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5.巡る因果



 王ノ宮に到着すると、そこでも騒ぎが起こっていた。

 まだ瓦礫が片づけられていない表門の前には、昨日とは比べ物にならないほどの人だかりがある。老若男女、様々な人がいるのは同じでも、その雰囲気はガラリと様相を変えていた。

 周囲に満ちているのは怒りの空気、それだけだ。遠巻きに声を潜めてひそひそと遠慮がちに話す人など一人もいない。みんな、喚くような大声で抗議の声を上げていたり、悲鳴のような泣き声で自らの無実を訴えていたりで、阿鼻叫喚のけたたましさだった。

 それも当然だろう。

 表門の前には、兵と、彼らに引っ張られている民による列が続いている。

 民の腰には縄が廻され、それに追いすがろうとする家族や友人らしき人々を、縄を握った兵が邪険に追い払う光景があちこちで見える。周囲を取り巻く人々も、こぞって兵と王ノ宮のやり方を非難し、怒号を上げていた。

 破壊された門の前には警護がずらりと並んでいるけれど、彼らの顔に乗っているのは困惑と居たたまれなさばかりだった。

「……ひどいことをする」

 人混みに紛れてその様子を見たトウイは、眉を曇らせ暗澹とした口調で呟いた。

 彼の目が向けられている場所には、縄で繋がれている女性と、泣きながら彼女のあとを追いかける女の子の姿がある。年齢差からしておそらく親娘だと思うけれど、女の子の伸ばした手は、兵によって叩くように払われていた。

「これ、みんな……」

「ですね。近くの街から、疑わしく見える者を手当たり次第に連れてきたんでしょう。ここまで兵が無茶をするってことは、それだけ王の怒りの激しさが窺えるってもんです」

 ぼそりと落としたわたしの疑問に、ハリスさんも声音を抑えて返事をした。あれこれと込み上げてくるものがあるのは彼も同様なのか、言い終えてから、深く重いため息を吐きだしている。

「アホですね」

「否定はしませんが、ここでは心の中で言うだけにしておいてください」

 だって、どう見ても、連行されているのは普通の街の住人たちではないか。それも、一体どんな基準で「怪しい」と決めつけたのか、貧しい身なりをしている人が大半だ。もしかしたら兵たちは、カイラック王の怒りの矛先をかわすために、この中から適当に犯人をでっち上げて、処断するつもりなんじゃないか、とわたしは訝った。

 王ノ宮と神ノ宮のやり口は何度も見てきて、不本意だけれどわたしは彼らの考え方に慣れている。ここでは、罪などなくても、階級の高い人間があると言えばあることになってしまうのだ。証拠も証言も、それどころか調査も捜査も必要とされず。

「…………」

 強く奥歯を噛みしめる。

 どうしよう。どうすればいい? こうしている間にも、捕らわれた人々の列は、王ノ宮の中へと消えていく。悲鳴と泣き声と叫び声は途切れない。女の子が、「お母さん!」と大きな声で呼ぶのが耳に入った。

 わたしの右足が一歩前に出かけた、その時だ。


 どこかで爆発音が轟いた。


 一気に、その場は恐慌状態に陥った。

 甲高い絶叫がつんざき、パニックになった人々が入り乱れて逃げまどう。すぐ目の前には、破壊の爪痕も生々しい惨状があって、それが余計に彼らに恐怖心を与えているようだった。どちらに逃げればいいのかも判らず、人の波は渦となって、ぶつかったり転んだりする人が続出する。そこにまた他の人も巻き込まれ、さらに混乱は広がるばかりだ。

 表門の前に並んでいた警護が爆発音の方向目がけて一斉に走り、それに続いて兵たちも駆けだしていく。こうなってはもう、街から連れてきた人々のことなど、彼らの頭にはなかっただろう。手にしていた縄を放り出していく兵を見て、捕らえられていた人々が次から次へと列から離れ、逃げだしはじめた。

 わたしは頭の布を上から掌で押さえ込んだ。

「二人とも、行きますよ」

「は、どこに? リンシンを捕まえに?」

 なに言ってるの、ハリスさん。今から行ったって、リンシンさんの姿なんてあるはずないじゃない。


「この騒ぎに乗じて王ノ宮に入ります。警護も兵もいなくなった今しかありません」


 護衛官の同行も認められない、神獣の守護人として堂々と入ることも出来ないとなったら、こっそり侵入するしかないではないか。こうなったら無理やりにでもカイラック王に対面して、一連の騒動を仕掛けているのがリンシンさんだということを説明しなければ。この際、神獣の名前だってどんどん使ってやる。

