1.赤心
ガシャン、という金属音が耳に入った。
その瞬間、巨大な黒い手が俺の心臓を鷲掴みにしたような感覚に襲われた。嫌な予感、の一言では言い表せない、突き上げるような恐怖だった。その音だけで、何か取り返しのつかないことが起こったと直感で悟り、さあっと血の気が引いた。
弾かれたように後ろを振り返る。真っ先に目に入ったのは、建物の壁近く、地面に両手をついてしゃがみ込んでいる守護人と、その傍らに立っている一人の兵の姿だった。
全身に鳥肌が立つ。体内に氷柱を突っ込まれた気がした。
「シイナさま!」
俺はすぐさま地面を蹴り、走り出した。同時に鞘から剣を抜く。大きく弧を描いた刃は、敏捷な身のこなしで後ろへと飛び退った兵には届かなかった。
「シイナさま、しっかり!」
右手で剣を構えながら、左手でぐったりと力の抜けた守護人の身体を抱え上げた。
顔を大量の汗で濡らし、苦しげな呼吸を繰り返しながら、彼女は薄く目を開けて俺を見た。
「……トウイ、…………」
ほとんど風に紛れて消えてしまいそうな微かな声で、何かを言う。なにを言ったのか──その言葉はかろうじて聞き取れたものの、俺にはその意味がまったく判らなかった。
守護人のマントに、じわりとした赤い染みが広がっているのを見て、うなじの毛がちりちりと逆立つ。胸郭がものすごい力で締め上げられているようで、呼吸も出来ないほどだった。
刺されたのか。どこを?
「傷自体は大したことありませんが、それで安心しないほうがいいですよ」
のんびりした声に、俺は眉を吊り上げて顔を上げた。「てめえ……!」と唸るように歯の間から絞り出し、剣の柄を持つ手に力を込める。頭が怒りに支配されて、抑制が利かなくなりつつあった。
が、その兵の顔を目にした途端、すべての思考が停止した。目をいっぱいに見開いて、その人物を凝視する。
着ている兵の制服にはそぐわない、細く小柄な体格。長く伸ばして後ろでまとめられていた艶やかな赤茶の髪は、襟足まで短くばっさりと切られている。足の角度、重心のかけ方、全体的な雰囲気、どれをとっても男のもので、女性っぽさはカケラも残っていない。声までが聞き慣れたものよりも低い。
でも、間違いない。間違えたり、するもんか。旅の間、ずっと仲間として一緒にいたんだから。
「メルディ……?!」
メルディは感情を窺わせない微笑をたたえて、俺を見下ろしていた。
「相変わらず、甘っちょろいですね。いつか手痛いしっぺ返しをくらう前に、性根を叩き直したほうがいいですよと、私は忠告したでしょうに」
言いながら、ちらりと守護人に目を移す。氷の膜を張ったような瞳は確かに彼女の姿を捉えているはずなのに、それを見て何を考えているのかは、まったく伝わってこなかった。
「お前がやったのか?!」
「他に誰がいるんです? おやおや、そんなに睨みつけないでくださいよ」
俺のぎらついた視線を受けて、メルディは唇の角度を上げた。人を小馬鹿にしたように片目を眇める癖は、俺が知っているメルディとなんら変わりない。
「言っておきますが、別にこれは裏切り行為でもなんでもありませんよ。旅の間、あなた方と行動を共にして、同一の敵と戦ったりもしたのは、その時の私たちが『一応』付きとはいえ仲間であったからです。でも、旅を終えて、私はそこから抜けた。他ならぬ、そこにいるシイナさまのお言葉に従ってね。今の私はただの王ノ宮の密偵、立場が変われば互いの関係も変わるのは当然じゃないですか。自分でもちゃんとそう言ったはずですけどね?」
必ずしも、あなた方と足並みを合わせるとは限らない、と。
別れ際、メルディはそう言った。確かに言った。
けど。
「まったく能天気ですよ、あなた方は。……信用するなと何度も言ったのに」
低い声でぼそりと呟いた瞬間だけ、メルディの目にふっと何かが浮かんだ。
しかし、その何かはあっという間に消えた。まるで作りもののように微動だにしない微笑を口許に貼り付け、俺を見る。
「アザニの毒は、ミニリグほど即効性じゃありませんがね、真っ先に身体の自由が利かなくなるのが特徴なんです。これからゆっくりと全身に廻っていくにつれ、もっと苦しくなっていくと思いますよ」
「な……」
