2 湖水
その年の初夏となった。
この季節、湖は幾分明るい藍に変化する。二酸化炭素の濃度が高いのと谷底ならではの地熱のために、気温は35度近くに上昇する。それが湖水周囲の雪を溶かし、水が地中を経て湖に流れ込んでいる。そのため、湖の深度が浅く外気に影響されるはずではあるが、水温は一年を通じて20度近い。ただ、泳ぐには少々冷たいかもしれなかった。
湖の周囲、とくに午前中から昼過ぎまで日の当たる北西側には、広葉樹が林を形成している。その広葉樹の中にラスコフ家の別宅があった。「別荘」ではないのは、作業をするための拠点であったためである。この周囲の広葉樹はドングリなどを産出し、貴重な食糧源となっていた。また、一家の長 ゲオルギー・ラフコフは地熱を利用した熱水利用発電とガーネットを用いた日光増幅光によって大規模な屋内農場団地を、湖周辺に建設し終えていた。これらの畑と施設群は、クートゥにとって貴重な食糧生産基地になっていた。
また、ここでは、極めて効率の良い生産技術が使われていることで、アリューシャンのアダクからよく技術習得と貿易のために、アングロサクソンやフランス系、客家系華僑の商人たちが頻繁に訪れていたものだった。ただ、この数ヶ月はアダクからの商人たちの行き来が途絶えていた。
ジョナは、ラスコフとロギノフの2家族に誘われて、ナスターシャとともに湖水へと来ていた。
「湖水で泳ぐのは、日が昇ってからがいい。気温が高くなるからね。それまでは、あの山麓に狩りをしに行こう」
ゲオルギーは子供たちを狩りを教える予定を組んでいた。すっかり準備を整えた彼らは、この日の朝から東側の太平洋高原に至る山麓への狩りへと、出かけていた。
だいぶ登った、とジョナは感じていた。確かに標高800メートルほどまでは登って来たのだろう。ところどころに雪が残っていた。昼近くになっているためか、上空1000メートルほどのところには、雪雲がかかり始めていた。大型のシカ類を狙っているのだが、針葉樹林林の途切れるこの高度になっても一頭も見かけることが出来なかった。
ふと眼下を見下ろすと、湖水とその周りの広葉樹、山麓の針葉樹林が広がっている。これらはジョナにとって初めての風景なのだが、既視感があった。ジョナにとって思い出さないようにしていた光景、いや何か非常に恐ろしい危険な目に遭った時に鋭く記憶に刻まれた風景のように感じられていた。
「ここは、危険な場所だ」
ジョナは独り言を言った。それを聞いたゲオルギーは怪訝な顔をした。
「ここに来たことがあるのかい? それに、ここで危ない目に遭ったことがあるのかい? 確かにシカが出没はするが......。狼はめったにここまで来ないぜ まあ、今まで歩いてきても見つからないのだから、もうあきらめて別宅まで引き返そう。希望としては、獲物の解体の方法を教えてやりたかったのだがね」
一行は半分がっくりしながら別宅に戻ってきた。それを見たナスターシャはほかの婦人たちとともにテーブルの用意をし始めた。そのテーブルに帰り着いたゲオルギーを、奥さんが慰めていた。
「随分疲れた顔をしているわね」
「獲物がないんでね。探し回ったんだが......がっくりさ」
「そう、だから遅いお帰りだったのね」
「最近は、動物たちがなかなか降りてこないね......」
「減っているのかしら......」
「骨折り損さ」
ジョナは、上った斜面から見おろした光景を忘れることが出来なかった。たぶん、この谷筋には自分に関係する何かがあるのかもしれない。そう考えながら、ジョナは無口なままテーブルの食事を済ました。そのまま食事の席でおとなしくしていると、ミラが話しかけてきた。
「食べて休憩を済ませたら、泳ぎに行こうね」
そのあたりの湖岸は小さな砂浜だった。水着となったラスコフ一家やロギノフ一家、そしてナスターシャは、色黒なジョナとは違い、透き通るような白いきめ細かい肌を晒している。もともと日光の少ない地域に育っているせいもあるのだが、彼らはロシア人の末裔であるゆえに蒼い瞳と白い肌をより強く遺伝させている。
「もうすぐ陽が陰るな。この光景も今日はこれで見納めだ」
この辺りに日光が注ぐのはこの時間だけなので、泳げるのはせいぜいあと一時間と言うところだった。
「ゲオルギー、誰を見ているの? あら、私が隣にいるのに......」
「あ、ごめん。君の美しさはいつも堪能しているからね。ただ、珍しい組み合わせだな、と思って、ね」
「政治局員とその美しさ?。やっぱり、彼女に見とれているの? ナスターシャ様は政治局員よ。まあ、あなたが見とれるのも無理はないわね」
「いや、そういうことではなく......未婚の政治局員と息子という組み合わせが、ね。でも、彼女はすっかり母親の顔だね」
イワンは父親のゲオルギーに似た性格らしく、水着のミラをからかっていた。
「胸当てを付けるなんて、女はめんどくさいな」
「なんで、そんなことを言うのよ」
