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学徒旅行記  作者: 亀山三河
悪夢
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第一章4 父の面影

たった、数十メートル。そんなわずかな距離を、カタツムリのようにノソリノソリと移動する。僕にはその道が、行方の分からないトンネルのように感じられたからだ。そんな僕の姿は、傍から見ればいかに滑稽なものであっただろうか。

…気が付けば。そこには一台の赤い軽自動車が停まっていた。――母さんが、帰ってきている。僕の母さんは大抵、日付が回ったくらいに帰ってくる。――小さな違和感が僕の胸を掠めた。それとともに、感じる不気味さ。それを夜の静けさがなお一層引き立てる。




――ガチャリ。鍵を開ける音が不気味なほどの夜の静寂を切り裂く。しかしそのあとに続く声はなかった。――夏芽の家とは対照的な静けさ。それには心地よさなど一切ない。これが僕の家である。

 玄関も。廊下も、電気なんてついていない。そこを慣れた手つきで靴を脱ぎ、これまた慣れた様子で廊下を進む。「カッ、カッ」と足音がよく響く廊下を十メートルほど歩き、リビングに出た。――先ほどまでとは対照的に、真っ白な光に包まれたリビングだ。そこからガラス張りの戸を開く。――部屋の静けさに「ギー」という音が響き渡る。するとそこには、夏場のアイスクリームさながらにドロドロと溶けたような状態の女性がいた。――肩まで伸びた髪の毛は白髪交じりでぼさぼさ。服ははだけ、下着がはみ出ている。口から垂れているよだれが、いつからそこにいたのかを物語っている。これこそが僕の母さん。――紗香(さやか)だ。

――僕が夏芽の家で夕飯を食べている間に、よくもまあこんなに熟睡できるもだ。もはや僕は呆れるのを通り越してそう感心してしまっている。すると母さんは、のそりと気だるそうに身体を起こした。

「ああ、俊二。帰ってきてたの…。おかえり。お夕飯、できているわよ。」

「何言ってるんだよ、母さん。今日も夏芽の家で食べてきたよ。母さんの手間増やすのも嫌だし。」

 とろりと寝起きで眠たそうな口調で、僕に囁いた母さんに対して、ぶっきらぼうにそう答えた。母さんはどうせ今日も夕食なんて用意しているはずがない。ただ寝ぼけて夢と現実をはき違えているのだろう。――それはきっと、父さんが「出かける」前の夢。思い出すことができるのは、極僅(わず)かな断片的な記憶のみ。子供のころに書いた日記を大人になってから読んだ時のようなものだ。




 僕は、二階にある母さんの部屋に連れて行こうと、今にも倒れそうになってしまっている母さんを背負った。僕の肩に母さんの全体重がのしかかる。――そこには、かつての重さどころか温かさも存在しない。父さんがいなくなってしまってからの母さんは、ほとんど食べ物を口にしなくなってしまったので、その結果とでもいうべきだろう。

 やけ酒をしたわけではない。過労で燃え尽きたわけでもない。たった一人の男が消えた。ただそれだけのことで母さんはこんなことになってしまったのだ。――こんな火災現場の後のような。――こんな、抜け殻のような。母さんは、かつての明るかった面影をまるで残していなかった。――太陽は、燃え尽きたのだ。

 僕はいつものように階段を昇った。そこからやや左の方向にある部屋が母さんの部屋だ。そこにある襖を足で動かす。そして襖の近くに母さんを寝かせる。そして手慣れた手つきで押し入れから布団を取り出す。それをしいて、そこに母さんを寝かせなおす。なんと日本人的なのだ。――最近の人間ときたら、やれ布団よりもベッドじゃ、やれ和室よりも洋室じゃ。そんな「日本人らしさの欠片もない」ことを言うが、僕にはこれが落ち着くのだ。贅沢の限りを尽くしたベッドよりも、謙虚に佇む布団。様々な装飾品に溢れて落ち着きのない洋室よりも、装飾品が少なくて趣のある和室。――こんな風に思っている僕は、よく昔から「子供っぽくない」だとか「思考が若くない」とか言われてきたのだが、それでよい。――何も、若いから西洋好きでなければいけないなんて決まりはないし、それ以上に僕は、周りの人と一括りにされるのが嫌なのである。




 そうして母さんを寝かせた僕は、また階段を降りてそのまま風呂へと直行した。――昔はよく、この風呂に夏芽と入っていたものだ。…そんなことをふと思い出した。あの頃は父さんがいた。明るい母さんもいた。戻れるものなら戻ってやり直した。失った時間の大切さに今更気づいてしまった。――そのむず痒さ。全身が身震いするような感覚とともに、微かな寒気が襲ったような気がした。

 衣服を脱ぎ、身体的に解放されるにつれて、僕の心は何かに囚われていった。僕はその時、まだ湯船に浸かっていないのに。――かけ湯すらしていないのに。僕の顔に水滴が流れているのを感じた。――窓の外をふと見ると、外はさっきまで降る気配なんてなかったくせに雨がザーザーと降っている。しかしその窓は閉まっていた。




 そうして風呂を終えて、歯も磨き終わった僕は、またも階段を昇って二回に戻った。突き当りの廊下を今度は右の方へと向かう。――母さんとは別の部屋。部屋中に置かれている、今では売っていなさそうな車の模型。最近はすっかりお目にかかれる機会がなくなってしまったビデオテープ。そして間違いなくサポートが切れているであろう、小さな銀色の「Me」と書かれたシールが貼ってあるパソコン。――そのすべてが、灰色の埃に染まっている。――「薄汚れた」というよりも「もともとそうであった」という表現が適切なくらいだ。

 ここは僕の部屋ではない。「出かけている」父さんの部屋だ。


 時が止まったような光のない部屋を後にして僕は、また廊下を進んでいった。父さんの部屋からまた数メートルほど進んだ先に僕の部屋がある。そこにあるのは、堂々と構えている木製の開き戸だ。ずっと前からここにある。その割には新品のようだ。――何せ父さんが出かけるまで僕は、父さんの部屋で寝ていたからだ。そのためあまり部屋に入ることはなかったのだ。

 そうして開き戸を前に押し、壁際にある証明の電源を押した。――黄色い温かい光に部屋全体が照らされる。そのまま部屋の隅へと、畳の縁を踏まないようにと歩き、布団を取り出す。そしてそれを床に敷き広げる。――もう父さんが出かけてしまってからは手慣れた作業である。

 上から吊るされた一本の長い紐を二度引っ張る。――辺りが暗闇に包まれる。目の前に見えるのは、一つの「小さな黄色い月」と遠くの白い月だけである。そんな音も何もしない空間に包み込まれていく心地よさは、何物にも代えられない…。

ひとつのことに集中できないことに定評のある亀山三河です。今の時期は珍しくモチベーションがあるので、もしかしたら一週間ほど毎日投稿できるかもしれません。(フラグ)

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