4.周回
「俺」はそれから見張り番のたびに、少女とお喋りするようになった。
最小限まで声を抑えて、決して扉の外に立つ警護に気取られないように。もちろん、ロウガさんとハリスさんにも、そのことについては絶対にバレないように固く口を噤んだ。
もしもこの命令違反が知られたら、厳しい罰が下されて──いや、それは当然だからいいのだが、その瞬間から「俺」は即刻、少女の見張り役から外される。指示に従えない人間をそのまま使うことは出来ないと判断されるのは、護衛官でなくても普通のことだろう。
けれど、「俺」が外されたら、少女はまた話し相手もなく、あの小さな部屋の中で一人、窓の外ばかりを眺めていなければならない。そういう時の彼女の目は、今にも消えてしまいそうに心細げで、見ているこちらのほうが苦しくなってくるほどだった。
家族どころか自分の世界からも切り離されて、寂しいだろうし、不安でたまらないに決まっている。それを取り除くことは出来なくても、せめて和らげるくらいのことはしてやりたかった。
「俺」は、彼女に、この世界のことをあれこれと教えた。怖いと思うのは、何も知らないから、という理由がいちばん大きいのだろう。だったらせめて、こちらの事情や、現在彼女が置かれている境遇などが判れば、少しはその恐怖心もまぎれるんじゃないかと思ったからだ。
この国ニーヴァを含む七国と、妖獣の暮らす八ノ国、そして、神獣のことと、守護人のこと。
「はあ……」
少女は「俺」の説明に、ぱちぱちと目を瞬きながら首を捻った。「何を言ってんだかさっぱりわかんない」と考えているのが丸わかりで可笑しい。
異世界から来た人間とはいっても、彼女には、こちらの住人たちとなんら変わったところはなかった。たまに好奇心を覗かせたり、人を気遣ったり、ぷっとむくれたり。表情をころころと変えて、驚いたり呆れたりするところは、街中にいる同じ年頃の娘たちと同じだ。
トウイ、と名を呼ぶ声に信頼の響きが混ざっているのが、なんとなくくすぐったい。
もとの世界では、さぞかし屈託なく笑えていたのだろう。両親に大事にされ、友人に囲まれ、人を愛し、人に愛されて。そうしているのがいちばん似合っていると思わせる、素直で邪気のない性質を持った女の子だった。
おかあさん、と現れの間で聞いた悲鳴が脳裏を掠める。彼女の人柄を知るにつれ、やっぱりこんなのは間違いだ、という確信が大きくなった。神獣の守護人であろうとどうであろうと、彼女はここにいるべき人間じゃない。
一刻も早く、もとの世界に帰してやらなきゃいけないんだ。
「あんたがいた世界は、どういう世界なんだ?」
そう訊ねると、少女は一瞬キョトンとしてから、真面目な顔つきになって考えた。
「えっとね……人の外見はあんまり変わらないかな。髪や目の色は国によって違うけど。妖獣とか、神獣とかはいない。あとは、電気があって、車があって、飛行機があって」
「俺」は少女の説明に、興味深そうに耳を傾けている。
その様子を透明な壁を隔てて見ていた俺は、奇妙な既視感に捉われた。
──彼女の言葉は、ハルソラの街で、守護人が俺に対してしたものと、同じ。
「デンキ? クルマ?」
意味が判らず首を傾げる「俺」に、少女はうーんと口を曲げた。説明を続けようとして、ますます噛み合わなくなっていく会話に、困り果てている。
そして、ふと思いついたように、「紙はないか」と言いだした。
紙? と俺の心臓がごとんと音を立てる。
俺の動揺がまったく伝わらないらしい「俺」は、棚から数枚の紙を取ってきて彼女に差し出した。そのうちの一枚を手にし、少女の細い指が滑るように動いて、丁寧に角を合わせて折り畳みはじめる。
少しずつ、紙がひとつの形になっていく。それは、俺が頭を悩ませて、修復作業のために何度も繰り返した手順と一緒だ。だから、判る。
けど……でも、意味が判らない。
「これが紙飛行機。実物とは形が違うけど」
紙で作られたヒコウキ。
なんで?
