5.暗渠の中
「どうだい、なーんにもない、草ばかりの殺風景な眺めだろう?」
案内して入れてもらった砦の中で、番人の男の人は笑いながらそう言った。
そこははっきり言って、物見台を建物として作ってみた、という感じの素朴な砦だった。四角形の石造りというところも他の家と変わりなく、違うところといえば、三階の草原側の壁一面に窓ガラスが嵌めこまれていることくらいだ。
けれど、窓は小さいものが最低限、という構造の建物が多いこちらの世界では、そんな大きな窓は珍しいらしくて、他のみんなは興味深そうにそこから外を眺めていた。
「三階もあると、こんなにも高いものなのですね」
ミーシアさんが、おそるおそるというように窓から外の地面を見下ろして、感嘆したような声を出す。うーん、そうか。こちらの一般の人々にとって、高層の建物というと、二階建ての宿屋くらいしかないからなあ。
砦の三階部分は、本当に見張りをするためだけにしか使われないようで、置いてあるのは小さな机と二脚の椅子くらいだった。なのに、わたしたち一行が入っただけで、もうすでに満杯状態になるくらいに狭い。ざっと眺めてみたところ、あとは暇潰しのための本や、カードのようなものがあるだけで、武器らしきものも見当たらなかった。
一階は簡素な台所のようなものが設置してあるだけだったし、二階は休むためのベッドが置いてあるだけと聞いた。つまりこの砦は、あくまで「監視用」としての機能しかない、ということだ。
「ここから妖獣が見えることもあるのか?」
ハリスさんの問いに、番人は「そりゃあるさ」とあっさり答えた。けれど、その顔からも声からも、妖獣に対する怯えというものは一切感じられなかった。
「連中には翼を持ってるのもいるからね。それに、二本足のやつの中には、立ち上がればあの草の丈なんざゆうに越えるのもいるし、そういうのは頭だけが見えたりすることがあるよ。まあ、いつもってわけじゃないが」
番人の話を聞いていると、今の自分が動物園かサファリパークにいるような錯覚を起こしそうになる。彼ののんびりとした口調は、まさに、「危険な生物を安全地帯から眺める人」のそれだ。
他の人たちが窓に張り付いている中で、わたしは一人、ドアの近くに立っていた。その位置から目を凝らしてみても、窓の外には、さわさわと風に揺れる緑の草の波が続くだけの、単調で平和な光景があるばかりだった。
三階程度の高さからでは、そんなにはるか向こうまで見渡せるわけではないとはいえ、空を飛んでいる怪鳥もいなければ、草の間から顔を覗かせる凶暴な獣の姿もない。
これが毎日のことだとしたら、番人に危機意識など育たなくて当然だろう。
「最近、特に変わったことはありませんでしたか」
わたしが訊ねると、番人ははははと声を立てて笑った。
「あるわきゃねえよ。俺がここの番人になったのは十年も前のこったがね、うんざりするほど変化なんてもんはないね。旅の人たちにはつまらない話だろうが」
じゃあとりあえず、前回のように、他の国が妖獣を使ってニーヴァに攻撃を仕掛けるということはない、と考えていいのだろうか。
「今日は、普段よりも静かなくらいだ」
「……そうですか」
わたしがぼそりと返事をしたのをどう解釈したのか、番人は鷹揚に片手を振った。
「せっかく来たのに残念、って気持ちはわからないでもないけどね。あんたたちも、妖獣の住む草原地帯まで来たら胸が躍るような出来事があるかもしれない、と思ったクチだろ? そりゃあ、人生なんてものは、同じことの繰り返しで退屈極まりないもんだからね。朝起きて、メシ食って、夜眠る。そうそう波乱万丈なことなんざ起こりっこねえ。少しでもいいから刺激を求めたくなるもんさ。でも、これが現実ってもんだ、そうじゃないかい?」
ストローのような煙管に新しい草を詰めながら、したり顔でうんうんと頷く。その場にいる全員が複雑な表情をしていることには、まったく気づいていないらしい。
「首都のほうからは、神獣の守護人が来訪したとか、その守護人が王ノ宮で毎日楽しく過ごしているとか、華やかな噂ばかりが聞こえてくるけどねえ。あんなもんはまあ、ごくごく一握りの人間の話だよね。俺らみたいな普通の人間はさ、ただ今日って日を単調に過ごして、ちょっとの楽しみを味わったり、ちょっとの息苦しさを我慢したりして、なんとか一日一日を乗り越えていくしかないんだよ」
「……神獣の守護人の噂は、こんなところにまで伝わっているのか」
そう問いかけるロウガさんの声音には、若干の緊張が含まれている。番人はちっとも気にしていないのか、煙管に火を点け、ゆったりと煙を吐き出した。
