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4.悪夢



「ようこそ、おいでくださいました、守護さま」

 前と同じ大神官の台詞が広間に響き渡るのを、わたしはほとんど上の空で聞き流した。

 視線の先にいるトウイが、なんとなく困惑したような表情で、それでも剣の柄に手をかける構えは解かずに立っている。

 その顔に乗っているのは、未知の人間に対する、訝しさと、警戒心。

 ──ああ、そうか、と静かに納得した。

 ここにいるトウイにとって、わたしは「初対面の異世界人」でしかない。今のトウイはわたしを知らないトウイで、わたしと彼とが共有した記憶は、このトウイの頭の中には存在していないのだ。

 だから、扉を開けていきなり泣き出したわたしを、あんなにも怪しげに見返している。

 じわりとした喪失感が胸の中に忍び寄る。それをわたしは、瞳に浮かんだ涙と一緒に、強引に振り払った。トウイがわたしのことを覚えていない、ううん、わたしのことを知らないからといって、それが何だというのだろう。トウイは生きてる。息をして、動いて、ちゃんとわたしの前にいる。あの時、たくさんの矢に貫かれ、失われてしまった命が、まだ「ここ」にある。それで充分じゃないか。

 ……寂しいなんて、思ってはダメだ。

「神獣も、守護さまの訪れを待ち望んでおられました。ご来訪後は、一刻も早くお会いしたい、とのお言葉でございます」

「え?」

 その言葉に、わたしはきょとんとして、ようやくトウイから目線を外して大神官のほうに向けた。


 会う?

 神獣が?


 以前とは違う成り行きに戸惑った。

 前の時、わたしはひたすら怯え、混乱して、ただ無闇に泣いて騒いだ。そしてトウイたち護衛官に連れられ、部屋の中に閉じ込められたわけで、その点は確かに今とは異なっているけれど。

 でも、それ以外は同じように進むのだとばかり思っていた。

 部屋に入れられ、監視がついて、神獣はやっぱりわたしにはなんの反応もせず、それで結果として神官たちに「守護人ではない」という判断を下されるのかと。

「会うんですか? わたしと?」

 思わずそう訊ねると、大神官は少し面食らったような顔をして、ぱちぱちと目を瞬いてから、大きく頷いた。

「もちろんでございます。神獣にとって、守護さまはただおひとりの大事なお方。守護さまも遠い道のりをおいでになり、お疲れのこととは存じますが、なにとぞ神獣がおわします最奥の間まで、わたくしにご案内させていただきたく……」

 今回はずいぶんと低姿勢ですね、おじさん。前の時は無理やりわたしを監禁した上、その後は放ったらかしで、一度として会いにも来ず、一言の説明もなく、最後には「こいつは間違いだったからもう要らない」みたいなノリでさっさと処分しようとしたくせに。

 この人のせいでトウイは死んでしまったんだと思うと、どんなに頭を下げられようが、丁寧な物腰で接してこようが、到底信用する気にはなれない。また「人違い」だと判ったら、どうせすぐに掌を返したように態度を豹変させるに決まっている。

 少し皮肉な、醒めた笑いが口許に浮かぶのを自覚した。

 白装束を身につけ、頭を下げている人たちだって同じだ。わたしは決して、決して、彼らがトウイに対してした仕打ちを許したりしない。

「じゃあ、連れていってください」

 わたしがそう言うと、大神官は再び頭を深く下げて、恭しく肯った。

 こうなったら神獣にだって会ってやる。獣に言葉が通じるのかどうか判らないけれど、文句だって言ってやる。神様だというのなら、どうして迷い込んだ異世界人をあっさり見放すのか。こちらの世界で暮らす男の子の命を助けてやれなかったのか。慈悲も憐れみも持たない存在を、神だなんて認めない。間違えたのなら、あちらから謝罪があってもいいくらいだ。

