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2.命綱



「──今、あちらで何が起こっているか、見たいか?」

 幻獣の言葉に、わたしは弾かれたように顔を上げて、振り向いた。

 たくさんの白い明かりがふわふわと漂っている闇の中で、燐光を発した幻獣が、まったく変わらない無表情をこちらに向けている。

「あちら、って」

「この狭間の外。君が開けた五十回目の扉の中、と言えばいいのか」

 わたしは大きく動揺した。

 小鳥たちの羽音を耳に入れながら、しばらくの逡巡の末に、問い返した。

「……見られるの?」

「見るだけならな。もちろん、こちらの声はあちらに届かないし、あちらがこちらの存在に気づくこともない。あちらで何が起きていようと、この状態の君が介入することも関与することも不可能、ということだ。それを判った上で、見るか、と聞いている」

「…………」

 たとえば、あの世界が今まさに滅亡の危機に瀕していたとしても、トウイがどんな窮地に陥っていたとしても。

 今のわたしには何も出来ない。声もかけられなければ、手出しも出来ない。

 ただ、見ているだけ。

 その覚悟はあるか──と、幻獣は言っているのだ。

「……うん。見る」

 両手をぎゅっと握り合わせて、わたしは返事をした。

 今、あの場所で何が起きているのか。トウイや、他のみんなはどうしているのか。ニーヴァの混乱はどこまで広がったのか。もう自分ではどうにもならなくなったとしても、提示された確認手段を振り払って逃げることは許されない。

 最後まで、見届けないと。

 幻獣が両の掌を広げた。十センチくらいの空間を包むような形をとる。その手の間、何もないただの闇から、小さな光がぽつんと生じた。その光が徐々に膨らみ、球体になっていく。

 次第に大きくなる光の球体にじっと視線を据えつけ、わたしは組み合わせた手を口許にまで持っていった。

 自分では意識していなかったけれど、それは「祈り」のポーズによく似ていた。

 もう何にも願わないし祈らないと思っていたのに、それでもやっぱり、どうしてもそうせずにはいられなかった。


 ……わたしが開いた五十回目の扉。今度こそ、正しい道へと通じていますように。


 球体は、地球儀くらいのサイズになったところで、膨張を止めた。その中に、ぼんやりと誰かの姿が映っているのが見えた。

 赤茶の髪の誰か──あれは。

 トウイだ、とほっとした。

 彼はどこかの室内にいるらしかった。未だ王ノ宮の兵の制服を身につけているけれど、怪我をしている様子はない。

 ちゃんと生きてる、大丈夫、と安堵したのは一瞬で、すぐに気がついた。

 球体の中にいるトウイは、床に手をついて苦しそうにしている。どうしたんだろう。顔色も、紙のように白い。あんなにも震えて。トウイ、何があったの?

 幻獣が作り出した球体は、もとの世界のテレビによく似ていた。あちらとこちらは完全に隔たっていて、その中で何が起きていようと、こちら側では本当に、ただ見ていることしか出来ないのだ。

 球体が、トウイの周りを映し出す。彼の傍らのベッドで、血の気のない顔で横たわっているのはわたし。その横には神獣の剣が置かれてある。ここは一体どこなのか。他にベッドが二つ並んでいるけれど、女性の私物らしきものがちらほらと見えて、宿屋のようにも思えなかった。

 机と、椅子。椅子に座っているのは──

「神獣?!」

 愕然として、大きな声を上げた。

 いつものふかふかの白くて丸い椅子ではなく、質素な木製の椅子の上、折った両足ごと乗せてちんまりと座り、ニコニコと笑っている子供。

 神獣がどうしてトウイの前に出てきたのか。それは絶対にわたしにとって歓迎すべき事態ではないに決まっている。それだけは確信できる。

 神獣は楽しげに口を動かしていた。何かを喋っている。球体に顔を寄せて耳を澄ますと、あの甲高い声が聞こえた。

「道はふたつだ。キミが死んで守護人を助けるか。または守護人を死なせてキミが生き延びるか」

 わたしは息を呑んだ。

「──さあ、選びなよ」




「あんた、なに言ってんの?!」

 わたしは逆上して球体に向かって怒鳴った。それだけじゃなく、あの細い首を今度こそ掴んで捻りつぶしてやろうと、勢いよく手も出した。その手は、虚しく球体を通過して、そのまま空を突っ切っただけだったけれど。

「あちらに介入することも関与することも不可能だ、と言ったはずだが」

 冷ややかな目で、幻獣がわたしを見る。

「生と死の狭間に入った以上、君はもう後戻り出来ない。君に出来るのは、ただひとつの出口──死に向かって進むか、あるいは、生者でも死者でもない半端な存在として、ここに留まるか。そのどちらかだ」