あれは、守護人が彼女の心の中に住まわせている「大事な誰か」との、思い出の品。そうじゃなかったのか。
どうしてそれが、ここに出てくる。これじゃ、まるで──
約束をしたという誰か。
俺によく似ているという、誰か。
いや、そんなはずがない。これは、現実に起きた出来事ではないのだから。
だって俺は知らない。
俺は、この「俺」についての記憶を、一切持っていない。
俺が激しい混乱に陥っている間にも、「俺」と少女は紙のヒコウキを飛ばして楽しそうに盛り上がっていた。もらってもいいか? という「俺」の頼みに快く頷いて、少女がペンを手に持つ。
ヒコウキの隅に書かれたのは、見たこともない奇妙な形の、文字らしきもの、だった。
「のぞみ一号機、と命名しました」
「これ、あんたの名前? 変な字だな」
「希望の希、っていう字だよ。願う、とか、望む、とか、そういう意味なの」
願う。望む。希望を表す。
そこにある、直線と曲線の入り混じった、やけに難解な記号のような文字は、そんな意味の込められた、彼女の大事な名だと。
「だったらきっと、いい名前なんだな」
「俺」がそう言うと、少女が照れたように笑った。
いい名前だ。そうだ。俺だってそう思う。
……それなのにどうして、守護人はその名を口にしない?
「俺」は詰所に戻ってから、誰もいない場所で、こっそりと何度もヒコウキを飛ばす練習をしていた。
上手に飛ばせるようになって、ノゾミの前で披露してやろう。
そうしたら、また笑ってくれるかな。
そんなことを、思いながら。
***
さらに日数が経過しても、一向に少女を帰すという話が出てこない。「俺」は焦りはじめていた。
どうなっているのか知りたいのは山々だが、護衛官が神官に向かって、いきなりものを訊ねるなんてことが出来るわけがない。上が口を閉ざしてしまえば、下の人間にはもう情報を得るすべはないのである。ロウガさんを通して護衛官の上官にお伺いを立ててみても、返ってくるのは「言われたことだけをしていればいい」という、にべもない答えだけだった。
一度は明るさを取り戻した少女の表情が、日に日に翳っていく。「俺」が、きっとすぐに帰れる、などと軽く言ってしまったせいで、彼女の帰りたいという思いがさらに強く膨れ上がってしまったことは明白だった。
「俺」の前では出来るだけ元気に振舞おうとしているのが判るから、なおさら心が痛む。
なんとかして、現在の神官たちの間で彼女についての話がどうなっているのか知ろうと探ってみたが、どれもこれも徒労に終わった。むしろ、なぜこうも突然ぴたりと遮断されてしまったのか、不思議に思うほどだった。大神官から、厳重な箝口令が敷かれているとしか思えない用心深さだ。
あんなにも大げさに出迎えた少女が神獣の守護人ではなかった、というのは確かに神ノ宮にとって外聞の良くないことには違いない。しかしそれにしたって、今さらじゃないだろうか。
ハリスさんがめっきり無口になり、ロウガさんが暗い表情をするようになったのも気にかかる。何も聞かされていないのは「俺」と同じはずだが、この神ノ宮のことをよく知る二人には、「俺」には見えていない事情が透けて見えているのかもしれない。
彼らの態度の変化は、何かよくないことが起きるのではないかということを嫌でも予感させて、「俺」の不安をかきたてた。
そしてその知らせは、ある日の朝、唐突にもたらされた。
神官たちの協議で、少女は神獣の守護人ではないという判断が、正式に下されたと。
──よって、正しい守護人に来訪してもらうため、誤って紛れ込んできた異世界人は、内々に処理することになったと。
あまりにも、馬鹿げている。
そうとしか、思えなかった。間違えてこちらの世界に来たから殺すだって? 神ノ宮の面子のために、「そんな存在はいなかった」ことにしようというのか。そんな理屈にもなっていない理屈を打ちたてて、さも当然のように命じてくる大神官の神経が判らない。それはもはや、狂人の言い分だ。
その時になってはじめて身に染みた。心底、恐ろしくなった。
「俺」が仕えていた神ノ宮とは、神を奉じておきながら、自分たちの都合のためには人の生命を犠牲にするのも厭わない、あまりにも空虚で醜悪な、「神官たちにとってのみの」楽園、であったのだと。
