宝石の森へ
図書館を出て中央広場に戻ると、城内にある教会から鐘の音が街中に響き渡って正午を告げた。
時を知らせる鐘はあと二回。三時と夕暮れ時だ。
少女は急に慌て出した。
「もうこんな時間! 早く行かなくちゃ! 宝石の森は遠いから、今から行かなくちゃ間に合わない!」
『宝石の森って? 間に合わないって、何?』
「え――っと、まずどうすればいいのかしら……」
少女は少年を無視して辺りを見渡し、丁度こちらへ向かって来る青年を発見し駆け寄って呼び止めた。
「あの、すみません。宝石の森に行きたいんですけど、どうやって行ったらいいですか?」
「え? 君、宝石の森に行くの? ……えっとね、宝石の森へは馬車で向かった方が良いと思うよ」
「馬車?」
「そう。西、南、北の三箇所の街の出入り口付近に、必ず居る筈だよ」
「あぁ、そういえば居た様な。ありがとうございます」
少女は青年にペコリと頭を下げて、走っていった。来た道を戻り、ここから一番近い南口を目指す。
賑わう商店街を抜けると、艶やかな焦げ茶色の毛並みの馬が二頭並んでいた。そして、馬達は太い綱で後方の車輪の付いた四角い箱に繋げられていた。――――馬車である。少女も少年も物語の中では見た事があったが、実際に目にするのは初めてだった。
少女は少々興奮気味に、馬の横に立って居る御者のおじさんに声を掛けた。
「馬車、乗りたいんですけど」
「ああ、いいよ。何処まで行くんだい?」
「宝石の森までお願いします」
「え? 宝石の森かい? あそこは魔物が出るし、坊ちゃん一人じゃ危険じゃないかい?」
「承知の上です。ちょっと見るだけなので、大丈夫ですよ」
「そうか。それじゃあ乗りな」
御者は立てた親指で荷台を差し、それに従って少女は荷台に乗り込んだ。出発をする前に御者にきちんとお金を支払い、行き先を確認し合った上で出発。
御者が馬達を鞭で叩き、馬達は顔と前足を天へ向けて嘶き走り出した。
街から離れると喧騒は聞こえなくなり、風が草原を撫でていく細やかな音だけが周囲を満たした。
少女は馬車に揺られながら窓の縁に肘を置いて、大自然を身体全体で感じた。両目には青々とした草原と遠く連なる山々、そしてそれら全てを包み込む青空が映り、柔らかな草の匂いは鼻を通り抜け、目を閉じてみれば頬に風を感じた。
街の空気とは全く異なり心地良かった。
小さくもまだ景色の一部として残っていた街ももう見えない。
代わりに前方にはゴツゴツとした岩が転がる大きな山が存在感を放っていた。
『これを登ってくの……?』
少年が誰に問う訳でもない不安の声を漏らすと、タイミングよく御者席からおじさんが顔を覗かせた。
「ここはまだ整備が行き届いてねーから道が荒いんだ。年末から年始にかけて舗装工事をする予定らしいから、来年は徒歩でも通りやすくなるだろうな。という事だから、こっから結構揺れるぜ。俺は慣れてるが、坊ちゃんは気分悪くなったらすぐに言ってくれよ? 途中で休憩するから」
「は、はい!」
馬車が揺れて気分が悪くなる……とは一体どの様な感覚なのだろうか? 遠出するのも馬車に乗るのも生まれて初めての少女には全く想像が出来なかった。
対して、少年はその不快な感覚を身を以て知っていた。
『僕、絶叫系は無理なんだよね。グロッキー状態になっちゃう』
「絶叫系? よく分からないですね」
『ほら、ジェットコースターとか』
「ふぅん? やっぱりよく分からないですが、何だか楽しそうな響きです」
馬車全体がガタガタと揺れ始めた。
揺れは景色が空に近くなる度に大きくなり、酷い時には少女を座席から転げ落とした。幸い何処にもぶつける事はなかった。
座席に座り直した少女の顔からは好奇心と言う名の熱は引きすっかり青ざめていた。胃の中から込み上げてくる物を押さえる様に口を両手で覆うも、苦しかった。