毒、と聞いて俺は硬直した。
出血量がそう多いわけでもないのに、守護人が立つことも出来ないのはそのためか。嫌でも、ミニリグの毒を体内に入れてもがき苦しんで死んでいったサリナの姿が脳裏を過ぎる。
焦燥で、視界が赤く染まり、鼓動が暴れ狂った。
ダメだ。
ダメだ、ダメだ。
──そんなことには、させない。
俺が無言で剣を持ち上げたことに気づき、メルディは「おっと」と緊張した声を出した。両の掌をこちらに見せながら、後ろへと下がる。
「私は命令以上のことはしません。あなたの腕が存外悪くないことも知っていますしね、危ない橋を渡るような真似は御免蒙ります。……私に斬りかかるよりも、あなたにはすべきことがあるんじゃないですか」
そう言いながら、メルディが顔を横に向けた。その先から、数人分の足音が近づいてくる。そちらを一瞥すると、今度は本物の兵たちが、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。
俺は息を深く吸って、長く吐き出した。
落ち着け。ここにはロウガさんもハリスさんもいないんだ。今すべきことは、頭に血を昇らせてメルディに剣を向けることでもなければ、自分の無力さに腹を立てることでもないはず。
突っ走る前に、考えろ。
今の俺が、もっとも優先しなきゃいけないのは何だ?
落ちていた神獣の剣を、鞘にしまった。目を閉じ、苦悶の表情を浮かべている守護人の身体を担ぎ上げ、左肩に乗せる。そうしている間に、メルディの姿はいつの間にか煙のように消え失せていたが、俺の意識はすでにそちらには向いていなかった。
守護人の身体が燃えるように熱い。手足に力が入らないのか、どちらもだらんと下げられたままだ。アザニというのがどのような有毒物質で、どんな症状が出るのか、俺にはその知識がなかった。
どの程度の毒素があるのかも。
……体内に入れると死に至るようなものであるのかどうかも。
「おい、何してる?!」
バタバタと走って来たのは三人の兵だった。いずれもがっちりとした体格の男ばかりだ。そのうちの一人に見覚えがある。さっきの騒ぎの中にいたのだろう。
「ガキを捕まえたんだな? この非常時にまったく人騒がせな──こちらに渡せ、牢の中にブチこんでやる」
兵たちは、あくまで守護人を「血気に逸った子供」としてしか見ていないようだった。こいつらは彼女の正体はおろか、現在上のほうで動いているらしい事情や思惑とは、まったく無関係な位置にいる。ただ、次々と起こる問題に対処しきれず、カリカリしているだけだ。
「……俺が運びます」
守護人を担いだまま、俺は低い声で答えた。彼女の身体を左手で支え、右手は抜き身の剣を握り、神経を研ぎ澄ます。
「あ? でも……」
守護人を受け取ろうと手を差し出してきた兵は、俺の拒絶に怪訝そうに眉を寄せた。俺を見て、残りの二人のほうを向き、顔を見合わせる。
そして、再び俺に向き直った時、その男の顔には、はっきりと警戒心が現れていた。
「──見慣れない顔だな。お前、所属は」
その台詞が終わらないうちに、俺の右手の剣が唸りを上げた。
強烈な殴打を腹にまともに喰らった兵は、後方へと吹っ飛んた。勢いよく建物の壁にぶつかり、そのまま悶絶する。
「なっ!」
残り二人が、驚愕で目を剥いた。
俺は振り向きざま、そのうちの一人の脛を蹴りつけた。均衡を崩してよろけかかったところを、間髪入れずに肩口目がけて剣のみねを叩き込む。骨がへし折れる音がした。
その男が絶叫を迸らせてのた打ち回っている間に、ようやくもう一人が腰の剣に手をやった。が、刃を引き出すよりも、俺の剣先が閃くほうが速かった。手の甲をぐしゃりと潰されて、兵が剣を取り落とす。地面に転がったその剣を蹴り飛ばすと同時に、俺の右手の剣がひゅっと鋭く空を切り裂き、そいつの首筋を直撃した。
兵は声もなくその場に倒れた。まだ意識のある一人が、痛みとは違う理由で、叫び声を上げた。俺を見る目には、本物の恐怖が宿っていた。
「なんだ、お前は?! 何者だ?!」
その声が届いたのか、新たに駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。俺は剣を握り直し、肩からずり落ちかけた守護人を支える手に力を入れた。
