3.誓約
気がついたら、わたしは再びあの暗闇の中にいた。
気がついたら──本当に、そうとしか言いようがない。つい今しがたまで、赤い月が照らす外にいて、下には柔らかな草の感触もあった。わたしはそこにへたり込み、ただトウイの身体を腕に抱いて、目の前で起きていることに対処しきれず、ひたすら茫然としているだけだったのに。
ガシャン、というあの耳触りのよくない大きな音が聞こえたと同時に、わたしの意識は一瞬空白になり、ひとつ瞬きをしたら、そこは黒一色に覆われていた。
座り込んではいるが、伝わってくるのは地面や床のような固さではない。どこかふわふわとした、半分浮いているようなこの感じは、確かに以前も経験したものだ。腕の中にあったはずのトウイの姿はかき消えたようになくなって、そこには真っ暗な無があるばかり。わたしたちを追う足音も、人の声も、恐ろしい矢の飛んでくる音もしない。
何もない。
「ゆ……夢?」
どくどくと激しく脈打つ鼓動が、頭にまで響く。わたしは唖然として呟いた。
なにもかも、夢、だったんだろうか。どこから? 夜、部屋にトウイが入ってくるところから? それとも、白く光る扉を開けるところから?
扉を開けて、ずらりと並んで平伏する白装束を着た人々に迎えられて、何も判らないまま部屋に閉じ込められた。泣いて泣いて、涙の合間にうとうととまどろんで見た夢は、いつでも、「家に帰ってお父さんとお母さんに会う」というものばかりだった。
目が覚めて、素っ気ない白い天井と、おかしな形のベッド、手触りの悪い上掛けを目に入れ、そのたび失望と落胆に襲われる。いきなり見知らぬ世界に迷い込んでから、わたしにとって夢からの目覚めは恐怖でしかなかったのに、今だけは心の底から安心して全身で息を吐き出した。
夢、だったんだ。トウイは死んでない。あの男の子が、矢で射抜かれて、倒れて、たくさんの赤い血を流したあの光景は、すべて夢だった。
「よかっ……」
笑みを零し、涙で濡れた頬を拭おうと手を上げた。
そして、凍りついた。
その手は真っ赤に染まっている。掌が引き攣るような感じがするのは、そこにべったりとへばりついた血糊が、すでに固まりかけているからだ。
改めて自分を見下ろしてみたら、赤くなっているのは手だけではなかった。着ている白っぽい筒型のワンピースのような衣服は、あの世界で寝間着として用意されていたもの。それも、まるでペンキをかぶったかのようになっている。わたしが怪我をしているわけじゃない。わたしの身体からの出血じゃない。これはすべて、すべて……
その時になってやっと、わたしは自分の左手に何かを握っていることに気がついた。強張る手を意志の力でなんとか開き、そこにあるものを見て愕然とする。
──紙飛行機。
端にわたしの名前が書かれた飛行機。わたしがトウイにあげたもの。トウイが、最後の力を振り絞って、わたしの手の中に押し込んだもの。
こんなにも、真っ赤になって。
「……い」
ガチガチと歯の根が鳴った。足許から来る震えは、すぐに全体に廻った。いっぱいに見開いた目から、ぼとぼとと涙が溢れだす。落ちていく透明な滴は、音もなく闇の中に吸い込まれていった。
「いやああああああっっ!!」
わたしは叫んだ。泣いた。はじめて目の当たりにした人の「死」というもの、わたしはそれを受け止められなかった。理解することも拒んで、ひたすら声を上げ続けた。
ほんの少し前まで温かい熱を持ち、声を出して、笑ってもいた人が、ただの冷たい物質へと変り果てる事実を、どうしても認められない。それはとても、かけがえのない貴重なものであったはずなのに、失われるのは驚くほどに呆気なく、あっという間だった。
こんなにも簡単に人は死ぬのか。たったあれだけのことで、彼が今まで築いてきた時間は消えてなくなってしまうのか。もう、あの姿を見ることは出来ない。顔も、声も、見られない。わたしが作った紙飛行機、ただあれだけで瞳を輝かせていたあの男の子に会うことは、もう二度とない。
死は一瞬。けれど、その喪失はなんて、なんて大きいのだろう。
わたしは泣いた。いつまでも、泣いた。
どれだけ涙を流したところで、失われてしまったものは決して取り戻せない、ということを、イヤというほど思い知るまで。
***
「……ねえ、もう気が済んだ?」
どれだけ泣いたのか、やがて涙が涸れて、ぼんやりと自失した状態になっていたわたしに、声がかけられた。
半分くらい魂が抜けかけていたのだろう。わたしは突然のその声に驚きもせず、のろのろと顔を上げた。
──いつの間にか、目の前には、一人の子供が立っていた。
銀色の髪と、金色の瞳。ぼうっとその姿が輝いて見えるのは、男の子の肌が透けるように真っ白だからという理由ではなく、彼自身が薄っすらとした燐光を発しているからだった。
あの扉のように。
「誰……?」
泣きすぎて掠れてしまった声で、わたしは虚ろに問いかけた。でも彼は、その質問には答えずに、唇の両端を吊り上げてくすくすと笑った。
「ずいぶん、幼稚な筋書きだったよねえ」
外見は小学校低学年くらいの、小さな男の子。けれどその口から出る声や内容には、子供らしさが窺えるようなものは欠片も存在していなかった。金色の瞳には、呆れるような、失笑するような、または、面白くてたまらない、というような色が見え隠れしている。
「トウイ、だっけ? あの彼はあまりにも、考えなしだったよね。浅慮、無鉄砲、むこうみず。一本気といえば聞こえはいいけれど、とにかく呆れるほどに愚かで、子供だ」
その言葉を、わたしは信じられない思いで聞いた。なにを言ってるんだろう。
トウイが、愚か?
