招かれし少年
再び少年が意識を取り戻したのは、あれから数分後の事。
少年は街を歩いていた。
時刻は昼で、青色が空一杯に広がっている。降り注ぐ陽光が街中の背の高い煉瓦造りの建造物を優しく照らす。街は人々で大いに賑わい、活気に溢れていた。
目に映る景色も、人も、少年の知る世界とは全く異なるものだった。まさに、ゲームの世界をそのまま歩いているかの様な感覚だった。
少年は通り過ぎてゆく景色をぼんやりと眺め、立ち止まろうとする。ところが、足は勝手に動いていき、少年の意思ではコントロールが不可能だった。
少年は自分の身に何が起こっているのか理解に苦しんだ。すると、それに応えたのか、少年の口が勝手に開いて声を発した。
「ふふ。驚いた? 今、この身体の所有権は私にあるんですよ」
『な……何だよ、それ。訳が分かんない!』
少年本人の声はテレパシーの様なものへと姿を変え、少年となった少女の脳内へ直接届いた。
少女は少年の姿で笑った。
「要約すると、私と同化したって感じかなぁ。とにかく、あなたが何を喚いても、この身体は今私のものです。私の意思で動く様になっているんですよ」
『何勝手な事してるのさ! 僕の身体だ……返せよ!』
「お断りします。それじゃあ、意味がないじゃないですか」
『僕には最初から意味はない! さっさと返せ!』
「もう……おとなしいと思ったら、結構お喋りな人なんですね」
少女は溜め息を吐き、頭を振った。
その後も少年の声が脳内に響き渡ったが、もう少女が答える事はなかった。
少年本人の声は、少年の身体を借りている少女にしか届かない。つまり、それに答えると言う事は、傍から見ればただの独り言なのだ。そんな子供の姿を不審に思わない者はおらず、先程からも擦れ違う人達の視線が痛い程に突き刺さった。
少年は何も答えてくれない少女に愛想を尽かし、暫く口を閉ざした。
見慣れない景色が過ぎ去ってゆく。
硝子張りの飲食店の前を通った時、少年は急に大声を上げた。少女は足を止め、眉を顰めた。「何?」と言わんばかりの不機嫌な顔で、少年の言葉の続きを待った。
『僕が金髪になってる! 瞳も、みみみみ緑!? しかも、何この服!? ゴシック系の漫画のお坊ちゃんですか!?』
硝子に映る少年の姿は一言で表すのなら、異世界の住人。現実世界で同じ格好をしようものなら、単なるコスプレと思われても仕方がない外見。ブロンドの短髪に、長い睫毛が縁取る翠玉の瞳、透き通る様な白い肌。白のブラウスの上に黒のジャケットを羽織り、その間から覗く白のジャボと裾のフリルが上品さを出している。下は黒のハーフパンツで、左足は菱形模様が規則的に縦に並ぶ赤地のハイソックスを、右足は包帯が巻かれていた。これは別に怪我をしている訳ではなく、コーディネートのアクセントの様なものだった。着用している黒のショートブーツは左右同じデザインだ。
自分自身の変わり果てた姿に、少年は唯々驚いていた。
少女はハッと思い出した様に、少年に小声で伝えた。
「こちらへ来た事によって、あなたの姿もこちらの世界仕様になったみたいですね」
『こちらの……って! 世界に、あちらもこちらもないよ。って言うか、ここは何処なの? 日本じゃないよね……?』
「あぁ……まだ混乱していますね。ここはですね、城下街マルフォーク。この世界では、一番大きな街です。あなたの言う“日本”とは別次元に存在する世界の国の事ですね」
『だ、だから、別次元とか……漫画やゲームじゃないんだから有り得ないって』
「うーん……そう簡単には信じていただけませんか」
街の人達の視線が突き刺さる。
「…………少し、場所を変えて話しましょうか」
『あ……うん』
町外れの草の生い茂る切り株の上に、彼らは腰を下ろした。少女が辺りを確認してみても、人の姿は見当たらない。少女は安堵の溜め息を吐き、話の続きを語り始めた。
「私が招いたのですよ、あなたをこの世界へ。私の最後の魔力を振り絞って」
『はい?』
「私はこの世界でも珍しい存在……魔女なんです。魔法が当たり前な世界でも、魔女が持つ莫大な魔力は脅威で成長する度に増加し成人する頃には国一つ滅ぼせる程にまでなります。だから私は物心が着いた頃からあの場所へ監禁されていたんです。そして、一度も外の景色を見る事なく、私は一生を終えました。ですから、私は私が完全に消滅してしまう前に外の世界を見ておきたかったんです」
