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3.未明



 一日経ち、二日経っても、王ノ宮からはなんの連絡もなかった。

 その間、この大人数でシャノンさんの家にお世話になっているわけにもいかないので、マオールの街の宿屋に滞在場所を移すことにした。なるべく街の真ん中から離れた、ひっそりと目立たないところを選んだつもりなのに、その宿屋はやけに広くて内装も立派で、ベッドだけでなく椅子やテーブルもあったりして、腰が引けた。

「ちょっと豪華すぎませんか」

「マオールでは、これくらいが中の下なんですよ」

「かえって落ち着かないんですけど」

「すっかり貧乏臭が身についちゃって……」

 ハリスさんがしみじみと言って首を振り、ミーシアさんが「おいたわしい」とそっと涙を拭う。でもみんなだって、なんとなくそわそわしているのは、わたしと同じだよね? よく磨かれたガラスの窓から見える建物はどれも大きくて綺麗だし、端が欠けても崩れてもいない。ものすごい田舎から上京してきた、おのぼりさんの気分になるなあ。


 ──これが、国の格差というものか。


 端のほうから大変な思いをしてやって来た人々が、首都のこの様子を目にして、その時に胸に抱くのは、決して驚嘆ばかりではないだろう。

 ぶくぶくと泡立つように生まれるのは、羨望、嫉妬、苛立ち。

 その日の食べ物にも事欠くような人間が、自分の享楽のために時間を費やす人たちに対して、どうしてお前らばかりがと攻撃的な気持ちになるのは、無理もないことなのかもしれない。

 「二回目」の時の、カントスの民がそうだった。

 「今回」は、拝礼日に集まった人たちが。

 災厄は、そうやって、人々の内側に蓄積された怒りと苦しみと悲しみが、許容量を超えて外に溢れだした時に起こる。普段、理性という名の堰で留めていた分、それが外れた時は、溜まっていた分嵩を増し勢いを増し、激しい濁流となってすべてを一気に押し流していくのだ。


「……人の欲、人の気持ち、人の心」


 窓の外を見ながらぼそりと呟くと、トウイが「え、なんですか?」と顔を覗き込んできた。

「なんでもないです。それよりミーシアさん、赤ちゃんの様子はどうでしたか」

「はい、とても顔色もよく、元気そうで。あまり泣かないので手もかからない、とシャノンさんが言っていました」

 宿屋に移ったわたしたちとは違い、赤ちゃんは未だにシャノンさんのところで面倒を見てもらっている。押しつけてきた、わけではなく、シャノンさんが頑として返してくれなかった、と言うほうが正しい。どうやら一緒に寝たりミルクをあげたりオムツを替えたりしているうちに、情が湧いてしまったらしい。

「こんな自分で自分を守れないような赤ん坊を、これから何があるかわかんないあんたたちの傍に置いておくつもりなの? 冗談じゃないってのよ、それくらいならあたしが預かるわよ! いい?! 文句ある?! ないわね?!」

 と、一方的に叩きつけるように通告したシャノンさんは、わたしに反論する隙さえも与えてくれなかった。

 トウイとハリスさんが引き攣った表情で「逆らわないほうがいい」と口を揃えて言うし、どちらにしろ王ノ宮に行く前に預け先を探さないとと思っていたところだったので、お言葉に甘えてシャノンさんに任せることにしたのだけど。

「いきなり赤ちゃんを抱えて、近所の人やお店のお客さんに不審がられていないんでしょうか」

「そりゃ、みんな目を丸くしてますよ。どこの子だと訊ねられるたび、『あたしの子よ! 文句ある?!』と一喝して黙らせているようですがね」

 いろんな意味で、すごい人だ。

「しかし、王ノ宮はどうして何も言ってこないのでしょう。メルディが報告を怠っているとは考えにくいのですが」

 ロウガさんは眉を曇らせて、わたしと同じく窓の外に目線を向けている。今にも建物の角から王ノ宮の使者が姿を見せるのではないか、と待ち構えるように。

「あちらはあちらで、準備とかに忙しいのかもしれませんね。気長に待ちましょう」

 わたしはなるべく軽い調子で言って、肩を竦めた。



 ……本当のところ、どうなのかな、とは思う。

 この日数は、王ノ宮の内部が揉めている、ということの表れではないのかな。

 何かは起こる(・・・・・・)必ず(・・)

