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薬師ゴドーの災難

「はっ、はっ、はっ……!」


深い茂みの中にしゃがみこみ、男は全力疾走で乱れた息を必死に整える。

入り組んだ地形を奇跡的にうまく利用して逃げてきたおかげで、多少は追手と距離をとることができたようだ。

だがこんな幸運が続くわけはないし、今度見つかってしまったらもう逃げられないだろう。


(ちくしょう、なんだってんだ!なんだって、俺がこんな……!!)


理不尽としか思えないような突然の窮地に、ゴドーは誰でもいいから怒鳴りつけてやりたいような気分になる。


彼は近隣の村で薬師をやっている、ごく平凡な男だ。

祖父の代から薬師の家系で、自分も父から顧客と仕事のの技術を受け継いだ。

こうして森の中に入って薬草などの素材を探す方法も、祖父や父から教わったものだ。


当然その時には「モンスターの縄張りには近寄るな」と散々言われたし、ゴドーもその教えを守ってきた。

彼らの痕跡が無いか注意深く観察することは怠らなかったし、今日だって森の様子に変わった所はなかったはずだ。

にもかかわらず、彼はこれまで見たこともなかったような恐ろしいモンスターに追い立てられていた。


ようやく息が落ち着いてきたところで、茂みの中から音を立てないように慎重に周囲の様子を伺う。

穏やかな風の音は聞こえるが、いつの間にか鳥の声が全く聞こえなくなっていた。

大きく動くものや音は感じられないが、こういうときは下手に動かないほうが良い。

だがここでいつまでも待っている訳にもいかないだろう。


茂みから出るタイミングを伺っていると、ゴドーが先ほど逃げて来た道からそれが現れた。

追手の姿を再び目にして、ゴドーは声を上げそうになった口をとっさに手で抑える。


灰熊グリズリーだ。

凶悪な熊のモンスターであり、冒険者であっても一人で戦うのは避けるべき相手だ。

昔祖父から聞いた話だと、より大型のものは巨灰熊ギガントグリズリーと呼ばれ、大人二人分ほどの体長がある個体もいるらしい。

それほど大型の個体だと、周囲の地形をほとんど無視して追ってくるので、人の足で逃げるのはほぼ不可能だとか。

今ゴドーを追っている個体はそれほどの大きさではないようだが、それでも彼自身よりは明らかに大きい。

後ろ足で立ち上がれば優に彼を見下ろすだろう。


灰熊グリズリーはふんふんと鼻を鳴らしながら、比較的ゆっくりとした動きでうろうろと歩き回っている。

ゴドーの匂いを追っているのだ。


(くそっ、さっさと諦めてくりゃいいものを……!)


心の中で毒づき、ゴドーはそのまま遠ざかってくれ、と必死に祈りながら様子を見る。

だがそんな祈りも虚しく、灰熊グリズリーは徐々にゴドーの隠れている茂みの方へと近づいてくる。

熊は人より遥かに優れた嗅覚を持っているが、それはモンスターとなった後でも変わらないらしい。

このまま隠れていては、遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。


ゴドーは必死に頭を働かせ、一か八かの賭けに出るべく足元に落ちていた小石を、音を立てないようにゆっくりと拾い上げる。

その石を遠くに投げ、音に気を取られた瞬間に立ち上がって逃げようと考えたのだ。

先程と同じようにまた追われることになるだろうが、街道まで逃げ切れば諦めてくれるかもしれない。

そんなわずかな望みを託すように、ゴドーは右手の中の小石を強く握りしめた。


いよいよ灰熊グリズリーの呼吸音が聞こえるほどの距離まで近づいてくる。

巨大なモンスターの息遣いは、それだけで聞くものの精神を威圧する。

ゴドーの額には汗が滲み、鼓動もどんどん速くなっていく。


今、気付かれるわけにはいかない。

緊張のために荒くなりそうな呼吸を必死で抑える。


(落ち着け、落ち着け……!もし、しくじれば……)


最悪の事態を想像してしまいそうになり、それを無理やりに振り払おうと再び強く石を握る。

力を込めすぎて、じわりと血が滲んできた。

それでも全力で目を見開いて、一瞬の機会も逃さぬよう目の前の相手の動きに集中する。


そして灰熊グリズリーの視線がゴドーのいる茂みから逸れた瞬間。

ゴドーは手首の動きだけで灰熊グリズリーの後ろに向かって素早く小石を投げる。

投げ込まれた小石によって茂みが音をたて、音に反応した灰熊グリズリーが後ろを向いた。


(今だ!)


