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1.表裏一体



 草原地帯の手前で立ち止まった妖獣は、首を捩じるようにしてこちらを向いた姿勢で、再び後ろ脚を折り曲げて座った。

 俺と守護人はそれを見て、もう一度顔を見合わせた。

 妖獣の行動の意味するところは、ひとつしかないように思える。思えるのだが、しかし……

 こんなこと、あるんだろうか。

 こちらに顔を向けて座る妖獣は、俺がシキの森で見た鳥のような妖獣よりも、一回りくらい小さかった。しかしそれでももちろん、普通の人間の数倍はある。陽の光を浴びて青黒く輝く体毛に包まれた体躯は頑丈そのもの、剣も弓矢も簡単に弾いてしまうだろう。

 感情というものが一切見えない妖獣の真ん丸な目は黄金色で、俺たちでいうところの赤茶部分は黒だが、縦に細長い。それが縮むように丸みを帯びたり、すうっと糸のようになったりする。どういう理由があってそうなっているのか、そもそも妖獣になんらかの意図があってそうしているのかもまるで判らないから、ただ不気味なものとしか映らない。

 人間の言葉など通じない獣の目、慈悲も憐れみも持ち合わせない酷薄な目だ。シキの森で、次々に人間の肉体を引きちぎりながら殺していった妖獣と、まったく同じだ。しかし、今俺たちの目の前にいる妖獣は、これっぽっちも攻撃の意志を示そうとはしなかった。

 守護人は、俺と同じく困惑を隠せないようだったが、やがてまたじりじりと前に足を動かしはじめた。注意深く、慎重に、視線を妖獣から片時も離さないその様子を見れば、彼女にとってもこの事態は予想外であったということが知れる。

 「妖獣は神獣の剣の持ち主を攻撃しない」、「守護人だけは草原地帯に入っていける」とキッパリ言いきっていたが、あれは実際、どこまで根拠と確信があって口にしたものだったのだろう。


 時々、自分の身を顧みることなく、無茶なことをしようとする守護人。

 表情を変えず、目も逸らさず、干渉されることを頑なに拒んで。

 彼女は、意志を貫くために、嘘を突き通すことも躊躇わない。


 守護人と俺がかなり間近まで寄っていっても、妖獣はまだ次の行動に移ろうとはしなかった。ただのんびりと座っているだけだ。

 と。

 いきなり、前方ににょっきり突き出した大きな口が、ぐわっと開いた。

 ずらりと並んだ鋭く尖った牙がはっきり見えて、全身を緊張させる。獰猛そうな牙は、掠っただけでも致命傷になりかねない。俺の手の下にある守護人の手にも、ぐっと力がこもったのが判った。

 妖獣がさらに口を大きく開け放つ。

 そして、ふわーあ、という感じで呑気そうな欠伸をした。


「…………。一発殴ってやっていいですか」

「お願いですから、落ち着いて」


 守護人の両眉が吊り上がっている。本当に神獣の剣を持ち上げようとしたのが伝わって、俺は必死にそれを上から押し留めた。この人はたまに俺よりも短気になるから怖い。

 まさか人間をからかうためにわざわざ草原地帯から出てきたんじゃあるまいな、と訝って目線を上げる。欠伸をし終えた妖獣は、捩じった首の先──つまり俺たちの後方に目を向けていた。

 振り向くと、剣を抜いてこちらに走ってくるロウガさんとハリスさんの姿が見えた。やっと茫然自失状態から抜け出して、思考が廻るようになったらしい。無理もないとは思うけど、二人とも、常にはないほど血相を変えている。

 隣の守護人もそちらを向き、口を開きかけた。おそらく、さっきと同じように、「来ないで」と制止しようとしたのだろう。

 が、ちらっと妖獣のほうを見てから、不本意そうに眉を寄せて口を噤んだ。

 妖獣は、新たに向かってくる二人を見ても、ぴくりとも態勢を崩さない。

 ロウガさんとハリスさんは、俺たちの傍まで来ると、両脇から囲い込むようにして剣を身構えた。蒼白になってはいるが、はじめて対峙した妖獣相手に一歩も退かない、気迫のこもった目つきをしている。やっぱりこの二人はすごいな、と俺は改めて先輩護衛官を尊敬した。

