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4.求心



 事態が動いたのは、その日の夕方だった。

 ロウガさんミーシアさんと別れた後、わたしとトウイとハリスさんは、三人でマオールの街の中で待機していた。何かが起きるだろう──リンシンさんが、何かをするだろうという予想はしたものの、具体的にどういうことになるかまったく判らなかったため、その時が来るまでなるべく目立たないようにこっそりと、様子を窺っていることにしたのだ。

 陽が傾きはじめてきた頃から徐々に、さわさわとした雰囲気が広がっていくことに気づいた。あちこちで、口許に手を当てながら、ひそひそと話す住人たちがいる。

 特に耳を澄ませなくとも、彼らの口から「王ノ宮が」という言葉が出ていることは容易に見て取れた。

「どうやら、はじまったようですね」

 ハリスさんが身を屈め、わたしの耳元に口を寄せて囁く。わたしは少し眉を寄せ、浮き足立つ街を眺めて、頷いた。


 はじまった。


「何があったか、それとなく聞き込んでみましょうか」

「シャノンさんならもう詳しく知っているかもしれないし、俺行ってきます」

「ちょっと待って」

 別々の方向に足を動かそうとするハリスさんとトウイの衣服を掴み、わたしは二人を引き留めた。行動が早いのはいいけど、今はバラバラになってもらったら困る。

「もしかしたら、目を覚ました王ノ宮の使者と護衛官がわたしたちを探しているかもしれないし、街の中をうろうろするのは控えましょう。シャノンさんも、これ以上こちらの事情に巻き込みたくはありません」

 預かってもらっている赤ちゃんのことは気になるけれど、今わたしたちが近づくことのほうが、よほどあの子にとっては危険かもしれない。シャノンさんが面倒を見てくれているのだから、きっと大丈夫だろう。

「では、どうします? もう少しはっきりするまで様子見しますか」

「もちろん」

 わたしは頭に巻きつけている布をぐっと目深に下ろし、きっぱり言った。

「王ノ宮まで行って、何が起きたのかをこの目で直接見ます」




 マオールの街から王ノ宮へは、馬には乗らず、徒歩で向かった。

 普通に歩けば、小一時間くらいだろうか。けれどそんな時間をかけずとも、王ノ宮の建物が視界に入る前から、なんらかの異変があったことは確信できた。

 前方に、立ち昇る黒い煙。

 赤くなりつつある空に線を描くようにして、上方へと向かう幾筋もの煙が、ゆらゆらと揺らめいているのが見える。

「……火事?」

「いや、というか、これは」

 三人で目を見交わした。他人の頭の中を覗くことは出来ないけれど、この時はお互いになにを考えているのかよく判った。たぶん、今のわたしたちが浮かべている記憶は同一のものだ。

 揃って無言になり、何かに急かされるようにして王ノ宮を目指す。やがて、建物が見えてきた。それから、広大な敷地に通じる、王ノ宮の表門が──

 無残に壊れているのが、見えた。

 頑丈な石で造られた大きな門。わたしも、ここを通る時、馬車の窓から何度も見た。王ノ宮の威容を誇るように、美しい四角形の石を高く積み上げ、てっぺんの台座には、ぴかぴか光る立派な彫り物が飾られていた。開閉式の門扉は、二人がかりでないと開けられないほどに重かったはず。

 それが現在は、巨大な瓦礫の山と化している。門扉がひしゃげて吹っ飛び、整然と積んであった石は砕かれて崩れ、さながら採石場のような眺めだ。それらの石のあちこちは焦げたように黒く染まり、隙間からちらちらと小さな炎が赤い舌を伸ばして、他に燃やすものはないかと獲物を狙っているかのようだった。