「そりゃ、国民の関心の的だからね。守護人が来訪したってことで、自分らの生活が少しでも潤うんじゃないかと期待していた連中にとっちゃ、とんだ当て外れってところだよ。なのにご本人は呑気に王ノ宮での豪勢な毎日を満喫しているときてる。守護人守護人ってありがたがってたのは最初のうちだけで、今はどこに行っても悪い話しか聞こえてこない。本来なら自分たちが受けるべき恩恵を、異世界から来た守護人一人が受けているんじゃないかってね。どちらにしろ、世間と関わらない砦の番人にゃ、どうでもいいこったがね」
「…………」
ロウガさんとハリスさんが、眉を寄せて目を見交わした。そんな二人を、メルディさんが、皮肉っぽい微笑と共に眺めている。
「なるほど、あんたはなかなか物事の道理がわかる人らしいな。どうだい、俺たちはこのあたりに詳しくないんだ、よければいろいろ教えてもらえると助かるんだがね」
「ああ、いいよ。どうせヒマを持て余してたところだし。何が聞きたいんだい?」
さりげなく硬貨を握らせるハリスさんに、番人がにやりと笑う。
全員の目と耳がそちらに集まっているのを確かめて、少し開けておいたドアの隙間から、わたしはそっと身体を滑らせて外に出た。
***
「……どこに行くつもりです?」
砦の建物から出て、いくらか進んだところで、後ろから声をかけられた。
見つかっちゃったか。
小さく息をついてから振り返ると、数メートルほど後方に、むすっとした顔のトウイが腕組みをして立っていた。彼が別のほうを向いていたのをちゃんと確認してから出てきたのに、さてはあれはフェイクだったな。
「時々、トウイさんは抜け目がないですね」
「時々は余計です」
トウイはますます仏頂面になった。
「まさか、草原の中を覗いてみようなんて、無謀なことを考えてませんよね?」
「…………」
トウイに無謀と言われると、ものすごく微妙な気持ちになる。わたしは彼と向き合い、首を傾げた。
「いえちょっと」
「ちょっと?」
「ここには何があるのかなと思って」
「だから妖獣ですよ! さっきからずっとそう言われてたでしょ!」
叱りつけるように言ってから、トウイが組んだ腕を解き、こちらに足を踏み出してくる。
彼が数歩進むと同時に、わたしも同じ歩数分、足を動かした。
草原の方向へ。
トウイがぴたりと足を止めたので、わたしも止まった。
彼の目が大きく見開かれる。みるみる、その顔が驚愕に占められていった。
「……シイナさま、冗談はそこまでにしてください」
少しの息詰まる沈黙の後で、出された声はひび割れていた。石のように固い表情になって、瞬きもせずにわたしを凝視する。
「冗談?」
「建物の中に戻りましょう。ロウガさんたちもすぐに気づく」
「だったら急がないといけませんね」
「こっちに来てください。さあ」
トウイが両手を差し伸べてくる。わたしはその場でじっと止まったまま、無表情でそれを見ていたけれど、彼がまた一歩を踏み出してきたので、後ろへと一歩下がった。
凍りついたようにトウイの動きが停止する。赤茶色の瞳の中に、さっきまであった怒りが消えて、代わりに恐怖が現れるのが見えた。
「──妖獣がいるんですよ」
「知ってます。何度も聞きました」
「シイナさまは妖獣がどんな生き物か知らないから、軽く考えてるんです」
「知ってます」
わたしははっきりとそう言って、まっすぐ彼の目を見返した。
「わたしは、あなたの知らないことを、たくさん知ってる」
トウイの目の中を、戸惑いが掠めていった。こんな時になにを言ってるのか、と思っているのかもしれない。もしくは、わたしの正気を疑っているのかも。
まだ大丈夫だよ、トウイ。
わたしはまだ、大丈夫。
「妖獣は、神獣の剣の持ち主は攻撃しません。わたし一人なら、草原地帯の中を進める」
リンシンさんでも調べるのは無理だと諦めたという草原地帯。神獣の守護人であるわたしならあるいは、とあの人が言っていたのは嘘ではなかったのだ。
この中に何があるのか、もしくは何もないのか。わたしはそれをどうしても知らないといけない。
進むしかないんだ。
今度こそ、巡る運命の輪を断ち切るために。
「バカな」
トウイが苦いものを吐き出すような口調で言った。
「そんな危険なこと、絶対にさせるわけにはいかない」
「今度は、わたしを止めるのは無理です」
ドヌクに振り下ろそうとした剣を止めた時とは違う。
誰のために、何を守るのか。わたしにそれを思い出させたのは、トウイだったでしょう?
