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2.離恨



 ニコの亡骸は小さな棺に納められた。

 その棺は、グレディールの街にあるお堂のようなところに一晩置かれた後、墓所に葬られることになる。

 ミーシアさんはずっと泣きながら、棺の中に、ニコに渡したお菓子や洋服や本などを入れていた。わたしがあげた折り紙も、同じように入れられた。

 ミーシアさんは、「ニコもきっと喜びます」と言っていたけれど、わたしはちっともそんな風には思えなかった。

 街の外にあるグレディールの共同墓地は、ほとんどまともな管理がされておらず、荒れていた。でも、そんな場所にさえ、ニコを葬ることは拒絶された。

 一度グレディールを出ていったのだから、この街の住人のための墓地を使わせることは出来ないと。そもそも灰色の髪を持つ子供なんて、このニーヴァの人間であるかどうかも判らないからと。

 おそらくそこには、ドヌクという男がこの街の実力者であるという理由もあったに違いない。ニコがどうして亡くなったのか、住人たちは薄々気がついていて、それゆえに関わり合いになることを拒んだのだろう。あの男の態度からして、普段他の人々に対しても横暴な振る舞いをしていることは容易に想像がつく。

 だからトウイたちは、それぞれ手を尽くしてあちこちを探し回り、別の墓所を見つけなければならなかった。このあたりに詳しいわけではないから、それは簡単なことではなくて、みんなずっと口を引き結んだまま黙っていたけれど、どの顔にも、深い悲しみの上に、重苦しい憔悴が重なっているのが見えた。

 グレディールから離れたところに、ようやく見つけたのは、身寄りのない人、旅の途中で倒れた人などが葬られる、寂しげな墓所だった。訪れる人も、手入れをする人もいない。でも、小さな山の中腹にあるので、見晴らしがよくて気持ちのいい場所なのだという。

 そう説明をしてから、「きっと、グレディールの墓地よりも、そっちのほうがいいと思います」とトウイがぽつりと独り言のように付け加えた。


「──ニコが以前、そういうところがいいって、言ってたから」


 フィリーの弔いの時に、「オレも死んだらこういう見晴らしのいいところに埋めてもらいたいなあ」と言っていたニコ。それからいくらも経たないうちに、その言葉が実現することになるとは、本人だって思っていなかっただろう。

 翌日になって、その場所へ運ばれた棺は、深い穴の中に埋められた。墓守というものはいないから、穴を掘るのも土をかけるのも、わたしたち全員の手でやった。墓石も、どこからかハリスさんが調達して、ロウガさんが名前を彫った。

 正式な名前を誰も知らないから、刻まれた名は、ただの「ニコ」。

 小さな棺が、上に被さる土によって、どんどん隠れて、見えなくなっていく。両手を真っ黒にしたミーシアさんの、すすり泣きの声だけが、静かに空気を震わせる。トウイも、ロウガさんも、ハリスさんも、メルディさんも、ひたすら無言で手を動かし続けていた。

 頭上には、濃い灰色の雲が立ちこめている。もうすぐ、雨が降るのかもしれない。空までが、ニコのために涙を流すというのに、わたしの目からはもう、一粒の涙も零れることはなかった。

 どこかで鳥の囀りが聞こえる。

 わたしは黙ったまま、両手にすくった土を、棺の上にぱらぱらと落とした。



          ***



 昼過ぎからぽつぽつと降りだした雨は、夕方から激しくなった。

 この土砂降りの中、馬を出すわけにもいかない。ニコの弔いを終え、グレディールの街に戻ったわたしたちは、予定を変更して、もう一晩宿屋に泊まっていくことにした。

 夜になると、雨はますます勢いを増した。雨露を防ぐくらいしか取り柄のなさそうな質素な部屋の中は、強い風と大きな雨粒が窓ガラスを叩き、非常にうるさかった。

 お墓から戻って以降、一言も言葉を発しないわたしを気にして、ベッドに横になってからもずっと起きていたようだったミーシアさんは、疲れもあったのか、数時間もすると眠りに落ちた。

 それからしばらくして、メルディさんがごそごそと動き出す気配がした。わたしはそちらに背中を向けて目を閉じていたのでよく判らないけど、一瞬風の音がさらに大きくなったから、外に出ていったのだろう。