護衛官としての職を得て、それに生き甲斐を見いだそうとしていた自分の何もかもに、嫌気が差した。自分にとってのすべての価値が失われたような、そんな気がした。どこまでも無意味で、馬鹿馬鹿しい。「俺」は一体、何のためにこの場所で必死になってやってきたのか。
ロウガさんともハリスさんとも、口をきく気力も湧かなかった。すでにその件は決定事項で、大神官の命令は絶対だ。背けば自分たちが処断される。ロウガさんは職務に忠実だし、ハリスさんも内心をそのまま表に出すような迂闊さはない。「俺」が何を言ったって、大人の分別で窘められるだけだろう。
血の気の失せた顔で、見張りの交代に向かう。
部屋の扉を開けた途端、少女が嬉しそうに微笑むのが目に入った。「俺」の顔を見て、安心したように息を吐く。
それに敏感に気づいたらしいハリスさんが、チッと舌打ちして、アホが、と呟いたが、それさえもろくに耳に入らなかった。きっと、「俺」が命令違反をしていたことを、この時点で悟ったのだろう。けれどもう、そんなこともどうでもいいと思えてならなかった。
この時の「俺」が思っていたのは、ただひとつ。
──ダメだ。
絶対にダメだ。決して殺させたりするもんか。神獣の守護人なんてどうだっていい。ノゾミは生きてる。いつか帰る日のために、懸命に頑張ってる。
希望を胸に抱いてる。
それを絶望に変えてはいけない。この女の子を、恐ろしい孤独の中で死なせてしまうなんて、そんなことがあっていいわけがない。
「俺」の今までには意味がなかったかもしれないが、彼女のこれからを見つけることには意味があるはず。
帰してやるんだ、必ず。
決定がなされたからには、実行の命令が下されるまではすぐだ。「俺」には一刻の猶予も残されていなかった。
主殿内に忍び込んだのは、その日の夜更け。しんと静まり返った建物の中を、音も立てずに駆け抜けた。少女の部屋の扉の前に立ち、欠伸をしていた警護の男のみぞおちに一撃を喰らわせ、失神させる。
錠を開け、中に入ると、少女の手を取って部屋から出た。
途中で待ち構えていたハリスさんは、「俺」たちを見逃してくれた。そこにどんな意味があるのか、考える余裕もなかった。ただ、彼女を神ノ宮から逃がすことしか、この時の「俺」の頭にはなかった。
神ノ宮を出て、マオールの街へ。
そこまで行けば安全だと思ったわけじゃない。とにかく今はここを出ることだ。この夜を越えたら少女はすぐにでも殺されてしまうかもしれない。まずは神ノ宮を脱出して、その後のことはそれから考えようと。
──が。
結局、「俺」は彼女を連れて神ノ宮から出ることは叶わなかった。
主殿を出てしばらく走ったところで、背後から矢を射かけられたのだ。
ヒュンヒュンという空気を裂く音が連続で聞こえたと思ったら、次の瞬間には、複数の矢が、「俺」の背中から腹にかけて、深々と貫いていた。
身体が反り返り、足から力が抜ける。もんどりうって地面に転がると同時に、灼けつくような痛みが全身を襲った。矢が肺を突き刺して、呼吸が出来ない。息を吸おうとしたら、ごふっと血泡が口から噴き出した。
少女が悲鳴を上げて足を止め、膝をついて「俺」を抱き起こした。後ろからは、こちらに向かってくる足音。言葉を発しようとして咳き込み、真っ赤な飛沫が彼女の頬を染めた。
血溜まりが草の上にじわじわと広がっていく。今までに経験したことのないような激しい苦痛で、頭が痺れてきた。痙攣のような四肢の動きが収まらない。抗えないほどの大きな力が、「俺」を引っ張っていこうとするのを感じた。
……死ぬのか。
こんなところで。まだ神ノ宮から一歩も出られていない、こんな場所で。何ひとつ成し遂げられないまま。
少女は「俺」を抱いて、幼子のように何度も首を振った。すべての神経が麻痺しつつあるというのに、彼女が震えているのはなぜか伝わってきた。赤い月に照らされているはずのその顔が、はっきりと白い。眉も目も口も歪めて、呆けたようにしゃがみ込み、「俺」の身に掌を当てて血を止めようという無為な努力を続けている。