 死ぬか。

 狭間に留まるか。

「だから、わたしは」

「しかし、君はまだ死んではいない。それも事実。もしも今、あの子供が自らの死を選べば、君は強制的に、肉体を伴って世界と世界の狭間に落とされる。決して抗えない。それが契約だからだ」

「け……契、約?」

「あれと君が交わした契約。契約を交わしたその瞬間から、君の魂はあれの支配下にある」

 100日ルールのゲーム。

 ──あれが、「神」と呼ばれるものと交わした、契約。

 ぞくりとした悪寒に震えた。改めて、自分の罪の深さ重さを思い知る。いくら姿は子供でも、相手は、決して人の手には遠く及ばない、恐ろしいまでに強大で、不気味な存在であったのだ。

「世界と世界の狭間に落とされた君が、もう一度扉を開けることを選べば、肉体の時間が戻り、負った傷も体内に入った毒も消える。君もよく知っていることと思うが」

「知って……知ってる、けど、でも」


 こんなことになるなんて、考えもしなかった。


 わたしはその場にへたり込むようにしてうずくまり、膝頭に顔を押しつけた。後悔と焦燥で頭の中が軋みそうだ。自分の馬鹿さ加減に胸を掻きむしりたいほどだった。

 運命がまだ、「トウイの死」に向かって進んでいるなんて。今日が99日目、まだあと一日残っている。わたしの命が完全に消えてしまわない限り、ゲームは有効、そういうことなの?

 今度こそ、今度こそトウイは助かると思っていたのに!

 しゃくり上げながら、頭を持ち上げた。目線を動かし、狭間の出口である白い光を見る。

 ──今すぐ、あそこを通れば、間に合うだろうか。

 ふらりと立ち上がる。そのわたしの顔の前で、白い鳥が行く手を遮るようにパタパタと羽ばたいた。シュゴサマ、とサリナさんの声が優しく引き留める。

「……だ、って。だって、サリナさん」

 早くしないと。わたしが死ぬか、トウイが死ぬか。その二つの選択肢を突きつけられて、トウイがどちらを取るかはもう判りきっている。これまでの扉の中で、彼はいつだって、自分の命よりも他人の命を優先させてきた。

 右肩にちょこんと降りた鳥が、濡れた頬を嘴で軽くつついた。くりくりとした灰色の瞳が、わたしの顔を覗き込む。しょうがないなあ、シイナさま、と楽しそうに言う時の、ニコそのままに。

「だけど、ニコ」

 トウイを死なせたくないの。どうしても、どうしても、嫌なの。もう扉は開けたくないの。扉を開けた先にいる、他のトウイでは駄目なの。


 わたしは、あのトウイ(・・・・・)に、生きていて欲しいの。


 もう一羽の鳥が、左肩に止まる。その鳥は、「ノゾミ」と最初のトウイの声でわたしを呼んでから、球体に顔を向けた。

 いいから、見てごらん、というように。

「…………」

 わたしはおそるおそる、そこに視線を戻した。

 球体の中では、床に手をついたまま動かないトウイと、椅子に座って悠々とした態度でそれを眺める神獣の姿が映っている。

 じっと下を向いているトウイの表情は見えないけれど、神獣は、彼の口からどちらの答えが出てくるか、もうすっかり判っているようだった。

「そんなに考えることはないんじゃない? 平気さ、次の扉を開ければ、そこにはちゃんとキミがいる。守護人はまたキミと出会い、ともに時間を過ごしていく。守護人が死んでしまえばこのゲームはそこでお終いだけど、キミが死ぬ限り、ゲームは継続する。そうやって、永劫、守護人は輪の中を巡り続ける。なぜならそれが、神獣の守護人になった彼女の、『運命』であるからさ」

 あはははは! という神獣の笑い声に、下を向いているトウイの頭がピクリと揺れた。

 わたしも茫然と立ち尽くし、神獣の言葉を聞いていた。


 それが、わたしの運命?

 進んでは戻り、やり直しを繰り返して、永遠に閉じられた輪の中を廻り続けるのが?


「……いや……!」

 両手で頭を抱えて呻く。身体の芯からの恐怖に捉われた。足ががくがくと震えて止まらない。いや、いや、いやだ。

 ──そんな運命を背負って、わたしにこれからも生き続けろと?

