5.かがやき
「……で、どうなさるおつもりです、シイナさま」
ニコを連れて宿屋の部屋に戻ると、早速、メルディが守護人を問い詰めはじめた。
寝台の上に座った守護人は、ニコを傍らに置いて、なんとなくふてくされた顔つきで窓の桟に肘をついて頬杖し、汚れで曇ったガラスの向こうの空を眺めている。
「おやまあ、聞こえないフリをされるおつもりで? ということは、多少はご自分の短慮について恥じるお気持ちがおありなんでしょうかね。私はてっきりシイナさまは、この先のことをお見据えになった上で、諸々のことに目を瞑ってでもニコを故郷にお戻しになろうと、賢明な判断をなさったのだと思っていたんですけどねえ~」
いつもの仕返しということなのか、メルディはこの上なく嬉々とした表情で、わざとらしくはあーとため息をついて首を横に振っている。こんなにも楽しそうなメルディ、久しぶりに見た。
「…………」
守護人はずっと黙っているが、こちらに背中を見せるようにして、さらに窓のほうに顔を向けた。軽い舌打ちの音が聞こえたのは、たぶん空耳ではないだろう。
「それくらいにしておけ、メルディ」
ごほんと咳払いをして、ロウガさんが中に入った。真面目な顔を取り繕おうとしているらしいのだが、笑いを抑えつけるためか口許がなんともいえない角度で曲がっていて、強面が大変なことになっている。
「そうそう。やってしまったことは、しょうがない。ですよね、シイナさま?」
何があっても黙ってろ──つまり、守護人が自発的に動くまでは口出し無用、と俺を牽制したハリスさんは、そんなことはおくびにも出さず、いかにも「しょうがない」という口調で言った。あの時と違って、今は目が完全に笑ってるけど。
「あの……」
守護人とこちらとを心配そうにきょろきょろと見比べていたニコが、おずおずと口を挟む。どうやらニコの目には、本当に言葉どおり、守護人がみんなに責められているように見えるらしい。さっきまで涙に埋もれていた灰色の瞳が、不安そうに揺れている。
「……ごめんなさい。オレがいたら、やっぱり、迷惑?」
どちらかといえば、俺たちは守護人を焚きつけた立場にあって、守護人が口をきかないのはひたすらバツが悪いからだと思うのだが、子供にそんな裏の事情までが汲み取れなくても無理はない。しょぼんと肩を落として小さくなるニコに、守護人がようやくこちらを向き、そのついでにどういうわけか大きく弧を描いた神獣の剣の鞘が、これまたどういうわけかメルディの脇腹を抉るように突いた。
「ぐえっ!」
「わたしが無理やり攫ってきたのに、迷惑のわけがないでしょ?」
奇声を発してうずくまるメルディには一片の関心も払わず、守護人がぽんとニコの頭に手を置いた。
「でも……」
「むしろ、謝らなきゃいけないのはわたしのほう。つい、後先考えずに行動しちゃって、そのことを反省してるんだよ。メルディさんの言うとおり、自分の短慮を恥じてたの」
そのわりに、メルディへの一撃には手加減が感じられなかったけどな。
「でもそれは、後悔しているというのとは、まったく別のことだから」
ニコがますます眉を下げたのを見て、素早く守護人が念を押すように付け足す。どう言えばニコのような幼い子供を理解させられるのかを考えるように、少し宙に視線を向けて間を置いた。
「……後悔はしていないけど、わたしはニコに対して、心配しないで大丈夫、とは自信を持って言ってあげられない。まだこの世界のことに詳しいわけじゃないし、ニコに何をしてあげるのがいちばんいいのか、それさえもよくわからない。そんな状態で、偉そうに啖呵を切っちゃった自分を恥じてる、そういうこと」
わかる? というように守護人に覗き込まれて、ニコがちょっと困ったように首を傾げた。半分判って、半分判らない、というところか。
「──それはこれから、みんなで考えていきませんか」
俺がそう言うと、守護人とニコが二人してこちらに目を向けた。そういうことをすると、この二人は本当に姉弟、じゃなくて姉妹みたいだな、と俺は笑いそうになりながら思う。
大きな瞳で、まっすぐに人を見るところが、よく似ている。
「どうすれば、出来るだけニコのためになるのか。どうすれば、ニコにとって良い方向へ向かえるのか。まだ旅は続くんです、その間にみんなで考えて話し合って、結論を出していきましょう」