「俺」はその手を押し戻し、逃げろ、と言った。力も出なければ、声だってまともに出せない。自分の不甲斐なさが猛烈に腹立たしかった。どうして「俺」は、こんなにも無力なのか。
「か、帰るんだろ、あんなにも、帰り、たがってただろ、ここで捕まったら、帰れなく、なる。早く」
帰してやりたかった。死に別れて二度と会えない「俺」とは違い、彼女にはちゃんと別の世界で待っている母親がいる。あんなにも会いたがっていたその人のところに、戻してやりたかった。
──ごめん。
「俺」はノゾミを一人残していかなきゃならない。また寂しい思いをさせてしまう。こんなところで置いてけぼりにされて、途方に暮れるだけだろうに。なんて無責任なんだ。ごめん。ごめんな。
何かを間違えていた。「俺」はどこかで選択を誤った。望みを叶えるためには、足りないものが多すぎた。なかったものは何だったんだろう。時間か。力か。仲間への信頼か。それとも。
もしも、やり直すことが出来たら。
その時は、今度こそ上手くやれるだろうか。彼女を助けることが出来ただろうか。こんな風に、悲しい思いをさせずに済んだだろうか。
なあ、頼むから。
「俺」の死を背負ってしまわないでくれよ。
ノゾミは何も悪くない。悪かったのは「俺」だ。すべての責任は、「俺」にある。ノゾミがそれを代わりに引っ被ることはない。
これからも、生きていくんだ。だから諦めないで。希望を捨てないで。
生きることを、苦しまないで。
勝手だよな。本当にごめん。でも。
「早く……! 諦めちゃダメだ、あんたの名前、き、希望だって、そう言ったろ。最後まで、捨てちゃダメだ、ノゾミ。俺は」
「俺」は、ただ。
ただ、あんたの笑う顔が見たかった。
最期の力を振り絞り、ずっと大事に持っていた紙のヒコウキを彼女の手に押しつけた。人を乗せて、広い空を舞うように飛ぶというヒコウキ。どうか、彼女を自由にしてやってくれ。
言いたいことはまだたくさんあったのに、もう、声を出すことが出来ない。目が焦点を失った。握っていた剣の柄が手から離れて落ちる。何も見えず、何も聞こえない。ちくしょう、悔しいよ、悔しい。この女の子を一人ぼっちで残していかなきゃならないことが、たまらなく。
誰か、お願いだ、誰か。
心の中で吠えるように叫んだ。残りわずかの命を懸けて、強く強く、祈るように願う。どこかの誰か、お願いだから。
彼女を救って──
そこで思考が途切れた。あたりを闇が支配した。
「俺」は死んだ。
***
「……がはっ!」
意識が浮上した途端、息もつけないほど咳き込んだ。
真っ先に目に入ったのは、大きく震え続けている自分の両手だった。床についている。硬い感触が、そのまま自分のものとしてくっきりと伝わった。
俺は四つん這いのような恰好をしていた。顔からも身体からも、とめどなく噴き出してくる汗の滴が、ぽとぽとと落下して床に染みを作っている。歯も噛み合わないほどにがくがくと顎が揺れ、身体の奥からくる震えが、こらえようとしてもまったく止まらなかった。
ぎくしゃくした動きで、自分の身体を見下ろす。
そこに、貫通して飛び出た矢じりは見えない。どこからも出血はない。傷もついていない。内側から圧迫するような苦しさはあるが、それは痛みから来るものではないようだった。
「やあ。どうだい、自分の死を経験した気分は」
笑いを含んだ声に、やっとの思いで顔を上げた。
ここは──
王ノ宮の侍女の居住棟。セラさんの部屋だ。それを認識するのに、しばらくの時間を必要とした。俺の目の前には、椅子に座った神獣の姿がある。
戻ってきたのか、と思ってから、すぐにはっと傍らを振り返った。
寝台の上には、俺の知る守護人が横たわっている。目を閉じて、苦しそうに顔を歪めていた。
「心配ないよ。キミの意識が『あちら』でどれだけの時を過ごそうと、それは『こちら』には関わりない。ほんの瞬きほどの時間しか経っていないからね」
神獣の言葉は容易には信じられないものだったが、確かに外からは大声が聞こえてくるし、壁の時計もそれを証明している。あれだけ長く感じた時間の経過が、ここでは無に等しいということらしかった。
「……あれは、なんだ」
俺は低く掠れた声で言った。
夢ではない。過去でもない。
俺が今まで見ていたものは、一体なんだ?