 そう遠くないうちに。


 残された時間は、あと少し。



          ***



 四日目になって、ようやく王ノ宮からの使いが宿屋を訪ねてきた。

 せいぜい偉そうにふんぞり返っていてください、とハリスさんが言うから、他のみんなが立っている中、わたしだけ椅子に座って、訪問を受けた。

 にも関わらず、部屋に入ってきた使者は、わたしとミーシアさんとを見比べた上で、ミーシアさんに対して礼を取ろうとした。後ろの男性陣が無言のまま手で指し示した先に気づき、慌ててわたしの前で膝を折り、頭を下げる。別にいいけど。

「遅くなり、大変申し訳ありません。カイラック王の命により、お迎えにあがりました」

「わざわざ、ありがとうございます」

 お礼を言いながら、使者の背後に控えている男の人たちに、ちらっと目をやる。二人いるけど、どっちも体格がいいというか、暑苦しいほどにムキムキな感じ。これじゃ、ゴリマッチョだよ。

「長旅、さぞお疲れのことでございましょう。無事のご帰還を祝って、ささやかながら、宴のご用意をしております。王ノ宮にお戻りになりましたら、まずはごゆるりと湯浴みで旅のお疲れを癒されたのち、積もるお話をお聞かせいただきたいと」

 お風呂かあ。いいな、入りたいなあ。こっちの宿屋って基本的にお風呂というものはなくて、お湯をもらって頭や身体を洗うだけなんだよね。たっぷり入ったお湯に浸かれたら、気持ちいいだろうなあ。

 うっとりしながら思って、はー、とため息をつく。

 ……でも、たぶんやっぱり、無理なんだろうなあ。

「カイラック王が、そう言いましたか?」

「はい」

「王ノ宮で話を聞きたいと?」

「はい」

「じゃあ、すぐ準備しますので、待っていてもらえますか。なにしろ、これだけの人数なので、荷物も多くて」

「おそれながら」

 使者は、きっちりと礼を取った格好で、微笑を口許に貼り付けた。

「お疲れのところ、余計な手間を煩わされる必要はございません。尊いお方はそのような雑事のことなどお忘れになって、安楽なお気持ちのまま、ただ御身ひとつでお越しくだされば」

「御身ひとつ、というと」

 持って回った言い方に少しうんざりして、わたしは厭味ったらしく繰り返した。わざとらしいほどにゆったりとした動作で、そばにあるテーブルの上に右肘を突き、掌の上に傾けた頭を載せる。左の手は、腰に。


「わたしだけ、ですか?」

「はい」

「他の人たちは」

「どうぞ、ご自由に──神ノ宮へお帰りください」


 にこやかに言いきった使者に、わたしの後ろに立つトウイが驚いたように「な……」と声を出しかけた。途中で呑み込んだのは、ハリスさんかロウガさんが止めてくれたためだろう。

「カイラック王は、不要な付き添いをお望みではありません」

「わたしだけと話をしたい、ということでしょうか」

「左様でございます。ご心配なさらずとも、王ノ宮まではこちらの護衛官が御身をお護りいたします。いずれも腕のほどは確かな者を選んでおりますから、今よりもよほど安全かと。こう申しましてはなんですが、神ノ宮の護衛官と王ノ宮の護衛官とでは、比べるまでもなく実力の差が」

「お断りします」

 ぺらぺらと続くお喋りが、ぴたっと途切れた。

 使者が、「は?」とぽかんと口を開けてこちらを見返す。

「聞こえませんでしたか? 口は廻るのに耳は悪いんですね。お断りします。そんな筋肉ダルマのような人たちに両隣を挟まれて、息苦しく王ノ宮に行くのは真っ平です。わたしが信頼している護衛官は後ろにいる三人なので、この人たちとでなければ怖くて怖くて一歩も外に出られません」

