5.99日目
ガクンと前方に大きく身体が傾いだ。
その動きで意識が現実に引き戻された。何もない闇一色の世界から、色も音も匂いもある世界へと。自分が触れている床の硬い感触を確かめながら、俺は空気を貪るように吸い込んで喘いだ。
がんがんと激しく打ちたてる心臓の音が、頭の中にまで響く。それがちゃんと動いていることに、とてつもなく安堵した。全身の震えはまるで収まらず、滴り落ちる汗で視界がはっきりしない。
俺は額を床にくっつけて、襲い来る苦痛に必死で耐えた。
──目を閉じると、ついさっき見たばかりの光景がありありと甦る。憎悪を露わにしたカントスの民の顔、顔、顔。呪いの言葉を吐き散らしながら、彼らの手にした武器が一斉に振り下ろされる。太い棒が「俺」の頭を直撃し、頭蓋骨が砕ける音、何かがぐしゃりと潰れる音を聞いたのが最後だった。
ぐ、と腹の奥から込み上げてくるものをこらえるため、口を手で押さえた。セラさんに言われて無理やりのように詰め込んだ食べ物が、一気に逆流しそうだった。顔から血の気が引き、ひっきりなしの眩暈で景色がぐるぐると廻る。
「つらそうだね」
神獣がクスクスと笑いながら言った。
「無理もないさ。だって、『あれ』もキミ自身であることには違いないのだからね。同じことを考え、同じ行動をするキミ自身に、キミが同化していくのは仕方ないというものだ。あのキミとこのキミの意識は混ざり合って一体となり、あのキミが受けた苦痛を、ここにいるキミもまた同じように感じてしまう。生きながらにして死の苦しみを味わうって、他の人間にはなかなか経験できないことだよ。そう思わない?」
「──……」
俺は両肩を上下させて荒い呼吸を繰り返しながら、汗にまみれた顔を上げ、神獣を睨んだ。
「……どういうことだ」
「どういうこと、とは?」
唸るような俺の問いに、子供の形をしたその生き物は、無邪気にも見える仕草で小首を傾げた。
「お前が関わってるんだろ。お前、彼女に何をさせた? 時間を戻してやり直しをさせたのは、お前の仕業なのか」
守護人自身に、そんな能力があるはずがない。大体、一回目と二回目で成り行きが異なっているのもおかしい。なぜ、最初は口をきかず何の反応もしなかったという神獣が、二回目ではあっさりと彼女を守護人と認めた? 時間を遡ったということなら、経緯は同じになるはずではないのか。大体、どうしていきなりカントスの民が神ノ宮に攻め込んでくるんだ。一回目の時には、そんな兆候すらなかったのに。
……わけが判らない。
「面白いことを言うなあ」
神獣は本当に愉快そうにくっくと笑ってから、まっすぐに俺を見た。
「はっきりと言っておこう。ボクは守護人に選択肢を与えただけ。選んだのは守護人だ」
「選択肢……?」
俺は呟くように問い返した。
選ぶって、何を?
