人魚とセイレーンと虚像の王子
『海洋深層珍獣研究室特別観察保護対象区域』で耳障りな音が鳴り響いたのは、明け方の事だった。
「なっ、何事だ!?」
研究室で栄養ドリンク片手に呑気に趣味のDVDを眺めていた若き研究員の太田道夫と飯沼晶は慌ててモニターを切り替えた。
カメラの前を猛然と大きな魚が横切っていく。
はがれた鱗が海水に煌いてキレイなのも一瞬、カメラの前が水泡で覆われる。
耳障りな音に、甲高い怒鳴り声が加わる。
「おっ、おい、これはまずいぞ、トラブル発生だ! 飯沼、お前は音声を解析、俺は映像解析をする」
二人が慌ててそれぞれのパソコンを叩く。
研究室内に設置されている大きなモニターは、下半身が魚の人間が人間の少女に掴みかかっていくところを映している。
「あああ、やっぱり!」
互いに何か罵詈雑言と思われるものを喚き散らしながら、悪鬼阿修羅の形相で掴み合う二体の生き物。
太田と飯沼には、
「がうー!」
「ぎゃーす!」
「きぃぃ!」
としかわからないのだが、最新式のソフトはそれらを忠実に翻訳して読み上げてくれる。
人魚姫「この音痴!」
セイレーン「なんですって!?」
人魚姫「へたくそ! 騒音! 迷惑! 歌うのやめろ!」
セイレーン「この美しい旋律が理解できないなんて、アンタ脳味噌まで筋肉なんじゃないの?」
人魚姫、右手でセイレーンの頬を打つ
セイレーン、人魚姫の髪を掴む
セイレーン「あんた、暴走泳ぎ手で群れから弾かれたんでしょ。大人しくしてな」
人魚姫、再びセイレーンを引っ叩く
セイレーン、反撃
人魚姫「お前、有り得ないほどに音痴で行き交う船や近所の人から苦情が来て、群れから追い出された。二度と歌うな」
セイレーン、人魚姫にとびかかる
人魚姫、それを交わして拳をお見舞い
スピーカーから流れてくるのは、格闘技の実況中継のような文言だ。
研究室内に、二人分の重たいため息が満ちた。
「太田、もういい……音声を切ってくれ」
「ああ……」
ぶつん、と音が途切れ、研究室内には静寂が戻った。モニターの中では、海洋深層珍獣の取っ組み合いが続いている。
セイレーンが陸上へ逃げれば人魚が海へ引っ張り込み、人魚が海へ逃げればセイレーンが陸へ引っ張り上げようとする。
陸と海を使った派手な喧嘩だ。
「伝説とは、いい加減なものだよなぁ……現実は残酷だよ」
ぽつん、と太田が溢し、飯沼が苦笑で同意した。
『海洋深層珍獣研究室特別観察保護対象区域』には伝説上の生き物とされている『人魚』と『セイレーン』が一緒に暮らしている。
一緒に暮らしているというより、人魚の群れからはみ出した『問題児』とセイレーン一族からはぐれた『問題児』が、一つ所に纏められたと言っていい。
「なぁ、飯沼」
「ん?」
「俺は常々、疑問に思ってるんだ。どうして彼女たちを、俺たちが保護しなけりゃならんのだ?」
「どう見ても、保護などいらん、逞しい生き物だな」
「ああ。いつまでこんなことを続けるんだ?」
「……お上が終了というまで」
「俺もお前も、死ぬまでここに閉じ込められるぞ」
「それは勘弁、だな……」
二人の研究員はまだ若い。
一応、国と大学と研究所が共同ですすめている国家プロジェクトの一部である。
近年相次いで発見された「海洋深層珍獣」を保護し
国家プロジェクトである以上、人魚とセイレーンのキャットファイトをレポートにまとめて報告しなければならないし、真面目に学会で発表するのも太田と飯沼の仕事だ。
「で? 太田、この喧嘩。どうやって止める?」
「いつもと同じだ」
まもなく、『海洋深層珍獣研究室特別観察保護対象区域』に若い男二人の映像が流れた。「白馬の王子サマ」というやつだ。
彼女たちが恋い焦がれている王子サマ。
もちろん、飯沼と太田が丹精込めて作り上げた「虚像」だ。
セイレーンの好みを調査し、人魚姫の好みを調査し、丹精込めて作り上げた完璧な王子様。
王子様の映像が流れれば、彼女たちはそれぞれの王子様に夢中になる。喧嘩を強制的に終わらせるには、これが一番だ。
「決して叶わぬ恋、触れてもらえぬ恋、か。ちょっと気の毒だな……」
「なに、虚像だと知られなきゃ構わんだろう。さっきの喧嘩を文字に起こしたぞ。飯沼のぶんはこっちな」
「……これを大勢の研究者の前で読むのか。気が重いな……」
「仕方がない、これが俺たちの仕事だ」
飯沼も太田も知らない。
自分たちが、『人間の男と彼女たちの間で恋愛が成立するかどうか』という国家プロジェクトの研究対象になっていることを――。