──守護人を渡すわけにはいかない。
兵たちに知らされていなくとも、密偵であるメルディが動いたということは、カイラック王、あるいはそこに近い人間の意図が働いているということ。それはすなわち、王ノ宮が守護人の敵に廻ったということだ。
王ノ宮は、もはや守護人を保護する側ではない。むしろ、はっきりと害そうとしている。
だとしたら、俺がすることはひとつ。
「……どけ!」
向かってくる兵たちに刃物のような眼を向け、俺は剣を構えた。
***
守護人を肩に担ぎ、王ノ宮の敷地内を走った。
俺がまず一直線に向かったのは、王ノ宮の侍女に教えてもらった、ここからいちばん近い門だった。
聞いた道順を頭の中で辿りながら疾走する。時々出くわす兵や警護は、あちらが驚いて声を出す前に一撃で倒した。足を止めることもないまま、剣を振るって相手の急所に迷わず叩き込む。その身体が沈んでいくところも見届けず、ひたすらに走った。
──王ノ宮を出て、守護人の治療を。
俺の頭にはそれしかなかった。左肩に人を乗せ、右手で剣を振り回しているのに、疲労感すらどこか遠いところに飛ばしてしまったようだった。感覚が針のように研ぎ澄まされて、ほんの少しの音でも反応する。動揺よりも焦燥よりも、強固な意志だけが俺の身体を動かしていた。
門に到着したら、そこに警護が何人いようと突破して王ノ宮から脱出するつもりだったが、その門までの距離は決して短いものではない。兵たちは、自分と同じ格好をした侵入者がいる、という事実に気づくと、急いで仲間を呼び寄せはじめた。
俺が一目散にどこを目がけて走っているのかを察知し、道を塞ぐために、散らばっていた兵が集まってくる。二人や三人ならまだしも、十人二十人ともなると、守護人を担いでいる俺には太刀打ちできない。
くそ、と罵り、方向転換をした。
広大な王ノ宮の敷地には、王や大臣たちのいる主殿の他に、仕える人間たちの詰所や、雑務をこなすための建物、闘技場などがあり、それらの隙間を埋めるように数多の庭園が配置されている。
庭園は、各々の趣向が凝らされて、すべて異なった造りとなっている。あるものは美しい花に囲まれ、あるものは動物の形に刈られた植え込みが整然と並べられて。
そのうちの一つに、生け垣で作られた簡単な迷路があった。階級の高い人間のお遊びのために造られたものなのだろう。綺麗な平面の形に整えられた生け垣は、人の背よりも高い壁となってその先の視界を遮る。俺はその中に入り込み、とりあえず追手をやりすごすことにした。
肩に担いでいた守護人を細心の注意を払ってそっと下ろし、地面に横たえる。
その途端、どっと汗が全身から噴き出してきた。打ち立てる鼓動ががんがんと頭の中にまで響く。まともに息を吸うことも困難なくらいに激しく喘いだ。
「……シイナ、さま」
荒い呼気の合間に、抑えた声音で呼びかけてみるが、返答はない。守護人は自力で動かすことも出来ないらしい四肢をこまかく震わせて、青い顔色で歯を食いしばり、苦痛をこらえていた。
彼女が羽織っているマントを剥ぎ取り、着ている上衣を慎重にめくって、その下の傷を検分した。
脇腹だ。白く滑らかな肌に、ぱっくりとした切り傷がある。しかしそんなに深いものではない。「傷自体は大したことはない」とメルディが言っていた通りだ。守護人の苦悶の原因は、おもに毒のほうにあるのだろう。
守護人の身体を押さえ、傷口に自分の顔を寄せる。血の匂いが強くなった。ためらわずその場所に口をつけて吸うと、守護人がビクッと身じろぎした。呻き声が唇から洩れる。きっと今まで、それさえも耐えていたに違いない。
吸い出して吐く、ということを何度か繰り返す。俺は毒について詳しくないので、これが正しい対処法であるのかどうかもよく判らない。毒素はもうすでに、体内に廻ってしまっているかもしれない。
それでも、俺は黙々と続けた。口に含んだ血をぷっと吐き出し、赤く染まった唇を乱暴に拭う。傷口を消毒してやりたいが、ここには水もない。やむを得ず、せめて止血をと、剥ぎ取ったマントに手を伸ばそうとした時──
ガサッ、という音がした。