 先導する大神官のあとに続いて歩いていくと、後方に控えていた護衛官たちが、一斉に膝をついて頭を下げた。あらゆることが、前回とは違う。叩頭したトウイが、身じろぎもせずに畏まっているのを見下ろして、心が沈んでいった。

 彼はもう、わたしのほうを見もしない。わたしから見えるのは、その赤茶色の髪に包まれた頭だけだ。

 後ろを振り返ると、わたしが開けたばかりの扉は、また壁の一部、ただの絵になっていた。

「…………」

 口を引き結ぶ。急に目頭が熱くなったけれど、なんとか涙は零さずにこらえた。

 ──きっと、帰る。

 その扉の絵から目を逸らすのは、かなりの意志の力を必要とした。



          ***



「やあ、来たね、ボクの守護人」

 建物内の奥深く、真っ白な廊下を通って入った、目に痛いほどの白い部屋の中で、その存在は大きな椅子に悠々と座って手の指を組み、わたしを待ち構えていた。

 唖然とした。

 白い肌、銀色の髪、金の瞳。唇の両端を吊り上げて笑う、幼い子供。

「……あなたが、神獣?」

「もちろん、そうさ」

 目を見開いてようやく絞り出した疑問に、子供は楽しそうに笑ってあっさりと肯定した。

 そうだと言われても、そんなに簡単に脳はその事実を受け入れられない。わたしはその場に立ち尽くし、食い入るように眼前の小さな背丈の生き物を凝視する。

「でも、神獣、って」

「その名がついているからといって、獣の形をしているとは限らない。そしてまた、人間の形をしているからといって、キミたちと同じ種族であるとも、限らない」

 そう言って、子供──神獣は、くすくすと笑った。

 この顔、この笑い方、確かに彼は普通の「人間の子供」ではないのだろう。その態度、その仕草には、子供のもつ稚さ可愛らしさは微塵もなく、その表情には、人間がもつ感情らしきものが欠片も見当たらない。わたしに対して関心はあるようだけれど、それは同格の相手に対して抱く関心ではなく、いうならば、人が昆虫か何かの生態を観察するものに近いように見えた。


 異質。別次元の何か。そこにいるのは、そういう存在だった。


「どういうことなの」

 わたしはひるむことなく、強い口調で問い詰めた。

 まるで判らない。この神獣が本当に神様というものであるとして、どうしてわたしに扉を開けさせたのか。あんな「ゲーム」なんて悪趣味な取引を持ちかけたのか。神獣はこの世界で最も高潔で賢い……トウイはそう言っていたのに。

「どういうこと、とは?」

「わたしはあなたの守護人なんかじゃ」

「キミはボクの守護人だよ。なにを言ってるの?」

 あっさり言われて絶句する。なにを言ってるの、とはまるきりこちらの台詞だ。前の時は、わたしにひとつも興味を持たなかったじゃないの。だから神官たちは、わたしを「守護人ではない、間違いだった」という判断を下したんじゃないの。

「やれやれ、キミは何も判っていないんだなあ」

 神獣は面倒くさそうに首を振ってため息を吐いた。わかんないのはあんたでしょ、とわたしが小さく毒づくと、ドアの手前で跪いていた大神官の身体が狼狽しように揺れたが、知ったことじゃない。可笑しそうに笑いを漏らした神獣も、大神官のほうは一瞥すらしなかった。

「いいかい? あの狭間に落ちたのは、これまでもたくさんいた、と言っただろう?」

 あの真っ暗な闇しかない場所。わたしと同じように、いきなり生まれ育った世界から切り離されて、闇の中に放り込まれてしまった人が、わたし以外に、たくさん。

「狭間に落ちた人間は、『扉を開ける』。そこまではみんな同じさ。けれど、一回目(・・・)は、ボクの守護人じゃない。それだけでは、まだ誰も、ボクの守護人としての資格を有さない。そういうこと」