「トウイ、これは一体どうなってるんだ」

「いや……どうと言われても」

 ハリスさんに押し殺した声音で詰問されたが、俺にその答えがすんなり出せるはずもない。

「シイナさま、とにかくここはお逃げください」

「……たぶん、その必要はありません」

 張り詰めた表情をしたロウガさんに促されて、守護人も少し困った顔をしている。

 ロウガさんとハリスさんは剣を構えて殺気を漲らせているが、そんな緊迫感にもお構いなしで、妖獣はまだ動かなかった。顔は砦のほうに向けられたままだ。

 守護人が、本気で心の底からイヤそうな、深いため息を吐き出した。


「ミーシアさん、メルディさん、こっちへ来てください」


 その口から飛び出した言葉に、ロウガさんがぎょっとしたような顔で目を見開く。何を、と言おうとしたのを、俺は小さく首を横に振って止めた。

 すでにこちらに向かいかけていたミーシアは、守護人に名を呼ばれて、寸分の迷いも見せずに駆け寄ってきた。メルディはさすがにいつものような気楽さはなかったものの、それでも用心しながらゆっくりと足を前に出した。

 妖獣は黄金色の目でじっとその様子を眺めていたが、二人の後ろで、腰を抜かしていた砦の番人が、ずるずる這いずって移動しようとした途端、ひゅんと長い尾をしならせて、地面を強く叩いた。

 ばしん、という威嚇するような大きな音に、飛び上がった番人が、その場で身を伏せる。

 ──お前は動くな、ということらしい。

 砦の近くには俺たちが乗ってきた三頭の馬が繋いであるが、どの馬も四肢を折って蹲り、がたがたと震えているだけだった。逃げようとも暴れようともしないのは、そんな気力も湧かないほどに、両者の力の差を本能で悟っている、ということなのかもしれない。

「シイナさま!」

 まろぶように走ってきたミーシアが、叫ぶと同時に守護人の左腕に飛びついた。全身の震えは止まらず、顔色も青いというよりは白いが、しっかりとその場で踏ん張って、妖獣を見上げる。

 メルディもやって来て俺たちの後ろについたところで、ようやく妖獣が尻を上げた。

 俺と守護人を除く一同がビクッと反応したが、妖獣はさっさと草原地帯に顔を戻し、そちらに向かって悠然と歩きはじめた。

「ど……どういう、ことだよ」

 ハリスさんがぽかんとした表情で、どこか気の抜けた声を出す。いつも飄々としているこの人にしては、珍しいほどに混乱しているようなのが見て取れた。人間ってのはきっと、あまりにも非現実的なことに遭遇すると、かえって騒ぐことが出来ないものなのだ。

「要するに」

 俺はひとつ息をついて言った。

「──全員で(・・・)ついて来い、ってことらしいですね」

 妖獣は明らかに、人を選んでいる。守護人と、俺と、ロウガさんと、ハリスさんと、ミーシアと、メルディ。この六人と他の人間とを判別し、しかも六人すべてが揃うのを待っていた。

「妖獣がそう言ってんのかよ」

「俺に妖獣の言葉や気持ちがわかるわけないじゃないですか」

 まるで文句を言うような口調でハリスさんに問われたので、言い返す。俺だって、さっぱりわけが判らないのは同じだ。

 ただ、判っているのは。


 草原地帯の中には、明確な意志を持つ「何か」がいる、ということ。

 妖獣を使役するような、何か。

 その存在は、俺たちがそちらに向かうことを求めている。


「なんだ、なんだ、なんなんだよ、あんたら」

 砦の近くでは、番人の男が上擦った声を上げていた。動くことも出来ず、ただ目線だけをこちらに据えつけて、あわあわと同じような言葉を繰り返すばかりだ。

「退屈な毎日にちょっとした刺激が味わえて、よかったじゃないですか」

 メルディが嫌味ったらしいことを言ったが、その視線は番人ではなく、草原地帯のほうへと向かっている。興味の対象は完全にそちらに移っているらしい。

「すまないが、馬と荷物を頼む」

 ロウガさんも番人に向かってそう声をかけると、険しい表情で、鉄線を飛び越える妖獣の後ろ姿を見つめた。行くしかない、と覚悟を決めたのだろう。守護人の護衛官になってから、ロウガさんが新たに身につけたのは、この切り替えの速さと、諦観だ。