 少しして、わたしもむくりと上体を起こす。

 ミーシアさんが間違いなく寝息を立てているのを確認してから、ベッドを下りた。着替えながら耳を澄ましてみたけれど、外の音がやかましくて、隣室の気配を探るのは難しい。

 しかしそれなら、逆もまたしかりということか。いくら護衛官たちが敏くても、雨の音や風の音に邪魔されて、多少の物音はまぎれてしまうはず。

 すぐそばに立てかけておいた神獣の剣を握り、足を動かす。

 窓に近寄ったら、そこはやっぱり施錠されていた。いつも思うことだけど、メルディさんは毎回どうやって自分が出ていったあと、外側から鍵をかけられるのか。わたしにそんな技術はないので、鍵は開けたら開けっ放しだ。ミーシアさん一人残していくのに、不用心かな。でもたぶん、この大雨の中、賊が侵入してくることもないだろう。

 そんなことをしようとするのは、わたしくらいだ。

 なるべく音をさせないよう、慎重に窓を開ける。吹きつけてきた雨飛沫が、まともに顔にかかった。

 けれど目を閉じることもせず、わたしは一階の窓から地面へと飛び降りた。




 神獣の剣を勢いよく振り下ろしただけで、その家の扉の取っ手は、ついていた錠ごと吹っ飛んで落ちた。

 他愛もない。この世界のセキュリティーは、ほとんど子供騙しに過ぎない。その気になれば、いくらでも襲える。それとも、こんな風に剣を手にして押し入ってくる人間のことなど、最初から想定もしていないというのだろうか。それは甘い。甘すぎるというものだ。

 取っ手の失せた扉を、思いきり足で蹴りつけて開け放つ。遠慮も手加減も、一切しなかった。ドカッという大きな音が、外の激しい雨音と一緒に、静まり返った家の中へと流れ込んだ。

 扉の中は今までわたしが見てきたどの家よりも、ごちゃごちゃとした装飾品で溢れかえっていた。壁にはタペストリー、石の床には毛皮のような敷物。椅子もテーブルも、素朴さとはかけ離れた造りだ。

 何の仕事をしているのかは知らないが、この貧しい街で、異彩を放つほどに豪奢だということは判る。いずれにせよ、どうせマトモな稼ぎ方ではないに決まっているけど。

 ぽたぽたと全身から水を滴らせ、わたしは構わず足を動かし、中を進んでいった。部屋はいくつかあるらしい。ひとつひとつ探すのも面倒だ。通りすがりに、台の上に飾ってあった花瓶を、抜き身の剣で薙ぎ払う。

 すぱっと断たれた花瓶の上下は、それぞれ宙を舞ってから床に落ちて割れ、けたたましい音を立てた。

 それでようやく、奥の一部屋で、人の起きだした気配があった。ガタンゴトンと音がするのは、慌てるあまり、何かにつまずくか物を落としたらしい。わたしは迷いもせずそちらに向かい、あちらが扉の取っ手に手をかける前に、再びそれを蹴飛ばし、ぶち破るようにして開けた。

 乱暴に開かれた扉に仰天したのか、中にいた人物は、ひっと叫び声を上げて、後ろに跳び退った。

 寝間着姿で、小柄な体格の男は、突然の襲撃に、みっともないほどうろたえていた。壁に取り付けられた頼りない燭台の明かりの下でも、顔色を紙のように白くしているのが、はっきりと判るほどだった。


「な……なんだ、お前は!」

 そう怒鳴るドヌクの顔を、わたしはまっすぐ見返した。


 部屋には、ベッドの他に、机や棚がある。机の上では、数十枚もの硬貨が種類別に積み上げられて、卓上ランプの微々たる光に照らされ鈍い輝きを放っていた。

 積まれているのは、ガレル硬貨ばかりではなく、ガレ硬貨もあるようだ。わたしが渡した袋の中身を数えてでもいたのか、それとも、寝る前にはお金を眺めるのが日課なのか。どっちにしろ、悪趣味なことには変わりない。

「わたしのこと、忘れましたか?」

 今のわたしは、頭を巻く布もなく、マントを羽織ってもいない。あの時とは確かに見た目は変わっているかもしれないけれど。

 手にした神獣の剣を持ち上げると、ドヌクは大きく目を見開き、ぽかんと口も丸くした。

「お、お前、あの時、ニコと一緒にいた……女、だったのか」

「こんばんは」

 挨拶をすると、ドヌクは今になって尊大さを取り戻し、眉を上げた。ここにいるのが、剣を持っているとはいえただの小娘、しかも周りに連れていた男たちもいない、と確認して、気が大きくなったらしい。