「結局やっぱりそうなるんですね……」

 トウイがしみじみとした顔で、そう言った。

 わたしたち三人は身を低くして、人々が右往左往する狂乱の中へと突入していった。



          ***



 王ノ宮の中も、外と似たようなものだった。

 兵と警護が入り乱れ、「賊だ」「三の門が壊された」と叫びながら、剣を手にしてバタバタと走り回っている。王ノ宮の敷地内にも、どこかの街から連れてこられたと思われる人々がいて、この機に逃げようとして兵と争っていたり、怯えてうずくまったまま泣き喚いたりしていた。

「三の門というと、どのあたりでしょう」

「東側にある門のはずですよ、確か。ただでさえ王ノ宮の敷地は広いですからね、ここからは結構な距離がある」

 神ノ宮と違い、王ノ宮の構造についてはわたしもあまり詳しくない。ここに来る時はいつも馬車だったし、しかもその馬車は門を抜けてからもしばらく走った覚えがある。

「なんだか追い剥ぎになった気分だ……」

 トウイがぶつぶつ言っているのは、混乱のどさくさに紛れて、王ノ宮の兵から二人分の制服を拝借したためだ。だってしょうがないでしょ、あのままだと目立つんだから。これならわたしも、二人の兵に連行される一般人に見えるはず。

「不意をついて気絶させるのも、そろそろ慣れてきたのでは?」

「おかげさまで」

「着心地はどうですか」

「重いです」

 神ノ宮の護衛官の防具というと、革製の胸当てのような簡素なものだけれど、さすがに王ノ宮の兵は金属製で、造りもしっかりしていた。戦いの場では、もっと重装備になるのだという。その下の制服は、黒の詰襟。ハリスさんが着るとピシッとした軍人っぽいのに、トウイが着ると学生服みたいだった。

「……何か言いたそうですね」

「いえ、王ノ宮の兵はマッチョな人ばかりじゃなくてよかったなと思って」

 みんながみんな、使者についてきた護衛官のようなのばかりだったら、どう考えてもサイズが合わないもんね。この制服でさえトウイにはちょっと大きいのに。

「嫌味にしか聞こえないんですけど」

「誰も小さいなんて言ってないじゃないですか」

「思ってるでしょ?! 今、ものすごくそう思ってたでしょ?!」

「──ほら、いつまでもじゃれてないで、行くぞ」

 わたしとトウイの頭を、ハリスさんの大きな掌がぽんと軽く叩く。

 あれ、とわたしは少し驚いた。ハリスさんって、今までこういう距離感でわたしに接してきたことはなかったはずなのに。

 ん? と顔を覗き込まれて、小さく首を横に振る。……まあいいや。本人も気づいていないようだしね。


 なるべく他人に見咎められないように、わたしは俯きがちにして王ノ宮の中を進んだ。

 その両隣を、トウイとハリスさんが周囲を睥睨しながら歩く。


 他に捕らえられた人たちは、ほとんどが抵抗していた。兵たちの強硬姿勢を見て、このままだと無実の罪をかぶせられて処罰されてしまうのでは、という不安が膨らんできたのだろう。

 中には、しゃがみ込んで一歩も歩かない、という中年女性もいたけれど、それでも兵は彼女の腕を掴んで引きずっていこうとしていた。スカートから出た足が地面に擦られ、赤く剥けて血が出ても、お構いなしだ。女性は悲鳴を上げて、涙を滂沱のように流しながら、助けを求め続けている。

「…………」

 隣のトウイがぐっと歯を喰いしばっているのが判る。ハリスさんは前方に顔を向けたまま、「落ち着け」と低く言った。

「あ、あの、お待ちください」

 そこに、新しい声が飛び込んできた。

 布の下からそっと窺ってみると、女性を引きずる兵の前に出てきたのは、王ノ宮の侍女だった。どうやら、その暴虐行為を見るに見かねて、制止しに来たらしい。トウイのような無謀な人は、王ノ宮にもいるようだ。

