第一章3 冷やし中華
それから少しして、住宅街のマンションに囲まれた。二軒の狭小住宅が目に飛び込んできた。――これが、僕たちの家だ。この家は、周りにごまんとある鉄筋混凝土の冷たさを感じさせる家とは真逆で、木の温かみを感じることができる。そのため僕たちは、これでも家には満足している。築二十年程度の狭小住宅だが、さほど古いとも汚いとも思わない。――これはきっと、大工である夏芽の父さんのおかげだろう。
夏芽の家の下には、街灯を反射している青いミニバン車が停まっている。そしてそのまま視線を僕の家へと向けた。ただ、そこには何も停まっていやしなかった。
「お母さん、まだ帰ってないのね。じゃあ、今夜もうちで食べようよ。」
夏芽が自宅を前にして、ようやく口を開いた。その眼はどこかおっとりとしていて、僕はどこか安らぎを感じた。
「いつもいつも、ごめん。」
「いいってことよ。幼馴染だもん、それくらいはするよ。」
夏芽は年上の姉のような口調でそう言った。こればかりは茶化しなどなく、自炊ができない僕にとって本当に姉のような存在だ。――もっとも、自炊ができないのは旅行好きとして致命的な気がするが。
それからいつものように、自宅の左側にある家に入る。――ガチャリ。鍵を開ける音が二人の間に響く。そして戸を開き、電気が灯った玄関に入ると「おかえりなさい」という声がした。――夏芽の両親だ。それから僕は靴を脱いでから家の中に入り、夏芽の両親に挨拶をして、また学校で起きたくだらない話をする。――こうしたやり取りが、かれこれ三年は続いている。
僕は慣れた様子でリビングに向かい、ちょうど四人掛けの机の一番左側に座った。――これが僕の定位置だ。
「俊二君のお母さん、今日も遅くなるのね。俊二君も、いつも大変ね。」
いつも通りの、聞きなれた労いの言葉だ。
「いえ、そんなことはありませんよ。夏芽さんがいるおかげで、いつも退屈せずに済みますし。それに正直、母さんがいないほうが楽なので…。」
と、いつもと何一つ変わらない返事をする。もうこのやり取りにも慣れたものだ。もはやこれがいわゆる「挨拶」のようなものになりつつある。――言葉の意味など、毎日使っていれば薄れてしまうのだ。
夏芽の家では、最近は夏芽が料理をしている。誰かに頼まれてではなく、自主的にやりだしたとのことだ。――夏芽の趣味ではあるのだが、これも一種の親孝行だろう。だからその間はこうして、夏芽の両親と話している。こうしていると、もはや夏芽の家族こそが僕の家族にすら感じられる。もしも冗談で「私の家族になってみる?」なんて夏芽に聞かれたら、喜んで「はい」と答えるだろう。――なんて、母さんに言ったらシバかれるが。
それでも、仮令血縁がなかったとしても精神的に寄り添える存在こそが家族なのだと僕は思う。そう考えるとやはり、僕にとっての家族とは、夏芽の家族なのだろう。
「それにしても、俊二君のお母さんも苦労人よね。突然お父さんが行方不明になって、それから女手一つで俊二君を育てているのよね。ある意味、離婚なんかよりもずっと辛いわよ、それ。」
夏芽の母――美冬さんは、思いついたようにそう言った。
「そうですね。でも僕は信じているんです。いつかきっと。――いえ、絶対。僕の父さんは帰ってくるんだ、って。」
「そう思わないと、やっていけないもんな。綜一も、一体どこをほっつき歩いているのやら。」
綜一。これが僕の父さんの名前だ。夏芽の父親である秋太さんとは、高校からの旅行仲間だそうだ。
「父さんのことですから、放っておけばそのうちフラッと帰ってきますよ。多分ですけど…。」
その「多分」に込められた言葉の重みを察したかのように、夏芽の両親は口を噤んだ。訊いてはいけないことを訊いて申し訳ない、というような目で、僕のことを見つめる。――まったく、夏芽の家族は口で言うよりも目で訴えるから少々困る。まあ、僕も人のことは言えないが。
それから、十分ほど沈黙が流れただろうか。台所から、いい匂いが立ち込めてきた。小麦粉の香り。焼いた卵の香ばしさ。そして、ほのかな酸っぱさを孕んだ風が僕の鼻をくすぐる。――これは冷やし中華だな。そんな僕の予想は、見事に的中した。――自慢じゃないが、僕はこう見えても鼻は利く方だ。