 周囲は野次馬たちがたくさん集まって、隣の人と耳打ちしながら遠巻きに見物していた。


「……これ、リンシンの」

「こんなことする人、他に思いつきませんね」

「またテトの粉を使ったのか。あいつ一体、どれだけの危険物を持ち歩いてやがるんだ」


 大勢の見物人の中に紛れて、わたしたちは声を潜めて話した。トウイは唖然としたような顔、ハリスさんは忌々しげに舌打ちしている。

 観衆たちはその惨状を前に、何があったのかを検討し合うことに夢中だ。剣を携えた男性二人と、ほとんど布に隠れて顔が見えない子供に関心を向ける人はいないようだった。

 一体何があったんだ、という声ばかりが聞こえてくることからして、詳しい経緯を知っているのは誰もいないらしい。ものすごい音がした、とか、来てみたら門が壊されていた、とかで興奮しているのがほとんどだ。

「まさかどこかの賊が王ノ宮を襲おうとしたんじゃないだろうね」

「いくらなんでも、そんな命知らずな輩はいないだろう」

「いやあ、しかし、見てごらんよ、あのザマを」

 好奇心交じりの憶測と噂をしながら、人々の目が崩れた門へと向かう。

 数人の王ノ宮の警護が、砕けて壊れた石の残骸をどかし、そこからずるりと引っ張り出しているのは、同じく警護の無残な遺体だった。制服も革鎧もずたずたに裂けて、頭も顔も潰れ、全身から血を流している。瓦礫の間からは、まだ突き出している腕や、下敷きになっている足も覗いていた。おそらく、門の番をしていた人たちなのだろう。

 神ノ宮で、わたしの私室の前に立っていた警護や、門前で踏ん張っていた警護の人たちの顔が浮かんだ。


 リンシンさんにとっては、この人たちもすべて、ただの「障害物」でしかなかったのか。


「……国で最も堅固と言われた王ノ宮も、実は大したことないのかもしれないねえ」

 野次馬の中の誰かが、ぽつりと小さく言った。同意の声は上がらなかったけれど、否定の言葉も聞こえない。

 人々の中にあった、王ノ宮に対する絶対的な怖れ、もしくは信頼、そういうものがぽろぽろと剥落していくのが、目に見えるようだった。

 ガラン、という大きな音が響く。積み重なった石を上から乱暴に転がしている音だ。王ノ宮の警護たちも平常心ではいられないのか、やり方が相当荒っぽい。同僚を早くこの中から救出しなければと気が焦っているのかもしれないけれど、爆発と炎で、まだ残っている部分も脆くなっているのに──

 そう思ったそばから、撤去作業をしている警護の足場がぐらりと揺れた。

「危ない!」

 わたしが叫ぶと同時に、重なった石が音を立てて崩落した。上に乗っていた警護がバランスを失って倒れ、石の間に足を挟んで悲鳴を上げる。瓦礫の山から勢いをつけて転がり落ちる大石が、一応もとの形を保っていた石門までも巻き込んで、再び倒壊をはじめた。

 黒煙と土煙がもうもうと舞い上がり、警護たちが大声を上げて慌てて逃げる。周りの人々も驚愕したように叫びながら、蜘蛛の子を散らすように走り去った。

 わたしたちも、逃げまどう人々の波と一緒に、その場から離れることにした。




「──あれが、リンシンの言ってた『道』か?」

 王ノ宮の門が見えなくなったところまで来て、顔を顰めたハリスさんが、ようやく普通の音量に戻して言った。

「まさか、門を壊すから、その騒ぎのどさくさに紛れて王ノ宮の中に侵入しろ、って意味なんじゃないでしょうね」

 トウイも不得要領の顔つきで首を捻っている。

 そして二人してわたしを見て、ますます表情を歪めた。

「確かにやりかねないが……」

「本当にその通りに実行しそうで怖いですよね……」

「聞こえてるんですけど」

 ぼそぼそと言い合ったって、ちゃんと聞こえてます。トウイもハリスさんも、わたしのことをどういう目で見てるわけ?