「…………」

 使者は笑みを消して、表情を強張らせた。後ろでは、「よくもそんな白々しいことが言えるな……」という空気が充満しているようだけど、気にしない。

「しかし、カイラック王は、お一人でと」

「では、王ノ宮には行けません。困りましたね」

 王ノ宮に限らず、「わたし一人」では、どこにも行けない。行かない。


 ──今、トウイと離れるわけにはいかない。


「おいでいただかねば、私のほうが困ります」

「ですから、ここにいる人たちの同行を許可してくれれば行く、と言っています」

「それはなりません、王命にて」

「だったら、カイラック王がここに来たらどうでしょう」

「……ご冗談を」

 使者が低い声で言った。口の端がわずかに上がっているけれど、それはもう笑いの形をしていない。

 その双眸に、冷たい光が宿った。

「どうあっても、お聞き届けいただけないと仰いますか」

「三人や四人客が増えただけで迷惑するほど、王ノ宮って狭いんでしたっけ?」

「──では、致し方ありません」

 ついていた膝を床から離し、すっくと立ち上がる。

「王ノ宮に戻るんですか?」

「ええ、戻ります。どうも話が通じないお方のようですし、これでは埒が明きませんのでね。……なんとしても、あなたにはお一人で王ノ宮においでいただく。少々乱暴な方法をとってでも」

 使者が、背後に控えていた王ノ宮の護衛官二人を振り返り、聞き分けのない小娘の身柄を確保するよう指示を出す──のを、わたしは待ってなんてやらなかった。

 彼の顔がわたしから逸れた瞬間、椅子から立ち上がる。素早く腰を落とし、外しておいた剣を素振りの要領でフルスイング。ぐうんと弧を描いた鞘部分が、使者のみぞおちを抉るように直撃した。

「ぐわっ!」

 使者が叫び声を上げて前屈みになるのと同時に、後ろの三人が一斉に動く。突然の出来事に驚いて動きを停止させてしまった護衛官その一にロウガさん、咄嗟に剣の柄に手をかけた護衛官その二にハリスさん、そして腹部を押さえて、事態を呑み込めず「え? え?」と狼狽している使者に、トウイの手が伸びた。

「……甘いですよね、この人たち」

「まったくだ。乱暴さでは、シイナさまのほうがずっと上なのになあ」

 あっという間に使者と二人の護衛官を無力化させてから、トウイとハリスさんがうんうんと頷き、失礼なことを言った。



「……で、どうされるのですか、これから」

 倒れた三人を部屋の中にそのまま放置して、わたしたちはとりあえず宿屋を出た。目を覚ますと、また面倒なことになりそうだ。

「うーん」

 ロウガさんの問いに、わたしは首を捻る。無理やり連れ去られる形にしたくなかったので、先に手を出してしまったけど、正直、その後のことはあまり考えていなかった。

「実はぜんぜん考えてなかったでしょう」

 うるさいよ、トウイ。みんなだって、わりと迷いなくやっつけちゃったじゃん。

「今さらですが、王ノ宮の使者にあんなことして、あとで大変なことになりませんか」

「誘拐されそうになったから怖くなってつい、とか言っておけばいいんじゃないですか」

「また適当なことを……」

「別に、カイラック王と話をするという点について、異存はないんです」

 あの使者が、「一人で」というところに固執しなければ、ちゃんと大人しく王ノ宮に行ったのに。余計なことを言うから話がややこしくなったんだよ。

 カイラック王は決して善人ではないし、有能な王というわけでもない。今までに開けた扉の中でも、彼はいざ事が起こると失政と失策を重ねて、状況を悪い方向に向かわせることが多かった。幻獣も言っていたけれど、考え方に幼稚なところがあり、負けず嫌い。混乱した状態においては特に、感情的になって引っ掻き回すという、厄介な性質を持っている。

 だからそうなる前に、王と顔を合わせて話がしたい、とは思っている。前回は、その機会をただ待っていただけだったから失敗した。それでメルディさんという連絡手段を作ってもらったのに、今となってはそれも使えないし、うーん。