「ええ、そうですとも。私はシイナさまのご決断を、とても嬉しく思っております。どうしたらニコが幸せになれるか、私もいっぱい考えますから」
俺の言葉に、ミーシアが両手を握り合わせ、力強く同意した。
声は出ないものの、ニコの口が、しあわせ、という形でゆっくり動く。大きく目を見開いて、まるでその言葉を口の中に入れ、時間をかけて咀嚼しているみたいだった。
「幸せ」という言葉に、自分の名前がくっついていること自体が、信じられないように。
「もちろん、俺も考える。ニコは俺とミーシアにとっての恩人だ。サザニの街を出た時に、『このお返しはいつか必ずする』と約束した言葉を、俺はまだ実行していない」
ロウガさんの手が伸びて、不器用にニコの頭をぐしゃりと撫ぜた。大きな掌に押し潰されやしないかと俺はちょっとヒヤヒヤしたが、ニコは頬を赤く染めてじっと大人しくしている。
「神ノ宮に入れることは無理でも、マオールの街まで行けば、新しい養い親を見つけることが出来るかもしれないからな。とりあえず、シャノンの店で手伝いとして雇ってもらうって手もある」
ハリスさんも、考えるように顎に手を当ててそう言った。なんだかんだ言っても、心の中ではあれこれとニコの行き先について模索していたのだろう。
「まったくあなた方は結局お人好しなんですから。これじゃ私が一人だけ悪人みたいじゃないですか」
脇腹を押さえながら、メルディがぶつぶつと零す。しかしそれでも、ニコを連れていくことに対して、その口から、「反対ですね」の言葉は最後まで出なかった。
ニコは俺たちの顔を順番に見て、それから再び、守護人へと目を戻した。
「……シイナさま、オレね」
「うん」
「オレ、これからどうすればいいかとか、よくわかんないんだ。今まで、自分のこと、あんまり考えたことなかったから」
自分で道を選ぶことが出来なかったから、考える必要もなかった、ということだろう。
ニコは今、はじめて、「自分の未来」について、自分で考え、自分で選択できる立場を得たんだ。
「でもね、でも、これだけはわかるよ。オレ、今ほんとうに、すごく、すごく、嬉しいんだ。オレね、もう、誰に何を言われたって、気にならない。灰色の髪の子供って言われても、なんとも思わない。もしもいつかシイナさまたちとお別れすることになっても、その時はちゃんと笑ってさよならが言える。世界のどこかで、オレのことを考えてくれる人たち、オレの『しあわせ』を願ってくれている人たちがいるって思えば、それだけでなんでも頑張れるよ」
早口で一気にまくしたてて、ニコは跳ねるようにして勢いよく、守護人の首に腕を廻して飛びついた。
両手でぎゅっと抱いて、涙に濡れた自分の頬を、守護人のそれに寄せてぴったりとくっつける。
守護人は少しだけ戸惑うように動きを止めて、それから、そろそろと両手を上げて小さな身体を抱き返した。
柔らかくふっくらとした頬を、するりと一回だけ撫ぜるように頬ずりして。
……優しい目をして、微笑んだ。
***
ニコの姿が見えないことに気づいたのは、翌日の朝早くのことだ。
旅の日課となっている早朝訓練のために準備をしていたところ、部屋の扉がコンコンと叩かれた。開けてみると、守護人とミーシアが二人で廊下に立っている。
「どうしました?」
緊張で眠気も吹っ飛ばし、俺は鋭い声で訊ねた。表情豊かなミーシアはもちろんのこと、普段滅多に感情を出さない守護人までもが、はっきりと判るくらいに眉を曇らせていたからだ。
何かあったのか。
「ニコは、こちらに来ていませんか」
「ニコ?」
守護人の問いを反復し、俺は眉を寄せて後ろを振り返った。着替えていたロウガさんとハリスさんも、じっと制止してこちらの話に耳を傾けている。
「昨夜、そちらで一緒に寝たんじゃ」
「寝つくまでは確かにいました。でも、朝になって目を覚ましたら、いなくなってたんです。トイレにもいないし、もしかして先にこちらにいるのかと思ったんですけど」
守護人とニコは、トルティックの街からこちら、俺たち護衛の早朝訓練に毎回と言っていいほど律儀に付き合っている。ハリスさんが負傷して抜けていた時でもだ。守護人は少しずつ護身術を身につけるために。ニコはおおむね見学だが、時々は俺が組手の基本を教えてやることもあり、本人も喜んで毎朝早起きをしていた。
