であるかの様に彼是と命令をした。逆らう事無くそれに従っている母親も嫌だったが、そんな様子を横目で見ながら、何一つ助け舟を出さない父親はもっと嫌だった。
僕は、子供の頃からヒーローものが大好きだった。弱者を導き助け、彼等を虐げる悪者をヒーローが徹底的に懲らしめる。それは、正に正義だ。だから、僕は正義を行ったに過ぎない。祖母という悪者を、ヒーローである僕が成敗したのだ。
僕が次に裁くべきは父親だ。父親は母親を、己の付属品の様に扱うからだ。祖母の嫁いびりを見過ごすのは勿論の事、父親自身も母親に辛く当たっていたのだ。僕は知っている。父親が母親に手を上げていた事を。
或る日、家族が寝静まった夜遅く、父親は泥酔状態で帰宅をした。僕は二階の自室で眠った振りをしていたが、あまりに騒々しいので、こっそりと様子を見に階下へ降りて行った。階段脇の扉を少し開け、僕は居間の様子を窺った。其処には、顔を真っ赤にして悪態を吐く、みっともない父親の姿が在った。甲斐甲斐しく世話をする母親の手を払い除け、大声で怒鳴り散らし、有ろう事か拳で殴り付けたのだ。翌朝、親知らずが痛いと言って、母親は昨夜の顔の怪我を誤魔化した。僕は何とも言えない無力感に襲われた。
その後も、そんな出来事は数日置きに繰り返されていた。顔の痣を隠す為か、次第に濃くなって行く母親の化粧に、僕は焦りを感じ始めていた。母親の身が危ない。早く正義の鉄槌を下さねば……!
大学入試を控えた或る夜、僕は計画を実行する事にした。
「母さん、夜は冷えるから、これを飲むと良いよ。」
僕は二人分のミルクティーを淹れ、片方を母親に差し出した。
「ありがとう。」
母親は何の疑いも持たずに、喜んでミルクティーが入ったマグカップを受け取り、ゆっくりとそれを口にした。僕はそれを確認すると、自室に向かいながら、母親に就寝の挨拶をした。
「僕はもう少し勉強をするから、母さんは先に寝ていて。」
「そう。あまり根を詰めないでね。」
「うん、大丈夫。きっと良い結果になるから、期待していてよ。」
数時間後、睡眠薬入りのミルクティーのお陰で、母親は深い眠りに落ちていた。父親が酔って帰宅をする時間に合わせ、僕は準備を始める。父親の寝室に向かう階段の最上部に、僕は丁寧に食用油を塗り広げて行った。階段下には、父親お気に入りの正義の女神のブロンズ像を配置してある。
僕は、鈍い光を宿した眼で、柱時計を睨み付けた。
「これは、正義だ。」