「これでは、あまりに……せめてこの方を立たせてあげてくださいませ。このままでは、今度は傷のせいで歩けなくなってしまいます」

 優しく、やわらかな声だった。赤茶色の髪を後ろでまとめ上げたその侍女の人は、膝をついて女性に寄り添い、痛ましげな目を向けていた。


 ──ミーシアさん。


 一瞬、そう思ってしまった。

 もちろん、よくよく見れば顔つきはまったく違う。ミーシアさんよりもずっと小柄で、ほっそりとした身体つきをしている。ミーシアさんは朗らかな笑顔が似合うけれど、その人はおっとりと微笑んでいるのが似合いそうな容貌をしていた。

「うるさい! 邪魔するな、どけ!」

 けれど、ただでさえこの異常事態に気が立っている兵にとって、その人の制止は逆効果であったらしい。兵はカッとなって怒鳴ると、片手を思いきり振り上げた。

 殴られる。

 と思うと同時に足が動いていた。走りながら、するりと腰の鞘から剣を抜く。後ろで、ハリスさんが大きな舌打ちをしたのが聞こえた。

 今にも侍女の人を殴りつけようとしていた兵は、突如として駆け寄ってきた子供に目を丸くして動きを止めた。

 なんだお前──と動きかけた口が声を発するよりも、わたしの剣のみねが彼の腿部分を強打する方が早かった。ぎゃっと叫んで上体を屈ませたところを、今度は後ろ首を狙って振り下ろす。

 その攻撃で兵が失神したかどうかを確認する気はなかった。自分に向かってくる拳の痛みに耐えようと、目を強く瞑って縮こまっていた侍女の人の手をぎゅっと握る。え? とぽかんと口を開けた彼女を引っ張り、脱兎のごとくその場から逃走した。

「ま──待て!」

 一拍遅れて、近くにいた別の兵が怒鳴る。もちろんわたしは無視して走り続けた。

 後方から、「自分たちが追いますので、お任せを!」という、トウイたちの声が聞こえた。



          ***



「……あのねえ」

 ハリスさんが腕を組み、大量の苦虫を噛み潰したような表情をしたけれど、わたしは手を挙げて、その先の台詞を止めた。

「い……言いたいことは、わかってますけど……ちょっと待って……」

 今、空気を吐くのと吸うのとで忙しいから。両肩は大きく上下に動き、乱れきった呼吸が肺に負荷を与えて苦しくてしょうがない。心臓が飛び出しそうなほどにばっくんばっくんとリズムを刻んで、頭にまで響くくらいだ。

「自業自得です」

 冷たいことを言うハリスさんも、その後ろで下を向いて笑いをこらえているトウイも、わたしと同じ距離を走ったはずなのに、ほとんど平生と変わらないってどういうことなの。これが基礎体力の差というやつか。

「あ、あ、あの……た、助けて、いただいた、ようで……」

 侍女さんは、わたしよりももっと大変そうだった。ほとんど呼吸困難になりながら、ぜーぜーという喘ぎの合間に、なんとか言葉を出そうとしている。汗びっしょりだし、顔色もよくない。

「大丈夫ですか。気分が悪くなったりはしてませんか」

 侍女って、仕事はハードだろうけど、全力疾走することはあんまりなさそうだもんね。そう思って問いかけると、まだ息を荒くしながら、侍女さんはぱちぱちと目を瞬いてわたしを見返した。

「は……はい、大丈夫、です。そ、それよりも、あなたがた、は……」

「ただの通りすがりです。怪しい者じゃありません」

「いや、怪しいです、どう考えても」

「こんなに怪しい人、そうはいませんよ」

 ハリスさんがますます仏頂面になり、トウイが我慢できなくなったように噴き出す。

 侍女さんはその二人とわたしとを交互に見比べ、口を開きかけてから、また思い直したように閉じて、ふんわりと微笑んだ。

 ……この雰囲気、やっぱり、ミーシアさんに似てる。

「お助けいただき、どうも、ありがとうございました」

 息継ぎをしながら彼女はそう言って、頭を下げた。

「よくはわからないのですが、今のうちにお逃げになったほうがよろしいかと思います。街から連れてこられた人たちは、これから一人ずつ、厳しいお調べが行われると聞きました。その……兵の中には、少々乱暴な性質を持っている人もいるようですし……」