「そんなことが出来るわけがないじゃないですか。どう考えても、これから王ノ宮の警戒は以前よりもずっと厳しくなるだろうし、そこを押し通ろうとすれば、あっちだって遠慮なく斬りかかってきますよ」

 そうまでして王ノ宮に入ったって、わたしにメリットはない。大体、カイラック王だって、いつまでもわたしをマオールの街に放置しておく気はないはずだ。護衛の同行を認めて欲しい、というわたしの要求を呑んでくれさえすれば、素直に王ノ宮に向かう。それがいちばん穏便な解決法ではないか。

 リンシンさんも、そこまでわたしを、頭に血が昇りやすい単純バカ、と考えているわけではないと思う。ないと思いたい。


 ……じゃあ、何が目的なのか。


「幻獣が見せた未来では」

 わたしは口許に拳を当てて、思い出しながら口にした。

「まず、暴動が起こるんでしたよね」

 トウイが「そうですね」と返事をして、同じく考えるように眉を寄せた。

「どこの街かは、判りませんでしたが」

「ひとつの街、とは限らないだろう。どこかで起こったものが連鎖していく、っていうのはよくある話だ。今までの歴史の中でも、なかったわけじゃない。為政者に不満を抱いて起こした民衆の暴動が、最初は小さなものだったのに、だんだん膨れ上がるように大きくなっていく、ってのはな」

 ハリスさんの言葉に、わたしも頷く。今まで開けた扉の中でも、そういうケースはままあった。最終的に、その暴動は神ノ宮に向かってくることが多かったけれど。

 でも、今回の場合、暴動はきっかけに過ぎない。

「ひょっとして、暴動はあちこちで起こるのかもしれません。王ノ宮は、その鎮圧のために、兵を分散して派遣させることになる。それでもなかなか解決しないと、時間の経過と共に、兵も疲弊してくる。そこを狙って、砂の国が攻めてきたら……」

「国力はニーヴァのほうが断然上のはずなんですがね。あちらとこちらでは、兵の数も、資金も、段違いだ。普通なら、ゲルニアなんてあっさり返り討ちにするところですよ。しかしその条件下で、なおかつ、あちらの国に新しい技術なんてものがあったとしたら、間違いなくこちらのほうが不利になるでしょうね」

 ハリスさんが肩を竦める。

 そう。そして、ニーヴァは負けた。あの未来では。

「……砂の国が攻めてきたら、滅亡までは一直線です。わたしたちでは、どうにもならない」


 災厄は、大きくなりすぎると、もう人の手では止められない。

 それよりも前に、なんとかしないと。


 わたしは二人に向き直った。

「ハリスさん、トウ」

 言いかけて、ぴたっと口を閉じる。

 トウイが、じーっとこちらを見返していることに気づいたからだ。

 ──なんか、その目が、ものすごく期待している。しているっぽい。一直線の視線がちっとも逸れない。落ち着かない。

「……ハリスさん、と、もう一人の人」

「なんで!」

 トウイの異議申し立ては無視することにした。

「どちらにしろ、あちこちに警護や兵が立って厳戒態勢を敷いているこの状態では、これ以上王ノ宮に近寄れないみたいです。もうすぐ完全に陽が落ちますし、一旦、マオールに戻りましょう」

 言うだけ言って、くるっと身を翻し、すたすたと足を動かすことに専念する。後ろを歩くハリスさんが、不思議そうにトウイに訊ねた。

「なんだよ、お前たち。何かあったのか?」

「何もありません!」

 ふてくされたトウイの声と、前方だけをまっすぐ見据えるわたしの声が、重なった。



          ***



 宿屋の入口には、王ノ宮のマッチョ護衛官二人が腕組みをして、阿吽像よろしく立っていた。

 失神から目を覚ましたらしい。遠目から見ても、頭から湯気を出しそうなほど不機嫌な顔つきをしているのが判るくらいだ。前を通っていく住人たちをいちいち睨みつけるので、みんなその場所を迂回するように歩いている。あれじゃ、宿屋に入るお客さんも敬遠しちゃうじゃん。営業妨害だよ。

「……入れませんね」

「入れませんね」

 建物の陰からそっとその様子を観察して、わたしたちは宿屋に戻るのを諦めた。あの調子じゃ、わたしたちを見つけた途端、襲いかかってきそう。筋肉ダルマの相手はなるべくならしたくない。

