第一章1 夕日
――夏が来る。今年もまた。いつも通りの夏が来る。
蝉が僕の鼓膜を破くほどの声で鳴いている。たくさんの葉っぱのフィルターを通して黄緑色になった光が、僕の身体を優しく照らす。若干の空虚感すらも感じさせてくれるこの森――春駒地山 山腹。
そこはまるで、これまであったあらゆる出来事を包み込んでくれているようであった。だから僕は旅行が好きだ。今まであったいざこざを。苦労を。旅行をしているときだけは忘れられる。
――夕焼け。大体、午後の六時半ごろ。空気が澄んでいて、赤く染まった空がよく見える。その赤が、誰もいない教室にいる僕たち二人の全身を真っ赤に染め上げる。天使の息吹のように優しく吹いてきた風が、夏芽の腰まで伸びた美しい黒髪を優しくさらう。
早く帰ろうと、鞄の中へ風にあおられたままの教科書を強引に詰め込む。そんな僕を横目に、夏芽は人差し指を口に当てながら、僕の方をじっと見てくる。風にさらわれる、結われていない髪の毛をもう片方の指でくるくると回して遊びながら、だ。――どうやらなにか考え事をしているようだ。――夏芽が考え事をしているときは、まず指を口に当てる。そして次にその指で髪の毛を回して弄る癖がある。
「ねえ俊二君。今度の夏休み…どこへ行こうか。海かな。それとも山がいいかな。」
目の前の少女――佐上 夏芽は、ふと立ち上がったかと思うと、僕の肩にポンと両手を置いてそう聞いてきた。栗色の瞳は、窓の外の赤色を反射してか、その黒縁眼鏡を透き通してキラキラと好奇の色に輝いている。
「んー、どうしようかな。今年も特に予定はないや。」
「わかったわ。俊二君はいつもそうね。その場の気分で旅行に行っちゃうんだから…。ま、私も人のことは言えないんだけどね。
でも今回は、珍しく私が旅行の計画を立ててきてあげたんだから、感謝しなさい。ほら。」
夏芽は僕を侮るかのように軽く鼻で笑い、胸ポケットから一枚の細長い切符を取り出した。最近はあらゆるものがデジタル化されてしまい、切符というものを使用する機会がなくなったおかげで、それが何の切符なのかはすぐに分かった。――成人弐拾きっぷだ。一枚二千円で、一日中全国の列車に乗ることができる、夏と冬の代名詞と巷で呼ばれている、五枚綴りの切符だ。(ちなみに「成人弐拾」と称しているが二十歳でなくても使うことができるのだ。)
「その様子だと、私が何を考えているか俊二君もわかったみたいね。」
僕の顔を覗き込んだ夏芽は、すかさずそういった。
「でも、その切符を使ってどこの神社に行く予定なのかい?」
「東北はどうかしら。私も俊二君も行ったことがないから。今年の夏休みは、二人でそこの『春駒地神社』に行きたいと思うの。」
僕たちの学校は東京のど真ん中にある。だから僕たちは普段あまり「自然」というものを見ることはできない。――もちろん、家の周りにも公園はあるのだが、そこにあるのはあくまで人工的に作られた、人間に都合のいいようにしかなっていない見掛け倒しの「自然」でしかない。おそらく夏芽も同じように思っている。だからいつになくグイグイと、僕を置いてきぼりにして話しているのだろう。
「春駒地神社…か。いいと思う。僕も前から行ってみたかったし。確かあそこのご利益は旅行安全だったよね。」
だんだんと早口になっていく夏芽に対して、僕は冷静に答えた。――春駒地神社。東北の山奥にある寂れた小さな神社だ。寂れてはいるのだが、最近「マニア」の間で話題になっている神社でもある。――これでわかる通り、僕たちの趣味は「神社巡り」だ。高校生にしては珍しい趣味なのかもしれない。僕――三春 俊二と夏芽はいわゆる幼馴染だ。物心ついた頃から一緒にいる。幼稚園も、小学校も。中学校も、高校もだ。中学のころからは、長期休みの度に二人でどこかの神社に出かけている。
最初に言い出したのは僕からなのだが、今となっては夏芽の方から誘ってくることが多くなっている。――僕は自分から何かを言い出すのが苦手なので、寧ろ好都合なのだが。
「ええ、そうよ。ならそれで決定ね。それじゃあ詳しいことは、また後で決めましょう。」
そうして夏休みのことを軽く口約束だけして、夏芽はまた窓際に座った。いつもこうだ。僕たちの旅行はなんだかんだで「行き当たりばったり」が多い。細かい予定は決めずにその場のノリでどこかへ向かう。僕も夏芽も「予定に縛られる」ということが嫌いなので、このくらい自由な方がいい。