 逆に、ここに来て、迷っているのは守護人のほうだった。足をそこで止めたまま、前を行く妖獣を見て、それから自分の左腕にくっついているミーシアを見る。本当に連れて行って大丈夫なのかと逡巡しているらしい。

 一人で行こうとしていた時は、その黒い瞳は揺らぎもしなかったのに。

「──行きましょう」

 俺は守護人の手から自分の手を外すと、固い鉄線を掴んで地面を蹴り、身体を跳ねあげた。

 軽い跳躍で、すとんと草原地帯の内側に着地する。その場所から、国境を挟んで向かい合い、守護人に向かって手を差し出した。

「この中に何があるのか、確かめるんですよね?」

「……はい」

 守護人がぐっと口を結んで、頷いた。



          ***



 草原地帯の中を、妖獣について歩く。

 こんなこと、常識的に考えて、あり得ない。あり得なさすぎて、かえって肝が据わった。地面から頭のずっと上まで伸びる草を手でかき分けながら、一歩一歩を踏みしめるように進んでいく。

 もちろん下に道などというものはないが、思ったほど歩きにくくはなかった。草と草はそんなに密集して生えているわけではなく、人間が余裕で通れるくらいの隙間は空いているからだ。少し薄暗くはあるものの、薄い葉を通して太陽の光が入ってくるので、森の中よりはよほど見通しもいい。

 自分が虫くらいに小さくなって、草むらの中を探検しているような気分、とでも言えばいいか。そんなに呑気なものでも、楽しいものでもないが。

 ここに生えている草は、高さや大きさこそ常軌を逸しているが、形状としては普段見ているものとそう変わりはなかった。雑草が異常に生育して草原地帯となった、ってことなんだろうか。ここだけ、唐突に?

 考えれば考えるほど判らなくなってくる。というより、考えても無駄なんだろう。あるがまま受け入れて、こういう場所なんだと思うより他にない。

 前方には、のっしのっしと脚を動かしている妖獣の後ろ姿がある。ぬらりと光る体毛に覆われた大きな尻が揺れると同時に、頑丈そうな尾も左右に揺れて、ぱしぱしと草を叩いている。音といえばそれくらいで、周囲は静けさに包まれていた。

 草原地帯に入った最初のうちこそ、どこかからいきなり妖獣が飛び出してくるんじゃないかと気を張っていたが、距離を進んでも一向に、他に生き物の気配は感じない。

 ……いないわけじゃ、ないんだよな? 妖獣たちは今頃、遠巻きに身を潜めて、息を殺してでもいるんだろうか。まさか俺たちに怯えて、ってことじゃないだろうから、怯えているとしたら、前を行くこの青黒い毛並みの妖獣に対してなのだろう。


 あるいは、この妖獣のあるじにか。


「いろんな植物がありますねえ」

 ようやくいつもの調子を取り戻してきたメルディの声が響く。歩きながらずっと周囲を観察していたらしいメルディは、ひどく感嘆するような顔をしていた。

「他の国にしかないものもありますよ。ニーヴァの環境下では育たないはずなのに、おかしな話ですね」

 草の間から顔を覗かせている、いくつか連なった黄色い花をまじまじと見つめながら呟く。外ではたぶん小指の先くらいの大きさしかないであろうその花は、ひとつひとつが、見ているメルディの頭とそう変わりない。