 侍女さんは言葉を濁したけれど、言いたいことは判る。戦闘がおもな仕事である兵が、人や建物を護ることを目的とする護衛官や警護とは違うのは当たり前かもしれない。

「そうですね」

 と答えてから、わたしは目の前にある石の壁に視線を向けた。とりあえず目についた建物の裏に廻って隠れたんだけど、ここは何だろう。

「これは護衛官の詰所です」

 侍女さんが敏感に察して、訊ねる前に教えてくれた。そこはミーシアさんと違うらしい。王ノ宮の護衛官詰所は、神ノ宮のそれの二倍くらいの大きさがあった。

 主殿まではまだ距離がある。

 それから侍女さんは、いちばん近い門までの道筋を丁寧に説明した。そこに向かってもどうせ警護ががっちり固めているから簡単に外に出ることは出来ないのだろうけど、「ありがとうございます」とお礼を言っておく。侍女さんはホッとしたように目を細めた。

「昨日からずっと落ち着かなくて、みなさんも大変ですね」

「はい……。王ノ宮が攻撃を受けるなど、今までにございませんでしたから。どこよりも安全な場所だと思っておりましたので、みな動揺しているようです。カイラック王も……ご自分の治世だけでなく、先代、先々代と遡ってもこんな不祥事はなかったと、それはもうお怒りでいらっしゃって……今朝も早くからずっと執務室にお篭りになり、宰相さまと今後のことをお考えになっていらっしゃるとか」

 こんな余計なことばかりするのなら、いっそ考えないほうがいいんじゃないの? これまでの扉の中でも思ったことだけど、カイラック王は側近に恵まれていない。近くにいたところで、宰相が王の暴走を諌めるようなことを言うとは思えなかった。

 ──でも、少しだけ、大事なことが判った。


 王は執務室にいる。

 他には宰相一人だけ。


「もうお仕事に戻ったほうがいいのでは? 今はみんなマトモな状態ではないので、あまり無茶なことはしないほうがいいと思います」

 侍女さんに向かってそう言ったところで、後ろからものすごく何かを言いたげな空気が伝わってきたので、付け加えた。

「わたしが言うことじゃないですが」

 侍女さんは可笑しそうにくすっと笑ってから、もう一度頭を下げた。

「そういたします。助けていただいて、何もお返しできないのは心苦しいのですが……わたくし、セラと申します」

 セラさん、か。

「シイナです。お元気で」

「はい。ご無事をお祈りしております。そのお名前、きっと忘れません」

「……はい」

 わたしは静かに頷いた。


 ありがとう。

 忘れない、と思ってくれる、その気持ちだけで嬉しいよ。


 セラさんは、何度も振り返りつつ、何度も頭を下げて、去っていった。

 わたしは彼女に手を振り、その姿が見えなくなったところで、後ろを向いた。

「というわけで、ハリスさん」

「はい」

「ここで、お別れです」

「…………」

 ハリスさんは、一瞬、息を止めたようだった。トウイが目を大きく見開いている。

 しばらく無言の間を置いてから、ハリスさんはゆっくりと、唇の端を吊り上げた。

「今度はなんの冗談です」

「冗談なんかじゃありません」

「正気ですか?」

「これ以上なく」

 ハリスさんの唇が上がるのをやめて、まっすぐになった。真顔のまま、腰に両手を当て、ふー、と息を吐く。

「……お次は俺か。今度は一体どんな口実で、自分から引き離すつもりです?」

「口実なんて、必要ありません。それはハリスさんの望みでもあるはずだから」

 ハリスさんが口を開きかける。そこから反論が出てくるのを遮るようにして、わたしは言った。


見つけた(・・・・)んですよね?」


 彼が息を呑むのが判った。赤茶の瞳に、くっきりとした狼狽が現れる。隠しようがないほど、びくりと大きく身体が揺れた。

「今が千載一遇の機会です。これを逃したらもう次はない。わたしはカイラック王のところに行かなきゃいけません。でも、ハリスさんが探したい人は別の場所にいる。それが判った以上、ここで別れたほうがいいです」

「──俺は」

 何かを言いかけ、口を噤む。自分でもなんと続けようとしたのか判らない、というような顔で、ハリスさんは視線をわたしからトウイへと移した。この目、ロウガさんと同じだ。彼もまた、迷っている。

「ハリスさん……」

 トウイは驚いたような表情で、ハリスさんを見つめた。

「探したい人って、誰なんですか。機会って、なんの機会なんです? わからないですよ。俺にもちゃんと説明してください」

「誰……なんの、って」

 ハリスさんの声が低く掠れた。額から汗が噴き出している。

 困惑したように言い淀み、顔を掌で覆う。そのまま下を向き、しばらく黙り込んでから、もう一度長い息を吐いた。

「──まったくだ。なんの機会なんだ? 俺は一体……何がしたいんだ?」

 独り言のように呟き、ハリスさんは顔を覆っていた掌を外して、わたしを向いた。

「今さら、ですよ。それもこんな時に。どう考えたって、今は自分の因縁を優先させている場合じゃない。それくらい、子供にだってわかる理屈だ。そうは思いませんか」

「でも、諦めたわけじゃなかったんでしょう? 草原地帯からずっと考えていたでしょう? ハリスさんはまだ、自分自身で決着をつけてはいない。今行かないと、もう二度と見つからなくなるかもしれません。それでもいいんですか、本当に?」

