8 沙流土(Sard)にて 母の影を追って
「お母さん、お母さん。なぜ僕を置いていったのですか。なぜ僕以外の人々を連れ出して去ったのですか」
「大丈夫よ。僕が傍にいるから」
その声とともに、頭の中に響いたのは、遠い昔に記憶した一つの言葉だった。
『あなた達は私が示す地に行きなさい。あなた達の行く手に立ちはだかるものはないであろう。私は、モーセとともに居たようにあなたとともにいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ』
その言葉は、幼い時から彼の心に響き続けてきた言葉、彼の心の奥深いところを守り続けてきた言葉だった。その火の真夜中、その言葉に促されるようにして、ようやくジョナは目を覚ました。用心深く体を動かさず、目だけを動かした。だが、窓から入る星明りだけの暗闇の中で、彼の周囲に寄り添っている二人を確かめることはできなかった。ただ、悪夢にうなされていたジョナの手を握ってだき起こしてくれた腕と上半身は、女の子のそれのように感じられていた。
「ミラ、ミラ、戻って来てくれたんだね」
ジョナは抱き起してくれた者の名前を間違えていた。その声は、その時の彼にとって最も愛しい女の子の声のように感じられていたためだった。ただ、記憶の中で彼が親しかった少女はミラしかいなかった。それゆえ、声の主をミラと誤解していたのだった。
ジョナはようやく起き上がることが出来、ゆっくりと自分のクビに掛けていたカンテラの灯をともした。ジョナが意識を取り戻したのは、先ほど入り込んだ別荘跡の地下の寝室であった。そして、目の前にいたのはジョナと同じ年齢ほどの子供と、図体のでかい老人だった。先ほどの声は目の前の子供、ナナのものだった。
「ミラというのは誰のことなのかな。僕はミラじゃないよ。ナナだよ」
「君は確かジョナと言ったな。私はレビ、この子はナナと言う名だ。互いに会ったことがあるだろ?」
ジョナとナナは互いを確認し合って、うなづいた。
「何があったんだい。僕たちがここに来たときには、あなたはここに倒れこんでいたんだよ」
ナナにそういわれてジョナはゆっくり思い出していた。
「確か.....噴き出した黒い煙に圧倒されて......」
「そうだね、空いている窓から黒い煙が外へ、南へ固まって飛んでいった」
ナナがそう言うと、それを補うようにレビが口を開いた。
「あれは瘴気だよ。」
「瘴気?」
「人間が吸い込むと、悪影響がある。君がうなされていたのも、その瘴気のせいだろうよ、だが、今の段階で瘴気が飛び出したとはね。なぜだろうか」
レビはしばらく黙り込んだ。それをまねするようにジョナもナナも考えこむように黙っていた。
しばらくすると、レビは突然大笑いをした。目の前の子供たちが、自分自身と同じような格好で頬に手を当てている姿勢がおかしかった。だが、ジョナもナナもレビの笑いの意味を悟って、怒気を含んだ視線をレビに返してきた。
「子供だと思って、バカにしているんでしょ?」
ナナはそう言いつつ、レビの大きな尻に一生懸命にけりを入れた。だが、レビはそれに気づかずに、ぼりぼり尻を欠くだけだった。それを見たジョナは、ナナに笑いかけながらレビの尻の中央を蹴り上げた。
「いってえな......なんだ、お前たち、寄ってたかってこの爺をいじめるのかね。いつからそんな悪い相談をし合う子供たちになったのかね......そうか、ジョナも元気を取り戻せたのかな」
「ええ、ふたりともありがとう」
「ここは廃墟だと思ったのだが、この部屋だけは維持されていたんだなあ。エアクリーナも暖房設備も稼働しているぜ。なぜこの部屋だけが残っていたのかね」
「ここは、僕のお母さんの部屋だった。お母さんはここに色々なものを隠していたんだ。それが何なのか僕にはわからない。ただ、お母さんは僕がここに入ることはおろか近づくことも禁じていたんだ」