「おや、わからないの? まあ、キミも子供だからね」
男の子はそう言って、可笑しそうに、あはははは、と笑った。
「愚かな子供と馬鹿な子供、いい組み合わせだ。では教えてあげようか、彼は最初から、キミに同情なんてすべきではなかった。仕事は仕事として、キミとは距離を取り続けていなければならなかった。他の護衛官たちのようにね。しかも、守護人ではないかもしれない、という話を漏れ聞いたからって、それをそのままキミに伝えてしまう──愚の骨頂だよ。そうは思わない? きっと帰れるよ、なんていうのは、慰めというよりはただの安請け合いだ。詳細な事実を把握することもなく、あらゆる可能性を考えて口を噤むという判断も出来ない。どこまでも独善的な、頭の悪い子供のしでかした、残酷な悪ふざけだった」
「…………」
わたしはふるふると小刻みに首を横に振った。ぽろ、とまた涙が零れ落ちる。
悪ふざけ──なんて。
「だってキミはその言葉で、帰れると期待してしまったんだろう? それで、より状況がつらくなったんだろう? かすかな希望は絶望よりもタチが悪い、ということすら気がつかない彼は、可哀想なキミに表面的な憐れみを施して、さぞかしいい気分だったろうさ。みんなから遠巻きにされて一人ぼっちでいるところに、優しい顔で話しかけたら、誰だってその存在に縋りつくようにして依存する。キミと話している間、彼の心の中は優越感でいっぱいだったと思うよ。傷ついた雛の面倒を見たら、こんなにも懐くようになった──とね」
「…………」
ぐうっと喉が塞がった。まるで、綿でも詰まっているかのようで、反論したいのに、声が出ない。必死で首を横に振り続ける。
「キミの処分が決定した後に彼がとった行為も、お粗末すぎたよね。ただ闇雲に神ノ宮から連れ出して、それからどうするつもりだったんだろうねえ? 街に出るつもりだったようだけど、その後どうしようかなんて、きっとほとんど何も考えていなかったに違いないよ。イタズラをした子供が、後先考えずにその場を逃げ出すのと同じさ。軽挙妄動とはこのこと、なんていう無責任さなんだろう。そうは思わない?」
「……やめてっ!」
わたしは両手で耳を塞いで叫んだ。あはははは、と子供が高い声で笑う。
その笑い声を収めてから、彼は静かな声で、わたしに向かって問いかけた。
「ねえ、トウイを助けたい?」
「……?」
しゃくり上げながら顔を上げ、男の子の顔を見る。黄金の輝きを放つ瞳が、まっすぐこちらに据えられていた。
唇ははっきりと吊り上がっているのに、その目にはなんの感情も宿っていないように見えて、ぞくりとした。
「──さあ、選びなよ」
男の子はそう言って手を挙げ、闇の一方向を指し示した。
そこにはぼんやりと光る何か……あれは。
あれは、「扉」だ。
わたしがはじめてこの闇の中に放り込まれた時に、開けた扉。
それから彼は、今度は逆方向に向かって指を伸ばした。そちらのずっと先のほうにも、光がある。小さく白い光。けれど、そこに扉はないようだった。
「あの光を抜ければ、キミはもとの世界に帰れる」
彼の言葉に、わたしは自分の耳を疑った。もとの世界? わたしの家がある場所? 帰れるの?