「…………」

 閃くように、わたしはその言葉の意味を悟った。

 そして、慄然とした。



 一回目。

 狭間という、あの闇に落とされた人々は、扉を開ける。

 だって、他に、どうしようもないからだ。何もない真っ暗な場所。あそこに落ちて、目の前には白く輝く扉があり、それでもそれを開けずにいられる人は、多分いない。

 そうやって扉を開け、こちらの世界にやって来る。そこから辿る経緯は大体わたしと同じなのだろう。困惑し、混乱し、泣いて叫んで、帰りたいと願う。その願いは叶わず、神獣に無視をされ、「守護人」と認められなかった彼らは、無慈悲に存在を消されることになる。

 そこで──そこで、きっと。

 誰かが死ぬのだ。わたしと同じように。こちらにやって来て、優しくしてくれた人、親切にしてくれた人が死んでしまう。そこに至る経緯は違っても、最終的には必ず、自分にとって大事な人の命が失われる。

 そしてまた、強制的に狭間に戻され、選択を迫られる。

 帰るか、やり直すか、と。

 再び扉を開けずに帰れば、こちらの世界の人々の頭から、迷い込んできた来訪者の記憶はすっぽりと抜ける。「はじめからいなかった人間」として、誰の心にも残らない。死んでしまった人は死んでしまったまま、時が流れる。

 数百年の間、この世界に守護人は現れなかった、とトウイは言った。

 違う。

 その間、何人も、何人も、異世界人はあの扉を開け、こちらの世界へとやって来ていたのだ。ただ、それが誰の記憶にも、記録にも残っていないだけ。数百年もの間、やり直すために再び扉を開けた人間がいなかっただけ。

 もう一度扉を開けて、やり直すことを選べば──



「つまり、二回目(・・・)に扉を開けた時点で、キミはボクの守護人になった、ということさ。わかるよね?」

 ゲーム、とあの狭間で、子供は言った。

 そうだ、これはまさに「ゲーム」としか言いようがない。差し出した遊びに乗るか乗らないか、神獣にとって興味があるのは、ただそれだけなんだから。

 ゲームに乗った人間だけが、「守護人」として認められる。……そういうこと。

「守護人は、神獣に安らぎを与えられる唯一の人間、と聞いたはずだろう? その通り、扉を開けることを自ら選んだ人間だけが、ボクを楽しませることの出来る、唯一の存在だ。それを、守護人と呼ぶ。せいぜいボクを楽しませておくれ、ボクの守護人」

 あははははは、と楽しそうに笑う声が、頭にがんがんと響いて、眩暈がした。



          ***



 それでも、わたしはその道を進むしかなかった。

 たとえ「神獣」の正体が、高潔でもなんでもない、性根の腐った、タチの悪い、腹立たしい、鼻持ちならない、不愉快な「子供の形をした何か」だということが判っても。わたしは、自分の意志で選んで扉を開けたのだ。開けた以上は、後戻りなんて出来るはずがない。

 絶対に、今度はトウイを助け、自分の世界に帰る。

 それだけを胸に、わたしは「二回目」を開始した。

 けれど実際、思っていた以上にそれは容易なことではなかった。今回は、前回とは、何もかもがまるで様相を変えてしまっていたからだ。

 神獣がわたしを守護人と認めた。ただそれだけで、大神官をはじめとした神官たちも、それ以外の人々も、がらりと態度が変わった。誰もがみんな、わたしの前では膝をつき、頭を下げる。まるでわたしが高貴な存在ででもあるかのように。

 部屋は以前のような狭いものではなく、やたらと豪華でだだっ広いところが私室として与えられた。ここにあるものすべてお好きにお使いください、と言われたけれど、なにしろ面積が大きすぎて、マラソンするくらいしか有意義な使い道が思いつかない。