「本当に、不思議なところ……」

「あ、ミーシアさん、その白い草には触らないほうがいいですよ。綺麗ですけど、茎の切り口から出る汁がかかると、真っ赤に腫れ上がりますから」

 守護人にぴったり寄り添って歩いていたミーシアは、惹きつけられるようにそろりと伸ばそうとしていた手を、慌てて引っ込めた。

「き、危険なものもあるのね」

「まあ、危険なのは、大体その草花や根っこの中に含まれる有毒物質なのであって、普通に見たり撫でたり匂いを嗅いだりする分には問題ありませんがね。そういう意味では、ここにはけっこう希少な毒草もあるようなので、採取して持ち帰りたいくらいです」

 メルディはなんとなくもの欲しげに、尖った葉っぱの根元に目をやった。どうやらそれが、根に毒を持つ希少な植物であるらしい。

 ミーシアが泣きそうな顔で、草から庇うようにして守護人に張り付く。その様子を見て、メルディはひらひらと手を振った。

「毒っていっても、体内に入れなきゃ平気ですよ。それに毒草ってのは、使いようによっては、薬草にもなったりするんです。時として人を苦しめる毒になるものが、時として人を救う薬にもなる。毒と薬は正反対のようで、案外、同じものであったりするんですよ」

 どうやらメルディは、本当にそのテのことに詳しいらしい。そういえば、守護人が熱を出した時にも、薬草を煎じて作ったという、なんだか得体のしれないドロドロとした飲み物を持って行ったりしていたもんな。


「…………」

 それを思い出したら、その時にメルディに言われた言葉も脳裏に甦り、俺は目を伏せた。

 痛みを伴って、胸が疼く。

 ……まだ、この場所に突き刺さったまま、離れない。


「ミニリグの時といい、まったく能書きを垂れるのが好きな密偵だな」

 ハリスさんが呆れるようなため息を落とすと、メルディはふふんと鼻で笑った。

「親切に教えて差し上げてるんじゃないですか。世の中には、中途半端な知識しか持っていないのに大きな顔をする護衛官がいたりしますしねえ」

 軽く返されて、ハリスさんはカチンときたらしい。この二人は、こんな所でまで喧嘩をしないと気が済まないんだろうか。

「じゃあ、ここの毒草を持ち帰って、こっそり食い物に混ぜてやろうか。いいよな? 大丈夫だよな? 当然気づくよな? 優秀なんだしな?」

「そりゃもう。味と匂いでどんな毒が入ってるか言い当てることだって出来ますとも」

「味ってことは口に入れなきゃわからないってことだろ。それじゃ意味がないじゃねえか」

「残念でした。優秀な密偵である私は、あらゆる事態に備えてちゃーんと毒消しだって携帯しているんです」

「すべての毒に対応できる、万能の毒消しなんてあるはずない」

「ですから体内に入れた毒が少量で、毒素がそんなに強くない場合……」

 ハリスさんとメルディは、滔々と毒物談義をしはじめた。ハリスさんもそちら方面に疎くはないようで、俺が聞いてもちんぷんかんぷんな固有名詞がいくつも出てくる。神ノ宮で教わった覚えはないから、きっと独自に勉強したんだろう。そんなに仕事熱心だったかな、この人。

「しかし……」

 二人のやり取りを聞き流していたロウガさんが、目を眇めて先のほうを見やり、口を開いた。


「あの妖獣は我々をどこまで連れて行くつもりなのか……。あまり長距離だと陽も暮れるし、体力だって続くかどうか」


 ロウガさんの不安もよく判る。なにしろ前を行く妖獣は、同じ速度を保ったまま歩き続けるだけで、草原地帯に入ってからというもの、一度としてこちらを振り返ることもしないのだ。俺たちの声が聞こえているのか、そもそも人間の言葉が理解できるのかも定かじゃない。

 草原地帯は、一国並みに広大な面積がある。

 二日三日と、不眠不休、飲まず食わずで歩き続けていても、もしかして妖獣はまったく平気なのかもしれない。しかし確実に俺たちは保たない。ミーシアや守護人と比べればまだしも護衛官は体力のあるほうだと思うが、妖獣に比べればそう大差はない。いくらなんでも、妖獣の基準には合わせられないぞ。