「…………」

 ハリスさんの目と口が歪んだ。


 それは、少し、泣き笑いのような表情にも見えた。


 ハリスさんの足が後ろにじりっと退がる。トウイは目を瞠った。

「ハリスさん?」

「……十年、だぞ」

 その声は、いつもの彼のものとはまったく違って聞こえた。

「十年以上、探し続けてきたんだ。くだらない権力争いで、父親だけでなく、どうして母親や幼い弟と妹まで殺す必要があった? 助けて、と叫びながら死んでいったあいつらのために、俺が何をしてやれるのか、ずっとずっとそればかりを考え続けてたんだ。神ノ宮に入ったのだって──」

「家族を……」

「お前のことバカにできねえよ。俺だってガキだ。こんな時に自分の勝手な都合で動くなんざ、いい大人のやることじゃない」

 握った拳が小さく震えている。絞り出すような言葉は、自分を責めているかのようだった。

「そんなことを言うのなら、わたしのほうが勝手です。最初からずーっと、勝手でした。自分の都合でみんなを振り回してきたのはわたしです。だからハリスさんも、自分のしたいことをしてください。それで、いいんです」

「……シイナさま」

「だったら、こう言えばいいですか。あの人はあの人で放置できないから、今のうちに見つけ出しておかなきゃなりません。だから二手に分かれましょう、と。言っておきますけど、わたしはハリスさんをクビにするつもりはありません」

「…………」

 ハリスさんはわたしを見て、少し笑った。苦笑のような、微笑のような、複雑なものが混じっている笑いだった。

「せっかくの生き証人を、殺してしまっても?」

「そこはハリスさんの裁量にお任せします」

「適当ですよね、ほんと」

「信用してますから」

「…………」

 ハリスさんは黙って目を伏せ、それから再びトウイに顔を向けた。

「悪いな、トウイ。少しの間、この厄介な人の護衛を、お前一人に丸投げすることになりそうだ」

「実のところ、まだよくわからないんですが」

 トウイは困惑した顔のままだった。

 けれど、それ以上は言わずに、頷いた。彼はそういう人だ。

「それがハリスさんにとって必要なことなら、行ってください。俺もなんとか頑張りますから」

「──すまない」

 ハリスさんに頭を下げられて、トウイはうろたえた。かえって怖いからやめてください、とオロオロしながら言うので、ハリスさんがぷっと軽く噴き出す。

「正直、どうするのかは自分でもわからない。ニコのことがあってから、俺もいろいろ考えたんだ。……けど、きっと、何らかのけじめはつけないといけないんだと思う。死んだ人間のためにも、自分のためにも。決着をつけたら、すぐに戻るから」

 必ず。

 小さな声で言ってから、ハリスさんは背を向けた。



「──言っておきますが、俺は絶対に何があっても離れませんからね」

 ハリスさんの後ろ姿を見送りながら、トウイが低い声で言った。

 うん。なに言ってるのかな。もちろん、トウイと離れるつもりなんてないよ。

 そばにいるって、約束してくれたでしょう?

「二人だけになっちゃいましたね」

「そうですね。とりあえず、これからどうするかをじっくり考えて」

「これならいいんですよね」

「は?」

「わたしのこと、シイナって呼んでくれるんですよね?」

「え」

 ぱっとこっちを振り返ったトウイの顔が赤く染まった。つられて、こっちも赤くなる。それって、そんなに照れること? ミーシアさんだってルチアさんだって、呼び捨てで呼んでたじゃん。

「や、それは、ちょっと」

「じゃ、トウイ『さん』」

「わかりました! 努力しますから!」

 努力するほどのことじゃないと思うんだけど。

「……行こう、トウイ」

 ちょっと笑って、わたしは言った。



          ***



 建物の陰から出ようとしたら、トウイが「ちょっと待ってください」と止めた。

「さっきの兵たちとバッタリ出喰わさないとも限らないし、少し様子を見てきますから」

 ハリスさんがいなくなって、彼も慎重にならざるを得ないのだろう。それはそうだよねと納得して、わたしは大人しく肯い、壁にぺったりと張り付いた。トウイは安堵するように目許を緩めてから、警戒しながら足を進めた。