「なんだ、なにしに来た! どうやって中に入った?! お前、自分が何をしているのかわかってるのか!」

 顔を今度は憤怒で真っ赤にして、高い声で喚き続ける。人差し指をわたしに突きつけ、まるで糾弾するかのような口調で。

 唾を飛ばし、顔を歪め、口汚く罵るそのさまは、醜いとしか形容のしようがなかった。

 わたしは黙って、ドヌクのよく動く口を眺めていた。声は耳に入ってくるけれど、それが意味のある言語として認識できない。人間ではない何か異形の生物が、ぎゃあぎゃあと叫び続けているとしか思えなかった。

 何を喋っているのか判らないのだから、腹も立たない。ここにいるのは、ただうるさいだけの虫と一緒だ。ぶんぶんと耳にまとわりつく羽音は鬱陶しいけれど、それだけのものだ。

 無言で右手を動かした。

 ひゅ、という鋭い音を立てて空を切った神獣の剣は、そばにあったポールハンガーのようなものを、そこにかかっていた上着もろとも、一刀のもとに真っ二つにした。

「ひっ……」

 ドヌクがまた顔から血の気をなくし、口を閉じる。やっと静かになった。

 一歩、二歩とわたしが前に進むにつれ、ドヌクが同じように後ずさっていく。いくらも後退しないうちに壁際まで追い詰めた。目がふらふらと彷徨っているのは、武器になるものを探しているらしい。

 手の届くところにそれがないことを悟ってから、ドヌクはようやく、わたしを向いた。

「た……助けてくれ」

 その口から掠れた声が漏れ出る。がたがたと震え、真っ青になった顔からは汗を噴き出し、哀れっぽい眼差しで、ドヌクは懇願するようにそう言った。助けてくれ、と。

 わたしは唇の両端を吊り上げた。


 ──バカなことを。


 手にした剣を上げたその時、ドタドタという複数の荒々しい足音が聞こえた。

「シイナさま!」

 最初に部屋に飛び込んできたのは、身体じゅうがびしょ濡れになったトウイだった。

 彼を先頭に、顔色を変えたハリスさんとロウガさんが続けて姿を見せる。彼らの後ろから、シイナさま、という声がするから、ミーシアさんもいるのだろう。みんな、わたしを追ってここまで走ってきたのか、肩で息をしていた。

 トウイは、剣を持ち上げているわたしと、すぐ前にいるドヌクを見て、表情を強張らせた。

 そのままこちらに駆け寄って来ようとするので、

「来ないで」

 とわたしは穏やかな声で制止した。

「邪魔をされたら、手許が狂うかもしれません」

「シイナさま……」

 トウイの顔が苦しげに歪む。それを見ても、わたしの中の感情は、まったく動かなかった。すべてが麻痺したように、はるか遠くに感じるだけだった。

「……そいつを、殺すんですか」

 そう問いかけてきたのはハリスさんだ。息を詰め、押し殺した声を出す彼の顔は、ぴんと張ったような緊張に占められている。

 わたしは首を横に振った。

「殺すなんて、そんなことはしません」

 その返事に、場の空気が一瞬緩んだ。わたしの前で、もはや立っていることも出来ず、情けなくへたり込んだドヌクからも安堵が伝わってくる。

 殺されると思ったの? そんなこと、するわけないじゃない。

「だってそれは、意味がない。──大事なものを奪われてから殺しても、意味がないんです、ハリスさん」

 わたしは静かにそう言って、ハリスさんを見てから、またドヌクへと視線を移した。


「奪われる前に殺さないと、意味がない」


 その言葉に、みんなが息を呑んだのが判った。

 どうして驚いているんだろう。それはもう、自明の理であるはずなのに。大事な人が死んでしまってから殺したって意味がない。その前に殺さなければ。

 わたしは間違えたのだ。あの時、剣を振り下ろすべきだったのは、甕などではなく、この男の頭の上だった。今になって──ニコを失った今になって、そんなことをしたってどうにもならない。失われたものは戻らない。ニコの命は、こんな薄汚い男の命ひとつでは贖えない。