「たぶん、大丈夫だと思います」

 ロウガさんの言葉にそう返したのは守護人だった。

 左手で剣の鞘を握り、右手でミーシアの手を繋いでいる彼女は、「見て」と言うと、顔だけで後ろを振り返った。

 頭を巡らせ、そちらの方向を向いても、すぐにはその意味が判らなかった。

 気づいた瞬間、言葉を失った。

 ついほんのさっきまで、草の間からは、ちらちらと砦の建物が見えていた。進むにつれ、その姿は遠くなり、小さくなってはいたが、確かにまだ視界の中には入っていた。


 ──それが、忽然と消えている。


 砦の建物ばかりじゃない。いつの間にか、後方の景色ががらりと変わっている。縦横無尽に伸びている草の間から見えるのは、どこまでも途切れなく続く草ばかりだ。

 草原地帯に入って、いくらも時間が経っていない。境界が見えなくなるほど、進んだはずがないのに。

「…………」

 全員が強張った表情になって、口を噤む。

 ここに至って、芯から思い知らされた。


 この先にあるのは、それがどんな形をしていようと、超越的な力を持った、「人ならざるもの」だ。


 世界のどこかで、新しい神が目覚めた──リンシンは、そう言っていたのだったか。

 まさか本当に、イーキオの枝が見せる幻以外に、神が存在するとでも?



          ***



 途中、何度か、同じようなことがあった。

 普通に足を動かし、地面を踏みしめて歩いているはずなのに、ふと気づくと、後ろの景色が変わっている。

 特別なことは何も感じられない。一歩前へ踏み出した途端に違和感に襲われるとか、何かを通り抜けているとか、そんな感覚もまったくない。だからこそ余計に気味が悪い。

 気になって何度もちらちらと後ろを振り返っていた俺たちは、ある程度進んだところで、そういう行為を一切やめた。振り返るたびに、自分が違う場所に飛ばされているような気分になり、背中が寒くなってきたからだ。

 一体、ここは草原地帯のどのあたりなのか。位置も方向も、まるで判らない。

 時間の感覚もおかしくなりつつあったが、それでも一限ほど、そうやって歩いた頃。


 前方に、白っぽい建物が見えた。


 もう何があっても驚かないぞ。草原地帯の中に建物があっても。妖獣が、その建物の入り口らしきところで止まっても。

「……どうやら、あれが目的の場所ということらしいですね」

 ロウガさんが低く抑えた声で囁く。そんな必要はないのかもしれないが、自然とそうなってしまうのだろう。

 守護人は厳しい顔でその建物をじっと見つめていたが、ひとつ頷き、歩みを再開させた。俺たちも、彼女をいつでも護れる位置で足を動かす。

 近づくにつれて、建物の全貌がはっきりと見えてくる。白っぽい、と思ったのは、周囲を草で覆われて影になっていたからで、それは実際には、真っ白、と形容すべきものだった。

 石造りの四角い形はニーヴァの街中でもよくあるものだが、こんなにも艶々と輝く材質の石は見たことがない。

 ──いや、違う。


 見たことは、ある。


 そう思ってから、ちょっと頭が混乱しそうになった。そうなんだ、こういう石、見たことがあるんだ。決して身近なものではないが、でも、よく覚えている。

 俺は思わずロウガさんとハリスさんの顔を見た。二人も、同じようにこちらを向いた。どちらの目にも、戸惑いが浮かんでいる。

 判っていないのはミーシアとメルディだけのようだ。そうか、侍女の立場では、あの場所までは進めないからな。メルディも密偵とはいえ、さすがに警戒が厳重なあそこには、そう簡単には近寄れなかったのだろう。