「だったら……だったら俺が行きます。神獣の剣を持って。シキの森で一度妖獣と遭遇して無事だったんだ、俺が行ったほうがいい」
トウイから出された提案に、わたしは首を横に振った。
「どうして!」
「これは、わたしがしなきゃいけないことだから」
「じゃあ、一緒に」
「だめ。わたしは他の誰の同行も求めていないし、許しません」
「許しがなくても、追いかけていきます」
「あなたが草原地帯の中に一歩でも踏み込めば、その瞬間、わたしは神獣の剣を投げ捨てますよ」
「な……」
トウイが絶句した。
「……っ、意味がわからない……!」
唸るように歯の間から言葉を絞り出し、頭を手で押さえる。
「一体、何をしようとしているんです。この中に何があるっていうんです。大体、妖獣が神獣の剣の持ち主を攻撃しないって、それは確証のあることなんですか。下手をしたら妖獣に喰われてそれでお終いだ。わかってるんですか!」
「大丈夫です」
「そんな言葉で納得できるわけがない」
「言ったでしょう、わたしはあなたが知らないことをたくさん知ってると」
「だからそれをちゃんと説明してくれと言ってるんです。とにかく、こっちに」
じりっと彼の足が動く。それと同時にわたしがさらに後ずさったのを見て、トウイは低く呻いて地面を蹴りつけた。
「シイナさま、頼むから──」
「わたしが神獣の守護人だからです。説明はそれだけで十分のはずでは? 守護人が護衛官に、行動の理由をいちいち告げなきゃならない必要がありますか? 何度も言わせないで。草原地帯の中に入っていけるのは、守護人であるわたしだけ。わたしはそれを『知ってる』。邪魔にしかならない他の人は外で待機していてくださいと、そう言っているだけです」
「だから、守護人っていうのは何なんだよ!」
ひややかに投げつけたわたしの言葉に、眉を吊り上げたトウイが怒鳴るように返してきた。
互いに睨み合うようにして対峙する。
「守護人は──」
続けようとした言葉が、ぷつりと途切れた。
草原地帯のほうから、ザザザッという草をこするような音が聞こえてきたからだ。
ものすごい勢いで草原内を突っ切り疾走しているような、音。
弾かれるように、後ろを振り向いた。
その音は、明らかにこちらへと向かってきていた。どんどん近づいている。すぐそこに草原地帯とニーヴァとの境界である鉄線が張られているというのに、スピードを緩める気配がない。その手前で止まろうという意志を、まったく感じない。
わたしは咄嗟に神獣の剣の柄を握った。全身から一気に血の気が失せていく。
なんで。どうして。境界のこちら側は安全ではなかったのか。だめだ、ここにはトウイがいるのに。すぐ近くには、みんなが。
「トウイ、逃げて!」
わたしの叫びと共に、大きな黒い影が、軽々と鉄線を越えて草原地帯から飛び出してきた。
***
現れたのは、豹のような外見をした妖獣だった。
艶やかな体毛は黒に近い青。しなやかで巨大な体躯は、あちらの世界の豹の数倍はある。鞭のような長い尾だけでも、一振りで人間を吹っ飛ばしてしまえるほどの重量を備えているようだった。
鉄線を越えて草原地帯から出てきた妖獣は、たった一回の跳躍で、わたしの目の前の地面に着地した。
どっしりとした四本の脚がすぐそこにある。上のほうからこちらに向けられる黄金の瞳は、わたしをぴったりと見据えて爛々とした光を放っていた。
「シイナさまっ!」
トウイの鋭い声で、我に返った。
呆けている場合じゃない。わたしはすぐさま身体の向きを変えて、トウイの元へと走った。トウイもこちらに向かって駆けてくる。妖獣はほんの一跳びで、ほんの一撃で、あっという間にトウイの命を奪ってしまう。それよりも早く、それよりも先に、トウイに神獣の剣を渡さないと。
「シイナさま! トウイ!」
トウイの腕がしっかりと抱きとめるようにわたしの身体に廻ったところで、新たな声が聞こえた。
そちらに目をやると、砦の建物からロウガさんたちが出てくるところだった。
こんな時に──と心が真っ黒な絶望に染められていく。
ロウガさんとハリスさんが、信じられないという顔をしながら剣を鞘から抜き、こちらに走って来ようとしていた。真っ青になったミーシアさんまでが足を踏み出しかけている。どうして、と叫びだしそうだった。
どうしてよ!!