「だって、パンツだけじゃ泳げないんだろ?」
「私は貴婦人なの。貴婦人は上品だからこういう格好をするのよ」
「へえ、どこが貴婦人なんだよ? レディというよりテディ(小熊の人形)じゃないのか?」
「失礼ね。私だって、ナスターシャ様みたいに上品に見えるはずよ」
「嘘だね。ナスターシャ様や女の大人の人はみんな大きな胸を支えなければならないから、胸当てを付けるんだろ。でも、ミラはそんな胸は無いじゃないか」
「私だって......」
ミラは言い合いに負けて半べそになった。それを見かねたジョナは助け舟を出した。
「ミラだって、もうすぐ大人の貴婦人になるさ」
「いや、ミラはおてんばで上品さがない。それが貴婦人になんてなれないさ」
横からジョナに口を出されたイワンは、まだ言い立てた。だが、ジョナは構わずに指摘した。
「でも、イワンも僕も彼女に勝てないよ。なぜなら、こんな話をしていても、必ず話の中心には可愛いミラがいるんだから。可愛いミラがいなかったら、イワンも僕も話題が無くなる。そうだろ?、イワン」
ジョナのこの指摘に、イワンは黙ってしまった。確かに、イワンが口に出すのはいつもミラのことだった。そして、ジョナのこの指摘にミラもまた顔を赤くして黙ってしまった。
湖水は冷たいままだったが、子供たち三人は構わずに泳ぎだした。湖底が透き通るのも、この辺りで地下水が噴き出しているためだった。その湖底の奥深くでキラリと光るものがあった。今までこの時刻まで泳ぐ者たちがいなかったからなのだろう。ジョナでなくても、いままでその物体を見たことのある者はいなかったはずだ。
「何だろう。深いところに何かがあるみたい」
ジョナはそういうと一気に深みへと潜っていった。もう少しで手が届く、そんな距離になった時に、鎌の柄のような物体がみえた。その表面にはアラベスク模様が描かれており、その模様がエバネッセント光のような光でわずかに煌めいた。だが、そこまでだった。ジョナは驚きのあまりに、水中で声を出し、逃げるようにして水面に顔を出した。驚愕と戸惑いというのだろうか、水面上の彼は、なにかとんでもないものを見てしまったと言う顔をしていた。
「どうしたの? 急に潜っていくなんて」
ミラが戸惑った表情をしてジョナを見つめた。そこにイワンが泳いできた。
「どうしたんだよ」
ジョナは見たことを秘密にしておくべきだ、と思った。思ったというより、話してはならないような気がしたのだった。
「どこまで息が続くかな、と思ったんだ。強い人間になってお母さんの役に立ちたいからね」
「へえ、それなら僕だって負けないぜ」
「それなら、三人でだれが一番先に岸にあがれるか、競争しようぜ」
イワンとミラは、ジョナのその言葉につられて泳ぐ競争に夢中になり、ジョナの奇異な行動を忘れてしまった。その一部始終を、ナスターシャは遠くから見つめていた。
ラスコフ一家の別宅の三階には客間があった。そこにジョナとナスターシャは案内された。その窓の上方には、湖水の向こう側に聳える太平洋高原が見える。勿論上の方は雲に隠れて見えない。
「ジョナ、あの湖の底へなぜ潜っていったの?」
ナスターシャは、明らかにジョナの奇異な行動に目を向けていた。母親らしい心配、と言うよりも政治局員としてのするどい嗅覚が、何かを感じ取っていた。
「僕は、母さんのために強い男になるんだ。だから、息を長く止めていられるかを試したんだ」
ジョナの答えは、ナスターシャを喜ばせるはずのものだった。当然にラスコフ一家、ロギノフ一家の人間たちから称賛を浴びる言葉だった。だが、それでもナスターシャはジョナの行動に何か不思議なものを感じていた。それは、ナスターシャがジョナを保護したいきさつが関係していた。
かつて、政治局員トップに昇格する前の8年前、ナスターシャはここから湖畔伝いに四キロほど北上したところに、クートゥ都市政府所有の別荘を持っていた。今ではだれも使わない空家になっているのだが、8年前も廃屋のようだったものを、ナスターシャは一人で手入れをしてとりあえず寝泊まりできるようにしていた。キッチンも寝室も持ち込んだ針葉樹の材料で修理を終えた後は、彼女にとってお気に入りの場所になっていたものだった。
別荘から見える湖水は、毎晩満ち欠けをする月明かりの下、湖面も小さな波が月明かりを反射し、潮騒とともに周囲の静けさを引き立たせていた。毎夜同じように繰り返される潮騒に、異変を感じた夜があった。それは新月の時であり、暗闇の中で湖畔の岩場に打ち上げられている大きな袋のような白い物体があった。
よく見ると、道のシートでできた大人用のスーツに、不似合いな子供が包まれて流れ着いていた。呼吸はしているものの、そのまま放置すれば凍えて死んでしまうことも明らかだった。
ナスターシャは、その物体を自分の別荘に抱えて持ち込んだ。ごわごわとした触感のスーツを苦労して開き、中からとりだしたのが赤ん坊のジョナだった。