 しんとした沈黙の中、わたしは冷然とした目でドヌクを見下ろし、きっぱりと言った。


両足を(・・・)斬り落とします(・・・・・・・)。……これから一生、他の人たちから見下ろされながら、地を這いずって生きていけばいい」


 ひいっ、とドヌクが悲鳴を上げた。がたがたとした全身の震えはとめどなく、汗にまみれた顔を引き攣らせて、子供がいやいやをするように頭を何度も振る。

「やめてください、お願いだ」

 トウイが懸命な顔つきで言って、足を動かそうとした。同時にわたしの手がぴくりと動いたのを見て、その場に縫い止められたように静止する。

 無表情のまま剣を構えるわたしが、まぎれもなく本気であることに気づき、彼の顔からも玉のような汗が噴き出した。

「……そんなことをしたって、ニコは喜ばない」

「なにを言ってるんです?」

 呻くように出された言葉に、わたしは単調に問い返した。

「ニコは死にました。喜ぶも悲しむもない。あの子はもう、何も感じず、何も思わず、何も話せない、無の世界へと行ったんです。死んだ人間を口実にするのは、生き残った人間の勝手な理屈にしか過ぎません。そうじゃありませんか?」

 魂が風になって生きている人を見守り続ける──なんて。

 そんなわけ、ない。


 だって今まで、一度だって、ただの一度だって、死んでいった人たちが、わたしに何かを語りかけてくれることはなかった。


 再びドヌクに目を向ける。ドヌクは涙を流し、鼻水と涎も垂らし、必死になって、やめてくれ助けてくれと命乞いをしていた。けれど、それらの言葉はすべて、わたしの耳を素通りするだけだった。

 ここにいるのはただの、排除しきれなかった障害物だ。

 もう二度と、行く手を阻まないように処理するだけだ。

 何も、感じない。

 ──この世界がわたしに見せるのは、いつも、人間の愚かさ浅ましさばかり。

「大丈夫。両足を斬り落としたら、ちゃんと止血してあげます」

 わたしはドヌクに向かって薄く微笑んだ。相手はまた何か大きな声で喚いたようだけれど、まったく気にならなかった。

「お医者さんを呼んでもいいですよ。死なせやしません、決して」

 殺したりしない。死なせたりしない。

 そんなことは、してやらない(・・・・・・)

「動かないで」

 わたしは躊躇わなかった。そのまま、剣をまっすぐ振り下ろした。




 ガギンッ! という金属質の甲高い音が響いた。

 ドヌクの足めがけて振り下ろされた神獣の剣の刃を、まだ鞘に入ったままの自分の剣の刀身で受け止めて、トウイは低く折り曲げた身を、ドヌクとわたしの間に割り込ませていた。

「……剣を引いてください」

「できません」

 力を抜かずにわたしは言ったけれど、トウイもまたそれを押し戻しながら、強情な目をして言い返してきた。

 単純に力比べをしたらトウイのほうが上に決まっている。でも今は、不自由な態勢で、重力に逆らっている分、あちらが不利だ。鞘の両端を握っているトウイの腕は、ぶるぶると震えていた。

「どかないと、怪我をしますよ」

 わたしは本気だった。一本調子で忠告し、柄を握る手にさらに力を込め、ぐぐっとトウイの剣の鞘を押す。

 軋むような耳触りな音を立てて、刃と鞘は宙でせめぎ合った。

「どきません」

 トウイが喰いしばった歯の間から、唸るような声を出す。

「どいて」

「いやだ」

「その男を庇うんですか」

「そんなんじゃない!」

 刺すような眼をして、トウイは怒鳴った。

「俺だってこんなやつ、殺してやりたいさ! けど、ダメだ! そんなことをしたらニコが悲しむ!」

「ニコは、もう──」

「いる!」

 言いかけたわたしの言葉を遮って、トウイが声を張り上げた。


「ニコはいるだろ、あなたの心にも、頭にも、身体にも! 今までずっと一緒に旅をして、積み重ねてきた記憶と思い出がちゃんとあるはずだろ! 残っているものが、まったくないなんて言わせない! 見て、話して、感じたことがあっただろ、数えきれないほど! ニコがどういう子供だったか、あなたはよく知ってるはずじゃないか! あなたの知ってるニコは、あなたがそんな目をして人を傷つけることを喜ぶやつだったか?! 違うだろうが!」


「…………」

 剣の柄を握っている手が震えた。動かなかった視線がふらりと揺れた。奥歯を強く噛みしめる。いっそ、耳を塞いでしまいたかった。

 どうして。

 どうして、わたしばかりが、記憶を。

「だって、あのニコは、もうどこにもいない」

 どれだけ扉を開けても、あのニコには、もう二度と会えない。

「だったら、あなたは誰のために何を守ろうとしてる?」

 強い眼差しがこちらに向かってくる。わたしはびくりと身じろぎをした。

 誰のために、何を?