好機を逃さず、ゴドーは茂みから素早く立ち上がるとそのまま踵を返しーー


「ごっ!?」


直後、彼は背中と脇腹に焼け付くような痛みを感じながら宙を舞い、顔と胸を地面に強かに打ち付けた。

灰熊グリズリーが恐るべき反応速度で振り向き、立ち上がったゴドーを剛腕で弾き飛ばしたのだ。

彼の策は、圧倒的なモンスターの力で捩じ伏せられてしまった。


「あぐ……くそ、いてぇ……」


鼻血を出し、顔を抑えながらゴドーはよろよろと体を起こそうとするが、うまく立ち上がることができない。

地面に這いつくばったまま、どこかに隠れる場所はないかと視線を巡らせる。

頭を打ったせいでぐらぐらする視界の中で必死に探したが、そんな都合の良い場所は見当たらなかった。

もしあったとしても、この状況では隠れてもほとんど意味がないだろう。


もうゴドーが走ることができないと分かっているのか、先程の攻撃とは打って変わって、灰熊グリズリーがのっそりとした動きで歩いてくる足音が聞こえる。

ゆっくりとした、しかし重厚な足音と呼吸音が近づいてくる気配は、明確な形を持った死そのものが迫ってくるようだった。


その音を聞く恐怖に耐えられなくなったゴドーは四つん這いから尻餅をついた体勢になり、灰熊グリズリーに向き直る。

改めて相手の大きさとやその巨大な爪と牙を見て息が詰まりそうになりながら、じりじりと尻餅をついたまま後ろへと下がっていく。


「た、頼むよ、見逃してくれ……な?」


無駄だと分かっていても、そんなことを言わずにはいられない。

もう彼には、この場を凌ぐ方法が一切思いつかなかった。

なにかの間違いで、このモンスターが自分を見逃してくれることを祈るしかない。


だが当然、灰熊グリズリーは言葉を解さない。

ゴドーが何を言おうと無意味だ。

灰熊グリズリーはゴドーを仕留めるべく、とどめとばかりに右腕を振り上げた。


「ひぃっ……!!」


それを見たゴドーは庇うように頭を抱え、痛みに備えて強く目を閉じた。

せめて痛みに苦しむことのないよう、一瞬で死にたい。

そんな考えが頭をよぎる。


一瞬か、数秒か。

そのまま時間が過ぎていく。

痛みは、来なかった。


(……え?)