「わたしたちだけでこっそり王ノ宮に入って、他の人には知られないように王と話をするには、どうしたらいいでしょうね」

「そんな無茶な」

「──王ノ宮に入りたいんですか?」

 はい、と答えかけた口が途中で止まった。


 その声は、トウイでも、ロウガさんでも、ハリスさんでも、ミーシアさんのものでもない。


 さあっと身体の中に冷たいものが落ちていく。

 みんなも息を呑むのが判った。いち早く剣を抜いたトウイが、険しい表情でわたしを庇うようにして前に出る。続いて、ロウガさんとハリスさんも剣を抜き、両脇で身構えた。

 前方には、灰色の髪を後ろで括った、異国風の衣服を身につけた人。

 垂れ下がった細い目、人の好さそうな笑みを顔に浮かべ、彼はすらりとその場に立っている。

「……リンシンさん」

 わたしは呟くようにその名を口にした。



          ***



「驚きましたねえ。君たち、草原地帯に向かったはずじゃなかったんですか。どうやってこんな短期間で、この場所にまで戻ってきたんです?」

 リンシンさんはニコニコしながら、感心するように言った。

「君が想定外の動きばかりをするものだから、僕も予定にはなかった行動をしなきゃなりません。……素直に君だけ王ノ宮に行ってくれればよかったのに」

 トウイたちを手と目で制し、わたしも彼のほうを向く。何の策もなく飛びかかっても、捕まえられるような人じゃない。星見の塔の二の舞を踏むつもりはなかった。

「リンシンさんこそ、どうして、わたしたちがこのマオールにいることを知ってるんです?」

「僕、けっこういろいろなことを知っているものですから」

「まるで、王ノ宮の情報が筒抜けになっているみたいですね」

「…………」

 リンシンさんの細い目がわずかに開かれる。薄っすらとした無機質な微笑を口許に刻んだ。

「……本当、君たちは侮れない。いつの間にか、知らなくてもいいことを知っている」

「ということはやっぱり、王ノ宮にはリンシンさんの味方がいるんですか」

「おや、僕もしかして、ハメられました? あはは、君は可愛い顔をして、意外とやることがえげつない。──でもね、味方なんかじゃありません。僕もあちらも、ただ単に、互いの利害が一致したと、それだけのことですよ」

「ニーヴァを滅ぼすという?」

 リンシンさんはまた黙った。笑みを浮かべている表情はまったく変わらないのに、その顔は、どんどん闇色に染まりつつあるように見える。


 ──きっと、彼のその目が、あまりにも真っ黒だからだ。

 ニコと同じ灰色の瞳は、ただ絶望だけに支配され、一筋の光さえ射していない。


「……椎名」

 名を呼ばれ、指先がピクッと反応した。

「君ももう、思い知ったでしょう。この国の、この世界の、ここに生きる人々の、傲慢さを。他者を踏みつけ、自分だけ幸福を得ようとする、醜さ浅ましさを。神獣も、王も、大神官も、名前だけは立派でも、本質的にはみんな一緒じゃないですか。どこまでも愚かで、どこまでも欲深く、どこまでも汚い。権力を持っている分、なおのこと悪質だ」

 優しく聞こえてしまうくらいの、柔らかい声音。けれどそこからは、「人の感情」というものの一切が払い落とされていて、神獣や幻獣とひどく共通したものがあった。

 ……リンシンさんは、たぶん、そのことに気づいていない。

「もう、いいじゃないですか。君もずいぶん苦しい思いをしたでしょう。大事な人をたくさん失ってきたんでしょう。失ったのは、どうしてです? 君からそれを奪ったのは誰でした? 神獣、そして、ここに生きている人たちだ。そうじゃありませんか?」