 少しずつ彼とわたしとの距離が長くなるにつれて、心の中の不安が増していく。

 出来るなら、今は少しでも離れていたくない。

 トウイの姿はまだちゃんと視界の中にあって、ちょっと走ればすぐに隣まで行けると判っているのに、心臓がキリキリと締めつけられるように痛くなった。その隙を狙ったかのように、耳許で本当に大丈夫なのかと誰かが囁く。誰の声? わたしの声だ。

 ねえ、この道で本当に大丈夫なの?

 そんなの、わたしにわかるわけがない。どちらにしろ、災厄はトウイの頭上に降りかかる。マオールの街にいようが、神ノ宮の中にいようが、同じこと。どこかでじっとしているだけでは避けきれない。だったら災厄の中心部分に向かっていって、それを叩き壊す方向で動くしかないじゃない。


 残り時間はもう少し。

 あと少し、ほんの少し。

 もうちょっとで、今度こそ、トウイを死の運命から解放することができる。

 その前に何が起きる? 災厄はどんな形をしているの? 暴動か。反逆か。それとも──


 トウイの姿を一心に目で追いかけて、自分の考えに気を取られていたわたしは、こちらに近づいてくる足音に気づくのが遅れた。

 はっとして、素早く神獣の剣の柄を握る。建物の陰に隠れて窺うと、一人の兵が走ってくるのが見えた。

 下を向いているので顔がよく判らない。見えるのは赤茶の短髪。けれど、さっきの兵ではないようだ。あの人はもっと大柄だった。こちらに向かってきている兵は、トウイくらいの身長で、全体的にすらりと細い。ごつい体格の人が多い兵では、かなり珍しいくらいだ。ひょっとして、見習いか何か?

 わたしはその場でじっとして、壁に身を寄せたまま、マントの下で剣を抜いた。見かけはどうだろうと、油断するわけにはいかない。その兵はひょろりとした頼りない身体つきをしているのに、ほとんど気配を感じさせなかった。離れた場所にいるトウイがまだ気づいていないくらいだ。

 見つかっても、誰何をされるくらいなら、どうとでも切り抜けようはある。今は騒ぎを大きくしないこと。トウイが戻ってきたら、上手に合わせてくれるだろう。

 兵の足取りに迷いはなかった。まるで、わたしがここにいることを知っているかのように、まっすぐこちらに向かってくる。あっという間に間近まで迫ってきて──

 ようやく、顔を上げた。


 わたしは構えを解いて(・・・・・・)剣を下ろした(・・・・・・)


 その途端、脇腹に灼けつくような痛みが走った。

 目を下げると、自分のマントがぱっくり切り裂かれているのが見えた。兵の手には、銀色に光るナイフがある。あれで切られたのか、と思う間もなく、剣が手から滑り落ちた。

 がくんと膝が砕けた。

 しゃがみ込んで、両手を地面に突く。手足に力が入らない。じんわりとした赤い染みが、マントに丸く広がっていった。

 痛みとは別に、痺れが急速にわたしの身体の自由を奪っていくようだった。どうして。ナイフで切りつけられただけで、こんなことになるはずがないのに。地に爪を立てた指が、ぶるぶると震えはじめたのを見て、混乱した。

 立ち上がれない。汗がどっと噴き出して流れ落ちる。意識が朦朧とした。そんなバカな。これくらいの傷で。

 ──毒。

 ふいに閃いた。そうか、ナイフの刃に、毒が塗ってあったのか。それならわかる。

 詳しいって、自分で言ってたもんね。

「……だから言ったでしょう。何があっても密偵なんぞを信用してはいけないと」

 近くに立ってこちらを見下ろすその人の顔を振り仰ぐことも、もう、出来なかった。

 なんとか、ぎこちなく頭を動かすのが精一杯だ。滴り落ちる汗で滲んだ景色の中を、顔色を変えたトウイがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。

 何かを叫んでいる。その声が、なぜか聞こえない。だんだん、すべての感覚が遠くなっていった。

 闇に引きずり込まれる。

 トウイに向かって、わたしはゆっくりと微笑んだ。


 トウイ、わたしは、やっと。

 やっと──



 どこかで、鳥が鋭い声で鳴いた。



      (第十八章・終)






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