「運命だと?」

 今にも喉から悲鳴が放たれようとした瞬間、トウイのその声が耳に入った。

 球体の中、彼は顔を上げていた。鋭い視線が、まっすぐに神獣の目を射抜く。

「ふざけんな」

 強い光を放つ赤茶の瞳で、トウイはきっぱりと言った。



          ***



 神獣はクスクス笑いながらトウイを見返した。

「あれ、怒ったの? でもボクは本当のことしか言っていないと思うけど。運命とは、人間の意志を超越したところで定められたものだ。キミに死が運命づけられているようにね。守護人が四十九回もやり直しても、その運命を覆すことは叶わなかった。五十回目も、こうしてきちんとキミの死に向かって、運命は動いている。そして守護人にはそれを止める手立てがない。そうじゃないかい?」

「まだ、五十回目は終わってないぜ」

「ということは、キミ、守護人をこのまま見捨てて、自分が生き延びる道を選ぶのかい? まあ、守護人はそのほうが喜ぶかもしれないけど。これ以上罪を犯さずに済むんだからね。そうやって、キミは彼女を救った気にもなれる、というわけかな。死んだ人間が喜ぶ悲しむって、キミのお得意の偽善だよね。死者を口実にするのは生者の特権ではあるけれど、それって要するに責任の押しつけじゃないの? キミはこの先も、そうやって自分を欺きながら、ずっと抜け殻のようにして生きていくのかなあ」

 あははは! と甲高い笑い声が響く。

 トウイは口を結んで神獣を睨み、けれど、感情的に言い返したりはせずに、小さなため息をついた。

 ゆっくりと立ち上がり、改めて、神獣と目を合わせる。

「──俺はさ」

 静かで落ち着いた声だった。その目には、どこか憐れみめいた色が浮かんでいる。

「神獣ってやつは、過去も未来も見通せる、高潔で賢い獣、って聞いて育ったよ」

「それは人間の勝手な思い込みというものさ。人はそうやって、他のものに自分の『そうであって欲しい』姿を押しつけて、それで満足してしまう愚かな生き物だ」

「確かに、人は愚かなのかもな。俺だって、この旅でイヤというほど思い知った」

「そうとも。キミも、守護人も、また愚かだ」

「でも」

 トウイは、神獣の挑発にまったく取り合おうとしなかった。


「お前だって愚かだよ」


 神獣の笑いが止まった。唇の端が吊り上がった形のまま、黄金色の瞳にすっと冷たいものが宿る。

「……ボクが?」

「そうさ。なんでも知ってる、なんでもわかってる、なんて言うわりに、肝心なことは何ひとつ知っちゃいないし、わかっちゃいない」

 言葉を紡ぎながら、トウイはちらりと傍らのベッドへと目をやった。

「なにが駒だ。お前にとってはそうでも、シイナにとってはそうじゃなかった。彼女はいつだって、身を振り絞るようにして喪失を悲しんでいた。それはどうしてだ? 人を愛し、慈しむ心があるからじゃないのか? お前にはそれが理解できないんだろ。お前自身が、それを持っていないから──喜怒哀楽の感情がないのは、お前にそもそも『心』がないからだ。そうだろう? 人は人のために、喜び、怒り、悲しみ、楽しむんだ。そしてたまに、誤った道を進んでしまう。人間は愚かなのかもしれないが、なぜ愚かな過ちを犯すのか、その根本的な理由を理解できないお前もまた、愚かなんだよ」

「心なんて、ボクは、そんなもの」

「必要ない、か? だったらどうしてお前はこんな風に人間に関わろうとする? お前がしていることはまるで、神獣の守護人という存在を使って、人の心ってのはどんなものかと知ろうとしているみたいだ。人間は愚かで浅ましい──そう思うのなら、幻獣のように何もしないで傍観に徹していればよかったのに」

「……ボクは、アレとは違うんだ」

「人の欲、人の気持ち、人の心」

 神獣の反論を無視して、トウイは独り言のように呟いた。

「結局、お前は口だけなんだ。シイナのほうが、ずっとよくわかってた。それらは確かに浅ましく、身勝手で、汚いものでもあるかもしれないけど」

 言いながら、彼の足が一歩、横に動いた。

「──でも、同時に、尊くて、献身的で、綺麗なものでもあるってこと。大事な誰かに笑って欲しいと願う欲、苦境にあっても誰かに手を差し伸べる優しい気持ち、自分ではない誰かを愛しいと思う心、そういうのだって人間は備えているって、シイナはちゃんと知ってたよ。善と悪だけでは分けられない。そういう複雑な両面を内包する、それが人間だってな」