「そうか、この部屋にね。ところで、この部屋に何が隠されていたんだね」
「このスキンスーツです。めぼしいものと言えばこれだけです。でも、このスキンスーツは何なのかなあ。腕とか、足とかの冠雪は動くけど、構造材料は虫の殻みたいに硬い」
ジョナは考え込んでいた。彼の中にも母親の不可解さが認識されてきた。ジョナに対して隠していた物が、あまりに異様だった。それにジョナのこだわりに対する異常なまでの不信感、いや警戒感と言っていいだろう。まるで、初めて訪れた者に対する警戒感のような......そして、一番の異様な点は、残されていためぼしいものが、この部屋とこの部屋に隠されていたスキンスーツと瘴気の飛び出した家具だけであることだった。
「そうね、大人の男の人ぐらいの大きさだね。形も、細かいところまで男の大人みたいだし」
「こんなのが柔らかいマットレスの上に転がされていたんだよ、まるで男の人が寝ているみたいな......でも、お母さんはここで何をしていたんだろうか」
レビは、しばらく観察しながら何かを思い出そうとしていた。
「君の母親は、寂しかったのかね。そうだな。アダク調査団に同行した際も、彼女は指導者だったし......。たぶん、孤独だったんだろうね。ただ、この人形のようなスキンスーツは人が着用して使用するものだね。私が着用してみようか」
レビは足から差し入れ、苦労しながらスキンスーツを着用した。だが、少々背が曲がっているせいで、ぴったりと身に着けるには少々時間を要した。
「えらいこっちゃ。爺には少し扱いづらいね。お腹の部分は余裕があるんだが、肩から上は背をそらさないとな。それはともかく、このスキンスーツを誰かがこの部屋に隠し続けていたんだね。そして、君が瘴気を解放した......たぶん、これで君がここに入り込んだことも分かる......おそらく、君の母親がこの瘴気を受け取るんだろうね。そして、それをきっかけに何か行動を起こすのかもしれない。」
「この地区から離れていった後、何をするつもりなんだろうか」
「その問いには、さらに問いが重なるよ。例えば、君の母親が君を置いていなくなったのはなぜだろうな。いくつも疑問は沸くだろうけど......今はわからないね。そのうちわかるさ。ただ、今大切なことは、今から君は何をするかだね? これからどうするつもりだい?」
ジョナは黙ってしまった。彼はこれからのことについて、まだ考えをまとめることが出来なかった。それを見て取ったレビは静かに語りかけた。
「ここにじっとしているわけにはいかないだろう。もうすぐこの地域は、クートゥの街を含めて谷の底へと飲み込まれるはずだ」
ナナは驚いた顔をしたが、ジョナはそれをよく認識しており、レビの話にうなづいていた。
「そこで、だ。これからどこへ行くかになるね。移動するのだからそれは考えないと。君の母親は、もしかすると意識的に君から離れていったのかもしれない。しかも、それは親心かもしれないし、何か別の考えがあるのかもしれない」
だが、ジョナはそれを頭で理解していても、彼の記憶しているナスターシャの影は、今まで彼を大切にしてくれた母親だった。
「でも、でも、僕はお母さんを追いたい」
その言葉を聞きながら、レビは考えをまとめていた。
「おそらく、スキンスーツは私たちに対する罠かもしれないよ。過去のジョナに関係していたもの、そして、今の君には使えない代物だ。私から見ると、君の母親から君に対しての皮肉、『いまのお前には役に立たないだろう。お前は未熟だ。私には敵わないよ』とでもいうメッセージのように見えるな。まあ、メッセージ性があるとしても、今の私たちにははっきりしないね。とにもかくにも、これも天の配剤さ。もし、メッセージがジョナに対しての皮肉『いまのお前には役に立たないだろう。お前は未熟だ』ということなら、その内容はそのまま真実となると思うよ。未来の君ならそのまま活用できることになるさ」
