1 クートゥ(Kuthuk), 深い淵の底(Deep Circles) より
谷あい上空の霧が薄くなり、弱々しいながらも太陽の光が谷底に届きつつあった。薄暗い谷底には、深い藍色の湖とその周囲の針葉樹林。雪景色の中には轍が湖畔沿いに続いていた。
その雪道を静かなモータ音とともに黄色いバスが進んでいた。もうすぐクートゥ(Kuthk)の周囲の小さな人里「ラスコフフィールド」につく。その小さな停留所に待っているのは、イワン・ラスコフとミラ・ロギノワだった。
「今日は晴れないの?」
「まだ雪の降る季節だからね」
「この谷より上の方にも積もっているわよ」
彼らから見て少し上の方にある山のすそ野には雪が見えた。その上の方は雪を降らせる雲に阻まれてみることが出来なかった。山頂は雲のはるか上にある。
「雪はあのあたりにしか降らないんだ」
「あの雲の近くまで雪が見えるわ」
「雲の上にはもう雪はないよ。雪を降らせる雲が無くなるんだもの」
山頂はラスコフ一家、ロギノフ一家の住むこの谷から、遥かな9500メートルも上にあるという。その山頂には広い台地状の高原が広がっていると、彼らは聞かされている。
彼らが雲と雪の話をしているところに、小さなモーター音を響かせた小さなスクールバスがやっと到着した。
「おはよう」
「おはようございます」
スクールバスの中にはすでに何人かが乗っている。すべて小学生だった。あいさつを交わしながら二人が座り込むと、スクールバスは再び走り出した。
「このバス、新しくなったの?」
「そうなんだって。前に使っていたバスは湖に落ちちゃって、全部さびて使い物にならないんだって」
「その代わり、このバスは電池が強くなったんだってよ」
「電池? 充電池でしょ」
「そう、充電池だったね。発電所の電気を使っているんだって」
「発電所はあの山の頂上にあるんだってよ」
物知り顔のイワンが答えた。
「雲の上だから、ずっと太陽に当たっているんだってさ」
それにミラはすかさず茶々を入れた。
「でも、太陽光線はそんなに強くないって、先生が言っていたよ」
「そ、そうだよ。だから、地下からの熱も発電に使っているんだよ」
「言い方がおかしいわ。本当は、地下の熱が中心で、太陽光発電は補う程度のはずよ」
「そ、そうさ。僕はそれを言おうとしたんだ」
「あーら、そうかしら」
バスの中の子供たちは、相変わらず騒々しい。彼らは6歳から12歳までの子供たちだ。13歳以上の中学生になると、街の中学校宿舎に収容される規則になっている。
「今日、新しい子がクラスに来るってさ」
イワンが昨日担任の先生から聞かされた話を思い出したように話し始めた。
「そうそう、誰なの?」
「俺たちと同じクラスだから、8歳なんだろ?」
「女の子がいいなあ」
「女の子はまっぴらだよ。なんで女の子がいいんだよ」
「だって、お友達が増えるもの。きっと私とお友達になってくれるわ」
「へえ、もう女の子って決めつけているぜ。変なの!」
スクールバスは南へと向かい、都市の中へと入っていった。都市の中央にその小学校はあった。
クートゥはこの谷あいでは一番大きな都市だった。そこには十数棟の三階建ての集合住宅や研究施設、そして中央にクートゥ小学校があった。80人ほどの児童が集められた小学校であり、ほかの2つの都市に比べて比較的大きな小学校と言っていいだろう。その規模の大きいクートゥ小学校だが、冬の学期が終わるこの時期に新しい児童が入ってくるのは珍しかった。
「みなさん」
8歳児からなる3年生の学級担任が声を上げた。
「昨日お話していた通り、このクラスに本日から新しいお友達が来ました」
一斉に歓声が上がる。入ってきたのはこの辺りでは非常に珍しい色黒の男児だった。
「僕の名前は、ジョナと言います」
緊張しているのか、言葉が少なかった。
「僕はここに来て初めて小学校に通うことになりました。皆さん仲良くしてください」
ジョナのこわばった口から出た言葉は、やけに大人びていた。それを補完するように、担任教師の説明も特殊なものだった。
「みなさん、ジョナには、お父さんお母さんがいないそうです。その代わり、この都市の一番偉い政治局員のナスターシャ様がお母様となって一緒に生活しているそうです」
政治局員という肩書がどんなに偉い地位であるかは、8歳の子供であればなんとなくわかったようだ。彼らは、その肩書きの人間が彼らの父母たちに大きな影響力を持つことを、うっすらと感じていた。担任から政治局員と言う名前を聞いたとたん、今までがやがや騒がしかった子供たちがシーンとなったことからも、それがうかがい知れる。それほどの人の家族であると知れれば、下手に手を出すこともはばかられるのだった。
それでも、互いに8歳の子供同士でもあるから子供たちの間ではそれなりの交流は始まっていた。
ジョナにとっての小学校第一日目は、緊張しながらもようやく夕方を迎えていた。多くのクラスメイト達はスクールバスに乗って帰路についていく。その横を、ジョナは皆に挨拶を返しながら歩き、校門の外へ出ていった。
丁寧に除雪がなされた道を、ジョナは市役所市民センターへ入っていった。そこで、彼の保護者であるナスターシャ・グミリョワの帰路を待つのが母との約束だった。
ナスターシャは独身であったから、ジョナは本当の子供ではなかった。だが、彼女は記憶を失ったままで倒れていたジョナを引き取って養育しており、彼らは本当の親子のような関係を築いていた。
「お母さん、今日はもう帰れるの?」
彼はそういうと、ナスターシャの手を取って楽しそうに帰路に就く。毎日、この時だけ彼に笑顔がも見られる。この日も二人でそのまま近くの食料品市場へ寄りつつ帰宅していた。
「エゾイソアイナメを買ったから、これと タマネギ、ウイキョウ、スウェーデンカブのコールスローね。明日はボルシチにするから」
ナスターシャは、そう言ってジョナの手を取ってアパートの三階にある自宅へと昇って行った。
ジョナはまだ生活には慣れていなかった。それでも、母親代わりのナスターシャはかいがいしく世話を焼き、記憶喪失のジョナに寂しい、もしくはひもじい思いをさせることはなかった。食事ではいつも温かい出来立てを二人で食べている。また、バスルームでも我が子を世話する普通の母親のように、かいがいしく面倒を見る。それは、一日のうち決まった時間の間しか支給されないお湯を、二人で有効活用するためでもあったが......
次の日の朝、ジョナはいつものようにナスターシャに起こされていた。
「朝ごはんはもう用意してあるのよ。早く起きて顔を洗ってしまってちょうだい。私はもう会議の開始時刻が決まっているの......ねえ、聞こえているの?」
やっと目を開けたジョナは階下のナスターシャに聞こえるように大声で返事をした。
「はーい、お母さん、いま下へ行きますから」
親切にしてくれる母親のように感じながらも、ジョナはナスターシャが彼にとって他人であることをよく認識していた。それゆえ、反抗期のような態度をとることはなかった。
こうして、また小学校への一日が始まった。