 クローゼットには、ずらりと煌びやかなドレスみたいな衣装が並べられている。身の回りの世話には何人もの女の人が付いて、洗顔から食事までつきっきりで面倒を見てくれるので、居心地悪くてしょうがなかった。今回は頼まずとも入浴させてもらえるようになったとはいえ、身体まで洗ってくれようとするから、わたしは大慌てでお断りしなければならなかったくらいだ。

 部屋に閉じ込められるようなことはないものの、ドアの外には「警護」と呼ばれる屈強そうな男の人が二人も立っている。出入りは自由、ということだけれど、ちっとも自由になった気がしない。


 ──そして、護衛官は、誰もわたしの部屋には入って来なくなった。


 前回は、「見張りをつけている」ということを、わたしの頭に刻みつけさせる意味もあったのだろうか。暴れたり、物を壊したり、勝手に死んでしまったりしないように、そうやって恫喝していたのかもしれない。

 今度はその必要もなくなったからか、それとももともと護衛官としての職務には含まれていないことなのか、彼らはわたしが部屋の外を出た時にしか姿を見せなくなった。

 トウイと、ハリスさんと、ロウガさん。

 顔ぶれは同じなのに、彼らもまた、前回とはわたしに対する態度がまるで違う。そもそも、わたしの前にいる時は、必ず顔を伏せているので、目を合わせることも出来ない。それ以外はわたしの後ろで、ただ無言で護衛をしているだけだ。

 勇気を奮って話しかけてはみたけれど、三人のうち誰も、まともに返事をしてくれる人はいなかった。無反応ではなく、深々と頭を下げる、それだけ。わたしと口をきいてはいけない、というのは、どうやら前のように「監視の対象だから」という理由ではなく、「身分の隔たりがあるから」という理由らしかった。


 神獣の守護人、というのは、彼らにとって、神獣同様、敬わなければならないものであるのだと、やっとわたしは気づいた。


 正直、神官や大神官がわたしに向ける、オーバーすぎるほどの持ち上げ方は、気味が悪い、の一言だった。神獣というのがどういう生き物であるのかを知っているためかもしれないし、わたしが彼らをこれっぽっちも信用していないためもある。

 だからわたしは、何に対しても、ちっとも嬉しいと思わなかった。広い部屋も、綺麗なドレスも、豪勢な食事も、厚遇されればされるだけ、心は重くなっていく一方だった。この人たちは、「守護人」の本当の意味が判っているのか、と時に苛々とした気分を持て余すこともあった。

 100日間。

 それだけの期間、彼らが求める守護人としての立場を守っていればいいんだ。そうすれば、トウイは助かる。今回は前回とはまったく成り行きが違うんだから、きっと大丈夫。彼が死ぬことはない。

 わたしはそればかりを一心に念じて、大人しく神官たちに言われるがまま行動した。裾の長ったらしい衣装を身につけ、王ノ宮で王様とも謁見し、よく判らない儀式や式典などにも出席した。連日長い時間椅子にひたすらじっと座っているのは、拷問にも近い苦行であったけれど、我慢した。

 わたしの後ろでは、トウイが護衛として立っている。

 もうすぐだからね。一方的に押しつけられた「主人公」なんて役目、わたしが解放してあげるからね。ただ、100日の間、生きていればいい。それだけなんだから。

 きっと──きっと。



 三十日以上、何事もなく過ぎた。

 こちらでは時間の数え方が違うし、一日は二十四時間ではない。けれど、こちら基準の「100日」だよ、と神獣は言っていたから、もう三分の一近くは進んだことになる。

 わたしは部屋の窓際に椅子を置き、そこに腰かけて、ぼんやりと外を眺めることが多くなった。

 衣食住に不自由はない。でも、日に日に自分の身体から何かが抜け落ちていくようだった。ふと気がつくと、帰りたい、とそればかりを思っている。

 あと七十日、こんな毎日を過ごさなければならないのか。守護さま、と呼ばれて、誰にも目も合わせてもらえない、空虚な日々。神ノ宮の人々は、守護人、と名のつくものがそこにあればそれでいいのであって、それが実際にどんなものであるのかは、まったく興味を示さなかった。崇めて、敬って、頭を下げていれば、それでいい。自分でも、自分が中身のない人形になった気がする。