現実には、レビはスキンスーツの設計思想を分析しながら心の中で確信していた。
「このスキンスーツは、もともと私の上司の啓示の下で作り出された作品だ。たぶん、ここに残した奴からの皮肉のメッセージなのだろうが、今の私たちにとっては贈り物さ。今は私が身につけて使い方をジョナに示唆できる。そうすれば、その最低限の使い方が分かる。そして、応用の仕方をいずれ知ることもできるだろう。そうだ、たぶん飛び立った機体も関係している。そうであれば、いつかジョナが使いこなすものなのかもしれない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ナスターシャたちの大キャラバンは、秋から冬にかけて地震多発帯をやり過ごし、沙流土に至っていた。
クートゥにあった古代資料によれば、この深海都市はもともと日本と言う国、そして首都東京が由来であった。貿易が盛んだった国らしく、染料・塗料や宝石に似た半導体結晶材料、そして服飾の産業では世界有数であった。白頭山から再生した煬帝国によって国家が征服されたのち、多くの偶像崇拝を重ね、その風習をそのまま海底都市沙流土に持ち込んでいた。だが・・・・・・
ナスターシャたちが着いた時、そこにあったものは熱水に水没した都市の跡だった。
「ここは、滅びてしまったのか......」
そこに広がっていた跡から彼らが推定したことは、沙流土とその周辺の湖から大幅に熱水が増水し、生産基地と街をすべて飲み込んだことだった。水はすでに引いていたのだが・・・・・水が引いた跡の街角の惨状は、ゆであがった白骨が散らばり、その周囲には殺菌後のヘドロのようなものが広がっていた。さらに南へ行くと、乾ききった都市中心部のはずが、それは水没した跡であり、全てが殺菌し尽くされたサラサラの土壌が廃墟を埋め尽くして広がっていた。
「ここに水没している街区は、かつて沙流土であった都市の大部分です。今、沙流土と呼ばれるところは、ちょうどあの辺り、あのつまらない小さな集落ですね」
ナスターシャたちから離れたところに、ひときわ目立った街区があった。大きな廃墟から見ると、そこは大都会の街区だったのだろう。その中央の一角には、少数の人間たちの集落が見えた。
「生き残っている者たちもいたのね。ただ、あの小さな集落では負担になってしまう。僕たちが身を寄せることはできないわね」
「ではどうしますか」
「むろん、さらに南へ行くしかないでしょ?」
ナスターシャの一声で、大キャラバンは南へと急いで去っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジョナたち三人がこの地へ達したのは、ナスターシャたちのキャラバンがここを去ってから一か月後の冬だった。ジョナ達がナスターシャたちの無視した集落に達すると、そこには水没の跡に生き残った人々が生活をしていた。その中央には小さな小屋が密集した中央に、素朴な小屋群には似つかわしくない大聖堂がそびえたっていた。
大聖堂に近づくと、その壁一面にはアラベスクの模様が描かれ、その中からは複数の男女たちの詠唱歌のハーモニーが漏れてきていた。ジョナたち三人がその言葉にひかれて大聖堂の中に入ると、十数人程度の信徒たちが祈りを捧げていた。それは歌ではなく、呪文のように繰り返される祈りの言葉だった。単に多く呼べば願いが叶うとでもいうように繰り返されるその空虚な文句は、「啓典の主よ」という言葉であり、本来ならば心を込めて口にすべき言葉だった。そして、街道の中央には白い壁を背景にした祭壇が作られていたのだが、ジョナたちであれば感じられるはずの臨在が感じられなかった。釘打たれ血を流し苦しみつつも愛のまなざしをくださるはずの啓典の主の御姿が、感じられなかった。
祈りの儀式が終わった後、大聖堂の入り口に立ったままの三人に、儀式に参列していた男女たちが振り返った。