「これはね、ゲームなんだよ」
神獣は、にいっと目を細めた。
***
──100日間、「主人公」を生き延びさせるゲーム。
神獣はそう言った。
「彼女はそれに応じた。もとの世界に帰るか、キミを生かすか、その選択肢のうちから、後者を選び取ったんだ。その時点で、彼女はボクの守護人となった。定まった運命を変えようとする者、ボクを楽しませることが出来る唯一の人間。それが『神獣の守護人』だ。わかるかい?」
「…………」
神獣の言葉を、俺は半ば放心状態で聞いていた。
そんな話、到底信じられるものじゃない。理性も感情も、易々と受け入れることを断固として拒否していた。こいつは一体、何を言ってるんだ。
守護人がカイラック王に向かって言った、あの時の静かな声が、胸の中で反響している。
どうしても守りたいものがあるんです。
じゃあ、あれは。
「……俺?」
口から漏れた小さく掠れた呟きに、神獣が、あははは! と声を立てて笑った。
「やっと気づいたね! そうさ、キミは守護人にとって、単なる駒でしかなかったということさ。キミだけじゃない、ロウガも、ハリスも、ミーシアも。守護人がこのゲームに乗ったその瞬間から、キミを含めた彼らはみーんな、盤面に配置されて、どう動かせばいいのかと考えるだけの存在になったんだ」
「駒……」
これはゲームで、俺たちは盤面に置かれたただの駒だと。
神獣ははっきりと言った。
「ニーヴァも、世界も、守護人にはどうでもよかった。ゲームだもの、キミが死ねば、また始めればいいだけの話さ。新しい扉を開けてね」
「新しい、扉」
「そう。狭間に落ちた守護人が扉を開けることで、またゲームは再開される。その時点でもとの世界に帰ることも出来るのに、彼女はいつも扉を開けることを選択したよ。だって、キミがそう言ったんじゃないか」
神獣の唇が吊り上がる。
「諦めるな、と」
「……っ」
衝撃のあまり、心身がぐらりと揺らいだ。
諦めるな。希望を捨てるな。
それが、守護人の言っていた、「今はもうこの世にはいない、大事な人と交わした約束」?
「……何回だ」
拳を強く握り、喉の奥から声を絞りだす。うん? と楽しげに問い返す神獣と、真っ向から目を合わせて、もう一度訊ねた。
「彼女は、これまで何度、扉を開けたんだ」
二回目の俺が死んで、今ここにいる俺が生きているということは、守護人はその後もまた新たな扉を開けたということ。いいや、「開け続けた」のだ。それは一体、何回なんだ。神獣のこの言い方からして、二回や三回であるとは思えない。
「これが五十回目」
あっさりと返ってきた答えに、身体の芯が凍りつく。
途方もないその数字に、頭が真っ白になった。
五十回──
「自分の命が、扉を開けるだけで簡単に取り換えのきくものであったと知った気分はどうだい?」
ニコニコした神獣がそんな質問をして、俺の顔を覗き込む。イーキオの枝で幻の神を見ていた連中を前にした時よりもぞくりとした背筋の寒さを感じながら、俺はその生き物を見返した。
「ゲーム、って」
「うん」
「お前、なんでそんなことをするんだよ」
人間の生や命に何の意味も見いだすつもりがないのなら、神獣はどうして守護人にこんな悪趣味な取引を持ちかけた。これなら、幻獣のようにただ見ているだけで何もしないでいるほうが、まだしもマシだ。
「ボクの守護人と同じことを聞くんだなあ。人間というのは、どうしてそんな答えが判りきったことを知りたがるんだろう」
神獣は可笑しそうに笑い声を立ててから、俺と目を合わせた。
「退屈だからさ」
まったく躊躇も迷いもないその返事に、二の句が継げなくなる。こちらに向けられた黄金の瞳にはなんの感情も宿っていなくて、けれどどこか強く底光りしていて、ぶるりと身震いをした。
幻獣は、「道を踏み外した」と言っていたが、その通りだった。世界の均衡よりも自分の望みを優先させる神獣は、すでに管理者などではない。
それはむしろ、人間に近い。
けど、違う。管理者としての力を持った神獣は、どうしたって人間のことを理解できない。するつもりもないのだから、当然だ。だから、こんなにも歪んで変質してしまっている。
だから、何も判っていない。
「…………」
俺は床に胡坐をかいて座り直し、深呼吸をした。自分の両膝に手を置いて、息を吸い込んでは吐くことを繰り返す。やっと、頭にも血液が廻りはじめたようだ。腕でぐいっと顔の汗を拭った。