 しょうがないので、別の宿屋を探すべく、歩き出す。馬も荷物も置いたままだけど、お金の入ったカバンだけは持ってきてよかった。

「でも、王ノ宮はどうしてそんなに、シイナさま一人で、ってことにこだわるんですかね。神獣の守護人の行く先に護衛が同行するのは当たり前だと思うんですけど。俺たちが神ノ宮の人間だから、徹底的に排斥したいってことなんでしょうか」

 トウイの疑問に、ハリスさんが少し唸って、「……いや、というか」と、口を曲げた。

 右手を腰に当て、わたしの顔をちらっと見る。

「実は、前々から思ってたんですがね」

「はい」

「シイナさまは、王ノ宮に対して、自分が不在の間、神獣の守護人の名を自由に使って構わない、と言ったんでしょう」

「そうです」

「そして王ノ宮は、その言葉の通り、好き放題に守護人の名前を使ったわけだ。ある時は王ノ宮が神ノ宮よりも立場が上であると主張するため、ある時はありもしないロマンスを作り上げて王太子の人気取りをするために。……それから、ある時は」

 今度は、目線を暗くなった天に向けた。

「民の不満のはけ口にするために」

 トウイが目と口を丸くして、「な」と驚くように言った。

 ざっと周囲に視線を巡らせてから、声を低める。

「──シイナさまを?」

 信じられない、とその見開かれた目が言っているけれど、わたしは大して驚かなかった。カイラック王と大臣たちが、神獣の守護人をただの「異世界から来た娘」としか見ていないことは、わりとはじめのうちから知ってたし。

 神ノ宮は守護人を飾りの置き物にしようとし、王ノ宮は政治的に利用しようとする。言っちゃなんだけど、ずっとそうだったよ?

 だからそんなの、今さら、なんとも思わない。

「お前だって、あちこちの街で神獣の守護人についての悪評を聞いただろ。あんなもん、意図的に流しているやつがいない限り、この短期間でそうそう国の端まで届くもんか。しかも神獣や王に対する不敬にはうるさい王ノ宮が、その評が広まるのをただ黙認するだけで、歯止めをかけようという様子も見えなかった」

 砦の番人までが知ってるくらいだったもんね。

「思ったよりも守護人を祀り上げられなかったんで、途中から悪役に方向転換することにしたんだろう。そっちのほうが効果的だと気づいたんだ。ま、本人が表に出て釈明することはないわけだからな」

 トウイが両の拳をぎゅっと握りしめた。

「そんな……そんなの、あまりに勝手じゃないですか! 自分たちの都合だけで、すべての不利益をシイナさまにおっかぶせようとするなんて! これまでどんな思いで……って、シイナさま、なに平然とした顔してるんです?!」

「わたしはもともとこういう顔ですが」

「怒るところじゃないですか、ここは! ふざけやがって、人をなんだと思ってんだ!」

「…………」

 だって。

 トウイのほうが眉を吊り上げてカンカンになって怒ってるのに、もうわたしが怒る必要はないじゃない。

 わたしの代わりに、怒ってるんだから。


 ──そんなところを見たら、怒れないでしょ。


「まあ、王ノ宮の真意はともかく」

 ハリスさんが宥めるように、トウイの頭の上にぽんと掌を置く。それから、意味もなく視線をあちこちに飛ばしていたわたしのほうを見た。目が合った一瞬、にやりと笑う。なにその笑い方。

「想像以上に、上手くいきすぎた、ってことなんじゃないのかね。王ノ宮にとって、今や神獣の守護人の『名前』は、立派な政治の道具になりつつある。そこに当人が帰ってきたら、舌打ちの一つでもしたくなるんじゃないか?」

「というと……」

「実体を持った守護人の存在を、現在の王ノ宮はあまり必要としていない、ってことだよ。今さら、民に向かっていい顔をされたら困るんだ。少なくとも、この帰還を諸手を挙げて歓迎しようって向きはないだろう。そう考えると、守護人が王ノ宮に戻る時、護衛を排除しておきたいっていうのも判る」