 俺たちだって、一介の護衛官であればきっと生涯知らないままだった。そこは、「神獣の守護人の護衛官」に任命されて、はじめて立ち入ることが許される、禁断の区域だ。

 守護人が、ぎゅっと眉を上げた。

 大人しく座っている妖獣の脇を通り過ぎ、躊躇もなくすたすたと入り口に近づいていく。

 その建物には扉がなかった。ぽかっと四角く切り取られたように、口を開けているだけだ。そこから足を踏み入れて──

「……ウソだろ」

 つい、茫然とした声が口をついて出る。もう驚かないぞと思ったけど、やっぱり無理だ。これが驚かずにいられるか。

 外から見た時、それは真四角の、小さな建物だった。街中にある標準の家よりも、ずっと小さいくらいだった。中に入ればすぐに内部のすべてが見えるくらいの狭さしかない、はずだった。

 それが、なんだよこれ。

 一歩足を踏み入れた途端、俺たちの前にあるのは、奥まで延々と続く廊下だった。絶対にこんな奥行きはなかったのに、先のほうが見えないくらいに長い。

 あまりのことに、一同が唖然として声も出ない中、守護人一人、口を強く結んでいる。

 滅多に感情を表に出そうとしない彼女が、今や完全に怒った顔つきになって、その廊下をずんずんと突き進んでいった。

 その左手は剣の鞘を掴んだままだ。


 ……なんか、イヤな予感がするな。


 不安な気持ちが驚きを上回り、俺は急いで床を蹴って彼女のあとを追った。それでようやく我に返ったらしく、ロウガさんたちが慌ててついてくる。

 長い廊下は、壁も床も天井も、恐ろしいくらいにすべてが白一色だった。進めば進むほど、空気が澄んでくるのが感じられて、逆に息苦しい。普通の人間にとって、ここは清浄すぎるのだ。

 壁には、上部と下部に緻密な装飾が彫られている。床はまるで鏡のように反射して、通る者の姿を映し出す。しんとした静謐さ。威圧感があるほどの神聖な雰囲気。何を見ても、どちらを向いても、既視感に捉われる。

 廊下の突き当たりには、一枚の扉があった。

 重々しく、真っ白で、荘厳な扉。いよいよ間違いないという証を突きつけられたようで、俺はその手前で立ち尽くした。

 そんなバカな。でも、これは確かに──

 ロウガさんもハリスさんも同じように狼狽を顔に出して立ち止まっているというのに、守護人はほんの一瞬も迷う素振りは見せなかった。

 むしろ、そこから助走までつけて、思いきり扉を足で蹴破った。


 ドカッ、という音を轟かせて開け放たれた扉の向こう、やはり真っ白な部屋の中には、一人の人物がいた。


 妖獣を使い、俺たちをここまで来させたその存在は、大きな石の椅子に腰かけ、肘をついた手に自分の顎を乗せて、こちらを向いていた。

 いきなり扉を開けられても、そしてその手段がまるで破壊するような乱暴さでも、そちらに向かってまっすぐ進んでいく少女が全身から不穏な空気を発していても。

 驚きも怖れも、それどころか感情さえ、カケラも見せない。


 ──無表情の(・・・・)子供(・・)


「子供……?」

 誰かの口から呟きが漏れた。

 部屋の中を突っ切って、その子供の前に立った守護人は、次の行動に入るのも迷わなかった。素早すぎて、俺にも、誰にも、止める間がなかった。

 彼女の右手が動いて、柄を握る。それと同時に、身を捻った。隙のない滑らかな動きで鞘から引き出された白刃が、勢いをつけて鋭く空気を切り裂く。

「シイナさま!」

 俺の叫びに、キイン! という甲高い音が被った。

 守護人の剣の刃は、子供に届く前に、見えない力によって弾き返された。子供はぴくりとも動いていないのに、ほんの一瞬、刃とその身体の間で、稲妻のような強烈な白い光の破片が舞ったのが見えただけだった。

 守護人の手から離れた神獣の剣が飛ばされて床に落ちる、耳障りな音だけが響く。子供は同じ姿勢、同じ無表情のままで、そちらにはまったく関心を示さなかった。

 痺れて動かないのか、自分の右手を左手で押さえ、顔を歪めた守護人が唸るような低い声を出した。


「これは一体なんの冗談なの。……神獣」





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