「メルディは?」
「いません。あの人はいつも大体夜中に出ていくようなので、その時まではニコもいたんだろうと思うんですけど」
すると、夜中から明け方の今までの間に、こっそり寝台を抜け出して外に出ていった、ということだろうか。
一体どこに行ったんだ、とざわりとした不安が胸を撫で上げる。
「空腹に我慢できなくなって、何かを食べに行こうとしたとか?」
「この時間に、どこのお店が開いてるんですか。それに、ニコはお金を持っていません。着替えた様子はあったので、自発的に出ていったのは判っているんですけど」
「…………」
ロウガさんたちと顔を見合わせた。この街はニコの故郷なのだし、ふらりと散歩に出て、そのまま迷子になったというわけでもないだろう。
「……とにかく、探してみましょう。心配しなくても、きっと他愛ない理由ですよ」
自分の胸に湧いてくる不安を押し込め、強引に口を笑いの形にして、俺はそう言った。
今にも宿屋を飛び出してしまいそうな守護人を止め、ここで待っていてくださいと説得するのに骨を折った。
心配なのは判るけど、この荒んだ雰囲気の街では、どんな危険に遭遇するか予想できない。それに本当に他愛ない理由でニコが出かけたのであれば、時間を置かずにまたひょっこりと帰ってくるだろう。その時に守護人の姿がなかったら、今度は慌てたニコが探しに行きかねない。延々と不毛な繰り返しになるだけである。
一体、ニコはどこに行ったんだ。
ロウガさんには守護人とミーシアのそばにいてもらうことにして、俺とハリスさんは二手に分かれて捜索を開始した。
空はやっと白みはじめたばかりで、あちこちでかすかに物音はするものの、街全体はまだひっそりとした静けさに包まれている。時々、狭い道からのっそりと痩せた人間が姿を見せたりして、そのたびにぎくりとさせられた。
真っ黒な穴のような二つの目がこちらに向けられ、また、ふいっと逸らされる。どこに向かうのか、歩く足取りは力なく、ふらふらしていた。ボロボロの衣服の袖から覗く、棒切れのような腕は、頼りなく揺れるだけで、意志も目的も感じさせない。
テトの街で見た男たちの姿が頭に浮かんで、額に冷や汗が滲んだ。あそことこことは違う、と言い聞かせ、足を速める。神経を研ぎ澄まして、ニコの気配を探った。
一瞬、ドヌクの家に戻ったんじゃ、という思考が頭を掠めたが、俺はすぐにそれを振り払った。
他のどこに行こうと、あそこに戻ることだけはないに決まっている。ドヌクとばったり遭遇しないよう、あそこに迂闊に近寄っちゃダメだよ、と守護人に注意されて、ニコも大きく頷いていたじゃないか。
早歩きはやがて小走りになり、それが完全な疾走になったところで、俺はようやく、探し続けていた子供を見つけた。
「ニコ!」
つい、怒鳴るような声になった。無事な姿を目にして、不安が安心に、安心が怒りに変わったためだ。
ニコは、余所の家の前に放置された古びた四角い木箱の上に、ちょこんと腰かけていた。建物の壁に寄り掛かるようにして、足をぶらんと前に投げ出した格好は、ちょっと休憩していた、というように見える。
「お前、なんでこんなところにいるんだよ! どれだけ心配して探したと思ってんだ!」
ニコの前に立ちはだかり、叱りつけるように言う俺を、ニコはどこか緩慢な仕草でのろのろと顔を上げて見た。
見つかっちゃったと笑うわけでもなければ、ごめんなさいと頭を下げるわけでもない。どこか少し眠たげにも見える表情で、「……トウイ」と口にする。もしかしてこいつ、寝惚けてここまで歩いてきたんじゃないだろうな、と違う意味で心配になった。
膝を曲げ、俺はニコと目の高さを合わせた。
平常心を取り戻して考えてみれば、軽いイタズラ心でこんな風に他人を振り回して喜ぶ子供じゃない。何かちゃんとした、ニコなりの理由があったのだろう。
「どうしたんだ?」
普段の口調になって問いかけると、ニコはここでやっと、申し訳なさそうに眉を下げた。俺が顔からびっしりと汗を噴き出して、息も荒くなっていることに気づいたらしい。
「ごめんね。ちょっと出て、すぐに戻るつもりだったんだけど」