「儀式の途中に入り込んでくるとは......あなた方は何の用でしょうか」
長老と思しき老女が問いかけてきた。ジョナはそれを聞いて思わず問いかけなおした。
「儀式? それが儀式? 真の礼拝だというのですか?」
このことばジョナが考えた論理ではなく、まるで反射的に発した言葉だった。ジョナが自分自身の言葉に驚いている表情が、そのことを如実に表していた。
「よそ者たち、あんたたちは私たちの儀式を汚すのか?」
レビは、突然のジョナの指摘と老女の反駁とに驚きながらも、ジョナの表情を見ながら指摘しなおした。
「汚す? あなた方こそ「主よ 主よ」と聖き御名をただただ繰り返すのは冒涜ではないと?」
「ぼ、冒涜だと!?」
「そうです。仮にあなた方の為していたのが儀式ならば、なぜ臨在を信じていないのですか?」
「臨在がない、臨在を信じていないなどと…なぜわかるのか?」
「あなた方の祈りは単なる繰り返し、いや、聖き御名を呪文にしてしまっているではないですか」
「呪文になどとしていないぞ」
「それならば、あなた方はなぜひたすらに追い求めるように『主よ 主よ』と繰り返すのですか?」
「それが、私たちの求めているものにつながるはずだからだ」
「それは違いますよ。あなた方の為さっていることは空虚です。空しさしかありません。あなた方は何を求めて祈っているのですか」
「当然、啓典の主に私たちの願いをもとめる対話だ。「主よ、主よ」とひたすら繰り返すことこそ、私たちの願いを啓典の主へ届けられるはずの儀式だ」
レビは、憐れみの目で老女たちを見つめた。もうこれ以上何を言っても無駄なような気がしていた。それでも、ジョナは老女たちをまだ凝視し続けていた。
「主よ、主よ、と繰り返すことだけでは、虚ろな影を追うだけの形式にすぎませんよ」
物わかりの悪い老女たちに、ジョナは我慢できずに再び鋭く声を発したのだが......。老女たちは理解できていなかった。しかたなく、だが、レビは具体的な指摘を試みた。
「あなた方はこのままでは『啓典の主の来た時』を悟ることが出来ませんよ」
「あなた方はいったい誰なのですか」
その後、ジョナは幼い口調ながら、老女たちに、冬から春へのこの時期に降誕があったこと、啓典の主の血を流した姿での臨在、そして復活、それら一連の記録を思い出させていた。老女たちは急に驚愕の表情を現し、思い出したように無言のまま祈りを捧げ始めていた。レビはその反応を見て満足した。
その夜、ナナとレビが寝静まったころ、ジョナは一人寝室を抜け出した。外へ出ると、谷に両側にそびえる黒い山の上の星空に、オリオンの崩れた星座が見えた。同時に、ジョナは自分たちが為したことに恐れをなし、思わずつぶやいた。
「この二人と居ると、不遜なことをしかねない。僕はそんなに偉くない」
そういうと、ジョナは寝所にもどった。すると、今まで見たことのない光が、隣に寝ているナナやレビたちの荷物の中から見えていた。
「これは、触ると模様が浮かび上がる。地上の地図だ…・でも、なぜ先ほどから急にひかりだしたのだろうか」
赤い光と蒼い光。それらを眺めていると、ふと気づいたことがあった。赤い光は自分の母親の居場所ではないか、と。
そしてさらに眺めていると、ジョナの心に疑似声音が響いてきた。
「この導きの石が光ったのは、あなたの呼びかけに答えたのです」
今まで彼に声をかけてきたのは、この水晶玉に違いなかった。ジョナは反射的に水晶玉を手から離した。ジョナは呼びかけたつもりはなかった。それよりも、この疑似声音は何かをきっかけにジョナを揺さぶる声であり、反射的に逃げ出したくなっていた。
彼は母親の元に戻りたいと、そのまま外へ飛び出した。荷物はいつも持ち歩いている簡単なもの。彼は二人を残して、そのテントを後にしていった。
「お母さん......」
そう言い残すと、ジョナはしばらく空のオリオンを見つめ、沙流土の地を一人で去っていった。