予期せぬ目覚め
それは今までにない不思議な感覚だった。
自分が今、立っているのか寝ているのか分からない。
それどころか、体があるのかどうかもはっきりしない。
全身がどろどろの液体になったようで、自分の輪郭が自分で捉えられない。
まるで意識だけの存在になって、宙を漂っているかのようだった。
そのままどのくらいの時間が経っただろうか。
ゆっくりとだが、少しずつ体の感覚が戻ってくる。
最初にはっきりと感じたのは、頬に当たる土の感触だった。
それによって「ああ、自分は今うつ伏せに寝ているのだな」とおぼろげに理解する。
そして次に、自分の鼻の奥に当たる冷たい空気。
未だどろどろとした意識のまま、その空気を肺に取り込もうとゆっくりと吸い込んでみる。
まるで何日かぶりに空気に触れたかのようなピリピリとした感覚に、レイは思わずむせ込んだ。
「……ぅ、えほっ、ごほっ……!」
小さく何度か咳をしながら小さな呼吸を繰り返し、息を整える。
そして今度は体を動かして、ゆっくりと寝返りをうって仰向けになった。
ぼんやりした頭で瞼を開くと、目に入ったのは高い岩肌の天井にぽっかり開いた小さな穴。
周囲に明かりのようなものはなさそうだが、なぜか天井の穴が見える程度には薄っすらと明るい。
ここはどこだろう、自分は何をしていたのだったか。
辺りを見渡すために身体を起こそうとするが、支えになるはずのものがないためにバランスを崩して右肩から地面にぶつかる。
「ぁうっ」
まるで階段を踏み外した時のような感覚だった。
そのままレイは再び仰向けにゴロンと転がる。
自分は体を起こすことすらできなくなる程、長い間眠っていたのだろうか。
「……あっ!?」
そこでレイは気を失う前に自分の身に起こったことを思い出した。
グラン達に置き去りにされたこと、最初からそのつもりだったと告げられた時の絶望、巨灰熊に捕食される痛みと死の恐怖。
そして全身を強く打ち付けた最後の記憶までを一気に想起し、思わず身震いしてしまう。
恐る恐る首を捻って右肩を確認すると、やはりそこに腕はなかった。
ただ何故かすでに痛みはなく、血も止まっているようだ。
あれだけの傷が塞がっているということも不思議だったが、より大きな疑問で頭がいっぱいになる。
「僕、生きてる……?」
あれだけ血を流したはずなのに、生きている。
時間の感覚は曖昧だったが、血を流しただけでなく、かなりの高さから落下したのではなかったか。
仮にここに落ちた時まだ息があったとしても、あれだけ大きな傷口が自然に治るはずがない。
しかしこうして血が止まり、痛みも無くなっている。
(まだここが安全かも分かってないし、これは後で考えよう)
疑問は尽きないが、とにかく今は周囲の状況を確認して安全を確保しよう。
そう思い直すと、片腕でなんとか体を起こして周囲を見渡してみる。
不可解な状況であり、あれほどの経験をしたにも関わらずーーむしろそのお陰だろうかーー冷静な自分に、レイは内心で軽い驚きを感じていた。
レイが今いる場所は巨灰熊の住処よりも圧倒的に広い空間だった。
岩肌の色や漂う空気からして同じダンジョンだと思われたが、パーティで探索していたときには見つけられなかった場所だ。
人の手で作り上げるにはあまりにも巨大だが、自然にできた空間にしてはあまりにも壁の表面が滑らかだ。
全体としては巨大なドーム型をした空間で、レイが目を覚ました場所は壁際に近い場所だった。
反対側の壁までは優に500メートル以上はあるだろう。
天井の高さは高すぎてよくわからなかったが、レイがこれまでに見た、どの建物よりも高いだろうと思われた。
彼の目を最も引いたのは、このドームの中央付近一帯にある光景だ。
地震で崩れたのかドームの頂点にあたる部分は広く抜けており、そこから月の光が差し込んでいた。
そしてその下の地面には洞窟内には似つかわしくない、外の森と同じような樹木が立ち並んでいた。
更にこの場所にはどこかから水が流れ込んでいるようで、空間全体をくねるように横断する小さな川まで流れていた。
天井から落ちてきたものだろうか、岩もいくつか転がっている。
まるで誰かが意図的に、ダンジョンの中にミニチュアの林を作ったような光景だった。
洞窟内であるために、月に照らされたこの一帯は周囲と比べて特に明るく見えた。
天井からの月光は中央を流れる川やその周りに自生している植物を青白く照らしている。
そして川面から反射された光は、天井や壁にキラキラとした水面の模様を映し出している。
この空間全体が洞窟内の割に薄っすらと明るかったのは、天井の穴からの月の光や、川からの照り返しによるものらしい。
その幻想的とも言えるような美しい光景に、レイは思わず今の状況も忘れて見惚れてしまう。
「……うわぁ、きれい……」
しばらくその光景にぼうっとした後、はたと気づいて周囲にモンスターらしき影が見当たらないか慌てて確認する。
見たところ、樹々や岩の裏に潜んでいない限りはこの空間にいるのは自分だけのようだ。
まだ完全に安心できるわけはないが、すぐに襲ってきそうな存在が見当たらないことにひとまずほっとする。
そして月の光が照っていることから、今が夜だということに思い至る。
昼前にはこのダンジョンに入ったはずだから、少なくとも軽く半日は気を失っていたことになる。