「どこに行ってたんだよ。黙って出たら、心配するだろ」
「ごめんなさい」
目を伏せて謝るニコを、これ以上責める気にもならない。とにかく見つかってよかったと、大きな息を吐きだした。
「もしかして、誰か別れを言いたい友達でもいたか?」
準備を整えたら、俺たちは今日にでもこのグレディールを発つ予定になっている。もちろん、ニコも一緒にだ。その前にきちんとさよならを言っておきたい相手でもいたのかなと思って訊ねたのだが、ニコは首を横に振った。
「じゃあ、何かこの街でしておきたいことでもあったか」
その問いには、少し迷ってから、こくりと頷く。
「シイナさまには言えないことか?」
ニコがこの街でやり残したことがあると言えば、守護人はきっと反対なんてしない。気が済むまでやればいいよと、背中を押してくれるだろう。ニコにそれが判らないとは思えないのに、それでもこっそりと行動しなければならなかった理由といえば──
「……あのね、オレ」
ニコがずっと握っていた右手を、前に差し出した。
「これを、シイナさまにあげたくて」
その小さな手の平の中に大事に包まれていたのは、透明に光る綺麗な石だった。
俺は目を瞠った。
こういうのには詳しくないが、おそらく鉱石の一種なのだろう。石の多い山を掘ると、たまに出てくることがある。六ノ国キキリ、鉱山の国では、こういう石を大量に採掘して加工し、国の重要な資源にしているという話だ。
ニコが持っているのは、そこらの山で手に入る鉱石にしては、非常に稀な部類に入るものだった。石の面も滑らかで、光を反射して輝き、手の色が透けて見えるほどの透明度がある。
しかも、自然っていうのはたまに面白いことをするよなと感心するくらいに、絶妙な「しずく形」をしていた。このまま少し加工すれば、宝飾品としても見劣りがしない。
雨滴というよりは、ニコの涙を思い起こさせる。それくらいの、美しい石だった。
「これ……」
「以前に拾ったんだ。キレイだろ? シイナさまも、そう思ってくれるかな?」
うっとりと夢見るように、ニコが石を見つめる。俺は全身を固くした。
これは、守護人からの贈り物のお返しに、と話していた「ニコの宝物」だ。おじさんに見つからないように、秘密の場所にずっと隠していた、と言っていた。じゃあ……
「ニコ、ドヌクの家に行ってたのか?」
俺が語調を強めて問い詰めると、ニコは一拍の間を置いてから、またこくんと頷いた。
そうか、だから内緒で出ていったのか。
言えば、必ず止められると判っていたから。
それでも、どうしても、ニコはこの石を守護人にあげたかったんだ。
自分に向けられた愛情のお返しに。
「ドヌクに見つからなかったか?」
その質問には、また一拍の間が必要だった。ニコが目線を下に向けるのを見て、聞かなくてもその答えが判ってしまう。
「そうっと入って、これだけ取って、すぐにシイナさまのとこに帰るつもりだったんだよ。あの家、裏の窓が壊れてて、ちょっと押せば外れるんだ。オレさ、おじさんに外に放り出されて中に入れてもらえなかった時、よくそうやってこっそり入ってたから、今度も大丈夫だと思ったんだ。けど、見つかっちゃって……」
「大丈夫か、何かされなかったか」
最後まで聞かずに、性急に訊ねる。あの男の性格からして、そっと家に入り込んだニコを見つけて、そのまま見逃すとは思えない。ざっとニコの身体の上から下までを眺めてみたが、殴られたような跡は見当たらなかった。
「……おじさん、ね」
ニコの声は聞き取りにくいほどに小さい。
「オレを捕まえて、『あいつらから金を盗って持ってこい』って言ったんだ。オレみたいのにあれだけの大金をぽんと出すくらいなんだから、どうせあり余ってるんだろうって。少しくらい頂いたってどうせ気にしやしないって」
「な……」
怒りで血が逆流しそうになった。あの下種は、今までニコにひどい仕打ちをしただけでは飽き足らず、盗人の真似をさせようとしたっていうのか。こんな小さな子供だぞ。どこまで性根が腐ってやがる。
「お前だけがこの貧乏な街を抜け出して、一人だけぬくぬくと幸せになるのは許さないって、言うんだ」
「…………」
俺はぐっと拳を握った。
またそれか。
自分が不幸で、他人が幸福になるのは許せない?