 だったら消してしまいましょうよ──リンシンさんはあっさりと、そう言った。

「なにもかも全部、消して、壊して、なくしてしまいましょう。もう奪われないように」

 そう言って、笑った。

 そこにあるのは、ぞっとするほどに「何もない」、空虚な瞳。


 人の欲、人の気持ち、人の心。

 人の愚かさ浅ましさ貪欲さが、トウイの死へと通じる道を作り出す。

 だったら、トウイ以外の人間が、みーんな死んでしまえばいい。


「……誰かさんも、そんなことを言ってました」

 わたしがそう言うと、リンシンさんは口を閉じた。

「リンシンさんには、お母さん以外に、『大事な人』がいなかったんですね。お母さんだけが、リンシンさんにとって、世界のすべてだった」

 だから、その人の命が消えてしまった時に、リンシンさんの世界は崩壊してしまったのだ。

 ここにある何も、誰も、彼にとっては意味を持たない。

 暗闇で、たった一人。

「──君に、わかりますか」

 微笑を浮かべたリンシンさんが、静かに問いかける。

 わたしは頷いた。

「わかります。……全部じゃないけど、わかることもあります」

 知っている、こともある。

 すべてを食い潰していくような激しい怒り。心を真っ黒に染め上げていく憎悪。消して、壊して、なくしてしまえと、それだけを思う、捩じれて膨れて蝕んでいく狂気。

 この世界で最も守りたいと思った、最も生きていて欲しいと願った人に、わたしは剣を向けた。

 それに気づいた時の、自分自身に対する、底知れない恐怖を。

「……でも、わたしは、『そっち』には行きません」


 まだ、光は見えなくとも。


「そうですか」

 リンシンさんはにっこりと笑った。

「それならそれで結構。君は君の、思うように行けばいい。王ノ宮の中に入りたいのなら、僕が道を作ってあげましょう」

「……作る?」

「待てよ、お前一体、何を」

 眉を寄せて問い返したわたしと、一歩足を前に踏み出したトウイに、リンシンさんは糸のように目を細めた。

「忘れましたか? 僕はすべてに復讐すると言ったでしょう。神獣に、神ノ宮に、王ノ宮に、世界に、運命に──すべてに。君が動けば動くほど、運命は神獣の手を離れて転がる。あの歪な神とやらでも見通せない未来というやつを呼び込みたいんですよ、僕は」

 そして、穏やかな声で続けた。

「でも、僕の道を塞ごうとするのなら、いくら君でも容赦はしません。排除しますよ、必ずね」



          ***



 リンシンさんがふわりと身を翻して去っていく。それを追おうとしたトウイの腕を、わたしはぐっと掴んで止めた。

「あいつを放っておくんですか」

「残念ですが、あなたたち三人がかりでも、あの人が簡単に捕まえられるとは思えません」

「……まあ、悔しいが、その通りだな。向かっていくのなら、こっちにもそれ相応の覚悟が必要だ。あの野郎一人だけを倒して片がつくってことなら相討ちでもいいが、そういうわけにもいかないだろう。こちらが身動き取れなくなったら、その間に何が起こるかわからない」

 ハリスさんが自分の前身をするりと掌で撫でるようにして、息を吐く。

「それにしても……」

 わたしは呟いて、リンシンさんが去っていった方角に目を向けた。もちろん、もうそこには誰の姿もない。

「王ノ宮への道を作るって、リンシンさんは一体何をするつもりなんでしょう」

「嫌な予感しかしませんね」

 同感だ。あの人のやり方って、大体いつも……


 いつも、同じ。


「──ロウガさん」

 わたしが振り向くと、ロウガさんはいつものように真面目な顔で「はい」と返事をした。

「神ノ宮に、戻りませんか」

 ロウガさんは、わたしのその言葉に、少しだけ安堵したような表情を浮かべた。

「そうですね、実は私もそう思っていました。やはりここは一度神ノ宮に戻って、今後のことをゆっくり考えるべきではないかと。あの場所なら、シイナさまの身をお護りすることも、今よりずっと容易になります」

「戻るのは、わたしじゃありません。ロウガさんです」

「え」

 ロウガさんが目を見開く。トウイとハリスさんも「え」と口を開けた。

「わたしはまだ、あそこには戻れません。一度神ノ宮の中に入ってしまったら、外に出るのが非常に困難になる。あの中で、浮世離れしすぎて現実を受け止めることも出来ない大神官や神官と一緒に、ただ事態の推移をぼーっと眺めているわけにはいきません」

「し、しかし」

「でも、護衛官と警護、そして侍女の人たちには、今この国で何が起こっているかを、ちゃんと知っていてもらわないといけません。災厄は、必ず神ノ宮にも向かっていく。その時にいちばん被害を受けることになるのは、あの人たちです。ロウガさんなら、みんなからの信頼も篤い。きっと話を聞いてもらえます。来るべきもののために、心の準備と警戒が必要であることを説いてください。あの人たちを、ロウガさんたちの仲間を、死なせないで」

