7 ナスターシャの回帰覚醒
湖に少しばかりの波紋が生じ、水面から音もなく浮かび上がるものがあった。月の光が煌めくと、銀色の機体が全身を現した。それは、ジョナが湖底で見つけた銀色のカプセルであり、それを動かすメカニズムは、地上で見たことのない無音無振動、そして無反動であり、非常に高度な隠密性を持ったものだった。
それでも、月の光を反射した煌めきに敏感に反応したものがいた。それは、ラスコフ家の別宅から外を見ていたナスターシャだった。彼女は窓を開けて空を見上げながらつぶやいた。
「あの機体は何者? 誰のものか ジョナが執着していた湖底にあった物体なのか? どうして南へ? この地域が危ないから逃げ出したのか?」
ナスターシャは一人、考えを巡らしていた。
「あれは、わが息子ジョナが見た物なのかしら? 彼は湖底で何を見たのかしら?
......でも、なぜ私に言わないの? なぜ私に知らせないの?
私に反抗しているのかしら。あのひどい態度は、彼の反抗期がひどくなってきたからかしら? 反抗期だから私に言わないの?
……それともわが息子は何かを隠しているの?
……それはなぜ。何かを知ったからなの?
……なぜ知ったのに私に言わないのかしら?」
彼女は何か思い出せないことがあった。
「なぜ、彼が知ったことを私はそんなに気にするのかしら?
......なぜ私は彼の知ったことにこだわるのかしら?
......そう、彼を、私の息子ジョナを警戒しなければいけないわ」
ナスターシャの心の片隅に浮かんだこの思いは、人の親としてはいささかおかしかった。ナスターシャはこの最初こそおかしいと感じたのだが、すぐにその疑問は消え、ある思いが心のすべてを支配した。その思いこそ、ナスターシャを今まで無意識の時にだけ動かしていた魔の思いだった。
「そう、今こそ思い出したわ。私は......人間たちを守る龍......、全てを寂静にて秩序立てることが、私たち龍の究極のめざすところ」
この独り言を窓の下にいたレビが聞いていた。
「ほほう、ようやくナスターシャという人間の意識から、本来の龍であることを意識しはじめたな。今までは無意識に龍として活動していたが......ついに正体を現すこととなりそうだな、堕天使どもめ」
レビは、そう小さな声でつぶやくとナナの許へ戻っていった。
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次の日の朝になっても、ジョナは別宅のナスターシャの許に戻ってこなかった。仕方なく、ナスターシャはジョナをラスコフフィールドの人々に任せて、クートゥの市庁舎に戻ることにした。混み合った討議のためだった。
クートゥの市庁舎では、アダクとアヴァチャ火山の調査結果から、街からの脱出を急ぐべきだという意見が強まっていた。それゆえ、アリューシャンやカムチャッカの谷筋から南へ離れるプランが立てられることになった。
「今まで南へは、誰も行って帰って来た者はいません」
「それならば、救助隊、もしくは調査隊を派遣したことはあるの?」
「ええ。しかし......」
「それで? 戻ってきたのは? 結果は?」
「戻って来た者はいませんでした。」
「何が起きたのだ?」
「それは、何もわからないのです」
「私の納得できるような答えはないのですか」
「残念ながら、今までの議論が答えです」
「それなら、私が直接調べに行かなければ」
「それは危険です」
「なぜなの?」
「局員が直々に行くことには反対です」
「それならば、ここで判断しなければならないことになる」
「どういうことですか」
「私は政治局員。ここでの責任者です。皆さんの生存に対する責任があるのです」
クートゥの幹部たちは誰もが、南へ行くにしてもまず調査が必要だと言った。だが、南へ行くには、アリューシャンへ行くのとは異なり、昔から地震の多発する谷筋を通過していく必要があった。古い記録によれば、その南端には、かつての大地震が頻発したあとは千年程度は地震がない見込みの部分があり、その一帯にいくつかの大きな湖と「沙流土」と呼ばれた都市があるはずだった。
「その地域へ行くには、安全のための装具が必要だと思います」
「どんな装備が必要だろうか。」
日差しの強さを利用したソラーセル充電式の車両とともに、人間には何らかの対紫外線スーツが必要ではないかと思われます」
「わかりました。それらを準備次第、私たちクートゥとカムチャッカの谷筋の全員を集め、谷筋沿いに南へ向かいましょう。私たちは脱出しなければなりません。大丈夫です、必ずうまくいきます」
ナスターシャの新しい意識が明らかに働いていた。その意識は、南へ行くことが必要であることを訴えていた。また、その新しい意識はジョナとの絆を見直そうとしていた。それは、ナスターシャとジョナとの間柄が、母息子ではない新しい関係へ変移しつつあることを意味していた。
ナスターシャはジョナの通信端末に長文の通信を送ると、クートゥを出発する隊列の司令室として、南へと旅立った。
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ジョナはやっと歩いてクートゥのナスターシャの宿舎に戻ってきた。ラスコフフィールドでも脱出の準備が慌ただしく始まっていた。彼は不安になり、準備の喧騒の中で一人だけクートゥに戻って来てしまっていた。彼が歩いてきた距離は、9歳になるかならないかの子供にとっては、体力を奪い切るものだった。彼は宿舎に入り込むと、そのまま自分の部屋のベッドに倒れこみ眠り続けた。
起きたのは、三日後の朝だった。幼い彼はいつものとおり母親が起こしてくれるものと思っていた。だが、三日目の朝になっても、彼の住み慣れた家のどこからも母親の声は聞こえなかった。