荷物を詰め終わった僕は、夏芽の肩をポンと叩いた。これが僕たちの、昔からの「準備完了」の合図だ。夏芽も、スッと立ち上がった。でも僕には少し嫌な予感がした。
「ねえ、夏芽。君、僕が準備している間ずっと座っていたけど、帰る準備はきちんとできてるんだよね。」
「あ…。ごめん、まだしてなかった。」
夏芽は沈んだ表情を浮かべてそう答えた。――見事に僕の予感は的中してしまったのだ。夏芽はいつもこうだ。よく言えば「天然」悪く言えば「間抜け」。いつもどこかが抜けている。まったくよくこんな性格で学級委員長が務まるものだと、僕は度々感心させられているのだ。
慌てて鞄に荷物を放り込んでいる夏芽を僕はジッと見つめた。夏芽は見かけによらず大雑把だ。完璧主義を気取っておきながら、面倒くさくなるとガサツになる。皆の前では真面目な委員長(さらに服装からしても真面目さそのものなのだが)の癖に、僕の前ではそんな素振りは一切ない。よく言えば「僕を信頼しているから素でいられる」悪く言えば「みんなの前で猫をかぶっている」。佐上夏芽とはそういう女だ。――まあ昔からの付き合いの僕は、正直気にしていないのだが。というよりも、これくらいのほうが夏芽らしくて安心する。
「さて、と。準備できたよ。待たせてごめんね。それじゃあ、帰ろうか。」
僕に迷惑を掛けた、という気持ちは一切ないらしく、満足気な表情の夏芽は僕の肩をポンと叩いた。
「夏芽、シャツ出てる。」
「え、嘘…。」
普段は真面目な委員長さんのボロを、僕は見逃さなかった。慌ててシャツをしまう夏芽を置いて、僕は鞄と夕焼けを背負って帰路に就いた。
「置いていくなんてひどいよ…。」
急いで追いかけてきたのか、髪がボサボサの夏芽の姿を見て、僕はさっきのお返しにと大きな声で笑った。
校門を抜けて右に曲がると、すぐに一方通行の狭い道に出る。その両側には、楽しそうな声が漏れ出ている狭小住宅が立ち並んでいる。それらの窓は目が痛くなるくらいに夕焼けを反射して、橙色に染まっている。――そんな道の中で、僕たち二人の影だけが少し重なって動いている。
いつからだろうか。こうして夏芽と影を重ねて帰るようになったのは。そう、僕はふと考えた。もうそういうことを思い出すことができないくらいに長い付き合いの友達は他にいない。――きっとこれから先も、見つかる気がしない。
他人に話しかけることが苦手で、内気な僕にとっては、夏芽はどんなことでも話すことができる数少ない存在だ。だから僕は、いつも夏芽に感謝している。――きっとこれから先もずっとだ。そんなことを考えると、なんだか胸が熱くなるような感覚がした。――もちろんそのことは、夏芽に言えるわけがないのだが。
「夏芽。次の旅行も楽しみだな。」
そう、僕は深く考えずに夏芽に言った。――ふと、風が吹いてきた。初夏の、少しばかりの生暖かさを孕んだ風だ。その風が夏芽の長い髪の毛を再びさらった時、僕はハッと気が付いた。
…太陽が、夏芽の瞳に映り込む。夏芽の瞳が真っ赤に染まる。…でも、その太陽は滲んで映っていた。
「俊二君。この旅行がただの旅行じゃないってことはもちろんわかっているよね。」
僕は返す言葉を探すことができずに、「うん。」とだけ冷淡に答えた。
「じゃあ、楽しみなんて言わないでよ。夏なんて、来てほしくない。来ないで。来ないでよ、ねえ。」
そう叫んだ夏芽の声は震えていた。僕は全身に鳥肌が立つのを感じた。――怖いわけではない。ただ、夏芽の叫び声が、僕の心のどこかに刺さった。――そんな気がした。
「ああ。それは僕にだってわかっている。――この旅行がただの『楽しい旅行』じゃないことだなんて、とっくに。でも、行かないと…。そうするしか、僕たちには方法がないんだから。」
「返してよ。ねえ、返してよ。私たちの、楽しかった旅行を返してよ。」
――夏芽はそう叫ぶと、そのまま泣き崩れてしまった。僕には、そんな夏芽の頭を撫でて落ち着かせてやることしかできなかった。――それ以外は何も。僕にできることなど、ないのだから。
その時、五月蠅いくらいに鳴いていた蝉の声。家々から漏れ出る楽しそうな声。少し騒がしい、鈴虫たちの大合唱。そのすべてが僕には聞こえなかった。――ただ、夏芽のすすり泣く声だけが、僕の耳に届いた。
お久しぶりです、亀山三河です。
今回は諸事情のために、以前掲載の作品を再掲載しました。といってももちろん、単なる再修正ではなく加筆修正をしたものとなります。
――2020年5月8日 追記――
少々第一部が長すぎたので、途中で分割しました。