「それはキミの一方的な見方だね」

「四十九の扉を見て、五十回目のこの扉では、俺はいつも彼女と一緒にいたんだぜ。ずっと見てきた。それこそが俺にとっての真実だ。話して、感じて、触れ合って、そうやって、人は人を知るんだ」

 トウイの顔が神獣から離れ、ベッドに向けられる。

 その上で、神獣の剣が、ほのかに光を放っていた。

「……俺の知るシイナは、いつもいつも、汗を流し、血を流し、地面に這いつくばってでも、前に進もうとしてた。いろんなものを失って、傷ついて、苦しんで、それでも逃げずに顔を上げて、震える手で剣を取り、自ら戦っていた。イヤだったろうさ。つらかったに決まってる。それでも止まらなかったのはどうしてだ? 泣いて、叫んで、倒れそうになっても、歯を食いしばって、立ち上がろうとしていたのは、なんのためだ?」

 トウイの手がベッドへと伸びた。

 神獣の剣を掴んだ途端、光がより一層輝きを増した。


 ──共鳴している。


「生きて欲しい。それだけを、望んでいたからだ。そうだろ?」

 生きて。

 ただ、それだけを。

「それが罪だなんて思わない。そんなわけがない。神よりも、世界の管理者よりも、俺はシイナのほうを信じる。だから俺は生きる。シイナにも、生きて欲しいと願う。──守護人が死ぬか、俺が死ぬか、どちらかを選べ、と言ったな? これが答えだ」

 鞘から神獣の剣が引き出される。刀身から、眩いほどの白光が溢れだした。



俺はどちらも選ばない(・・・・・・・・・・)



 神獣が驚いたように目を見開く。

 バカな、と口が動いた。

「閉じた輪の中を永久に巡り続けるのが神獣の守護人の運命だというのなら、俺がその輪を断ち切ってやる。永遠はここで終わりだ。シイナの運命は、俺が変える!」

 常に神獣の口許にへばりついていた笑いが剥げ落ち、その顔が苦しげに歪んだ。

「俺はもう、あの子を一人にはしない!」

 トウイが神獣の剣をまっすぐ神獣に向ける。

「失せろ、神獣!!」

 その瞬間、強烈な光輝が迸った。



         ***



 球体から、幾筋もの激しい閃光が一気に放出された。

 狭間の闇が光に満たされ、あまりの眩しさに、目を閉じる。ぎゅっとくっつけていた瞼をそろそろと開けてみると、そこはまた再び何もない暗闇に戻っていた。

 球体も消えている。

「な……なに?」

 わたしは混乱して、あたりを見回した。ここは生と死の狭間。いくつもの白い明かりが浮いているのもそのままだ。出口である白い光も──

 ふたつ。

「え?」

 増えている。

 生から死へは一方通行。出口はひとつだけ、ではなかったのか。さっきまで確かにひとつしかなかった白い光の出口が、反対側にも、もうひとつ。

 ──あれは、神獣の剣の輝き?



「あれが、戻りの出口(・・・・・)

 幻獣が静かな口調で言った。



「も、戻りの、出口?」

 わたしはぽかんとした。

 戻り?

 ……だって、生から死へは不可逆で、後戻りは不可能だと。

「あの剣は僕の牙で出来ている、と言っただろう。『生命を司る』僕の牙、だ。よって持ち主の生命力、生きる意志に共鳴して、真の力を発揮する。それを君たちは、神威と呼ぶのかもしれないが。生命を無にしてしまう力、そしてまた、生と死の狭間に、本来あるはずのない生への出口を作り出す力だ。あれが世界と世界の狭間に、あるべきではない運命の扉を作ってしまったように」

「生命力と、生きる意志……」

「恐怖ではなく、執着でもない。自分も生き、また他者も生かそうという、揺るぎない強靭な心だ。それを持った者のみが、神獣の剣を使いこなせる。だから自らを犠牲にして他者を生かそうとする神獣の守護人には、決してあの力は発現させられない。……あれは油断したな。トウイがそこまでの強さを得ているとは考えもしなかったか。人間を見くびりすぎるからだ」

 独り言のような言い方だったけれど、はじめて、幻獣がトウイの名をちゃんと呼んだ。

「神獣は、どうなったの」

 あの時神獣は、勢いよく広がり押し寄せていく白光に呑み込まれて、消えてしまったように見えた。もしかしてあのまま、シキの森の妖獣のように……

「あれがその程度で滅されるか」

 幻獣が、ふん、と木で鼻を括ったように言った。

「神ノ宮に戻っただけだ。しかし、かなりの痛手は負った。僕とあれの力は互いに拮抗し、相殺するから、しばらくは力も使えない」

 少し考えるように口を噤む。

 それから幻獣は、わたしのほうを見た。

「……それで、どうする」

「ど、どうする、って?」

 わたしは間抜けな反問をした。さっきから、信じられないことの連続で頭が飽和状態だ。まともにものが考えられない。

「あの無茶な子供のせいで、理が乱れ、この狭間に存在するはずのない『戻りの出口』が開いた。まったく迷惑な話だが、どちらの出口を通るのかは、君が選べる」

「…………」

 一瞬、思考が止まった。

 生か、死か。

 どちらかを、選ぶ?