「じゃあ、さっさと次にいけよ、神獣」
神獣が一瞬、口を閉じて黙った。少しして、薄っすらとまた口許に笑みを刻んで問い返す。
「なんだって?」
「さっきので二回だろ。これが五十回目ってことは、あと四十七回か? 早くしろ」
意識が飛んでいる間、こちらではほとんど時間が経過していないといったって、こうして神獣と話している分の時間は普通に流れている。ぐずぐずしていたら、ハリスさんが戻ってきてしまう。守護人の容体も心配だ。
「……本気かい?」
神獣が面白そうに目を眇めた。その声音には、俺の気のせいでなければ、若干の驚きも含まれているようだった。
「今までの守護人が開けた扉の全部を見ようって? キミ、気は確かなの? これが五十回目ということは、キミは四十九回死んでるんだ。死に伴う痛みも苦しみも追体験するということは、イヤというほど思い知ったはずじゃなかった? それをあと四十七回も繰り返したら、キミは発狂してしまうかもしれないよ?」
「しつこいぞ」
振り払うように言い捨てて、ぎゅっと目を瞑る。
「やっぱりキミは、愚かな子供だ」
神獣の笑い声と共に、闇が落ちた。
***
はじまりはいつも同じだ。
現れの間、待機している「俺」。扉を通ってやって来る守護人。大神官の出迎えの言葉は、二回目からはずっと最初から最後までまったく変化がなかった。
扉を開けて、守護人は必ず真っ先に、「俺」の姿を目で探す。
そして、神官たちの後方に立っている「俺」を確認すると、そうっと押し殺すように息を吐くのだ。安心したように。申し訳なさそうに。その目には、喜びよりも悲しみの色のほうがずっと濃く現れていた。
その視線を受けて、「俺」はただ戸惑うだけ。今にも泣きそうな、でももう涙を落とすことのない彼女を見て、妙な違和感ばかりを覚えるだけ。
神獣の守護人として認められた彼女の護衛に立つ。守護人の何かを言いたげな様子に、「俺」が気づくことは一度もなかった。出されそうになった言葉が、また胸の奥へと戻っていくのも。そのたび、黒い瞳が伏せられるのも、何ひとつ。
そんな中、災厄は、いつも唐突にやって来る。
王ノ宮で反乱が起こった、という時もあった。神ノ宮内で権力を巡って争いが勃発した、という時もあった。他の国が戦争を仕掛けてきた、という時もあった。
──新しい扉を開ける、と神獣は言っていたのだったか。
要するに、ただ単純に時間を遡ってやり直す、ということではないらしい。「俺」のいる世界、守護人が扉を開けてやって来る世界は、毎回のように、少しずつ差異が生じていた。災厄の形も、その時によって違う。いつどうやって、こちらに向かって襲いかかってくるのか予想もつかないのだから、それを止めるなんて無理な話だ。
その「無理な話」を、守護人はしようとしているのだった。
いきなり守護人に、神獣の守護人の護衛官の任を解かれた「俺」が、好きでもない酒を煽って不満を並べ立てている。隣で聞いているハリスさんも、同情するように付き合ってくれていた。
「俺の何が悪かったんですか。まだ、守護人の護衛官になって数日ですよ。別にヘマをしたわけでもないし、大体、あの守護人、俺のほうを見もしないのに」
「だよなあ。……まあ、そう気を落とすなって。異世界から来た娘なんだから、何を考えてるのかなんて俺たちにはわからなくて当然さ。どうせ大した理由もなかったんだろ」
「大した理由もなく、『こいつはダメだ』って思われたってことですか」
「うーん……」
「何がいけないっていうんです。見た目ですか。年齢ですか。俺もハリスさんみたいに顔が良かったら任を解かれなかったんですか」
「そう絡むなよ。お前、ちょっと飲みすぎだぞ」
「いいんですよ、どうせもう明日から守護人の近くには行かないんですから。せっかく俺を推してくれたロウガさんにも顔向けできないですよ。あー、もう、何もかもがイヤになる……」
「おいおい、トウイ、こんなところで寝るんじゃねえよ。しょうがねえなあ……」
酔い潰れて、卓に突っ伏す「俺」の背中を、ハリスさんが困ったようにぽんぽんと叩く。酒でどろんと濁った目を半分閉じて、「俺」は、くそったれ、と呟いた。
「あんな守護人……俺のことなんて、なんにもわかっちゃいないくせに……」
何も判っていないのは、「俺」のほうだった。