一体何を待っているのか。

確かめるのも怖かったが、このまま死ぬ寸前の瞬間の中で待ち続けることにも耐えられそうにない。

ゴドーはゆっくりと目を開けながら、頭を上げて前を見る。

そこにはーー


「えっと、だ、大丈夫ですか……?」


見知らぬ誰かが、目の前に立っている。

いつの間にか、自分と灰熊グリズリーの間に割って入っていた。


それは、少年の姿をしていた。

身長はゴドーよりもかなり低く華奢で、歳のころは十二、三といったところだろうか。

特に変わった格好ではないが、右腕の肩から先がない。

そして、その隻腕の少年がーー


片腕で、灰熊グリズリーの右腕を受け止めていた。


「……は?」


目の前で起こっていることが理解できず、ぽかんとあいたゴドーの口から間抜けな声が出る。

先程自分が投げ飛ばされた灰熊グリズリーの一撃を、こんな小柄な少年が受け止めている。

それも片腕で。

どう考えてもあり得ないのだが、悪い夢のような目の前の光景はいつまでたっても消えそうにない。


「え?え?何?」


何かの冗談としか思えない状況に、ゴドーはただただ混乱する。

そうしている間に、攻撃を止められた灰熊グリズリーが苛立ったような唸り声を上げ始めた。

そして強引に右腕を振り抜こうと、更に力を加え始める。

灰熊グリズリーの腕を受け止め続ける少年の足元の地面がズリズリと深く削られていった。


「わ、ちょっと、ダメだって……!」


しかし少年にとってはまだ抑えられる程度の力らしく、全く慌てた様子が無い。

恐ろしいほどの力をかけられているはずなのに、まるで子犬にじゃれつかれたようだ。


それでも灰熊グリズリーはやめようとせず、更に更にと力を強めていく。

それに合わせて苛立った唸り声は更に大きくなっていき、呼吸も荒くなっていく。

ギリギリと拮抗する巨腕と細腕、そしてより深く抉れていく地面。

根比べのように、しばらくその状況が続いた。


「むむ……えいっ」


状況を打破しようと思ったのか、少年の方が左手で灰熊グリズリーの腕を振り払おうと強く押し返す。

直後、ゴドーは聞いたことのないような嫌な音と、灰熊グリズリーの悲痛な叫び声を耳にした。

灰熊グリズリーの右腕が肩から丸ごともぎ取られたのだ。


「あっ」


少年の方はそこまでするつもりはなかったらしく、しまったという表情で灰熊グリズリーの右腕を持って立っていた。

千切れた腕と灰熊グリズリーの肩から溢れる血飛沫が少年の足や顔に飛び散り、更に凄惨な光景が出来上がっていく。


自分よりも小柄な少年が盛大に返り血を浴びながら、巨大な化け物を蹂躙している。

これまでの人生で見たことも聞いたこともないものを続け様に経験させられ、ゴドーは腰を抜かしてへたり込んだまま、ただただ恐れ慄いていた。


(なんなんだよぉ、勘弁してくれよお……)


灰熊グリズリーの方は、腕を失ったことでさすがに戦意を失ったようだ。

哀れっぽい声を上げながら、必死に森の中へと走っていく。

少年は追う気はないらしく、血のしたたる右腕をぶら下げたままその後ろ姿を見送っていた。


しばらくして少年はゴドーのことを思い出したようで、ハッとした顔をしてから後ろを振り返って声をかけてくる。


「あ、あの、大丈夫ですか?ケガとかは……」


そう言って近寄ろうとしてくるが、その手には灰熊グリズリーの腕がぶら下がったままだ。

その断面は少年の腕力で引きちぎられたために荒々しく、未だに血が流れ落ち続けていた。

更に彼は隻腕であり、盛大に返り血を浴びている。

ほとんど恐慌状態のゴドーには、灰熊グリズリーよりも更に恐ろしい怪物にしか見えなかった。


そして、その隻腕の赤黒い断面にふと目をやった時。

ゴドーはその断面の赤黒い部分が小さく蠢き、肩口にかかった返り血がじわじわと吸い込まれていくのを見た。


それが限界だった。

なんだか分からないが、目の前の存在はただの人間の少年ではない。

もっと恐ろしく、おぞましい何かだ。

逃げるしかない。


「ば、バケモノぉっっ!!」


そう叫ぶと、ゴドーは脇目も振らずに走り出した。

少しの間座り込んでいたために回復したのか、それともより強い恐怖を感じたためか。

どうにか立ち上がることに成功し、よろめきながらも森の中を進んでいく。


追って来るかとも思ったが、今のところはその様子もない。

理由は分からないが、何だっていい。

あの場から逃れられるのなら、どうでもいい。

街道があると思われる方へと、もつれそうになる足を必死で動かし、ゴドーはただひたすらに走った。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「ば、バケモノぉっっ!!」


レイが近寄ろうとすると、男はそう叫びながらよたよたと立ち上がり、森の中へと逃げて行った。

背中に傷があるようだが、そのことも気にせず一目散に走って行く。


「あ……」


レイは何か言おうとして男の背に視線を送ったまま口を開いたが、何も言えなかった。

結局そのまま足音が聞こえなくなるまで、レイはその場に立ち尽くしていた。

そして手に持った灰熊グリズリーの腕を見て、なんだか悪いことをしてしまったような気になってため息をついた。


(余計なこと、しちゃったのかな……)


逃げるような足音がした方へと来てみると、誰かが灰熊グリズリーに襲われている最中だった。

何とか助けようと慌てて飛び出してみたものの、追い払おうとした灰熊グリズリーを思った以上に痛めつける結果となってしまった。

その様子があまり良くない印象を与えたのか、結局その男にも逃げられてしまった。


一応は助けたつもりだっただけに、レイは逃げられたことに軽く落ち込んでしまう。

男が去り際に放った言葉も、レイの中に小さなトゲのように残っていた。


「……まあ、もう人間じゃないしね」


軽く自嘲してはみたものの、気分は晴れなかった。

自分はそれほど、化け物じみた見た目をしているだろうか。


(片腕なのが気持ち悪いのかな?)


