3 アリューシャンの谷から来た老人 レビ
つぎの年、ジョナたちは9歳の学年となっていた。
その冬の学期の終わりとなったころ、アリューシャンから、老いた白髪の旅人が着いた。たぶん、雪解けを待ってから来たのであろう。普段ならその程度のお知らせなのだが、今回は尋常ではなかった。普段であれば彼らは多くの商品をもって来訪するはずが、そのレビ・アイアサン(Levi Iyasan)と名乗る図体の大きい旅人は体に似合わずほとんど荷物を持たず、それどころか満身創痍の姿でナスターシャ政治局員の前に拝謁した。
「アリューシャンのアダクは、もう人が住めないところとなりました。もう私たちは、ここに交易に来ることはおろか、あの街で暮らしもできなくなったのです」
「何が起きたのですか」
「それがわからないのです。ある日、爬虫類たちをつれた8歳ほどの女の子が来たのです。そうしたら、次の日、私が起きたらすべての家がもぬけの殻でした。どこへ行ったのかわからないのです」
「あなたはどうお考えなのですか。何を見たのですか」
「皆、旅立ってしまったように、いなくなってしまいました」
「どこへ?」
「多分、南へ」
「南へ?」
「いえ、それは私の推測です。と言うのも、多くの住民たちはいつも、『救いが近いから、南の谷へ行き、それに備えなければいけない。敬虔に暮らさなければいけない』と言っていました。敬虔さはあなた方と同じです。『黄泉、深い淵の底からあなたを呼びます......』と祈るのも同じでした。私たち住民たちは、デンマーク系、スコットランド系、中華系などのカナダ人だったのです。一部にはフランス系もいましたが......そして、さきほどの8歳の女の子から、『救いがなされる時が近い』と聞いてからというもの、彼らは落ち着きを無くしているように見えました。そのことからいうと、彼らは救いの為されるところへ行ったのかもしれません」
「欧米、中華系以外のカナダ人以外もいたのでしょう?」
「もちろんその人たちも、全ていなくなってしまいました。ええ、老人の私一人が残されてしまったのです」
「なぜ?」
「わかりません。その謎を解きたいがためにここを訪れたのです。きっと敬虔なあなた方ならわかるのではないか......と思って......」
「そうですか......。確かに私たちは、敬虔さではあなた方アリューシャンの方々に引けを取りませんでしょう。しかし、今の私たちにはわからないのです。ここは確かにアリューシャンと同じように深い谷です。でも、ここは深い淵ではあっても、黄泉ではないと思いますよ」
「ではここは祈りの中でどのように位置づけられているのですか?」
「そう、私にはわかりません。ただ、私たちの救いはまだ先だと思います。救われるには、私たちは、今の私たちはあまりに悪い存在ですから」
「では、なぜアリューシャンでは人がいなくなったのでしょう」
「わかりません。でも、私たちも調べに行きましょう」
ナスターシャはアリューシャンの谷への調査団を組織した。
春の谷底の道は、以前より確かに乾いていた。以前は湿気が感じられただけでなく小川がアリューシャンの谷に向けて流れていたはずだった。今でも針葉樹林は谷底一帯に広がっている。まだ春であるため、太陽光線は弱かったが、霧の多いこの地域では、夏の太陽光線であっても地面を乾燥させるほどの強さであったとは思えなかった。それなのに、アリューシャンへの経路がこれほど乾いている状況は、今までにないことだった。
もうすぐアリューシャンのアダク周辺の湖に出会うはずだった。たしかに、わずかに湿気が感じられた。だが、湖らしい姿は見えず、いくらか湿った土が広がっていただけだった。これでは、街に供給されるはずの水が断たれたのと同じだった。湖があったと思われた土地には、ぬかるみに残る轍があったものの、それはクートゥに達したレビの馬車の付けたものであり、それ以外についていたものはネズミの集団の足跡ぐらいだった。それでも調査団はもうすぐアダクに着くと考えていた。
「乾燥が激しくなったのね」
「だから、このネズミたちはこの都市を捨てたということでしょうか」
「今は、乾燥した、人もネズミもはいなくなった、と言うことしか言えないわ」
ナスターシャたちはそう推論した。
ナスターシャは、アダクがクートゥよりも大きい街であると聞いていた。大地震でも起きたのだろうか。この辺りで人類が生き残っているのは全て、昔海溝部と言われた超深海だったところだ。だが、海溝だったのであれば、都市建設に至ったあの時から千年がたとうとするこの時、そろそろ大規模な地震が来るであろうと言われていた。クートゥでもそれは指摘されていることであり、人間の居住地域には時間的制限が近いことを、皆わかっていた。だが、アダクに着いてみると、建物は壊れておらず、都市のインフラも無事なままだった。ただ、人間たちや犬たちが見当たらなかった。3階建ての集合住宅やその周囲に広がる戸建ての内部は、整理された状態で放棄されていた。ごくたまに、室内猫かなにかが屋内のあらゆる棚を開け放ち、食べ漁った跡が残されている家もあった。
無人の家々を確認しながら、調査団は街の中央へ達しようとしていた。レビによれば、そこには市のセンター、議会、裁判所、そして商品取引市場や食料マーケットがあるということだった。
「おそらく、行政府か議会に、彼らの行動を探る何らかの資料が残されているかもしれませんよ」
だが、行政府に残されたのは、予算編成のための積算資料、議員からの質問書ばかりだった。たしかに、議会図書館には太平洋高原を南東へ下っていく方面の地図と、その高原へ登っていく道の地図、太平洋高原の南東から見知らぬ谷に至る俯瞰図などがあった。だが、どこかへ全体が退避や移動することを相談・討議したような跡は見つからなかった。議会棟の議場にも、各議員の机の上には、検討されている途中の資料が広げられたままだった。
「商品取引所の看板は、動いていますね」
「中の電源もそのままなのだろう」
「食料マーケットに行ってみましょう。我々の食事はまだ十分にあるけれど、補給できるなら補給しておいた方がいい」
アダクの食料マーケットは、多くの外付け冷凍庫が内部に向けて半分扉を開けたままだった。多くの品物が床に転がったままなのだが、外気と遮断されて冷え切った店全体は、まるで冷凍庫のような状態だったため、全てが凍ったままだった。中に入り込んでいくと、室内に響くのは外付けの冷凍庫から響いてくるブーンブーンというコンプレッサの音だけ。ところどころLEDの青白い光が残っているが、ほとんど暗闇のような状態だった。
中の照明スイッチを入れると商品陳列路を照らす照明が青白く、また廊下はオレンジ色に光った。商品はクートゥからの商品ばかりでなく、かつての泉からとれた魚介類も氷漬けされていた。ただ、食糧庫から離れた通用口近くの警備員室のみが、曇ったガラスの中に温かい領域があるように見えた。その警備員室に、人の身じろぎするかすかな音が聞こえた。