「お母さん、どこにいるの?」
彼は家の中を探し回った。母親の部屋、キッチン、バスルーム、クロゼット......だが、どこにも彼の母親はいなかった。呼んでも母親の応えはどこからの聞こえなかった。幼い彼は、母親との不可解な諍いがきっかけで母親と長い別れがもたらされたことを、ようやく悟り始めた。だが、悟りと納得とは違う。ジョナは納得できずにもう一度家の中を巡りまわった。そして、彼は彼の端末に届いていた通信文にようやく気が付いた。
「一度私への思いがあるのであれば、この書を見ることもあるでしょう。その時は、私とあなたの絆がまだ強く続いていることを願っています。その絆に基づいて、あなたに伝えましょう。そこで、私からの伝言です......。わが子よ、今このクートゥは滅びようとしています。街の人々全員が脱出を急いでいます。あなたはまだ帰ってこない。しかしあなたを待つことはできません。今はお別れです。もし、あなたに知恵があれば、おそらくまた再び会うこともあるでしょう。しかし、それはいつになるか、どんなものになるか、私にもわかりません。おそらくあなたにもわからないことでしょう......。さて、私と同志たち全員の行き先は、南です。アダクの人々は南へ行ったという説があります。同志たちも、南へ行くことにしました。のぞき込めない奥底からの思いから、私は同志たちを先導していかなければならないと感じています。私は貴方の母親であった時のように、人間の導き手として、人間たちを率いていかなければなりません。もともとあなたは私の子供ではありませんでした。あなたと貴方が互いに相手から離れたとしても、それは多分自然なことなのです。本当は、あなたはもともと一人でここに来たのですから」
ジョナには、ナスターシャのいう「人間」が当然クートゥの人々であると思った。しかし、ナスターシャがこれから率いていこうというのは、クートゥの人々ばかりではなく、ナスターシャの意識の奥底にある龍の意識が導いてきた人間全体であった。ナスターシャは徐々に回帰覚醒しつつある心の奥底を広げようとしていた。その呪われた奥底を。
この手紙を読んだジョナは、何かがこれから大きく動こうとしているのだと考えた。それは人間の歴史なのか、そしてこのクートゥの建設されたカムチャッカの谷なのか、わからなかった。いや、その実は、ここからナスターシャだった者が、人間たちを再び啓典の主への反乱へと導き始めた時となっていた。
ジョナははっとして気付いたことがあった。脱出するというラスコフフィールドの人達の騒ぎの最中、ジョナは母親を追ってクートゥへもどっていた。その途中の道の半ばでは、湖が熱く蒸気を発し始めていた。それは、地殻変動の予兆だった。それも、千年ぶりの地殻変動の予兆であり、今まで繁栄してきた谷あいの千年都市国家群の終わりを意味した。それを思い出したジョナは、ナスターシャの持つはずの情報端末を呼び出そうとした。だが、答える者は誰もいなかった。
ジョナは助けを求めて宿舎からクートゥの市庁舎へと飛び出ていった。だが、市庁舎に達しても市の首脳はおろか、科学技術者たちや部下たちがいなくなっていた。驚いて街に出てみたのだが、残っているのはサービスを行っているアンドロイドたちだけだった。
ジョナは再びラスコフフィールドへ戻っていった。長い時間をかけて戻ってみると、途中で行き合うこともなかったはずなのに、イワンもミラも誰一人いない。生産基地も別宅もすべて電源が切られ、車両もなかった。
そこには、一人残されたジョナ、かれは改めて自らの出来を探った。それは、ナスターシャの今までに見たことのないよそよそしい態度から、何かが後ろに隠されていると感じたからだった。
「なぜ僕は残されたのか。お母さん、お母さんは僕と袂を分かつつもりなのですか。それほど僕がこだわった一連のことが気になった、いや忌避したのですか。つまり、お母さんは、僕が目指す何かと対立しているのですか......でも、僕がこだわったのは、僕の出来。僕の存在理由にすぎないのに。もしかしたら、お母さんは僕の知りたいものを隠している......ただ、どこに......そうだ、お母さんが過去に使っていた別荘......」
彼は、昔、母ナスターシャと暮らした別荘の跡へと出かけた。その廃墟にはまだ部屋として残されていた地下室があった。
「ここは、僕が小さい時に入ってはいけないと言われていた禁断の場所。時々、お母さんの悲鳴のような声が聞こえたんだ。苦しんでいるような声だったのだが......そんな禁断の忌むべき場所をお母さんはそのまま残していたんだ......なぜ......そう、僕が決して近づきたくない場所だと知っていたから......でも、今はそこに入っていかなければ」
ふと見つけたのは地下室の戸棚だった。そこにあったのは、肌にぴったりと張り付く成人男子用の透明な無機質のスキンスーツだった。ある程度弾力と変形性はあるのだが、今のジョナには、大人サイズのスキンスーツはあまりに大きすぎた。
「なんでこんなに大きかったんだ。このスキンスーツはまるで大人の男のサイズだ......これをお母さんはこの部屋に隠し持っていて何を…」
そこまで言いながら、ジョナは地下室の奥のもう一つの部屋に行き着いた。しかし、そこで部屋を開けたと同時に、部屋に仕込まれた瘴気が噴き出し、南へと黒い影となって飛んでいったのだった。その瘴気が噴き出した時、黒い瘴気はジョナの心を圧倒し、気を失わせた。
ジョナの悲鳴を聞いたとき、付近にはレビとナナがいた。彼等は、ジョナの様子を観察していたのだった。彼らは特別に何がが起きると思ってはいなかったが、彼らは結果としてジョナのところに助けに行くことが出来ていた。