そこで自分の腹がくぅ、となるのを聞いて、ダンジョンに入ってから何も食べていなかったことを思い出した。
(よくわからないけど、とにかく生きてるんだ。まずは何かお腹に入れよう)
ベルトから下げていたはずの革の水筒を探したが、モンスターに襲われた時に落としたのかなくなっていた。
武器や道具入れなどは残っていたので、装備をすべて失ったわけではないようだ。
仕方なく川の水を飲めないか確かめるために川の方へ向かうことにする。
片腕では立ち上がるのも歩くのも一苦労だった。
転ばないよう慎重に進み、月の光が差している場所に入る。
流れる水面に近づくと、遠くから眺めたときよりも一層輝いて見えた。
川の幅はまちまちだったが、狭くなっている所ならレイでも軽く飛び越えられそうな程度だった。
片腕を失ったばかりの今は危険なので試す気は起きなかったが。
岸に立って川面を覗き込んでみると水は川底が見えるくらいに透き通っており、飲んでも問題なさそうに思えた。
レイはその水を飲む前に、まず地面の泥などで汚れた自分の顔を軽く洗おうと身を屈めて手を伸ばす。
(あ……。右腕、もうないんだ……)
自分の前に現れたのが左腕だけだったことから、自分が片腕になってしまったことを再認識する。
軽く落ち込みながらも、なぜ血が止まったのだろうという疑問から、水面に映る千切れた腕の断面を観察してみることにする。
巨大な獣に荒々しく食いちぎられたはずの断面は、どういうわけか赤黒く薄い皮膚のようなもので塞がっていた。
恐る恐る表面を左手でつついてみたが、触られた感覚はほとんどない。
ただ自分の皮膚にしてはやけにぶよぶよした感触だと思った。
「これ、一体どうなってるんだろう……」
またも疑問が湧いてきたが、触れても痛みはないし、すぐに傷口は開いてしまうことはなさそうだ。
自分のような無学な人間が見てもわかることはないだろうと割り切って、とりあえず腹ごしらえをしてしまうことにする。
左手で軽く顔を洗ってから、川の水を少し口に含んでみる。
見た目通りの清潔な水のようで、色々と疲れや不安を感じていたレイにはとてもおいしく感じられた。
「ふぅ……」
水分を補給して一息つくと、更に食欲が湧いてきた。
ベルトに結わえ付けてあった麻袋から、今朝渡されたモロイモを一つ取り出す。
水筒は失くしてしまったが、これは落とさずに済んだようだ。
周囲の探索を始める際には、残りの持ち物も確認しておくべきだろう。
「ありがとう、おばさん。いただきます」
レイはその食料をくれた人物に小さく感謝の言葉を述べ、川の水でモロイモを軽く洗って表面の土を落とし、近くにあった樹の下に腰を下ろす。
そして道具入れから小さなナイフを取り出して皮を剥き、生のままモロイモを少しずつかじり始める。
やはり生だと少し渋くて食感もあまり良くないが、食べられないほどではない。
とりあえず今はこれで十分だろう。
ちびちびと芋をかじりながら、再び周囲をぐるりと見渡してみる。
ここまで歩いてくる途中にも確認したが、やはり樹や岩の陰にもなにも隠れていなかった。
ひとまずここで眠ってもなにかに襲われることはないだろう。
そして、ここから見た限りでは、歩いて出られそうな横穴は見あたらない。
何箇所か壁際に崩れたような跡があるので、その瓦礫を取り除けば出口が見つかるかもしれない。
月の光が差している自分の周りの様子もよく観察してみる。
この空間の壁際は苔が多少生えているくらいだが、この辺りには樹木と言える高さのものがいくらか立っている。
水源が近く陽の光が直接当たるので、植物にとって居心地が良い場所なのかもしれない。
天井に届くほどの高さの樹はないが、葉は青々としており枝もしっかりしているように見える。
ダンジョンの中に樹が生えているという話は聞いたことがなかったが、こんな場所があるなんて世界は広いんだな、などと呑気なことを思ってしまった。
食事を済ませると、レイは革の道具入れを枕にして樹の下に横になる。
肉体的な疲労はさほど感じていないが、すぐに活動を再開する気にはなれなかった。
地面に横になったまま天井から覗く月や流れていく雲を眺めて、今後のことを思う。
(これからどうしよう……)
まずは、生きてここから出られるかどうか。
そのためには、この空間から脱出するための出口を見つけることが第一の目標だ。
持ってきたモロイモはあまり多くないが、切り詰めれば二、三日はなんとかなるだろう。
できればそれまでの間に出口を見つけてここを出たい。
それ以上時間がかかりそうなら、この空間の中で食料を見つける必要がある。
そして生きてこのダンジョンを出られたとして、どうするのか。
ひとまずコルタナの街には戻りたいと思っているが、それからどうするか。
もしまたグラン達に出会ったらどうしよう。
自分がされたことはギルドに報告すべきなのだろうか。
腕を失くした自分をみて、マリアおばさんは何と言うだろう。
こんな状態でも、店で働くことを許してくれるだろうか。
そもそもこの傷口は、このままで大丈夫なのだろうか。
そのうち何かの拍子で傷口が開いてしまうのではないか。
この赤黒い皮膚が一体何なのか、分かる人はいるだろうか。
疑問は尽きなかったが、答えが出ないままに、ただ流れていく雲を見送ることしかできなかった。