第一章5 B1F 浅夢(あさゆめ)
暗い。暗い。そこに連続しているのは、ただただどこまでも続いている暗闇。僕はなぜかそこに手を伸ばしてしまった。されども何もつかめずに。――何も感じずに。
嗅覚も、ない。味覚も、ない。触覚も、ない。――そうだ。ここはきっと夢の中なのだ。でも、なぜだ。僕はこんな得体も知れない暗闇の中に一人であるのだ。――夢の中のはずなのに、言葉では言い表せないような冷たい風に背筋がゾワッと呼応するような感覚がした。
――落ちている。自由落下だ。僕はあの暗闇中に、確かに堕ちているのだ。でも、戻りたいという気持ちはなぜか湧かない。それどころか、ずぅっとここにいたい。――そんなオカシなことを考え始めている。僕の脳はこの気持ち悪さを「快感」として認識してしまっているのだろうか。だとすればもう…。
またしても、夢であるはずなのに背筋に冷たい風が吹きつけるような感覚がした。――しかし、そこはもう暗闇ではなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「俊二君、起きて。」
そんな少し怒りが混ざったような声が、僕の耳元で聞こえる。それは段々と大きく、そして濁っていく。
「俊二君、起きてよ。そろそろ学校行かないと、遅刻するよ。」
「ああ、夏芽か…。もうそんな時間なのか…。
…って。もう夏休みで、学校ないよ…。」
それを思い出してぶっきらぼうに僕がそう答えると、夏芽はクスクスと笑っている。――これは夏芽にしてやられたな。夏芽は昔からよく僕のことをからかっている。もう、慣れたものだ。
「…で。私がこの時間に起こしに来たってことは、どういうことかわかるよね、俊二君。」
「今日から行くのか、春駒地神社。」
「正解。」
夏芽はそう、無邪気に答えた。なぜか「正解」と言った時の声がクイズ番組の司会者のように聞こえてしまった。そんなどうでもいいことを考えながら、僕は横に視線をやった。――まだ、六時になる手前くらいだ。随分朝早くから起こされたものだ。
「じゃあ、私はもう外に出ておくね。」
「そうだと思って、僕ももう準備しておきました。」
と、眠たい目をこすって、枕元にある大きな旅行鞄を指さした。
「さすが、私の幼馴染といったところね。」
夏芽は口をとがらせて少し悔しそうに答えた。――でも、最近の旅行は大体こんな感じだ。もう行動をほとんど予想できるほどにまでなってしまった。
「さあ、行こうか。」
そう立ち上がり、さっさと布団を畳んでから僕は夏芽の肩をポンと叩いた。――服は、こうなることを予期して寝る前に着替えてある。朝食も、この時間に出ることを予期して(一応二人分)手提げ鞄の中に入ってる。そして今日も天気予報も見ておいた。――我ながら、完璧だ。
階段を降りる。そして靴を履いて玄関から外に飛び出す。――旅行が、始まる。今年の夏も、また。
また、いつもの駅まで夏芽と歩いていく。ただし今日は重たい荷物を両手に持ちながら、だ。――夏の暑さと荷物の重さが合わさって、僕の身体は雨が降っていない筈なのにビショビショに濡れていた。そうして歩いていくうちに、混凝土に覆われた温かみのない駅――保浦駅に着いた。
「ささ、早く行こうよ。」
僕の手が、夏芽に引かれていく。――改札を出、階段を駆け上がり、僕は気が付けば列車のホームに茫然と立っていた。僕はハアハアと息を切らしてしまった。
「まったく。この程度で息を切らすなんて、先が思いやられるわ。」
夏芽がそう、呆れたように言い放った。学校帰りにはいつも、夏芽の方が先に息切れしているくせによくもそんなことを言えたものだ。――という気持ちは胸の内にとどめて、僕はムッと視線だけを送った。
「いきなり走らされたら、誰だってこうなるよ。」
「俊二君はどうしてこうも、昔から体力がないのかしら。」
「それは仕方がないよ。どんなに旅行をして歩いたからって、体力がつくとは限らない。」
これは僕の口癖だ。でも実際そういう事なのだ。どんなに旅行で歩こうとも、必ずしも体力がつくとは限らない。それを理解したうえで夏芽は僕のことを茶化してくるので、余計に腹立たしい。それでも、まったくどうして僕は体力がないのだろうか。――以前学校で受けた体力測定では、学年順位が最下位だったくらいだ。実をいうと、夏芽にも体力測定の結果で負けてしまっている。――そんなことはどうでもよい。いつからか、そう考えるようになってからはだいぶ生きるのが楽になった。生まれつきのことをどれだけ僻んでいてもどうしようもない。ならばそれでどうするかを考える。――そう気づかせてくれたのは、皮肉にも夏芽だった。
続きです。今回は少し短めです。
俊二の夢から始まり、ようやく旅行が始まる…!というところでおしまいです。しかしなんだか不穏な空気も…