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20 マリアナの谷(Mariana Circle) の轍

「ここから先は崖崩れで道が消えているぞ」

「ほんとうだ」

「しかも、崩れた岩は新しい」

「これは、此処も危ないぞ。この峠の全体がさらに崩れようとしている」

 そう言っているうちに、今までたどってきた峠道の上に、新たながけ崩れが始まっていた。

「速く!」

「みんな、こっちだ」

 イワンの呼ぶ声にミラが反応し、それに続いてジョナとナナ、ベラが続いた。

「この岩陰だったら岩を避けられる」

 全員が岩の下に入ると同時に、がけ崩れは一帯を埋めてしまった。

「さあ、これで本当に道が分からなくなった。行くにしても、帰るにしても......」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ボニンの谷から登っていく峠道。それは、12歳の子供たちにとって、決して楽な道ではなかった。夏を迎えようとする広葉樹林から針葉樹林へ、そして針葉樹から高山植物に、そして地衣類になったところから、さらに上りあがっていく岩場の道だった。すでに酸素はほとんど薄く、背負った酸素濃縮装置の助けを借りなければ子供たちは前に進むことはできなかった。

 峠に至ると、道は判然としなくなっていた。植生の残るところであれば、今までの道は使われていた痕跡はあった。かつて道として使われていた部分の植物は、まだ生えそろっていないことで道であったことが分かった。だが、岩だらけの高度になると、道だった痕跡をたどることは困難だった。

 そんな苦労をしながらジョナたちは峠の最高部まで登ってくることが出来ていた。その時にがけ崩れに遭遇したのだった。


「もう、帰ることが出来なくなったね。ここまで来た道がすっかり埋められているよ」

「行く手の方はがけ崩れはないようだ」

「じゃあ、進むしかないってことか?」

 彼らは進むしかなかった。だが、目の前には大岩の間を細かいれきが覆い尽くすだけの表面だった。道らしいものは見当たらず、どの方向へ進めばいいのかわからなかった。

「谷に至るには、一番低い方へと行くしかないと思う。風化している状況を見ると、この方向へ進んでいけば谷底へと続くと思う」

 しかし、道は見えなかった。それでも彼らは崖を下っていくしかなかった。そこは、厳しい高度のエリアであるばかりでなく空気が薄く乾ききった不毛の岩場、彼らにとって今まで通ったことがないばかりか先行きの見えないエリアだった。それでも、何泊かのビバークをしながら進むと、やがて峠から見下ろす世界が広がり、ボニンの谷以前では見ることのなかった湿度の高さと大きく広がる蒼と緑の大地と湖水群が見えてきた。その大地には、熱帯特有の常緑広葉樹林や農場、そして小さな町が分布していた。

 ジョナたちが下りていくごとに空気の濃さが加わっていったが、それ以上にジョナたちが驚いたことは、谷の底部を満たす空気が湿気を帯びたものであり、このマリアナの谷一帯がやや熱帯に近い気候であることが感じられた。

 そして、遠くにかすんで見える摩天楼群は、詛読巫そどむと呼ばれる都市だった。


 彼らは、ただひたすら崖を下った。食べ物のあるうちは力強い足取りだった。何泊も野宿を重ね、次第に植生が高山植物帯になり、針葉樹林帯になり、そしてドングリなどの木の実がある豊かな広葉樹林帯になった。

「今夜はここで野宿をしよう」

 イワンがミラの様子を見て声を出した。彼の視線に気づいたミラは視線を外しながら返事をした。

「そうね。ありがとう」

 その様子を見て、ナナはジョナやベラを見ながらつぶやいた。

「もう、どのくらい野宿を繰り返したのかな?」

 ベラはその疑問に答えるように、指摘した。

「泉は......無いね」

 彼の指摘を聞いてイワンが怪訝な顔をした。

「みんなそれぞれで体は清潔にしているだろ?」

「そうよ。でもね、湯あみは女子には必須なのよ!」

 ミラはそう答えると、イワンは肯定しながら言葉を継いだ。

「そうだったね。僕たちは下り坂になってから、足の痛みが続いている。疲れがたまっているのかもしれない」

「それに酸素濃縮用の燃料電池も残りが少ないしね」

 ジョナがそう指摘した。それは、もう引き返すことが出来なくなったことを意味していた。


 野宿ではいつものとおり、明かりを中心にしてビバークカプセルを並べ広げた。峠の岩場では燃料電池を用いた赤い警戒灯を用いていた。しかし、針葉樹林帯に入ってからは残り少ない燃料電池の代わりに、夜露の肌寒さと猛獣を避ける意味もあって、倒木や枯れ木を集めて焚火をするようになっていた。

 焚火とともに、ベラが採取しアク抜きをした木の実の料理を披露した。彼は野山における対処術に長けていた。

「この味はさすがだね。ベラ。君がこんな技を持っているなんて......」

 ジョナは驚いたようにベラを見た。皆の驚く視線を交わすように、ベラは気のない返事をした。

「辺留賀茂に育ったものであれば、自然環境を利用することには慣れているのさ」

「そうか、低緯度地方はもともと日光が豊かだから、植生も豊かだしね」

 イワンはそういうと満足だという表情を浮かべながら寝ころんだ。ほかのメンバーも久々の舌鼓に満足しながら横になっていた。いつしか、皆、ビバークカプセルに戻ることも忘れて眠っていた。


 翌朝、目覚めた一行は、霧の中に古い土の道を見出すことが出来た。昨夜久々の料理にありついた彼らは、次には疲れ切り汚れ切った体を癒したかった。

「あぁア。肌寒い夜には風呂に入りたいなあ」

「そうだねえ」

 ナナもミラもそう言いながら道を進んだ。それを聞いたイワンは思わず指摘した。

「女の子が一人いると大変だよなあ。僕たちが風呂を用意しなければならないみたいだねえ」

「へえ、そうなんだ」

 ナナが不平そうにそう返事をすると、イワンは怪訝そうな顔をしてつづけた。

「男がやらなくてどうするんだよ。あとで手伝えよ」

 ナナは黙ってしまった。このやり取りを見ていたベラは、ジョナとイワンに持ち掛けた。

「ここから下に下がっていきながら、温泉を探そう」

「温泉?」

「そう、適温のお湯があれば入浴できるんだ。今まで拭き上げていただけだったけどな」

 ベラの指摘にナナたちが反応した。

「温泉を見つけるのかい? ミラも僕も手伝うよ」

 彼らは相互通話機器を装着しながら散開し、林を谷底へと下っていった。

「みんな!」

 イワンが大声を上げた。

「轍がある」

 その声に、ミラたちが反応し、イワンのいう轍のところへと駆け付けた。

「そうだね。これは古いけど轍だ」

 注意深く観察しなければわからないほど草や若木が生え始めていたのだが、周囲の木々とは違い薄く低い背丈の草木の帯が、明らかに速しを貫いていた。

「わざわざ礫を敷いてあるし、これをたどって行けば人里に出られる」

「温泉もあるかしら」

「そうだね」

 こうして彼らは、下草や枝を打ち払いながら進んでいった。そして、前方に、冷えた空気の中に湯気の立つ様子が見えた。温泉だった。

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