守護人が任を解いたのは、そうすることによって少しでも「俺」を災厄から遠ざけようとしたため。
それなのに、この時の「俺」は、やっぱり死んでしまった。
毎回訪れる死は、息もつけないほどの苦痛を俺にもたらした。
剣で刺されたり、矢で貫かれたり、水の中に沈められたり、逆に炎に炙られたり。そのたび、激しい痛みと苦しみに襲われる。首を刎ねられたこともあったが、その時のほうがまだ楽だった。
何度繰り返しても、慣れることは出来ない。死ぬ、と思った時の絶望感。真っ黒な闇の中に呑み込まれる瞬間の底知れない恐怖。何度か、耐えきれずに悲鳴を上げた。本当に、気が狂いそうだった。
ごめんね、と守護人が泣きながら謝っている。
敵によって剣で胸を一突きされた「俺」を腕に抱き、彼女は何度もその言葉を繰り返した。
「ごめんね、トウイ。また助けてあげられなくて、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい──」
頬をびっしょりと涙で濡らして、「俺」の心臓が完全に止まるまで、彼女は謝り続けていた。
あと三十回。
守護人が、「俺」を殺そうとしている敵に向かって、頭を下げる。
その人を助けてください、代わりになんでもしますから、と。
俺の首筋に剣を突きつけていた男は、それを聞いてにやりと邪悪に笑った。人々から敬われる神獣の守護人が、たかが護衛官一人のために命乞いをするとは、思ってもいなかったのだろう。こんな面白い見世物はない、というような顔をしていた。
「だったらそこで這いつくばって頼んでみなよ」
その卑しい要求に、守護人はまったく迷う素振りも見せずに従った。泣きながら膝を折り、床に手をついて、頭をぺったりと下げて。
「……お、お願い、します。お願いします。どうか、その人を、殺さないで」
その両手が震えているのを見て、男が大笑いする。
たまらなくなった「俺」が飛び出そうとしたところを、背中から斬られた。守護人の慟哭がこだまする。
どうして、どうして!
どうしてよおっ!
扉を開ける回数を重ねるごとに、守護人の瞳に影が差すようになった。
俺も見たことのあるもの。ぞっとするほどの、昏い闇だ。隠れることはあっても、決して消えることなく、常にまとわりついている。その闇が、少しずつ、少しずつ、彼女の中を蝕み、侵食していきつつあった。
──あれは、狂気。
あと二十回。
彼女は自ら神獣の剣を手にして戦うようになった。もう、殺さないでと頼むこともしない。どれだけ願っても、それが叶えられることはないのだと、知ってしまったかのように。
そして彼女は、自分のノゾミという名を口にするのをやめた。
もう「俺」の死を見ても、泣かなくなった。表情も変えなくなった。その無表情の裏にどれほどの苦悩が秘められているか、誰にも伝わることはない。ロウガさんやハリスさんから不信の目を向けられても、彼女はただ黙ってそれを受け止めていた。
どの扉の中でも、ただ一人、態度が変わらないのはミーシアだけだった。
そうか、だから彼女はミーシアを離さないんだな、と俺はようやく知った。
鈍感で、人の言葉の裏を読み取ることが苦手なミーシアは、だからこそ誰よりも本質を見抜く目を持っているのかもしれない。「守護さまはとても優しい」とはじめから言っていたあの言葉は、まさしく事実の真ん中を射抜いていたのだ。
そのミーシアさえも置いて次の扉を開ける時、守護人の心中はいかばかりであっただろう。
扉を開けた向こうにいるミーシアは、毎回、「はじめまして、守護さま」と、緊張のあまり微笑むことも忘れて挨拶をする。
あと、十回。
もう、いいんだ。
俺はずっと、そればかりを考えていた。
死に物狂いで、懇願するように、同じことを思っていた。
もう、やめてくれ。
たった一回、手を差し出しただけ。俺はそこまでしてもらうほどの人間じゃない。子供で、考えなしで、いつだって浅はかで、表に出ているものしか見えていない。
俺の言葉に、そんなにも縛りつけられてしまっているのか。
あの時願っていたのは、望んでいたのは、そんなことじゃなかった。
そんなことじゃ、なかったんだ。
四十九回目。
現れの間では、すでに多くの人間が跪き、今か今かとその時を待っている。
いや正確には、跪いているのは大神官をはじめとした、「神ノ宮」に仕える神官や侍女たちだ。「俺」ら護衛官たちは、彼らの後方で、いざという時のために、警戒の構えを解かずに立っていた。