 わたしはちょっと黙った。

「……つまり、わたし一人が王ノ宮に行くと」

「下手をすれば強制的に、今の表向きの話そのまま、一室に閉じ込もって外に出てこない、という状況にされるかもしれませんね」

 はあー、と三人で同時にため息をつく。

 進めば監禁、動かなければニーヴァの滅亡か。

 どこに突破口を見つければいいんだろう。



          ***



 でも実のところ、あまり考える時間はなかった。

 翌朝になると、マオールの街に、王ノ宮の兵が大挙して押し寄せてきたからだ。

 その数、百人以上。兵たちは、なんの前触れも断りもなく街の中に入ってくると、それぞれに散らばって、家や、店や、宿屋の中に片っ端から押し入り、徹底的に調べはじめた。

 ……何をって、怪しい人物がいないかどうか、をだ。

 要するに、王ノ宮は昨日の表門破壊を、何者かからの挑発行為、あるいは襲撃と受け取ったのだ。野次馬たちが話していたことを、あちらも同じように考えたということだろう。

 それで、怒った王は、兵たちに命令を出した。

 賊はまだ近在の街に隠れて機会を窺っているはず。そのような不逞の輩どもは即刻ひっ捕らえて自分の前に連れて来い。全員首を刎ねて見せしめにしてくれる。

 そのためには、手段を選ばない、と。

「──あのアホ王」

 わたしは二階の宿屋の窓から通りを見下ろしながら、ボソッと罵った。

 兵が強引に家の中に入っていこうとして、住人と揉めているのが見える。そんな光景は、ひとつだけではない。

 あちこちで怒号や悲鳴のような声が上がり、マオールの街は混乱に包まれていた。



 ……シャノンさんが、言っていた。

 湖の国の民の一件以来、この街の住人は、王ノ宮の兵に対して強い不信を抱くようになった、と。

 あの時、兵が門前に居座って人々の出入りをいちいち検めたことで、馬車商人は街に寄りつかなくなり、旅人も入れず、マオールの経済は一気に滞った。住人たちは普段通りの日常を過ごすことも出来ず不便を強いられ、びくびくと怯え、一部の兵たちとの間で様々な悶着も起こった。

 そして結果として、なんの説明もなく、調査は一方的に打ち切られて。

 もちろん謝罪などどこからもあるはずがない。住人たちは訳も判らず、不安と憤懣と鬱屈した気持ちをなんとか腹の底へと押し込め、苦労しながら時間をかけて、またもとの生活を取り戻していくしかなかった。

 あれ以来、この街にはくっきりと王ノ宮、特にそこの兵に対する嫌悪の感情がくすぶっている。今でも、王ノ宮の兵お断り、の札を掲げている店だってあるし、制服を着ていれば人々の視線も厳しい。

 それが、わたしたちがここを出発してから起こった「変化」。

 湖の国の民の集団死は、この街に、簡単には拭えないトラウマと禍根を残してしまったのだ。



 そのトラウマと禍根を、同じ形で刺激してどうするのか。カイラック王の短所が、最悪な方向で出てしまったとしか言いようがない。

「おおむね同意ですが、のんびり王を罵倒しているヒマもないようですよ」

 視線を下に向けて唇を噛みしめるわたしに、近くに立っていたハリスさんが耳打ちした。

 意識を自分のいる場所へと戻してみれば、下の階から言い争うような声が聞こえてくる。

 勝手なことをされちゃ困る、お客さんだよ、と声を張り上げて抗議しているのは、宿屋の主人のようだった。

「階段を上ってきますね」

 ドアの近くに張り付いて耳をそばだてているトウイが、剣の柄に手をかけながら小声で呟く。他の部屋のドアがバタンと勢いよく開けられる音がした。制止する主人を振りきり、兵が一室ずつ中を調べているらしい。

「どうします?」

「どうするも何も」

 マントを羽織って、いかにも高価そうな剣を持ち、見たこともない色の髪を隠している、男の子の恰好をした女の子。自分で言うのもなんだけど、これ以上怪しい人なんて、他にいないよ。