他の誰かがいい目を見るのは我慢ならないからと、その誰かを引きずり落とそうとするのか。
「オレ、いやだって言った」
ニコは俺をまっすぐ見据えて、きっぱり言った。
「シイナさまやトウイたちを困らせることなんて、オレはしない。絶対にしない。だから、いやだって、おじさんにはっきり言った。本当だよ」
「もちろんわかってる。お前が嘘なんてつくわけない」
正面からその目を見返し、俺が深く頷いて言うと、ニコは安心したように目許を緩めた。
──その時になって、気づいた。
ニコの灰色の瞳は、こちらにまっすぐ向かっていたはずなのに、すぐにふわりと焦点を失うように空中のどこかへと逸れてしまう。最初から妙にぼんやりしているように思ったのは、そこにいつものように生き生きとした光が乗っていないからだ。
疲れているのか。……いいや、というより。
ひやりとした。
「ニコ、それでどうしたんだ。ひょっとして、殴られたのか?」
顔を近づけて確認してみたが、ニコの顔にも身体にも、傷らしきものは見つけられなかった。衣服の下か? それとも──
へへ、とニコが弱々しく笑う。失敗しちゃった、というような笑い方だが、俺の鼓動は速まる一方だ。
じわりと恐怖心が忍び寄る。太陽の白い光に照らされているのでよく判らなかったが、ニコの顔色はあまりよくなかった。
それにさっきから、座ったままの姿勢で、ぜんぜん動こうとしない。あんなにいつも元気いっぱいで、常に身体の一部は動いているような、ニコが。
「オレ、ダメだなあ。せっかく、トウイがいろいろ教えてくれたのに。いざとなったら、何もできなかったよ」
「ニコ、言ってみな。ドヌクに何をされた?」
だんだん、口の中が干上がっていく。走ってかいた汗はすっかり引いたはずなのに、背中がびっしょりと濡れていた。
「あのね」
ニコは少し言いにくそうに口ごもった。
「おじさん、怒って、オレを掴んで放り投げたんだ」
「放り投げた……」
「それでオレ、壁に頭をぶつけて」
今度こそ、心臓が止まりそうになった。
石の壁に、頭をぶつけた?
「っ!」
ものも言わずにすぐさま立ち上がり、そっと手を添えるようにしてニコの身体を支えた。壁にくっつけられていた後頭部を、細心の注意を払って確認する。
灰色の髪にべったりと血が付着しているのを見て、俺は息を呑んだ。
「でも、なんとか逃げたんだよ。ほら、オレ、そういうの得意だからさ。それで走ってここまで来て、休んでたんだ。……なんかオレ、さっきから、気持ち悪くてさ。頭の痛みも、ひどくなってきて」
「ニコ、もういい、喋るな」
低い声で制止して、なるべく動かさないようにまた頭を元の位置に戻そうとした。
しかしその小さな身体は、急に力を失ったようにぐらりと傾いだ。
「ニコ!」
前のめりに倒れ込んできたニコを両手で抱きとめる。その大声で、近くの家から、何事かと窺うように数人の住人たちが姿を見せた。
「誰か、医者を呼んでくれ! ここに連れてきてくれ、早く!」
ニコはこれ以上動かせない。ニコを抱いたまま、俺は声を限りに頼んだが、住人たちの動きは鈍かった。顔を見合わせ、ひそひそと話をし、誰も足を動かそうとしない。
灰色の髪じゃないか、という声が漏れ聞こえた瞬間、頭が沸騰した。
「子供だぞ!!」
俺の怒鳴り声に、住人たちは竦んだように硬直した。
「見りゃわかるだろ、子供だ! まだ十もいかないくらいの、小さな女の子なんだぞ! その子が頭から血を流してるんだ! 早く医者を連れてこい! 髪や目の色なんて関係あるか!」
迸る感情のままに、激しい怒号を放つと、ようやく一人の足がじりっと動いた。自らに子供が二人や三人はいそうな、中年の女性だ。最初は迷うように動かしていた足は、すぐに駆け足になって、足音と共に背中が小さくなっていった。
「ニコ、大丈夫だからな、すぐ医者が来るから」