「ここは世界と世界の狭間。ここからなら、キミはキミの世界に帰れる。あちらに向かって走れば、その先にあるのは懐かしいキミの故郷だ」
男の子の言葉が終わらないうちに、わたしはふらりと立ち上がり、光に向かって歩き出していた。
ふわふわと足取りが頼りない。でも、引き寄せられるように歩みは止まらなかった。頬に涙の痕と血痕をたくさん残したまま、それを拭おうという意識すら頭に浮かばず、勝手に足が動いていく。
あの光を抜ければ帰れる。お父さんとお母さんに会える。うちに帰れる──
「そしてこちらの扉を開ければ、キミはやり直せる」
動いていた足が、ぴたりと止まった。
ゆるりと振り返る。同じ場所、同じ姿勢で立っている男の子が、金色の目を細めた。
「また最初から。現れの間にキミがやって来るところから。そこからまた、はじめられる」
「最初から……?」
口から出た言葉はほとんど声になっていなかった。自分は声を出したつもりだったのに、それは震えて、掠れて、音にはならなかった。それなのに男の子は「そうさ」と平然と返事をして、頷いた。
「あの扉を開けたら、そこには、キミが最初に扉を開いた時とまったく同じ光景があるよ。現れの間に跪く白装束の神官たち。大神官の出す台詞だって、一言一句そのままさ。……もちろん」
くすっと笑う。
「トウイもいる」
わたしはその場で立ち竦んだ。手の中にある、くしゃくしゃになった血だらけの紙飛行機に、目をやらずにいられない。あの扉の中では、トウイが生きてる? 過去に戻れるということ?
時間を戻して、またやり直せる、ということ?
「選ぶのはキミさ。そのまままっすぐ光に向かって走ったら、もとの世界に帰って、また前と同じ日常に戻る。血生臭さのない、平穏で、安楽で、温かい毎日だ。思う存分親に甘えているうちに、ほんのいっときを過ごしたおかしな世界で起こった出来事なんて、きっとすぐに忘れてしまうね。そこで出会った男の子のことも、彼がキミを逃がそうとして死んでしまったことも、何もかも頭の片隅に追いやって、キミはキミの人生を楽しめばいい」
「…………」
わたしは動きを止めたまま、じっと男の子の顔を見つめた。
身体はやっぱり、わたしの家がある光のほうへと向かいたがっている。その吸引力に抗っているのは、ただひとつ、手の中のごわごわとした紙の感触だけだった。
あの扉を開ければ、トウイはこの先の未来を生きられる──
「わ、わたしが扉を開けないまま帰ったら、どうなるの」
なんとか喉から声を引きずりだして訊ねてみると、男の子はことんと首を傾げた。
「別にどうも? 世界はあのまま続いていく、というだけの話。ただ、キミに関する記憶は人々の頭から抜けるね。キミは、『はじめからいなかった人間』になる。トウイの死は、神ノ宮から脱走を試みた罪で処刑された、ということにでもなるんじゃないの」
無邪気なほどにあっさりと、興味なさげな顔で告げる。
では、わたしが扉を開けない限り、トウイの死は覆らないのだ。彼の生を望むのなら、わたしはもう一度扉を開けて、最初からやり直さねばならない、ということだ。
ふたつにひとつ。どちらかを、自分の意志で選べ──と。
凝然と立ち尽くしていると、男の子は、白くて細い指を、今度は上に向けてぴんと突き立てた。
「100日間」
「え……」
唐突な言葉に、ぽかんとする。
「あの扉を開けて、100日の間、トウイが生き続けていられたなら、キミの勝ち。ルールはそれだけさ。わかりやすいだろう? 途中で死んでしまった場合も、キミはこの狭間に戻る。そこからもう一度はじめるか、トウイの生は諦めて帰るか、その時点でまた選ぶんだ」
「ひゃく、にち……?」
わたしは意味が判らず、戸惑った。どうしてそんな「ルール」などというものを決められなければならないのか。条件を出されて、それをクリアすればいい、なんて、それじゃあ、まるで──
「ゲームだよ」
と、男の子はわたしの思ったことを、すっぱりと言葉にした。
「前に、この狭間に落ちた人間が教えてくれたんだ。キミの世界には、そういうゲームがあるらしいじゃないか。この場合、『主人公』がトウイ、キミは『プレーヤー』だ。プレーヤーは、次々と降りかかる試練から主人公を守って、100日間だけ生き延びさせるのが役目。それを過ぎればトウイは主人公の立場から解放されて、以降は平穏な人生を送れる。けども100日までいかずに主人公が死んでしまったら、そこでお終い。ゲームオーバーだ。失敗して、もういいやと放り出すか、リセットしてもう一度やり直すか、その都度プレーヤーのキミが決めればいい。ねえ? これならいいだろう?」
男の子はニコニコと満足そうに笑っている。わたしは混乱した。彼が何を言っているのか、まったく判らない。