「来ないで!」
空気を震わせるほどの大声に、三人が足を止めた。
「すぐに建物の中に入って! 早く!」
神獣の剣の柄を握った右手で、トウイの衣服に強くしがみつきながら怒鳴る。
妖獣は、何をもって神獣の剣の持ち主であるという判断をするのか。手に持っていればいいのか。それとも触れてさえいれば襲ってはこないのか。トウイに渡してわたしが離れればいいのか。
「シイナさま」
「トウイ、剣を持って、早く!」
「シイナさま!」
「だめ、だめ! もう少し、あと少しなのに!」
「シイナさま、落ち着いて!」
がむしゃらに神獣の剣をトウイに押しつけようとしていたわたしの手が、上からさらに強い力で押さえつけられた。
目を上げると、トウイがまっすぐこちらを見下ろしていた。厳しい目つきをしているけれど、彼の顔には動揺も焦燥もない。左の手が、ぐっと支えるようにしてわたしの背中に廻っている。
「大丈夫、落ち着いてちゃんと見てください。──あの妖獣に、俺たちを襲う気はないらしいですよ」
「……え」
ぎくしゃくと首を動かしてそちらを振り向くと、豹そっくりの恐ろしげな外観をした凶暴そうな妖獣は、後ろ脚を折ってその場に座り込み、尖った牙を見せながら、大口を開けて欠伸していた。
しばらく身じろぎもしないでじっと窺っていたけれど、妖獣はまったくそこから動く気配を見せなかった。
従順な犬のように、「お座り」の姿勢のまま、時々退屈そうに伸びをしたり、吹いてくる風にぴくぴくと耳を動かしたり、猫みたいに前脚を舐めてのんびり毛づくろいをしたり。
かといって、草原の中に戻ろうともしない。
「──……」
わたしは唇をぐっと結んで眦を上げた。
……なんか、猛然と腹が立ってきたんですけど。
そろりとトウイの腕の中から出て、ゆっくり足を動かしてみる。それでも妖獣は知らんぷりだ。ちょっとなんなの、その態度。
腹を括った。
剣を掴む手に力を込め、今度こそはっきりと妖獣に向かって歩を進める。あちらに襲ってくるつもりがあるのなら、とっくにそうしているはず。そして妖獣にその気があれば、人間は何をしようが歯が立たない。油断させてから飛びかかる、なんて手段は、せめてもう少し力が対等な場合に使われるものだ。
妖獣はこちらを向いたけれど、そこから動こうとはしなかった。
トウイもまた足を踏み出して、わたしの隣に並んで歩いた。口を開きかけたわたしを遮るようにして、片手を軽く挙げる。
「妖獣は神獣の剣の持ち主には攻撃しない、でしたよね? じゃあ、こうしましょう」
そう言って左手を伸ばし、わたしの右手を剣の柄ごと握った。
「…………」
思わず口を噤んでトウイの顔を見たら、にこっと笑われた。
はー、とため息をつく。
本当にこれでいいのかよく判らないけれど、少なくとも、後ろ脚で首筋を掻いている妖獣が、近づくわたしたちに襲いかかってくるような様子はない。
砦のほうに目をやると、ロウガさんたちがみんな、立ち尽くしたまま固まっているのが見えた。
はじめて見た妖獣と、その後の成り行きに、頭がついていかないらしい。一人、真っ青になった番人だけが、泡を吹きそうな顔で腰を抜かしている。
一歩一歩確かめるように進んでいっても、妖獣はその場に座ってこちらを眺めたまま、動かない。黄金色の瞳は当たり前かもしれないけどなんの感情も見えなくて、イヤでも神獣を思い出してムカムカした。
「言いたいことがあるならさっさと言ったらどうなの」
「妖獣相手にそんな無茶な」
足を動かしながら低い声で罵った途端、妖獣が後ろ脚を伸ばして、すっくと立ち上がった。
びくっと全身を跳ねさせるようにして止まり、白い筋が浮くほどに強く剣の柄を握りしめる。
抜き身の刃先が小さく揺れているのは、わたしの手がさっきからずっと震えているからだ。けれど、上から重ねられたトウイの手は、動じることなく力強かった。
四つ脚で立った妖獣は、わたしたちのほうに顔を向けてから、ふいっと身体の向きを変えて、草原のほうへと歩き出した。
そのまま中に戻っていくのかと思ったら、鉄線の手前で再び止まり、後ろを振り返る。
妖獣の視線は、しっかりとわたしたちの目を捉えていた。
呆気にとられた。
これって──
「……どう、思いますか」
「いや……どう思うもなにも」
トウイと目を合わせ、ぼそぼそと言葉を交わす。お互いの顔を見ても、そこに自分と同じような困惑が乗っているのを確認しただけだった。
「──ついて来い、って意味だと思いますけど」
草原地帯の中には、間違いなく、「何か」があるらしい。
(第十六章・終)