身体を抱きかかえ、上からニコの顔を覗き込んで俺は言った。焦燥で、頭がおかしくなりそうだ。早く、早く。誰でもいいから、早く。
この子供を助けてくれ。
「……トウイ……」
俺の腕の中で、ニコがぼんやりと虚ろになりかけた目で名を呼ぶ。この目が閉じたらすべてがおしまいのような気がして、俺は必死に喋り続けた。
「大丈夫だよ。すぐに良くなる。医者に治療してもらって、早く元気になって宿屋に戻ろう。シイナさまとミーシアが待ってるからな」
「……うん。はやく戻らなくちゃ、シイナさま、心配しちゃうよね」
「そうさ」
待ってるんだ。みんながニコを待ってる。つい昨日まで、あんなに幸せそうに笑ってたじゃないか。これからもたくさん笑って、たくさん食べて、たくさんお喋りするんだ。
お前が幸せになれる道を、みんなで考えようって、そう話したばかりじゃないか。
「オレ、シイナさまを、心配させてばかりだね。でもね、ナイショだけど、ほんとうはオレ、シイナさまに心配されると、お腹のところが、ぽっかりして、あったかくなるんだあ。……今まで、オレのこと、待ってくれたり、探してくれる人なんて、誰もいなかったからさあ」
ニコは口を動かし続けている。
目は俺のほうを向いているはずなのに、すでにその視線は俺を捉えてはいなかった。
「ニコ、喋るな」
奥歯を噛みしめ、声を絞り出す。手が震えた。自分の腕の中から、この上なく貴重なものが失われつつあるというのに、俺は何も出来ない。何も、してやれない。
「ね、トウイ、これからはオレの代わりに、シイナさまの手を握ってあげてね。シイナさま、手を握ってあげると、安心して眠れるんだよ。黙ってるけど、ほんとうは、シイナさま、寝るのが怖いんだよ」
「……ニコの代わりになんて、なれるわけ、ないだろ」
喉が塞がって、呻くような声しか出なかった。
俺はなんて情けないんだろう。こんな小さな子供を救えるような言葉すら、何も持ち合わせていない。どう言ってやれば、ニコを安心させてやれるのか、ちっとも判らない。
ぽつりと自分の目から落ちた水滴が、ニコの頬に落ちる。
その感触で、半分目を閉じかけていたニコが、もう一度目を開け、俺にまっすぐ視線を向けた。
灰色の目に、歪んだ表情をした俺の顔が映っている。滴り落ちる涙の粒に触れようとして、けれどもうその手は、ニコの意志だけでは動かなくなっていた。
「──トウイ」
小さな手の中にある石のように、無垢で透明な澄んだ瞳をして、ニコは俺の名を口にした。
「オレ、わかったよ。やっと、わかった。……神さまは、ちゃんと、いるんだね」
そして、幸せそうに目を細め、笑った。
「神さまは、人の中にいる」
ニコの目からも一筋涙が伝った。すう、とまた瞼が下がる。俺はニコが持っている石ごと、その手を強く握った。
「ニコ、ニコ、だめだ、しっかりしろ」
ふわりと吹いた風が灰色の髪を揺らす。ニコが眦を濡らして、少し微笑んだ。
「……ごめんね。オレ、一緒に行きたかったけど、やっぱり、フィリーのとこに、行くことにした。フィリー、一人で寂しがってる、から」
上手に舌が動かなくなってきたのか、言い方がたどたどしい。まるで、もっと小さな幼子のようだ。
「風になったら、みんなに、追いつくからね。風になれば、どこへでも行ける。オレは、自由だ」
それでも、ニコは一生懸命、お喋りを続けようとしていた。朦朧とした目には、俺の姿どころか、もはや何も映っていないのに。
唇をわななかせ、囁くような声で、廻りきらなくなった舌で、必死に何かを伝えようとしていた。
「──シイナさま、に」
言いかけた言葉が、途中でふいに途切れた。
「ニコっ!」
何度も名を呼んだが、もう、幼い身体は動かない。
「ニコ! ちくしょう、ニコ──どうして! ちくしょう!」
覆い被さるようにして小さな骸を抱きしめ、喉が張り裂けるほどに、ちくしょう、と繰り返す俺の咆哮だけが、グレディールの街中に虚しく響き渡った。
(第十五章・終)