後悔と死
地面に転がったままのレイに向かって、巨灰熊がゆっくりと歩み寄る。
部屋から早々に去っていったグラン達にはさほど興味を示さなかったらしく、未だ部屋に残っているレイに注意を向けているようだった。
もはや強い唸り声を上げることもしておらず、レイが逃げる様子もみせないためか急ぐ様子もない。
レイは地面に頬をつけたまま、ただ涙を流すことしかできなかった。
麻痺魔法によって身体がうまく動かないこともあったが、何より精神的なショックが大きかった。
せっかく人に頼られたと思ったのに。
これを機に自信をつけて、もっと頑張っていこうと思っていたのに。
やはり自分には冒険者などではなく、どこかの農地を耕しているのがお似合いだったのではないか。
おばさんの言うことを聞いて、店の手伝いでもしていればよかったのに。
どうして、自分はこんなところにいるのか。
後悔の念ばかりが後から後から湧いてきて、涙が止まらなかった。
いよいよ巨灰熊の巨体が目の前に迫ってきた。
巨灰熊はレイが抵抗する素振りを見せないためか、特に興奮した様子もなく右肩あたりの匂いをふんふんと嗅ぐ。
既に自分が「敵」ではなくただの「食糧」として見なされているという事実に絶望しかけながらも、レイは一瞬、このまま自分の匂いが気に入らずに無視してくれないだろうか、という淡い期待を抱く。
その直後。
レイの右腕に、深々と牙が突き立てられた。
「……っぁああああああああ!!!」
一瞬の間があってから、経験したことの無い凄まじい痛みが右腕から押し寄せる。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
痛みで何も考えられない。
麻痺魔法でうまく動かない体を無理やりよじらせて、痛みから逃れようともがく。
しかし巨灰熊は更に牙を深く突き立て、レイの腕に噛み付いたまま首を左右に振り、レイを振り回し始めた。
腕を食いちぎろうとしているのだ。
「ぃいあああぁやああ!!!やめ、やめて、やめぇええああ!!!」
彼の悲痛な泣き声などまるで意に介さない様子で、巨灰熊は更に深く噛みつき、更に首を激しく振ってレイを振り回す。
そしてゴリっというような嫌な音が頭の奥に響いた瞬間、重力から解放されたかのような浮遊感に身を包まれる。
自分が宙を舞っていると気づいて数瞬の後、レイは背中から壁に叩きつけられた。
あまりの勢いの強さに肺から息が全て吐き出され、何とか空気を取り込もうと喘ぎながら顔を上げる。
「う……ひゅっ……ぁ……?」
痛みと酸欠で焦点の定まらないレイの目に飛び込んできたのは、巨灰熊の口元からぶら下がった、見覚えのある腕だった。
それが何か理解すると同時に、先程の痛みを遥かに超えた激痛がレイを襲う。
「ぁあ、あああぁ、ぼく、ぼくのうぇ、う、っうぁぁああああ!!!」
あまりの苦痛に全身がガクガクとけいれんし、言葉にならない叫び声を上げ続ける。
腕を失ったレイの右の肩口からは、だくだくと容赦なく血が流れ出ていく。
そうして血が失われていくと同時に、レイは自分の体から急激に体温が失われていくのを感じた。
死ぬ。
独りで死ぬ。
このまま痛みにまみれて死ぬ。
自分一人ではこの巨大なモンスターから逃れられる可能性など皆無だ。
レイの中の絶望がより色濃くなり、痛みと恐怖で酷い吐き気がこみ上げてくる。
もう叫び声を上げる力も無くなってきた。
「ひぃ、ひっ、ひぃっ、ぁぐっ……」
しかしそれでもレイは懸命に体をよじり転がし、その場から離れようとする。
喘ぎ、血と涙と涎で顔と地面を汚し、芋虫のようにみっともなく這いつくばって、それでもなんとかこの化け物から逃れようと、痺れの残る身体に鞭を打って動く。
死にたくない。
まだ死にたくない。
もう立派な冒険者になんてなれなくていい。
ただ、生きていたい。
それだけを願い、自分の腕を咀嚼する獣からできるだけ距離を取ろうと足掻く。
地面に這いつくばったまま、レイはじりじりと壁際へ近づいていく。
出入り口からは遠ざかる方向だったが、そんなことを気にかける余裕はなかった。
とにかく目の前の化け物から離れたい一心で、文字通り体を引きずって動く。
そして壁際に到達した時。
レイは再び自分の体が宙に浮くのを感じた。
「ぇ……?」
ほとんど声を上げる間もなく、レイの視界から死体の山も、血痕だらけの岩壁も、巨灰熊もかき消える。
自分が穴に落ちたのだと理解した時には、もう完全に暗闇の中だった。
穴の中は入り口よりも幅が広くなっているようで、どこにもぶつからずにまっすぐに落ちていく。
どれだけの深さがあるのかわからないが、ひゅうひゅうと耳元で風の音がするのを聞きながら、レイは奇妙な安堵感に包まれていた。
強大なモンスターから逃れられたとはいえ、腕を失った右肩から流れ出る血を止める術はない。
これだけの量の血液が失われて助かるはずがない。
自分の死という運命を変えることは、もうできないだろう。
急激な体温の低下でぼやけた思考でそのことを理解するが、それでも不思議と穏やかな気持ちだった。
時間の感覚も曖昧になっていく中で、レイの脳裏には今までの記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
自分の生まれた家。自分の育った農村。自分の両親や兄弟たち。
初めて村から出た日のこと。初めて自分の装備を買った日のこと。
初めて冒険者の仕事をした日のこと。
そして、自分の最後の冒険のこと。
手ひどい裏切りで終わった、最後の冒険のことを。
痛みでぼやける頭で、彼は思った。
結局、自分には冒険者など分不相応だったのだ。
似合わない憧れなど、抱くべきではなかった。
自分のような人間は、分相応な場所で、ただ生きていくだけで十分幸福になれるはずだったのだ。
「できれば……もっと、自分らしく……ゆっくり……生きたかった、なぁ」
そうつぶやいた直後。
レイの体に強い衝撃が走る。
穴の底に到達して全身を強く打ち付けるのと同時に、彼の意識は完全に途切れた。
その後も荒々しく食いちぎられた腕の断面からは、大量の血が流れ出ていく。
それは止まることなく、地面を伝ってじわりじわりと広がっていった。
そして地面に着いてから数分経った頃。
レイの心臓は、永遠にその鼓動を止めた。