―序章― 夏の始まりに
自宅にある地下室で、ただ私は立っていた。
むせかえるような血の匂いがする。
先ほど殴られた頬がヒリヒリと痛む。
怒りと恐怖で手足が震えている。
弱々しい右手で握っているのは、今まで毎日研いでいた銀色のナイフ。今では私の体同様、返り血で綺麗に赤く染まっている。そう、目の前にある男の死体の血で。
高まった胸の鼓動が治まらない。私の選択は間違っていない、そんな確証があるのでこの惨状に至るまでの過程や結果にはどうとも思わない。問題は、これからこの死体をどうするかだ。
辺りを見回すと、昔、父が水を入れるのに使っていたと言っていた、錆びたドラム缶が3つ、隅に置かれていた。
「ドラム缶風呂にでも使えそうなサイズね」
そんな独り言を呟いて、ドラム缶に歩み寄る。
ドラム缶の内2つは蓋がされていて、開けるにはなにか道具が必要そうだ。幸いにも1つだけ蓋のされていないドラム缶があったので、それに死体を放り込んだ。小柄な私には少々重労働ではあったが、特にアクシデントは無く案外すんなりと済んだ。
「さて……」
また独り言。友人が言うには、昔からの癖のようだ。
ナイフを強く握りしめながらドアを開け、階段を上り、狭く薄暗い地下室を後にした。
階段を上り終え、そのまま浴室へ向かった。
服を脱衣籠に荒く投げ入れ、ナイフを洗面台に置き、シャワーを浴びる。その後、あらかじめ脱衣所に置いておいた服を着れば完璧だろう。
シャワーを浴びながら、先ほどの出来事を思い返してみようとした。
「…………はあ」
思い返す気力すら、今の私には無いようだ。
疲れた。寝たい。温かいベッドで横になりたい。何かを食べる気も、何かを飲む気も起きない。
ただ、休みたい。それだけしか頭になかった。
血と汗を洗い流し、スカートを着るどころか下着を着ける事すら億劫なのでパーカーだけを羽織り脱衣所から出て、重い足取りで自室に向かいドアを開けた。
食べかけのパンや大好きな本達を無視して顔からベッドに倒れこんだ。
睡眠は良い。嫌な事を忘れてしまえるから。寝起きが悪いのだけが残念だ。
「――おやすみ」
枕に顔を埋め、誰に言うわけでもなくただそう呟き、無尽蔵に込み上げてくる睡眠欲求に抗う事無く従い、私は深い眠りについた。