まずは世界観を提示しようと思う。
1限と2限の間の10分間の休み時間。
この時間帯は遅刻した学生にとっては非常に素晴らしい時間なのである。
なぜなら、授業途中に入っていけばクラスメイトから必要以上の注目を浴び、先生にも叱られてしまう。
しかし、休み時間には人の出入りがある。後ろからこっそり入っていけばまず先生にはバレないし、周囲の注目をさほど集めない。
だからこそ、俺は今日も安全に──
がらっ。
「え?」
「おい山市。貴様、今日も遅刻とはいいご身分だな?」
教壇とは逆側のドアを開けると、眉間にしわを寄せた女教師が腕を組んで待ち構えていた。
「せ、先生……今日も一段とご機嫌麗しく──」
「言い残すことはそれだけか?」
女教師は女性らしからぬ力強さで拳を握りしめている。
「と、とりあえず鉄拳を下ろして……今日だけは見逃してください! 明日からは絶対に遅刻しません!」
「明日から本気出すから見逃してくれ、としか聞こえないが……」
「それは断じて違います!」
「──っ!?」
真剣な眼差しで先生の瞳を見据える。
「先生は人間の脳って日常生活では数パーセントしか機能していないって知っていますか?」
「急に何だ……まあ私も聞いたことはあるな。普段はセーブしていて極限状態ではリミッターが外れるとかだったか?」
「そうです。人間とは普段は実力を隠していて追い込まれれば本領を発揮するようにDNAに刻まれた生物なんですよ」
「……それで?」
「逆に言えば、人間とは追い込まれないと本気を出せないようにDNAレベルで設計されてるんです。つまり明日から本気出すという決意は決してその場しのぎの詭弁や自己防衛などではなく、むしろ人類の本能に従った非常に合理的な考えで……って先生その拳は──」
「屁理屈こねんなああ!」
女教師から繰り出された必殺の拳が俺の鳩尾を正確に捉えた。
◇
「清々しいほどの詭弁だったな」
「俺なりのウィットに富んだジョークが通じねえとは。先生の頭が心配になってくるよな」
「オレはお前の頭が心配なんだが」
「うるせえ二宮。お前だけには絶対に言われたくない」
俺に話しかけてきたこいつは二宮陸。非常に遺憾で認めるのは大変難しいが、イケメンと呼ばれる人種である。
しかし、世の中は案外平等に作られているのかもしれない。
天は二物を与えずというべきか、こいつは色々と頭のネジがぶっ飛んでいる。
「ところで山市。お前に相談がある」
「どしたよ?」
「オレの一つ下の彼女の話なんだが」
「何だと!? そんな冗談はやめろよ!?」
(こいつに彼女だと!? だってこいつは──)
「彼女が画面から出てきてくれないんだよ」
「……」
「どうしてだと思う?」
「……恥ずかしがり屋なんじゃないか?」
「そうか! なるほどな……」
二宮はいたって真剣な様子なのがさらに怖い。
「……ちなみに一つ下ってのはもしかして──」
「次元の話だが?」
「そうか。お前が変わっていなくて何よりだ」
「?」
そっと肩に手を置く。
そう。こいつは二次元をこよなく愛する重度のオタク。ラノベやアニメ、エロゲを大量摂取しないと生きられない消費型オタクだ。数年前からは妹モノにドハマりしているらしい。
俺もそこそこラノベやアニメをかじるが、さすがに二次元にとらわれるほどではない。
「山市、お前はオレが二次元にしか興味がないと思っているが少しばかりは三次元の女にも興味はあるぞ」
「どうせ声優だろ?」
「なぜ分かった?……まさかお前! 同志──」
「鏡見てこい」
カッターシャツの下から、有名声優の名前とハートマークがあしらわれたTシャツが透けている。
「I ♡ NY……みたいに地名かと思ったら普通に人名で引いたわ」
「ま、待て! 声優以外でもオレの琴線に触れるような三次元の理想像がある!」
「おおまじか! どんなのが好みなんだ!?」
「オレのことをお兄ちゃんと──」
「オーケーよく分かった。お前にリアル妹がいなくてよかったわ。事案になりかねない」
再びそっと肩に手を置く。
「くそっ! 何でオレにはあんな男勝りな姉貴しかいないんだ!?」
丁度、教室から出ていった女教師にうらめしげな視線を送りながら、二宮が机を強く叩く。
実は、俺にありがたい拳をお与えになった俺たちの担任教師──二宮愛海と二宮陸は兄弟で姉と弟の関係である。
「贅沢言うなよ。二宮先生めちゃくちゃ美人だろ?」
二宮愛海はお世辞などではなくて本当に美人だ。しかも巨乳。大事なのでもう一度。美人で巨乳。この世に存在する最強生物だ。
「それならもしお前が姉貴に付き合ってくれって言われたらどうする?」
「逃げる」
「だろ?」
条件反射どころか脊髄反射で答えを返した自信がある
なぜなら本当に最強生物だから。
「だって超怖いし。先生がさっき拳握った時、ワイシャツの下からはっきりと力こぶが見えた瞬間から絶対無理と確信した」
「あれで腹筋もバキバキに割れてるからな」
「まじかよ……」
「誰の腹筋が割れてるって?」
あれ?
つい先ほど、出ていったはずの人間の声が背後から聞こえた気がするなあ……。
まあ気のせいだろう。よし、そうだな、そうに違いない。目の前の二宮の顔が真っ青だが気のせいに違いない。
会話を続行するとしよう。
「それより昨日のしゃべくり見たか? 超面白かったよな」
「……わ、悪いな。オ、オレはまだ見てないんだ……」
「おいまじかよー。せっかく語り合えると思ったのによお……」
今はコンテンツの評価を共有する時代。
ああ、この面白さを誰かと共有したかったのだが──
「確かに面白かったと思うがな。私は録画を見返した口だ。是非ともその話と、先ほど話題に上がっていた話を詳しく聞かせてくれたまえ」
──訂正。やっぱり何でもかんでも共有すればいいってことじゃないな。
しかし、俺の肩に誰かの手が置かれている。ここまでされたら誤魔化すことはできない。
「……じゃあ後は兄弟でごゆっくり──ごふっ!」
戦線離脱しようとする俺の後ろ襟を、尋常ではない力でがっしりと掴まれた。
「何の話をしていたかは非常に気になるところだが、山市。お前、放課後職員室の私の所まで来い」
そして、先生は弟を一瞥すると、不意に近づいて、
「帰ったら私の部屋に来い。いいな?」
耳元で死刑宣告を囁いて立ち去っていった。
「オレ、来世は妹がいる家庭に新たに生まれるんだ……」
「まだ現世を諦めんなよ!」
「やめろ! そんな気休めの慰めはいらない!!」
「それに一旦落ち着け! 冷静になれよ! 妹がいる家庭に新たに生まれたら普通にそれは姉だぞ!」
「なん……だと……!?」