『えっと……? じゃあ、キミはもう死んでるって事? ゆ、幽霊?』
「その通りです。おかげで、あなたに取り憑く事が出来ました」
『な、何で僕だったの? べ、別にこの世界の人達でも良かったんじゃ? 寧ろ、そっちの方が最後の魔力とやらを使わなくても済んだと思うけど……』
「それは不可能なんです。この世界の人間には皆魔力が体内に宿っており、取り憑こうとすると、それがシールドを張って完全防御してしまうのです。しかし、別の世界のあなたなら、それも可能となるのです。だから、実行させていただきました」
一通り、少女の話を聞いた少年は混乱していた。
そもそも、少女の口からさも当然の如く発せられる“魔力”や“魔法”などと言った現実世界では到底有り得ないであろうそれが理解出来なかった。非現実すぎる……いや、本当に現実ではないのかもしれない。自分はきっと夢を見ているんだと、少年は自身の頬を抓ろうとしたが……出来なかった。身体の所有権は少女にあった事を忘れていた。
少女は沈黙したままの少年とは対照的で、楽しそうだった。穏やかな表情で立ち上がり、軽やかな足取りで街へと戻る。
「私、船が見てみたい!」
『ちょ……何勝手に決めてるの!? 僕、全てにおいて納得してないんだけど』
「細かい事は気にしないで下さい。不思議な夢を見ていると思って。……ね?」
『いい加減だね……キミって。まあ、いいか……夢なら……さ』
少年は苦笑した。これは自分自身が見ている夢。現実世界の自分が目を覚ましてしまえば、お別れしなくてはいけない世界。恐らくはもう二度と訪れる事の出来ない世界。だから、後悔のない様純粋に今を楽しむ事にした。
街の中はこの世界で一番大きいと言うだけあって、とんでもなく広かった。船が見たいと言う少女は街の人に道を訊いて港を目指して歩くが、辿り着くまでに相当時間がかかった。
少女に身体を乗っ取られている少年には疲労はないものの、生身の身体を手に入れた少女はすっかり疲れ果てていた。それを少女は体力のない少年の身体のせいだと文句をつけたが、実際その通りだった為に少年に言い返す言葉はなかった。普段、家でオンラインゲームばかりやっていたし、学校でも部活は入っていない上に体育の授業でも真面目に取り組んだ事がないに等しいから、当然の結果だった。
だが、勝手に身体を使っている方が悪いと少年は開き直り、少女に謝る事はしなかった。少女もまた、自分から折れる事はなかった。
二人の鼻を潮の香りがくすぐる。頬を穏やかな風が撫でてゆく。二人はその瞳に、渺々絶景を映した。
手摺りの向こうには、宝石の様に輝く空と同じ色の大きな水溜りが広がっていた。海だ。その上に浮かんでいるのは、立派な船。
少女は勿論の事、少年の胸も高鳴った。
「もっと近くで見ましょう」
『うん!』
少女は手摺りの横の階段を駆け下り、船の目の前までその勢いのまま走っていった。
大きく見えていた船は間近で見ると更に大きく、自然と少女の口はぽっかり空いていた。少年も言葉を失い、先程から何も言わなかった。
「実物は本で見た物よりも、もっと大きくて立派なのね……。こんな物が水に浮かんでいるなんて不思議」
少女は暫く船を眺めた後、お腹を摩った。
「何だかお腹が空いて来ちゃった……」
『そういえば、何も食べてなかったなぁ。いつから食べていないのか覚えていないけど、少なくともこの世界に来てからは一度も』
「…………肉体がなければ、こう言う感覚も味わう事が出来ないんですよね」
『あ……そっか。キミは……』
「でも、あなたのおかげで今それをあの頃と同じ様に味わう事が出来るんです。だから、私は凄く幸せです」
少女は愉悦し、身体の向きをくるりと変えた。
船乗り場の反対側に、店が幾つか並んでいた。少女はそのうちの一軒に目を付けた。薄オレンジ色の屋根に、前方が硝子張りのこぢんまりとした店。一望出来る店内に並ぶのは、ふっくらと香ばしく焼きあがったパン。少女の目は輝いていた。
少女は「あれ、食べたい!」と言ってパン屋まで走り出す。少年が何かを必死に叫んでいる事にも気が付かず、少女は扉を開けて店内へと入った。