かつて自分の右腕があった場所に目をやる。

引きちぎった灰熊グリズリーの腕でも、返り血にまみれていることでもなく、レイはなぜか片腕であることを気にしていた。

かと言って、無くなった腕を元に戻す方法など、レイは聞いたこともなかった。


(王都の教会とかには、腕をくっつけられるくらい凄い魔法が使える人もいるのかな?)


何の気なしに、手に持った灰熊グリズリーの腕をあてがってみる。

こんなことをして、灰熊グリズリーの腕が肩に接続されるわけもない。


(というかこんな腕がついてたら、それこそ新種のモンスターか何かだと思われそう……)


そう思って腕を肩口から外そうとーー


「ぅわっ!?」


予想外の事に、驚いて持っていた灰熊グリズリーの腕から手を離してしまう。

急にその腕が動き出したように見えたのだ。

レイの手を離れた灰熊グリズリーの腕は地面にドサっと落ちーーなかった。


毛の生えた獣の巨腕は、まるで縫いつけたかのように、レイの肩口にぴったりとくっついてしまっていた。


「え!?な、なんで!?」


思わず左手で触ってみると、なんと右腕を触られた感触がある。

それどころか、右手を動かそうとすると思った通りに動く。

肘を曲げ伸ばししたり、手のひらを閉じたり開いたり、まるで最初からこの腕だったかのように自在に動かすことができた。


今や灰熊グリズリーの腕は、完全にレイの右腕として機能していた。


「ほ、ほんとくっついちゃった……」


自身の理解を超えた出来事に、レイは新しい自分の右腕をしげしげと眺める。

この体になってから、本当にわからない事だらけだった。

自分が知らないだけで、アンデッドとはこういった特性を持っているものなのだろうか。

誰かに聞いてみたかったが、人に会えないレイには確かめようのない事だった。


(でもこれで、ますます人に姿を見せられなくなっちゃったかな……)


はあ、と一人で深いため息をつく。

ため息をついたところで、ふと思う。

なぜ自分はまた落ち込んでいるのか。


人にもう会うことは出来ない。

そのことはわかっていたはずなのに、なぜ人に姿を見せられない体になったことを気にしているのか。

なぜ怖がれてしまった原因など考え、あまつさえそれを改善しようとしているのか。

なぜ迂闊にも姿を見せ、助けた後にもすぐその場を去らず、あの男に話しかけようとしたのか。


「……ああ、そっか」


それ(・・)に気づき、レイはため息まじりにつぶやく。


自分はたった一ヶ月で、こんなにも人恋しくなっていたのだ。

あわよくば、助けた人と言葉を交わしたいと考えていたのだ。

だからこそ、追われている人がいることに素早く反応し、助けようと思ったのだ。


なんのことはない。

自分は未だに、一人で生きていく決心ができていないのだ。


(僕って、ズルいやつだ)


自分が打算的な理由から行動を起こしたということに、レイは軽い自己嫌悪に陥る。

人のために行動しているようで、結局は自分のためにやったのだ。

行動は間違っていなかったかもしれないが、動機は不純だった。

この後に及んで一人になりきることもできないなんて、自分はなんと中途半端なのか。


「……帰ろ」


心にたまった疲れを吐き出すようにつぶやいて、レイは歩き出す。


途中で放り出した薪などの採取品を拾わないといけない。

そしたら真っ直ぐ本邸ホームに帰って、体を洗って、ご飯にしよう。

今日は早めに寝たいな。

そんなことをぼんやりと考える。


新しい右腕を軽く引きずりながら、レイは重い足取りで帰路についた。


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