しかし、いざという時ってのは、どんな時を想定してんのかね、と「俺」は少々退屈さを覚えながら考えた。
──────
絵の扉が開かれる。
守護人が姿を見せる。
彼女のことを知らない「俺」に、目を向ける。
守護人はずっと一人で、そうしてやってきたのだ。
ただ、自分の中に記憶だけを積み重ねて。
……いいや、違う。
記憶以外のすべてを、失って。
***
背後から妖獣の爪で貫かれて、俺の意識は「この世界」に戻ってきた。
頭のてっぺんから流れ出す汗が止まらない。痙攣したように震え続ける手を、胸のところに持っていってぐうっと握りしめる。咽る呼吸の合間に、獣のような呻きが勝手に喉から漏れた。
「これで満足かい?」
問いかける神獣に目をやるが、なかなか声が出てこない。何かを言ってやろうとしても、息を吸うこともままならなかった。
鼓動が激しすぎて胸郭が破れそうだ。荒い息を吸ったり吐いたりしながら、けったくそわりい……と心の中で悪態をつく。
「守護人は、キミが死ぬたび、世界と世界の狭間に落ちる。けれど、この世界にいる時だって、彼女はずっと、正気と狂気の狭間で揺れ動いていたよ。彼女の心が狂気に傾き始めると、それを引き戻していたのはキミだ。いっそ狂いたかっただろうにね。前代の守護人のように、狂ってしまえば、プレーヤーの立場から逃れられる。無意識にでもそう願っていたのに、キミはそれさえも許さなかった」
大丈夫、大丈夫、と。
いつも口癖のように言っていた守護人。
……本当は、もう、ちっとも大丈夫じゃなかったんだ。
自分でもそれに気づいていたから、何度もそう言っていたんだ。
「この五十回目が最後、だと守護人は決めていたようだよ。わかっていたのさ、本人には。これが限界だとね。この扉でも失敗したら、彼女の精神は間違いなく狂気に食い尽くされて破綻する。その状態で次の扉を開いたら、またリンシンのような人間が生まれてくることになるかもしれないだろう? それだけは絶対にしてはいけないと」
これが、最後の扉。
「だから、ロウガもハリスもミーシアもメルディも、切り離した。彼らはキミの盾であり、守護人の心の支えだ。それを手離して、災厄に巻き込まれさせまいとした。災厄は、キミに向かって降りかかるからね。そこから遠ざけて、自分たちの人生を歩めるように解放したのさ。愚かだね。彼らはただの駒だ、利用するのなら、とことん利用すべきだったのに」
守護人はそうやって、彼女にとっての大事な人たちを守ろうとしていたのだろう。
「けれど、運命はまだ一方向に向かって動いている。……見てごらん、トウイ」
神獣に指で示されて、俺は寝台を振り返った。
そこに横たわる守護人を目にして、背中がさあっと冷える。
彼女の顔色は、さっきよりも悪くなっている。呼吸も浅く、弱くなっていた。
どうしてだ。毒消しが効かなかったのか?
「守護人は死ぬよ」
あっさりと言われて、心臓が何かに掴まれたように動きを止めた。
「……な」
出しかけた声は言葉にならない。力の入らない足で強引に立ち上がり、寝台の上に手をつく。揺れる指で彼女の頬に触れた。
「だって、本人に生きようという意志がこれっぽっちもないんだもの。死を渇望している人間を、どうやって引っ張り戻そうっていうんだい?」
「死を、渇望……」
「それはそうだろう? 途中で狂うわけにはいかなかった、諦めることも出来なかった、けれど彼女はプレーヤーの立場から逃げたがっていた。だったら答えはこれしかないじゃないか。本人もそれに気づいたんだね、メルディに刺された時、守護人はなんと言っていた?」
──わたしはやっと、正しい答えを見つけた。
あの時、彼女はそう言っていた。
「今の守護人にとって、唯一の救いは死だけだったのさ。彼女が死ねばゲームは放棄されて、キミは自動的に主人公から外れる。現在起きている災厄は別の方向に向かうだろう。もとの世界に帰ったのではないから、キミたちの記憶から消えることもない。いいことずくめだ。そうじゃないかい? でも、いろいろと計算違いがあったよね。こんなにも生が長引くとは、本人も思っていなかっただろう。──守護人が生きている間は、ゲームは継続される」
頬に触れていた指がこまかく震えた。
死だけが、唯一の救い。
……本当に、そうなのか。
五十回目の扉で、それが彼女の出した答えだと?