 ……疲れる。

「あの、守護さま」

 遠慮がちにかけられた声に、ぴくっと全身を揺らして振り返った。

 そこには、今までベッドを整えていたはずの女の人が、こちらを向いて立っていた。侍女、と呼ばれるわたしの世話をしてくれる人たちは数人いて、特に名前を聞いた覚えはないので誰が誰かもよく判らない。しかも、ほとんど顔を伏せている。だから今ここにいる、赤茶色の艶やかな髪をアップにして、頬を健康的なピンク色に染めたこの女の人の顔も、薄っすらと認識している程度だった。

 驚いたのは、何もしていない時に、彼女たちのほうから声をかけられたことが、今まで一度もなかったからだ。

「ご無礼、どうぞお許しを……ひょっとして、ご気分がよろしくないのではありませんか」

「……え、と」

 わたしはどう答えていいものかまごついて、彼女の顔を見返した。おそらく十代後半か二十代くらいのその女の人は、こころもち腰を低くしているけれど、その目はまっすぐわたしに向けられて、しかも心配そうな色をたたえている。

 こんな顔を向けられたのは、こちらの世界に来て、はじめてじゃないだろうか。

「ご体調がすぐれないのではございませんか」

「……いえ、そんなことは、ないです」

 特別、身体に不調があるわけではない。それは自分でよく判っている。

 悪くなっているところがあるとしたら、それは肉体のほうではなく、精神のほうだ。

「ですが、最近、お食事もあまり召し上がらないようですし……こちらのものは、お口に合いませんでしょうか」

「……そんなことは、ないです」

 喉が詰まった。もう一度、同じ台詞をバカみたいに繰り返し、顔を下に向ける。

 こちらの食べ物を、美味しいと思ったことはない。我慢すれば食べられないことはない、そんな感じだ。この世界ではご馳走なのかもしれないけれど、もとの世界でお母さんが作ってくれた食事のことを思い出すと、どうしたって一向に箸が進まない。

 どれだけ残しても怒られはしない。せっかく作ったのにと不快な顔をされたりもしない。ただ淡々と出され、淡々と下げられる。

 口に合わないのか、と問われたこともなかった。

 わたしが何をどう感じるのか、考える人なんて誰もいないと思っていた。

「差し出がましいことを申しますが、どうぞ、なんでも仰ってよろしいのですよ。守護さまは、ご不満など一言もお口に出されませんけども、ご自分のお好みなども、どんどんわたくしどもにお申しつけいただければよろしいのです。普通のお食事が進まれないのでしたら、甘いお飲み物などをお持ちいたしましょうか。それとも、果物などでしたら少しは喉を通りやすいでしょうか」

「…………」

 優しく労わってくれる声に、突っ張っていた心がぽきりと折れた。


 ぼと、と大粒の涙が落ちる。


 目の前の柔らかい身体に腕を廻し、頬を寄せ、ぎゅっと抱きついた。女の人は、そのまま受け止めてくれた。温かい弾力が、お母さんを思い起こさせ、ますます涙が零れた。

「疲れたの」

「そうでございましょう」

「──さびしいの」

「ええ、ええ、そうでございましょうとも」

 ふわりと頭を撫ぜられる。侍女の人たちだって、わたしに勝手に話しかけるのは禁じられているはず。ましてや、こんな風に近寄って慰めることも。上の人に知られたら、この人は罰を受けることになるかもしれない。

 それでも、萎れた女の子を放ってはおけない。こういう人もいるのだ。

 きっと、トウイもそうだったのだろう。目の前で泣いていたから、どうしても手を差し出さずにはいられなかった。その時のわたしは、守護人ではない、ただの頼りない女の子であったから。