「今まで、たくさんの人間がこの狭間に落ちたよ。でも、彼らはほとんどみんな、一度扉を開けただけで帰ってしまう。人は、やり直すなんて面倒なことよりも、忘却のほうを選ぶんだね。気の毒に、これまで何人の『主人公』たちが、やり直すことも出来ずに死んでいったか……つまらないね」
本当につまらなさそうな顔でそう言って。
キミはどうする? とまっすぐわたしに視線を向けた。
「帰る? トウイを助ける?」
「…………」
頭のてっぺんから血の気が引く思いで、わたしは男の子を見返した。
帰りたい。今すぐにでも。
その思いは強くある。こんなにも足が震えるくらい、その渇望はわたしを激しく突き上げている。
帰って、お父さんとお母さんの顔を見て、安心して、泣いて、すべてを忘れてしまえばどんなに楽だろう。ぜんぶ夢だったんだと言い聞かせて、トウイのことも何もかも、胸の奥深くに沈めてしまえたら、どんなに。
もしも、もう一度扉を開けたら二度ともとの世界には帰れない、と言われていたら、わたしはきっと、光に向かって足を踏み出していた。汚くても、卑怯でも、あとで死ぬほどの自己嫌悪に苛まれると判っていても、きっとそうした。わたしはそこまで強くはなれない。
でも──100日間。
その期間だけトウイが生き続けていれば、わたしは帰れる。彼の未来を消すことなく、今度こそ笑ってお別れを言える。その幸福な結末は、頭が痺れるほどにわたしの心を揺さぶり、掴みとった。
確かに、トウイは少し短絡的なところがあったのかもしれない。やって来たのは本当の守護人じゃないらしい、という話を聞いて、じゃあきっともとの世界に帰れるんだろう、と考えて口に出してしまったのは、彼の思考の浅さ、経験の少なさからくるものであったのかもしれない。そういうところ、トウイは男の子が言うとおり、「子供」であったのかもしれない。
……でも。
泣いて泣いて、おかあさんと何度も叫び、帰りたい、とそればかりを望んでいた女の子。
トウイにはきっと、他に思惑なんてなかった。ただ、ほんの少しでも安心させたいと思っただけだった。単に、放っておけなかっただけだった。
どうしても、目の前の理不尽を、黙って見過ごすことが出来なかっただけだった。
目を瞑り、耳を塞ぎ、感情に蓋をして、自分のことだけ考えていればよかったのに、トウイにはそれが出来なかった。
同情心でも、憐れみでも、その根本にあるのは、彼の優しさ。
わたしを逃がそうとしたのは、無謀で、無鉄砲で、自分の命を顧みない、愚かな行為であったかもしれないけれど。
それは決して、咎ではないはず。
死ななければならないような罪ではなかったはず。
──彼はその気持ちを、衝動を、心のありようを、そのまま行動に移すことの出来る人だった、ということなのだ。
わたしは何も出来なかった。ただ、自分の身に起こった出来事に、怯えて、嘆いて、泣いていただけ。祈るだけ、誰かが何かをしてくれるのを待っていたただけで、自分からは何も行動しなかった。
トウイはあの世界で、わたしの唯一の救いになってくれたのに、わたしはそれに対して、何ひとつ、返すこともしなかった。
このまま帰ることも出来る。けれどその場合、わたしは死ぬまでずっと、後悔と罪悪感を背負って生き続けていくのだろう。泣くばかりで、何も出来ず、しようともせず、一人の男の子を見捨てて逃げ帰ったことを恥じ、自分自身を責めながら生きていくのだろう。
あの笑顔を思い出すたび、胸を痛めて。
ただ悲しむだけでは、失ったものは取り返せないのに。
──やり直せるのなら。
今度は、もっと上手にやれる。
トウイをみすみす死なせたりしない道を選べる。
強く拳を握って、ごしごしと乱暴に顔を拭った。くるっと踵を返し、はるか向こうにある光に背を向ける。
胸の中で、何度も謝った。
ごめんね、お父さん、お母さん。
いつか必ず、帰るから。
きっときっと、トウイを助けて、帰るから。
わたしの名前は希望。最後まで捨てちゃダメだ、と、トウイは言った。
ほんのりと輝く扉に近づくにつれ、手の中にある紙飛行機がさらさらと砂のように崩れて、書いてあったわたしの名と共に、闇の中に消えていった。それと同時に、着ていた血だらけの衣服が、どこも汚れていない黒いセーラー服へと変わっていく。洗っても落ちなさそうだった頬と身体にべったりと付着していた赤色が、すうっと薄くなった。
時間が巻き戻る。
扉に手をかけ、男の子のほうを振り向き、低い声で訊ねた。
「……あなたは、だれ」
彼は金色の瞳を面白そうに揺らし、唇をにいっと上げた。
「すぐにわかるよ」
***
扉を開けると、白装束をまとった人々の群れが見えた。
平伏している彼らの頭の向こう、広間の後方では、三人の護衛官が腰の剣に手をかけ、こちらに顔を向けている。
緊張して固い表情の、男の子がいる。
……ああ、生きてる。
わたしはぽろぽろと涙を零して、ゆっくりと微笑んだ。