 こんなところであらぬ疑いをかけられて、トウイと引き離され、兵に拘束されている時間はない。

 あともう少し、なんだから。

「強行突破します。兵の人にはしばらく休んでいてもらいましょう」

 わたしも剣の柄に手をかける。

 ですよね、とトウイとハリスさんの声がハモった。




 時間が経つにつれ、状況は次第に悪化していった。

 街の至るところで、兵や住人の怒鳴り声が聞こえる。以前の一件で、王ノ宮の横暴を身に染みて思い知った人々は、兵の理不尽な命令に盲従するのを是とはしなかった。思わぬ反発を喰らい、そういったことに慣れていない兵たちは、動揺もあり、ますます居丈高に振舞いはじめるという、悪循環。

 そしてここにも、身分社会の弊害がある。本来、そのような問題が起きないよう、彼らを取りまとめ、統制を図るべき立場にいるのは、階級が高いというだけでその地位を得た人間なのだ。神ノ宮における神官、護衛官の上官と同じ。

 実力でそこまで上っていったわけではないから、圧倒的に経験が足りず、威張り散らすばかりで適切な指示がくだせない。ハリスさんによると、そういうやつらは、部下との信頼関係なんて、そもそも結ぶつもりもない、というのが大半なのだという。

 これでは、混乱は広がるばかりだ。

「シャノンさんと赤ちゃんは大丈夫でしょうか」

 気にはかかるけれど、そこかしこにいる兵たちの目から逃げるように動き回っている今の状態では、様子を見に行くわけにもいかない。わたしがそう言うと、ハリスさんは「大丈夫ですよ」と軽く答えた。

「あいつはあれで、人あしらいが上手ですからね。兵が入ってきたって適当にやり過ごすでしょう。万が一乱暴なことをされても、シャノンなら絶対に勝てるし」

 なんだかちょっと冷たいような気もするけど、それだけ信用してるってことなのかな。

 トウイもわたしと同じようなことを思ったのか、というより、たぶん少し違う方向に解釈して、複雑そうに首を傾げた。

「けど、大丈夫と言いながらも、やっぱり心配で駆けつけていくものじゃないんですか。恋人同士なら」

「誰と誰が恋人同士……あのな、誤解があるようだが、ていうかお前の中にあるのはそもそも誤解だらけなんだが、俺とシャノンは別にそういう関係じゃ」

 ハリスさんは、その反論を最後まで続けることは出来なかった。


 空気を切り裂くような、女性の甲高い悲鳴がつんざいたからだ。


 わたしたちはその場から動かなかったけれど、外にいた人や、近くの家から出てきた人たちは、一斉にその声のほうへと向かって走っていった。みんな、いつもとは違う街の雰囲気に、まるで全身に針を立てるようにして敏感になっている。

「あたしの子供! あたしの子供が!」

 女性の泣き声交じりの叫びが、喧噪をものともせずに響き渡る。彼女は、自分の子供のものらしい名前を何度も繰り返して呼んだ。

「なんだ?」

「どうやら兵が子供を突き飛ばして、怪我をさせたらしい」

「ひでえことしやがる」

 人に遮られて、女性もその子供の姿も見えなかったけれど、ざわめきから大体のことは伝わった。故意にか、偶然にか、王ノ宮の兵が子供に傷を負わせてしまったと。

「……まずいですね」

 ハリスさんが声を潜める。わたしもぐっと口許を引き締めた。

 この一触即発の空気の中、それでもなんとか危うい均衡を保っていられたのは、今まで王ノ宮の兵が住人に対して攻撃を仕掛けなかったからだ。一滴でも血が流れたら、その瞬間から両者は敵対関係となる。

 騒ぎを聞きつけ、人だかりは増えていく一方。それにつれて、兵もこちらに集まってきた。ただでさえ気が立っていた住人と、上からの命令には従わなければならない兵とが睨み合う。

 双方ともに興奮して、冷静な判断力を失いかけている。これでは、乱闘騒ぎが起こるのは時間の問題だろう。

「……もう一度、王ノ宮に行きます」

 わたしの言葉に、トウイとハリスさんが厳しい表情で頷いた。

 中心はやはりあの場所だ。あそこに辿り着かなければ、何も収まらない。

 リンシンさんの目的は、これだったのか。


 暴動を(・・・)早めること(・・・・・)





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