「もうこの世にはいない、大事な誰かとの約束を守る、と言ってたじゃないか。死んでしまった人間が、本当に無になるっていうのなら、あなたがしていることは何だ? 死んだ者を口実に、生きている自分が勝手な理屈を並べてるだけだって? そんなわけない──そんなことが、あるもんか。あなたの胸には、今もその誰かが、大事な誰かが、生き続けてる。だから約束を守ろうとして、だから決して裏切れないんだ。そうだろ?」

「……わたしは」

 呟くような声を出したきり、次に言うべきことが何も思い浮かばないことに気がついた。

 まるで、ぽっかりと空白になったみたいだった。

 わたしは──

「ニコはドヌクに盗人の真似をさせられそうになっても、毅然としてそれを断ったんだ。シイナさまや俺たちを困らせるようなことは絶対にしないって、誇りを持ってそう言っていた。あなたからの信頼を守るために、ニコは美しい心根と意志を貫き通したんだ。シイナさま、ニコは」

 薄暗い部屋の中で、トウイの赤茶の瞳だけが、眩しい光を放っている。

「──ニコは、『神さまは、人の中にいる』と言ってたんだ」


 神は、人の中にいる。


「お願いだ、こんなことをしたらダメだ。ニコは本当に、あなたのことを慕ってた。大好きだ、と言ってた。あなたが、ニコを救ったんだ。その気持ちをずっと胸に留めておいてやってくれ。ここでその手を汚したら、あなたは自分の中にあるニコの笑顔まで、失ってしまう。……リンシンのように、『あちら側』に堕ちてしまわないでくれ、頼むから」

 頼むから、と悲痛な声で繰り返して、トウイは痛みを耐えるようにぎゅっと目を瞑った。

「…………」

 わたしの手から、力が抜けた。

 腕を下げ、神獣の剣の刃先が床を向く。ドヌクがそれを見て、ぱっと立ち上がり、何かを叫びながらトウイを突き飛ばすようにして駆け出していった。

 慌てふためくあまり、途中で机にぶつかって、上に置いてあったランプが倒れて転がり、床に落ちてガチャンと割れた。

 部屋の入口にいるロウガさんやハリスさんを押しのけて、ドヌクは外へと逃げた。悲鳴がどんどん小さくなっていく。

 わたしはそちらに目をやることもせず、その場に立ち尽くしていた。

「シイナさま!」

 ロウガさんたちの後ろから、ミーシアさんが泣きながら走ってきて、わたしに抱きついた。

 ミーシアさんも雨に濡れてすっかり冷えてしまっているのに、わたしを包み込んだ感触は、ひどく温かかった。

 ……温かい、とようやく思った。

「トウイ、二人を早く外に。火事になるぞ」

 ハリスさんが急かすように言う。ドヌクが落としたランプは、ガラスが割れても火は消えず、下にある敷物に炎の舌を伸ばしはじめていた。

「行きましょう、シイナさま」

 トウイがわたしの手を取って引っ張る。

「……はい」

 頷いて、足を動かした。




          ***



 ──ドヌクの家から出た火は、それから数時間にわたって燃え続けた。

 街の人々は、消火活動よりも先に、その家の中から金品や装飾品を手当たり次第持ち出すことを優先させたからだ。

 近所の住人から、袋小路に寝起きしていた路上生活者に至るまで、次々にやって来ては、炎をものともせずに強奪していったため、火が消えた時にはもう、家の中はほとんど何も残っていなかったという。

 お金によって得た威光も権力もいっぺんに失い、無一文になったドヌクは、これまであちこちで恨みを買っていたこともあって、さんざん痛めつけられ、ボロ布のような状態で、街から追い出された。


 神獣がこの顛末を聞いたら、きっとまた大笑いするのだろう。

 人間とは、なんと愚かで、浅ましいのか、と。





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