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学徒旅行記  作者: 亀山三河
悪夢
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第一章2 帰り道

 それからどのくらいの時間が経っただろうか。気が付けば、もう日も沈みかけて辺りは薄暗くなっている。そして、ようやく夏芽は口を開いた。


「さっきはごめんなさい。俊二君は頑張っているのにあんなことを言って。」

「いいんだよ、もう。夏芽が辛いのはわかっているから。

 それより、そろそろ電車が混んできちゃうから、もう帰ろうか。」


 僕は夏芽の手を優しく引いて立ち上がらせた。少しプニッとした感触がした。


「あれ。夏芽、また太ったんじゃない?」


 僕はニヤリと笑みを浮かべてそう言った。


「う、うるさいわね。こんなお腹の俊二君には言われたくないわよ。」


 夏芽が僕の腹を思いっきり摘まむ。――ちょっと痛い。僕も負けまいと、夏芽の腹をくすぐった。途端に夏芽は、また崩れ落ちた。――でも、今度は思いっきり笑いながら、だ。――夏芽は、腹をくすぐられるのにすこぶる弱い。だからこういう時の仕返しにはこれが一番だ。


「まったくもー。やっぱり、俊二君には敵わないや。」


 夏芽はそう、笑いながら言った。そこにはさっきまでの暗い表情はなかった。寧ろ、「よくもやったな、今度はどうやり返してやろうか」と考えている、いたずらっ()の表情だった。


「昔からの付き合いなんだから、これくらいわかるよ。」


 僕はそう、自慢げに鼻を鳴らした。そうして僕たちは、日没の薄暗さを背負ってくすぐり合いながら帰った。そこにはもう、笑い声しかなかった。――くすぐられるじれったさに、脳内が支配される感覚。――なんて愉快なんだ。

 夏芽の眼は、もう笑っている。口を開けて、笑っている。僕は夏芽が笑っている顔が大好きだ。他の何物にも代えられない。


「やっぱり夏芽は、その顔が一番だね。」

「そうかな…。でもそれなら私も、俊二君の笑顔好きなんだけどな…。」


 そんな傍から見た人に恋人同士かと間違えられそうな会話をしているうちに、見慣れた駅にたどり着いた。――といっても、まだ地下駅の地上部分だけだ。工事されて新しくできたばかりの、新しい出口。でも駅自体は何も変わっていやしない。仮令(たとえ)外側が変わっても、中身はそのまま。そんな地下駅はまるで、この現代社会を盛大に皮肉っているかのように感じられた。




 夏芽の手を引いて、地下にあるホームへと続くエスカレーターに乗り込んだ。――ゴゴゴ、と心地よい機械音が響く。しかし今の僕にはそれを楽しむ余裕はなかった。僕たちが下っていくにつれて、僕の心もまた、不安に沈んでいくのであった。――もう、『あの時間』になってしまったのだ。




 そして僕の不安が募り溢れそうになったところで、改札階にたどり着いた。


「ほら夏芽。着いたから行くよ。」


 そう声を掛けて、自動改札機に定期券をかざして僕たちはホームの端の方へと向かった。そして列車を待つ列の後ろに並んだ。――すると、待っていたかと言わんばかりに、列車の接近放送が人々の騒めきの間に響き渡った。


「まもなく、各駅停車 西砂(にしすな)(ばし) 行がまいります。点字ブロックの内側に下がってお待ちください。」


 僕は少し変かもしれないが、地下鉄駅のこの空気感や匂い、そしてこの放送の響き。――そういったものが大好きだ。――しかし、この時間だけは違う。

 僕たちは背負っていた鞄を前にかけた。――この時間にはただ並みならぬ緊張感を覚える。二人一緒でなければ、潰れてしまいそうなほどの…。




 列車が入線する。そして扉が開く。――人力エアコンの熱気が外にあふれ出てくる。これは地獄絵図か何かだろうか。――痛勤列車とはよくも言ったものだ。

 そんな地獄絵図の中に、後ろの人に押されながら夏芽の手をギュッと握って入っていく。――もちろんただ入るだけでは駄目だ。奥へ奥へと、人を押しのけて入り込む。車内の乗客も車内の乗客で、慣れた様子で奥へと進んでいく。そしてわずかに空いた二人分の隙間に入り込む。その直後。「ダァシエリイェス」そんな放送とともにドアが閉まり、列車は動き出した。




「夏芽、大丈夫か。」


 ハァハァと息を切らして目の前にいる夏芽を気にかけ、僕は声を掛けた。


「うん。なんとか大丈夫よ。」


 なんとか表情に余裕を見せて夏芽は答えた。僕はそのまま、夏芽の全身を支えこむように両手で吊革につかまった。――傍から見れば勘違いされてしまいそうな絵面だが、これは「夏芽を犯罪から守るため」の行為である。――僕はそう、自分に言い聞かせた。


「俊二君…。」


 砂糖をたっぷりと溶かした珈琲のような声で、耳元で夏芽が囁く。それに呼応するかのように、僕は背中を丸めた。


「いつもこうしてくれてありがとうね。それに、昔のことも…。」


 夏芽が顔を赤くして答えた。――これは、人力エアコンのせいではない。そんな夏芽の顔を見て、僕の身体は再び熱くなった。


「幼馴染なんだから、そこは気にしなくて大丈夫だよ。男に二言はない。もう君を同じ目に合わせたりなんてしないから。」


 僕はそう、夏芽の耳元に囁き返した。――一人で不安なことでも、二人なら乗り越えられる。――そう、耳に胼胝(たこ)ができるほど聞いた言葉が僕の頭をよぎった。僕はその言葉を反芻(はんすう)した。


「次は 保浦(やすうら)~保浦です。」


 そうして気が付けば、僕たちの最寄り駅を知らせる放送が流れてきた。ようやくこの地獄から解放される。僕はそう思い、深く安堵した。――そうして、ドアが開くとともに後ろの人の波に押されて僕たちはようやく車外へと脱出した。

 そこから人の波が落ち着くのを少し待ち、ようやく改札階に降りた。僕も夏芽もくたくただった。この数十分の間に一日分の体力を消耗してしまったような気分だ。――改札階からまた、自動改札機に定期券をかざして外に出る。僕たちの家までは、そこから歩いてほんの五分だ。僕は夏芽に「歩けるかい」と聞いた。――夏芽は、首を縦に振っただけだった。――子供のころから歩き親しんだ道。でもこうして高校生になって、満員電車から降りた後に通ると、どこか不思議な気持ちになってしまう。

 そして、特に会話もないままにすっかり暗くなってしまった道を歩いて帰って行った。


少々第一部が長かったので、二部に分割しました。

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