「いや……しかし、今、シイナさまから離れるわけには」

「そして戻るのは、ロウガさんだけじゃありません」

 わたしは、ロウガさんの後ろにいるその人を見た。

「ミーシアさんも」

「いやでございます!」

 両手を握り合わせ、緊張した表情で話に聞き入っていたミーシアさんは、わたしがそれを口にした途端、眦を吊り上げて大声で叫んだ。

「私は絶対にシイナさまと最後まで共にいると、申し上げたではありませんか! ここでお別れしたら、次にシイナさまと会えるのはいつですか。これからどうなるのかまったく判らない、危険なこともいっぱいあるのかもしれない、そんな状態で離れ離れになるなんて、私はいやです!」

 目に涙を溜めて抗議を続けるミーシアさんに、わたしは腕を伸ばした。

 その身体に両手を廻し、ぎゅっと抱きつく。ミーシアさんが、言葉を呑み込んだ。


「……ミーシアさんは、母親の代用品なんかじゃないです。ミーシアさんはミーシアさんとして、大好きです。ずっと」


 温かい弾力。しなやかで優しい感触に、頬を寄せる。ミーシアさんは声に詰まり、「──シイナさま」と震える手でわたしを包んだ。

 ぽろぽろと零れ落ちる涙の粒がくすぐったい。

「わたしが剣を振り下ろすその先を、見届けると言ってくれて、ありがとう。ミーシアさんが傍にいてくれたから頑張れたことが、数えきれないくらいありました」


 いつも、いつも。

 ここにいるミーシアさんが知らないミーシアさんも、いつだって、大好きだった。


「置いていくんじゃないんです。ミーシアさんにはミーシアさんにしか出来ないことがあると、そう言っているんです。今までわたしにくれていた力を、今度は他のほうに向けて欲しいんです。ミーシアさんにとっての大事な場所、ミーシアさんにとっての大事なものがたくさんある、神ノ宮で」

「……っ、でも」

 背中に廻された手が、マントを握りしめる。喰いしばった歯の間から、でも、という声が呻くように洩れた。

 わたしはミーアさんに抱きついたまま、ロウガさんのほうを向いた。

「ロウガさん、ミーシアさんを連れて、神ノ宮へ」

「……シイナさま、ですが」

 ロウガさんの視線は、宙を彷徨うように落ち着きなく動いていた。迷っている。揺れている。いつもてきぱきと決断するロウガさんのこんな表情、はじめて見る。

「ロウガさん、お願い(・・・)です」

 そう言うと、ロウガさんが一瞬、強く目を瞑った。


 わたしのたったひとつの、最初で最後の、お願い。

 何も言わず、何も聞かず、何も反論せず、必ず、そのお願いをきいてもらいたい、と言ったあの時、ロウガさんはなんと答えた?


「…………」

 ロウガさんは、両手の拳を握り、トウイとハリスさんのほうを振り返った。普段、常に冷静さを保とうとするその強面は、苦渋に歪んでいた。

「……すまない、トウイ、ハリス」

 喉の奥から絞り出すような声で、謝る。

「神ノ宮を、お願いします」

「あっちはあっちで、大変ですよ。ロウガさんじゃなきゃ、あんな奴らを誰がまとめられるっていうんです?」

 トウイが神妙な顔つきで頷き、ハリスさんはにやりと笑って背中を押した。

「すまない。俺は結局、ニコへの言葉を果たすことが出来なかった。約束も、誓いも、これ以上は、破れない。俺にはもう、こういう形でしか、守り方がわからない。──シイナさまを頼む」

 言い終わるや否や、ミーシアさんの身体を担ぎ上げ、肩に乗せる。

 そのまま、まっすぐわたしを見つめた。

「どうか、ご無事で。先に神ノ宮に向かい、シイナさまが安心して戻れるよう万端整え、お待ちしています」

 深く頭を下げて、くるりと身体を反転させ、走り出す。

「シイナさま、必ずお待ちしておりますから! 必ず!」

 肩に乗せられたミーシアさんの泣き声が、どんどん遠くなっていった。





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