—第1章― 8月
腹が立つ程の熱気の蔓延した朝、私は目を覚ました。
「……暑い」
情けない第一声を漏らし、自室のドアをゆっくりと開け、廊下を挟んで正面にある空き部屋に入る。
この部屋は長らく誰も使用しておらず、以前の伯父によると不気味な部屋だとか。なんでも、窓際に置かれた水差しがおかしいらしい。
「ん、お水お水」
いつもの様に私は水差しを手に取り、それに口が付かないようにしながら水を飲んだ。綺麗で純粋な水を――
「………………ほんとにおかしい」
おかしいと認識出来たのは、この水差しで水を飲み始めて約15日目だった。
改めて、水差しを眺める。白磁器で作られており、小さく重量もさほど感じない。しかもかなり薄い。
試しに数回指で弾いてみると軽い音がした。しかし傷は付かなかった。
それから、水を飲み干してみた。すると、20秒も経たない内に水差しは水で満たされた。
「これほんとに水差し?それとも……」
私はまたぶつぶつと独り言を呟きながら考え始めた。まだ朝食を取っていないのだが、私の空腹感は好奇心には勝てなかったらしい。考え抜いた末、1つの、どうしようもなく幼稚で無根拠な可能性を見出した。
「魔法…………」
魔法。話だけは聞いたことがある。一部の、特別な力を持つ者だけが扱えるもの。
こんな奇妙な水差しにはうってつけのものだろう。
「んー、馬鹿馬鹿しいわね」
そこで私は考えるのを放棄し、1階の厨房に向かった。
人気の無い廊下、階段、その他用途不明な幾つかの部屋を通り過ぎ、厨房から続く食糧庫に入る。
この食糧庫はあまりにも広く、私はいつも入ってすぐの棚に置いてある紙袋を幾つか適当に引っ掴むだけにしている。食糧庫だから当然寒いし広いし、なにより薄暗いのだ。幼い頃にカンテラを頼りに少しだけ奥に進んだ事はあるが、結局怖くなって逃げ帰った。
「…………なんか、ちょっと重いわね。じゃがいもでも詰まってるのかしら」
数日に1度、紙袋の中身が偏る事がある。干し肉に偏った日はたまに舌打ちをして持っていくのだが、なぜか厨房に戻る頃には中身が入れ替えられている時がある。
「まさか本当にまほ…………」
そこまで口にして、寒気を感じたので引き返した。
今日の成果は、ナニカの干し肉(恐らく牛肉)、葉物野菜、紙パックのミルク、コーンフレーク等に加え、クッションの如く底に敷かれたじゃがいも達。
誰がこの中身にしたのかは知らないが、実行犯は1度じゃがいもの重量を知るべきだろう。このせいで今日は2袋しか運べなかった。
「今日も今日とて暑いし、朝はフレークで、お昼は……野菜スープかな。夜は残り物で済ませよっと」
今日は8月2日。ようやく私の「夏休み」が始まる。嫌な事から解放された、自由気ままな夏休み。
何をしようかと考えながら、コーンフレークを盛った器にミルクを注いだ。
注ぎ終わる寸前、外から人の声が聞こえた。
その後食事をしている間も、時折ではあるが同じような声が聞こえた。
子供の様な声がしているが、そもそもなぜ人の声が聞こえるのだろうか。
カーテンを閉め切ってはいるが、ここは森の中にある赤レンガ造りの館だ。
森は街から離れているため滅多に人は来ないし、ここは森の文字通り中央にあるのだから館に来る人もいないはず。
声の主の確認だけでもしようと、私は玄関の近くの窓に駆け寄り、カーテンを勢いよく開けた。
そして私は、目の前の光景に唖然とした。
「……………………は?なに、これ」
そこには、なだらかな草原が広がっていた。遠方には小さな家が数件見えるが、その他にあるものといえばちょっとした丘ぐらいだった。
それらをぼんやりと眺めた後、急いで反対側の窓へ駆け寄りカーテンを開けた。
「う……み……え?」
広がっているのは大海原。処分にはもってこいだが、なぜ海が?ここは森のはずだ。
必死で思考を巡らせていると、不意に玄関がノックされた。
慎重にドアを開けると、2人の少女が立っていた。
長い銀髪に赤い瞳の少女と、長い金髪に青い瞳の少女。2人共身長から察するに13歳前後だろうか。
「…………どちら様?」
先程の声の主達なのだろうかと思いつつ、至極当然な質問をした。
すると、銀髪の少女が躊躇う事なく自己紹介を始めた。
「はじめまして。私は皐月。で、隣にいるのが水無月。双子なの。貴女は?」
「…………葉月。ねぇ、ここは何処なの?」
不安の籠った問いかけに、皐月と名乗った少女はきょとんとした顔を浮かべた。
「? 島だよ」
「…………島の名称は?」
「知らない」
「知らないって……貴女達はこの島に住んでるの?」
「ええ、そうよ」
それがなにか?と言わんばかりの返答に半ば苛立ちを覚えた。
「自分が住んでる島の名称を知らないって言うの?」
「だ、だって……」
皐月に困惑の色が見られた。まさか本当に知らないのだろうか。
どうしたものかと悩んでいると、今度はもう片方の水無月が喋り出した。
「貴女はいつここに来たの?」
「知らないわよそんなの」
苛立ちながら乱暴に返すと、更に質問が。
「もともとは何処にいたの?」
「……ラービャって街の近くの森」
「ふぅん。ねぇ、元いたとこに戻りたい?」
「それは…………」
想定外の問に言葉が出ない。
それをどう捉えたのかは定かではないが、水無月は黙りこくった皐月を一瞥した後、笑顔でこちらに向き直った。
そして。
「はじめまして、葉月。暦島へようこそ。歓迎するわ」
その唐突な歓迎に、私は絶句する他なかった。