神獣が耳障りな笑い声を立てた。
「キミだよ」
「そんな、はず」
ない、と言いかけた口が止まる。あれは俺じゃない。けど、俺だ。あの「俺」の考え方、そして行動、どれをとっても俺自身とぴったり重なる。俺があの状況になっても、おそらくあれと同じことを思い、同じ動きをしただろう。途中から、そこにいるのが俺なのか、それとも俺と同じ姿をした別人なのか、判らなくなったくらいだ。
ごめん、と思っていたのは、「俺」だったのか、あるいは俺だったのか。
自分でも分けられないほど、同調し、融合していた。
「あれはキミ。いや、あれもキミ、と言うべきかな」
「どういう……」
「あれが『最初』だ。もちろん、それだけでは、キミにはまだ判らない。答えを得るためには、まだまだ不十分、ということさ。キミ、すべてを知る覚悟はあると言ったよね?」
ニコニコ笑いながら神獣は言った。
「では、『次』にいこうか」
「な──」
目を見開いて、出しかけた俺の声は、言葉にならなかった。
その前に、闇の幕に覆われたからだ。
***
闇が消失して、白いものが見える。
……また、現れの間だ。
そこにあるのは、さっき見たものと寸分変わらない光景だった。ここにいる「俺」は、やっぱり少し退屈しながら、ずらりと並ぶ神官と「絵の扉」を前に、待機姿勢をとっている。まったく一緒だ。
なんなんだ、と俺は混乱の極致にあった。
また、同じものを見させられるのか。
そこにいる「俺」の、内心の声からひとつひとつの動きまで、何ひとつとして変化はなかった。同一の場面の繰り返し、としか思えない。また黒髪の少女が扉を開けるところから「俺」が死ぬところまで、同じ経緯を辿るのを、ただ見ていなければいけないのか。
そんな思いは、扉が開いて少女の姿が見えた瞬間に、勢いよく吹っ飛んだ。
彼女の様子は、明らかに「前回」とは違った。
扉を開いて一歩足を踏み出しても、その顔に驚愕の色はない。あの時あんなにも怯えて困惑しきっていた黒い瞳は、今はひたすら悲痛なものを伴って、一心に何かを探し求めるように、現れの間の中を移動している。
そして彼女は、「俺」を見つけた。
まっすぐに向かってきた視線と、「俺」の視線が合った途端、彼女の目から涙が零れて落ちた。
ここにいる「俺」は、その涙に、ただ戸惑っている。
あれが神獣の守護人か。どうして泣いてるんだろう──と、他人事のように思いながら。
俺は頬を張られたような衝撃を受けた。
これは、あの続きだ。
彼女には、記憶がある。けれど、「俺」にはない。
ここにいる「俺」は、彼女のことを知らない。
……だから、泣いてるんだ。
大神官が少女に対してかけた台詞も、前回とは異なっていた。神獣が会いたいと言っている、という。少女もその言葉に、驚いたような表情をした。
大神官が先導して、少女を最奥の間へと案内する。神獣の守護人であることが確定されれば、大神官はどこまでも彼女に対して丁寧だった。それを見る少女の顔に醒めたものがあるのは、やっぱり目の前の人物に殺されそうになった記憶があるからなのだろう、と思わずにはいられない。
彼女の瞳には、前回にはなかった決意の光が灯っていた。
「俺」は、それには何も気づかない。跪いて顔を伏せ、彼女と目を合わせることもしなかった。
神獣と対面し、神獣の守護人だと正式に認められた少女は、最奥の間の近くの私室を与えられた。
そうなればもう、「俺」と彼女との接点は護衛の時だけに限られる。護衛官が私室に入ることは許されないし、こちらから声をかけるのも、話しかけられて勝手に返事をするのも禁じられているからだ。
彼女を前にする時は必ず顔を下に向けているので、どんな表情をしてるのかを見ることも出来ない。透明な壁を隔てて、俺は苛々していた。
──彼女は今、どんな気持ちで毎日を送っているのか。
「やり直し」だ。そうとしか思えない。彼女はなんらかの方法で時間を遡り、はじめからやり直そうとしている。おそらく、今度は「俺」が死なないように。
あんなにも帰りたがっていたのに、それを顔にも言葉にも出そうとしないで。この身体の持ち主である「俺」が、遠い存在になってしまった彼女を、単なる護衛対象としてしか見ていないことも判っているだろうに。
「しかし守護人ってのが、あんな子供だったとはね。どうせなら、色気のある大人の美女だったらよかったのに」
「不謹慎だぞ、ハリス。守護人は守護人だ」
ロウガさんもハリスさんも、今回は少女に対する同情はないようだった。彼女が泣くこともなく、不満を口にすることもなく、怖がる素振りも見せないからだ。
前回と同じ道に行かないように。
彼女はそうやって、「俺」を守ろうとしていた。
「俺」は、何も判っていなかった。
彼女が自分に向ける眼差しに、どんな意味があるのかということも。時々、寂しげに伏せられる目も。何かを言いたそうにして、結局閉じられる唇も。
何も気づかないまま、破局を迎えた。
カントスからの流民が暴徒となって神ノ宮に押し寄せてきて、その中に小さな子供の姿を見つけた「俺」は、一瞬躊躇をした隙に、腹部を刃物で突き刺された。
周りを取り囲む暴徒の群れが、一斉に「俺」に襲いかかる。彼らの向こうから、女の子が必死になってやめてやめてと泣き叫ぶ声を、半分以上失いかけた意識の中で、ぼんやりと聞いていた。
──なんであんなに、泣いてるんだろう。
そんなことを、思うだけ。
自分の胸の中に込み上げてくる、不可解な熱を伴う感情が何なのか、最後まで理解できずに。
──俺はあの子に、何かを言ってやらなきゃいけなかったのに。
その思考は闇の中に溶けて、儚く消えた。