皿いっぱいに盛り付けられた冷やし中華をズルズルと啜る。箸で食べる日本人独特のマナー。やはり日本人であれば、麺は啜って食べなくては失礼ではないか。
部屋一体に「ズズズッ」という音が響き渡る。その一体感といえばもう堪らない。――なんと日本的なのだ。
「もう。俊二君、そんなに焦って食べなくても冷やし中華は逃げないよ。」
夏芽が軽い笑いを含めて僕に言った。しかし、蛍光灯の光を反射して光っている眼鏡に隠された、彼女の表情は計り知れない。――僕は知っている。一見僕のことを想いやっているように見える夏芽だが、これは絶対に「獲物を狙っているときの言い方」だ。おそらく。いや、絶対に。僕の冷やし中華を狙っているのだろう。ギロリとした眼が、眼鏡を通り越してこちらに向けられる。――夏芽はこう見えてもかなりの食いしん坊なのだ。
そんな僕の内心を察したかのように、夏芽は言い放った。
「なにを人聞きの悪い。私はただ、俊二君の残したものを貰うだけですー。」
「結局狙っているじゃないか。」
そんな若手芸人のように妙にキレのある会話を楽しみながら、僕たちは冷やし中華を啜った。体の芯から冷えていくような感覚を覚えた。――やっぱり、夏芽の料理は最高だ。
「あらあら、こんなに食べちゃって…。俊二君、そんなに夏芽の料理が好きなのね。」
美冬さんは呆れるというよりも感心するような口調だった。
「当たり前ですよ、お母さん。夏芽さんの料理なら、何杯でも食べられます。」
と、調子に乗ってそんなことを口ずさんでしまった僕は気づいてしまった。今この家には「絶対に冗談が通じない人がいる」ということに。
夏芽が、ニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべながら僕に顔を近づけて、脅迫電話のような口調で言った。夏芽の、冷やし中華の具材が混ざった匂いがする息が僕の顔にかかる。
「言ったわね。それなら明日の料理は俊二君のだけ特盛かしら…。あ、もちろん残したらお仕置きよ。」
「あのー、夏芽さん。それはあくまでたとえ話であって実際にそうなるとは…」
「うるさいわね。男に二言はないんでしょ。だったら、食べる。」
またも、だ。いつもこうして、夏芽の勢いに圧倒されてできそうもないことをやらされる。そうして、夏芽の考えた罰ゲームだ。この流れはずっと変わらない。――失言した僕にも非はあるのだが。
夏芽も、この流れを楽しんでいるに違いない。その笑みが。その眼が。すべてを物語っている。――いつか絶対に夏芽を見返す。そう宣言してから、かれこれ三年。未だに夏芽を見返せたことはない。
そうして僕はふと時計を見た。――もう、八時三十分くらいだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰りますね。」
「そうだな。もうそんな時間か。」
――誰も、「お母さんが心配する」なんて言わない。どうせみんなわかっているんだ。
「今日も来てくれてありがとうね。俊二君。」
「いえいえ、いいんですよ。そちらこそ、いつも家に上げていただき、ありがとうございます。」
「綜一の息子さんなんだから、当り前さ。」
「俊二君、明日ちゃんと約束守ってね。知ってると思うけど、私は『する』といったことは絶対にするから。」
二人の温かい言葉を遮るように、鋭い目つきで夏芽が言った。多分これは本気だ。明日は覚悟しておかなくては。佐上夏芽とはこういう女だ。
「夏芽…。いい加減にしろよ…。」
僕はぶっきらぼうにそう言い返した。でも内心はそうではない。むしろ期待しているまでもある。いつからか、このようなやりとりが楽しくなってしまっているのだ。
別れの挨拶はほどほどにして、僕は帰路(といっても、隣の家だが)に就いた。どうせ家に帰っても僕の母さんはまだ帰ってきていない。だから何も楽しいことはない。そんな思いが、僕の足取りを重たくする…。
前回の続きです。数話スタックがあるので、多分毎日投稿できると思います。…たぶん。