反射的に、傍らに置いてあった剣を取り、攻撃態勢になる。
近くの生け垣の茂みの中から、誰かの手が突き出された。頭が出たらその瞬間に振り下ろそうと剣を構える。もう一度、ガサッという音がして葉っぱが揺れ、赤茶の髪の毛が覗いた。
動きかけた剣が、寸でのところで急停止した。
「……よかった、みつけた」
囁くような声を出し、俺と守護人の姿を認めて安堵の息を零したのは、兵ではなく、女性だった。
セラと名乗った、王ノ宮の侍女だ。
「こちらへ」
押し殺したようにそう言うと、セラさんは俺に合図をして、また頭を引っ込めた。
***
俺たちと別れたあと、一旦仕事に戻ったセラさんは、少ししてから騒ぎに気づいたのだという。
「不審者がいる、と兵たちが慌てた様子でバタバタと走っていくのを見かけました。もしかして、と思ったら、居ても立ってもいられなくなって」
こっそり様子を見に来たら、追われているのは子供を肩に担いだ若い兵、という話が聞こえた。ああやっぱり、と胸の潰れるような思いで、あちこちを探し回っていたのだと、彼女は言った。
兵よりも先に俺たちを見つけたのがセラさんだったというのは、幸運以外の何物でもなかった。
セラさんはそれから、こっそりと自分の部屋に俺と守護人を案内してくれた。侍女たちの生活の場は、護衛官たちとは違い、詰所ではなく居住棟と呼ばれる。いつ用事を言いつけられてもすぐ飛んでいけるように主殿の近くにあり、詰所よりもやや規模が大きい。その建物へ向かう時は、ひと気のない道を選んでセラさんが先導し、兵や警護を見かけたらすぐに俺たちを隠して、彼らの目をかいくぐった。
王ノ宮では侍女は三人部屋が与えられるらしい。護衛官の詰所と違い、狭いながら花が飾られていたりして、明るく落ち着きのある部屋だ。一脚ずつだが、ちゃんと机と椅子もあった。
まだ夕方にもならない時刻なので当然だが、三つの寝台はすべて空いている。そのうちの一つ、セラさんの寝台を借りて、俺はそこに守護人を寝かせた。
「……ありがとう」
ようやく、自分の口からその言葉が出てきた。一緒に、細くて長い息も吐き出す。
「まず、傷の手当てをいたしましょう。薬と包帯を持ってまいりますので、お待ちくださいね」
「うん」
「それから、事情をお話しいただけましょうか」
「うん」
「お飲み物も用意しますので、あなたもお座りになっては?」
「……うん」
そう言われても、俺は枕元で棒立ちになったまま動かなかった。その腕に軽く触れ、セラさんが優しく諭すように言う。
「そんな真っ白な顔色をして、あなたのほうが倒れては元も子もないでしょう」
その一言で、強張っていた筋肉が一気に弛緩した。その場に尻餅をつくようにして座り込み、顔を掌で覆う。
今になって、震えが止まらなくなった。
傷の手当てが終わると、俺はセラさんにこれまでの成り行きをかいつまんで話した。俺たちのことも、守護人のことも、包み隠さず打ち明けた。セラさんは現在の状況での、唯一の味方だ。信用するしかない。彼女からの信用も得たいのなら、こちらの手の内をすべて曝け出すのは当然だと俺は考えた。
「神獣の……守護人」
セラさんは目を大きく見開いて、寝台の上の少女に視線を移した。頭を覆っていた布を外し、露わになった黒髪をまじまじと見つめる。
「信じられないだろうけど」
「ええ……そうですね、にわかには……」
困惑した表情で呟き、セラさんは眉を下げた。
守護人は今もまだ、目を開けない。俺たちの声が聞こえているのかも判らない。苦しそうに顔をしかめて、短い呼吸を繰り返している。
セラさんは、自分の細い指で、汗で張り付いた髪の毛をそっと直した。
「式典の折などに遠目で拝見したことはありましたが、神獣の守護人というのは、こんなにも小さく、愛らしい方だったのですね……王ノ宮では、守護さまは一室に閉じこもり、誰とも会わず話もせず、人嫌いの無口なお方だと聞き及んでおりましたので」
実際には、そんな存在は王ノ宮の中にはいなかったのだから、誰とも会わなけりゃ話もしないに決まっている。しかし途中から、それをさらに歪めて、守護人に対する悪印象を植え込もうとする思惑が生じた、というのもあったかもしれない。
