初めての世界
少女は木のトレーを片手に持ち、もう片方の手でトングを握って棚に陳列されている様々なパンをまじまじと見ていた。
「どれにしようかなぁ。こっちのチョコレート生地のも美味しそうだし、ドーナツもいい。何なら全部食べたい気分」
「坊や。ここのメロンパンは特に絶品だよ」
隣の優しげな眼差しの女性客がそう言いながら、自分のトレーにメロンの様な形のパンを三つ乗せた。
表面はサクサクのクッキー生地に仄かに香るメロンの甘い香りが食欲をそそる。
少女も女性に倣い、メロンパンをトレーに乗せた。
「ありがとうございます。とても美味しそうです」
「あたしはもう毎週買ってるね。美味しすぎていくつでも食べられちゃうけど、旦那に糖分取り過ぎだって怒られるからね。残りの二つは旦那と娘の分さ」
「そうなんですね。そんなに美味しいなら楽しみだ」
「きっと気に入る筈さ。勿論どのパンも美味しいから、どれを買っても失敗はないけどね。ゆっくり選びな」
「はい!」
女性が立ち去り、少女はパン選びを再開した。
ほぼ一緒の時間帯に店を利用していた客の姿もすっかり居なくなり、店内には少女と店員の二人だけになっていた。
少女は甘いパンが沢山乗ったトレーをご満悦の様子でレジまで持っていき、ここでも少年が必死に何かを叫ぶ。
店内が静かで、且つ目的を終えた少女の脳内にはそれはしっかりと届いた。
少女は精算をしている店員から少し離れ、少年に小声で返した。
「お金なら大丈夫です。あなたが持っていた懐中時計を港へ来る途中で売ってお金にしましたので」
『えぇっ!? 売っちゃったの?』
「あれ……お気付きではなかったんですか? ずっと一緒に居るのに」
『そんな……酷いよ。他人の物、勝手に売っちゃうなんて』
「……そんなに大事な物だったんですか? 私にはとてもそうは思えませんでしたが」
『そ、それは……』
「坊や? 精算終わったわよ」
レジから店員の声が聞こえ、少女は愛想の良い返事をしてレジの前に戻った。
少女との会話を強制終了させられた少年は一人、考え込んでいた。
(分からない。あの懐中時計に何の思い出も浮かんで来ない。誰かに渡されたのか、自分で買ったのか。いや、何で持っていたのかすら分からない。僕の物ではなかったのかもしれない…………)
少女は階段下のベンチに座り、海を眺めながらパンをお腹いっぱい頬張った。生クリームの入ったふんわりとしたパンや常連客お勧めの絶品メロンパン、シナモンの香る林檎がゴロゴロ入ったデニッシュ、チョコレートでコーティングされたドーナツはどれも美味しく、少女を笑顔にさせた。
一方の少年は甘い物が好きではないらしく、自分の体内に入っていくそれをげっそりとした顔で眺めている事しか出来なかった。ただでさえ苦手な物なのにこれでもかと胃に詰められ、想像しただけでも吐き気がした。
「あぁ……昔食べたパンと同じ味がする。もしかして、ここのを買ってきてくれたのかしら」
少女はブツブツと呟き、少年は疑問符を浮かべた。
『一体何の話をしてるの?』
「ん? えっと、そう! 次はねぇ……王立図書館に行ってみたいです!」
少女は食べかすが付いた口元を真っ白な袖口で拭い、スクっと立ち上がった。
『僕の質問に答えてよ! て言うか、袖汚れちゃったじゃないか! キミさ……男の僕でも、それはやらないよ…………』
「さあ行きましょ」
少女は階段を駆け上がると、真っ先に中央広場の案内図で王立図書館の場所を確認して向かった。
特に大勢の住人や観光客らで賑わうメインストリートを抜け、少女は初めて見る露店への好奇心を押さえ込みやっとの事で目的地の目の前まで辿り着いた。
王立図書館が聳えているのは城のすぐ傍だった。
配色や装飾などは城と酷似しており、大きさは城には大分劣るもののその辺りの建造物に比べれば十分大きく立派だった。いざ目の前にし、少女と少年はその荘厳たる佇まいに圧倒された。