「な、何だか気持ちが悪いです……。数時間前に食べたパンが胃の中で乱舞を繰り広げているかのよう。食あたりでしょうか」
『そ、それは乗り物酔いだよ! 今僕は何も感じないけど、これは僕の身体なんだから十分あり得るよ! てか、吐かないで!?』
「これがそうなんですね……。これほどまでに不快とは驚きです。私だってせっかくの美味しいパンを無駄にはしたくありませんからね」
弱り切った少女は何とか御者に声を掛け、馬車を止めてもらった。
丁度そこは湖が広がっていて麓がよく見渡せる絶景ポイントだった。
透き通った水面がよく磨かれた鏡の様に地上からは程遠い青空を綺麗に映し取り、時折吹き抜ける風に揺らめいている。
湖の縁で乾いた喉を潤す二頭の馬の隣に屈んだ少女は水面の中に広がる美しい世界を見た。
白い砂に生えた青い草が気持ちよさそうに揺れ、周りを青や赤、黄色などの様々な色と形の小魚が優雅に泳いでいく。
少女はこの幻想的な風景を見る事に夢中で、もうすっかり体内の不快感は消えていた。少年も同じ様に夢中だった。
足音が後ろからゆっくりと近付いて来た。
「坊ちゃん、よかったらこれを飲みな」
「あ! おじさん。ありがとうございます」
少女は御者からオレンジ色の液体が入った小瓶を受け取って笑った。
子供らしく大人からの厚意に甘えて飲んでみると、すぐに甘酸っぱくてフレッシュな味と香りが口内に広がった。
「何ですか、これ。すごく美味しい!」
あまりの美味しさにまた一口また一口と次々と喉に流し込んでいるうちに瓶は空っぽになった。
名残惜しげに瓶をじっと見つめる少女の姿に御者は嬉しくなる。
「それは街ではポピュラーなオレンジジュースなんだが、そんなに喜ぶ奴は初めてだ。俺の子供も好きだからよく買ってやるが、そんなに喜んじゃくれねー。世の中美味いもんが溢れてるからな。舌が肥えちまったって事かな」
「こ、こんな美味しいものが当たり前なんですか。それだけ……この国は豊かで平和なんですね」
「そうだな。国王陛下を始めとする王族の皆さんが頑張って下さっているからな」
「王族……」
少女の脳裏に国立図書館で見た王族の家系図が過ぎった。水色の髪に青い瞳の美しい王子。記憶の別の引き出しに大切にしまってある人物と外見の特徴が一致していた。別人とは思えない程に。
名前は何だったのだろうかと思った途端にその部分にだけ靄がかかり、解読不能となってしまった。
「お。そろそろ行くか。坊ちゃんの体調も良くなったみたいだし」
馬達がのしのし歩いて来て、御者は彼らの身体を撫でてやった。
馬達も御者も再出発の準備万端。あとは少女が首を縦に振るだけで、少女は考え事などさっぱりやめて元気よく返事をした。
再び少女と少年を乗せた馬車は険しい山道を走り出す。
「また酔ったりしてないかい?」
暫く馬車が揺れた後、心配した御者が声を掛けてきた。
少女は多少の血色の悪さをちらつかせるも、穏やかな笑みを返してみせた。
「はい。大丈夫です。お気遣いどうもありがとうございます」
「あともうちょっとで着くからね。ほら、もう見えて来た」
御者が指差す方には樹木が密集する場所が見え、木々の隙間から七色の光を四方にばらまいていた。
少年が少女と出会う前に彷徨っていた鬱蒼とした森とは全く違った。
馬車は森の入り口で停まり、少女は馬車を降りて御者に一時間後に迎えに来てくれる様約束を交わし、走り去ってゆく馬車を見送ってから森に足を踏み入れた。
外から見えた七色の輝きの正体は宝石の様な透明感と光沢感を持つ果実だった。それらが全ての木々に実っている光景は幻想的だった。
とても魔物が棲んでいるとは思えないが、魔女である(正確には魔女であった)少女には魔物が持つ強い魔力を感知する事が出来た。
少年同様少女も初めこそは浮かれていたが、魔物が居ると分かり気を引き締めた。
まだ魔物は遠くに居る。少しだけなら、大丈夫。
少女は更に奥深くへと進んでいった。