「さて、その点を踏まえて、もう一度聞こう」
神獣の目と唇が、再び弧を描く。
「守護人を、助けたい?」
俺は目を見開いて、ぎくしゃくと神獣のほうを向いた。からからに乾いた口から、やっと声を出す。
「助けられる、のか」
「もちろん」
「……どうやって?」
神獣はクスクスと笑った。
「ねえ、おかしいと思わない? 五十回も扉を開けて、その扉の中では何十日も時間が経過しているんだよ。合算すれば、数年分の時間を費やしたことになる。それなのにどうして、守護人の姿は最初から変わらないんだい?」
俺は思わず守護人に目を戻した。確かに、彼女の外見は、最初の扉を開けた時から、まったく変わっていない。
「それはね、扉を開けてゲームを始めると決めた時点で、彼女の肉体の時間が巻き戻るからなんだ。リセットだよ。記憶はそのままだけれどね。狭間に落ちて、扉に向かって足を踏み出せば、そこからゆるゆると元の姿へと戻っていくんだ。三十日なら三十日分、五十日なら五十日分。着ているものももとの黒い衣服に、扉の中でついた筋肉はすべて削ぎ落とされ、手にしている神獣の剣は塵のように消えて王ノ宮へと戻る」
時間が遡る。その時、その場所で、彼女の肉体だけが。
だったら。
「負った怪我も、すべて消える」
神獣が意味ありげに言って目を細めた。
「……わかる? このゲーム中、狭間に落ちさえすれば、守護人はたとえ瀕死の重傷を負っていたとしても、すぐに治る、ということさ。どうすれば狭間に落ちるかは、キミももう知っているよね?」
頭の先から、すうっと血の気が引いていった。
足から力が抜けて、再びしゃがみ込む。
守護人が狭間に落ちる。それが意味しているのは……
「キミが死ねばいいんだよ」
神獣はそう言って、あははは! とこれ以上なく楽しそうに笑った。
「今日が、99日目」
神獣の言葉に、俺は大きく身じろぎした。
99日目。
じゃあ、あと一日。
「まだ、あと一日ある。まだ間に合う。今キミが死ねば、守護人は助かるよ。彼女はこの扉が最後だと決めていたけれど、キミが自分を生かすために命を捨てたと知れば、どうするかな? きっと、這ってでも、次の扉に向かって進むよね。もう精神が限界で、その扉を開けたら今度こそ自分は狂気に覆い尽くされることが判っていてもね。それこそが守護人、ボクの守護人だもの」
そこで、神獣はふと目線を虚空に飛ばした。
まるで、夢見るように。
「……守護人はそうやって、老いず、朽ちず、死なず、永遠の時を歩むんだ。閉じられた輪の中をずっと廻り続けて、生きるんだよ。これこそ、不老不死だ。そうは思わない? ボクの守護人は、そうやっていつまでもいつまでも変わらない姿のまま、人の愚かさ浅ましさを、ただ眺めていくんだ」
ボクと同じように、とぽつりと付け加えた。
それから神獣は、その場で凝固している俺をまっすぐに見据えた。
不気味な黄金色の瞳を輝かせ、唇を吊り上げる。
「道はふたつだ。キミが死んで守護人を助けるか。または守護人を死なせてキミが生き延びるか」
そして、言った。
「──さあ、選びなよ」
(第十九章・終)