「戻りの出口はすぐに閉じるぞ。決めるのなら急げ」

 わたしは二つの白い光に目をやった。三羽の鳥が舞うほうにある光は死へ、幻獣のいる反対側にある光は生へと通じている。

 ふたつの道のうちの、ひとつ。

 身体が震えた。

 幻獣が、正面からわたしを見据える。


「──さあ、選ぶんだ」


 わたしは唇を噛みしめ、三羽の白い鳥のほうを向いた。

 サリナさん、ニコ、最初のトウイ。

 ……わたしは、また、見捨てるの?

 ぽろりと涙の粒が目から落ちた。一度出はじめたら、どんどん零れて止まらない。

「ごめん、なさい」

 掠れた声が口から洩れる。同時に、小さく、けれど確実に、一歩後ずさった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 自分の口からは、同じ言葉しか出てこない。他に何を言っていいのか判らなかった。ここにあるのは実体ではないのに、胸が張り裂かれるように痛かった。

「わ……わたし、そっちには、行けない」

 ごめんなさい。許してもらえるのなら、みんなと一緒に、行きたかったけど。でも、わたしは気づいてしまった。

 今の自分の望みに。

 笑って欲しいと言ってくれた。二人で並んで赤い月を眺めた。ずっとそばにいると、約束してくれた。生きると、そう言ってくれた。

 トウイはトウイ。けれど、今までのトウイとは違うトウイ。あの扉の中にしかいない、たった一人のトウイ。

「ごめ……」

 喉が詰まってそれ以上の言葉が出せなかった。両手で顔を覆って、下を向く。こんな時でも、自分のことしか考えられない。なんて──勝手な。なんて、浅ましい。でも、それでも。

 あの場所に、帰りたい。

 三羽は、パタパタと闇を飛び回った。そうして白い鳥たちが、光の出口へ──「死」のほうの出口へと向かっていくのを、わたしは泣きながら見ているしかなかった。

 出口の手前で、三羽の鳥はこちらを向いた。


「シイナサマ、マタネ(・・・)!」


 ニコの声が……笑いを含んだ明るい声が、弾むようにそう言った。

 さよなら、ではなく。

 またね、と。

 どっと涙が噴き出した。

「っ、……う、ん、うん」

 何度も頷く。視界がぐしゃりと滲んで歪んだ。

「──またね!」

 泣き崩れて、わたしもそう返した。

 大きく手を振った。

 三羽の姿が消えるまで、振り続けた。

 今度会う時、いつかどこかで会う時は、必ず笑えるように。

 笑って、胸を張れるように。

 わたし、頑張るから。

 踵を返し、走り出す。視界が揺れてぼやけても、前方にある白い光はちゃんと見えた。あの先に、トウイがいる。

 光を目指して、まっしぐらに駆けた。


 今から帰るよ、トウイ!





         ***



 目を開けると、真っ先に視界に入ったのは、心配そうなトウイの顔だった。

 重たい手を、苦労して持ち上げる。トウイがすぐにその手を取って、ぐっと自分のほうに引き寄せた。

 痛みとだるさの残る身体は、ちっとも自分の思う通りに動かせない。苦しいし、気持ち悪いし、頭だってずきずきする。この地にあるって、本当に大変なことだ。苦難の連続だ。

 けれど。

 トウイが覆い被さるようにして、わたしを抱きしめた。傷に障らないように、でも、思いきり、力いっぱい。わたしも腕を廻し、しがみつくようにしてトウイを抱き返した。

 背中にある手は力強くて温かい。この感触を得られるのなら、きっと、つらいことも乗り越えられると、そう思えた。

 目の前にある胸に頬をすりつける。トウイの顎がわたしの頭のてっぺんに押しつけられる。確かめるように、強く。体温と鼓動がすぐ近くにあることに、心が満たされていく。

 押し殺すような熱い吐息が耳に落とされた。

「……一緒に、生きよう」

 トウイの言葉に、うん、と返事をした。





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