見事なアラベスクが施された頑丈な金属扉も、今は来訪者を快く受け入れる為に開かれていて人々は自由に出入りしている。
少年は少女がすぐにでも扉の中へ飛び込むと思ったのだが、少女の視線はいつの間にか図書館から逸れて城へと向いていた。
悲しそうに、或いは愛おしそうに、口はキュッと結ばれて瞳は揺れていた。
気になった少年が声を掛けようとすると、少女は何事もなかったかの様にパッと明るさを取り戻して図書館の扉へと飛び込んだ。
「うわぁ……凄い」
『うえぇ……無理。漫画だったら嬉しいけど、これどうせ文字しか書かれてないやつなんでしょ』
少女は感嘆の声を上げ、少年は落胆の声を上げた。
天井近くまで本がびっしりと敷き詰められている様はまるで本の壁。視界に入っているだけでも相当な量なのに、実際はその数倍の数が360度に広がっていた。
本はそれぞれ項目毎に棚が分けられていて、一目で分かる様に項目名が書かれていた。
それによると、少女の探している内容のものは此処にはないようで少女は冒険心露わに奥へと進んでいった。
『何か読みたい本でもあるの?』
本ばかりの景色にいい加減退屈してきた少年が気晴らしに少女へ問い掛ける。
「読みたいと言うか、私が初めて知った世界の他にどんな世界があるのか気になって」
『うん?』
「本の中……つまり物語が私にとって初めて知った世界なんです」
『あぁ……なるほどね。小説は読まないけど、漫画は読むから何となくその感覚分かる気がする。不思議だよね。読めばその瞬間その世界に行けるんだから』
「そう。だから、それを創り出した作者さんって偉大だと思います」
奥へ進む度に人の数は減少し、今では少女と少年だけとなっていた。
ここで少女は場所を間違えた事に気付いた。
引き返そうと踵を返すと、目の前に本が落下してきた。
『うわ! ビックリした!』
身体の所有権のない少年の方が何故か少女よりも驚いていた。
少女は少年が驚いてくれたおかげで然程戸惑う事もなく、冷静に本を拾い上げた。
「あそこから落ちて来たんですね」
本棚の一番上の真ん中ら辺に本一冊分の隙間があった。
「でも、あんな高いところは届きません。職員の方にお渡ししておきましょう……って、これって」
『キミ……に似ているような?』
閉じようとしたページには王族の家系図が肖像画と共に書かれており、一番下に記されている幼い姫君は少女にそっくりだった。
そればかりでなく、王族全員水色の髪や碧玉の瞳を持っている者の割合が多く、特に姫君の兄に当たる王子はその両方を持っていた。
「そっくりです……」
無意識にそう零した少女の視線は王子の方へ向いていた。少年には何が何だか分からなかった。
『んーと、お姫様の肖像画の下に何か文字が書いてあるよ? 僕には読めないけど、一行目は名前かな……他の人達の肖像画の下にも文字があるし。二行目はお姫様だけやけに長い気がする』
「え? 何か言いました?」
虚ろだった少女の瞳に生命が宿った。
『ほら、ここの文字だよ。何て書いてあるの?』
「これ……でいいのかしら。んーとですね……“生まれつき身体が弱かった為、五回目の誕生日を迎えられた年に病状が悪化し永眠された”…………」
少女がじっと考え込むと、ヒョイッと本が取り上げられた。
驚いて見上げると、そこにはきっちりとした格好の男性職員が立っていた。
「おっと、悪いね。これは一般人に見せてはいけない大事な資料なんだ。というより、この場所自体特別な者しか入れない様に魔法がかけられている筈なんだが……」
「特別? 魔法? 何も感じませんでしたが……」
「まあ、いい。こんな子供が何かするとも思えんし、偶々魔法が弱まっている部分があったんだろう。魔法壁を張り直すよう頼んでおかなければ。さ、そのまま真っ直ぐ進みなさい。そうしたら絶対引き返さないように。いいね?」
「はい。分かりました」
元よりそのつもりだったので、少女は素直に従った。