 わたしは決して、トウイの前ではこんなにも弱った姿を見せたりしない。だから彼はもう二度と、わたしに話しかけてくることはない。あの親しげな笑顔を向けてくることもない。

 彼が生きていてくれればいい。それを望んだのはわたし。

 けれど。

 ……やっぱりわたしは、大切なものを失った。

「名前、聞いてもいいですか」

 ごしごしと頬を拭って顔を上げ、そう問うと、彼女はにっこりと笑った。

「ミーシアと申します」





 わたしは何もかも、甘かった。

 前回とは流れが違うことに安心し、ただ、孤独に耐え、守護人として何事もなく過ごしていればいい、と考えていた。

 けれどその考えは、とんでもなく浅はかで、幼く、甘ったれた見通しでしかなかった。

 それは結局、「何もしない」のと同義だった。

 そのことを思い知らされたのは、扉を開けてから、三十八日目。


 ──神ノ宮は、隣国カントスからの流民の集団によって襲われた。


 カントスでは大きな噴火が起こり、作物が取れず、流通が滞り、数十年に一度あるかないかという飢饉に見舞われていた。

 その災禍の最中に王が急逝するという不幸が相次ぎ、次代の王となるべき王太子はまだ子供。王宮内は紛糾し、誰が後見人となるべきかで揉めてばかりで、民の救済にまでは手も頭も廻らない。

 貧困に喘ぎ、限界まで飢え、地面に生えた草さえ食べ尽くした民衆の怒りは、国の身勝手な政官たちではなく、自国よりも数十倍恵まれて豊かな隣の国、ニーヴァへと一直線に向かった。

 折しもその時、ニーヴァは守護人来訪の報に沸き上がっていたからだ。王ノ宮では毎日のように豪華な祝典が続き、平民までが特別配給や恩赦などのおこぼれをあずかって浮かれて騒いでいる。その日の食べ物さえ事欠くカントスの人々の、羨望が嫉妬に、嫉妬が憎悪へと膨れあがっていくのは、ある意味当然の成り行きとも言えた。

 「神」がいるから、ニーヴァはあんなにも栄えているのか。

 では、なぜその神は自分たちを助けてはくれない。

 ここに、今ここに、こんなにもすぐ近くに、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つ人間たちが溢れているというのに!

 憎悪の針が振りきれてしまったカントスの人々は、暴徒となってニーヴァに押し寄せた。

 街を荒らし、火を点け、食料を手当たり次第に貪って──その勢いで、一気に神ノ宮へと襲いかかった。もとより自暴自棄になっている彼らに、言葉や理屈は通じない。

 まともな武器は持っていないとはいえ、神ノ宮の警護と護衛官たちをも上回る人数が相手では、彼らを止めきることは出来なかった。結局、王ノ宮からの兵士たちの応援が到着する前に、神ノ宮の人々は次々に打たれ、殴られ、奪い取られた剣で突き刺されて死んでいった。

 暴徒から守護人を護ろうとして戦っていたトウイは、その中にまだ十歳くらいの子供がいるのを見つけ、剣を向けるのを躊躇した隙に、腹部を刃物で一突きされた。

 膝をついたところを、たくさんの人たちに取り囲まれる。彼らの手にあるものは、大きな石であったり、太い棒であったり、包丁のようなものであったり。

 それらが一斉に、トウイに向かって振り下ろされて──

「…………っ!!」

 わたしの狂ったような叫びは声にはならなかった。



 ガシャン!

 悲鳴が音として発される前に、わたしは再び、暗闇の中に放り込まれた。

「あははは! 神が人間を助けるって? 人というのはなんて愚かな幻想を抱くんだろう!」

 神獣の笑い声だけが、遠のく意識の中でこだまする。

 夢であれば、どんなによかったか。

 わたしの最大の悪夢は、これが自分にとって、まぎれもない現実であるということだった。




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