「守護さまは、ニーヴァを救おうとされているのですよね? あなたたちとのやり取りを見ていれば、どのような方であるか、人となりも想像できます。それなのに、なぜこのようなおつらい目に遭わなければいけないのか……何も出来ない自分が、不甲斐なくてなりません」
「…………」
セラさんは自分の眦に浮かんだ涙を指で拭ってそう言ったが、俺はそれには返事をしなかった。
何も出来ない自分。
それを言うのはセラさんじゃない。
──俺だ。
「セラさん、王ノ宮には書庫があるだろう? そこに入ることは出来る?」
俺が訊ねると、セラさんは申し訳なさそうな顔になった。
「書庫に侍女が勝手に立ち入ることは出来ません。許可がないと」
案の定か。神ノ宮でも書庫に入れるのは神官に限られていたからな。じゃあこの場所で、アザニという毒物について調べることは難しい。医者をここに連れてくるのも不可能だ。だったらやっぱり、守護人を連れて神ノ宮に戻るしか……
「──くそ」
唸るように言って、手を髪の毛の中に突っ込んで掻き廻す。
切実に、仲間が欲しかった。ロウガさんがいれば、的確な指示を出してくれただろう。ハリスさんがいれば、毒物に対する助言をくれただろう。
俺一人では、守護人をどうやって助けたらいいのかも、判らない。
「トウイさん、でしたね? あなたも何も食べていないのでしょう? 下働きの人にこっそりお願いして、食べ物をもらえるよう頼んでみます」
セラさんの言葉に、俺は黙って首を横に振った。空腹感なんて、まったく湧かない。あるのはひたすら、自分に対する怒りだけだった。あの時守護人から目を離していなければ、こんなことにはならなかったのに。
「いけません。何もお腹に入れなければ、力だって出ませんよ。今、守護さまをお守りするのは、あなただけなんですから」
セラさんの口調が、叱りつけるようなものになった。彼女のこういうところ、ミーシアによく似ている。だからこそ守護人も、彼女を放ってはおけなかったのだろう。
ミーシアも今頃、神ノ宮で、守護人の帰りを祈るようにして待っているんだろうか。
「少し待っていてくださいね」
そう言って、セラさんが部屋を出ていく。パタンと扉が閉じられた後は、しんとした静寂だけが残った。守護人の乱れた呼気音が聞こえるだけだ。
もしもこの呼気音すら聞こえなくなったらと思うと、目の前が真っ暗になりそうだった。
今まで、自分の目の前で死んでいった人たちの顔が次々と脳裏を過ぎる。母親に父親、サリナ、リリアさん。
──ニコ。
俺はもう嫌だ。自分の腕の中で、命のともしびが消えていくのをただ見ているだけなんて。己の無力さを噛みしめることしか出来ないあの絶望を、もう一度味わうことになるなんて。
どうすればいい。誰かに、何かに、祈ればいいのか?
神と呼ばれるものが、人に対して何もしないということを、イヤというほど見せつけられたばかりなのに?
寝台の上の守護人に目をやった。
こうしているうちにも、毒は彼女の身体を蝕んでいく。一刻も早く、なんらかの手を打たないといけないことは判っている。なのに、俺は何も出来ない。
手を取って握っても、あちらから握り返されることはなかった。そんな力もないのだろう。
「──シイナ……」
胸が抉られるように苦しい。表情を歪め、喉の奥から声を絞り出した。
「教えてくれ。どうしたら、俺はあなたを救える?」
もちろん、答えはない。話せたとしても、俺のその問いに守護人が返事をすることはなかったかもしれないが。
彼女はいつも、容易に本音を見せることはしない。底のほうに隠されたものを出すのは、どうしようもなく切羽詰まった時だけ。
しかも、俺はそれを理解できない。
草原地帯で、いきなり妖獣が目の前に現れて、守護人が叫んだ言葉。
もう少し、あと少しなのに!
何が、「あと少し」なんだ?
そして、さっきも。
メルディに切りつけられ、毒にやられ、身体の自由が利かなくなり、ひどい苦痛に耐えていたはずだ。
でも守護人はあの時、確かに、微笑んでいた。
──トウイ、わたしはやっと、正しい答えを見つけた。
「わかんねえよ……」
俺は寝台に自分の頭を押しつけ、強く目を瞑った。
頼むから。お願いだから。
……行かないでくれ。