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3.渦紋



 俺は足を止め、馬上のニコをじっと見つめた。

「……そう思うか?」

 静かに問いかけてみたが、ニコからは答えが返ってこない。大きな馬の上で、下を向いたまま肩をすぼめ、小さな身体をさらに縮めていた。

「ニコ?」

 促すようにして呼びかけると、ニコがぴくりと身じろぎした。

 しばらくの間を置いてから、

「わかんない。……わかんなく、なった」

 と、頼りなさげな声を出す。

 それから、おそるおそるというように顔を動かし、やっと俺のほうに視線を向けた。

「トウイは、わかる?」

「シイナさまが何を考えてるか?」

「うん」

「いや、ぜんぜん」

 率直に言うと、ニコはちょっとショックを受けたような表情になった。もしかして、俺にはそれが判っていて当然、とか思っていたのかな。そんな無茶な。あんな無表情で極端に言葉の少ない人が何を考えているのかを正確に読み取れる能力なんて、俺にはない。

「たださ」

「うん」

「……ただ、『こう思ってるんじゃないかな』って想像してるだけだよ」

「想像?」

「そう。俺はシイナさまじゃないから、実際に何を考えてるのかなんてことは、わからない。シイナさまだけじゃなく、その相手がロウガさんでも、ハリスさんでも同じ。ニコだってだ。誰だって、自分じゃない誰かが何をどう考えてるのか、本当のところはわからないからな」

 心の中を覗くことでも出来ない限り、誰かの考えを本当の意味で知ることなんて不可能だ。たとえミーシアのような、すぐに思っていることが顔に出てしまうような人間でも、それを見て何を考えているのか判る「ような気になる」というだけのことで、現実に心の声が聞こえるわけじゃない。

 内心を言葉にしてもらっても、それがすべて事実であるという保証もない。

「だから、想像。ニコだって、そうしてるだろ?」

 俺がそう言うと、ニコは少し戸惑った顔になった。オレが? と問いたげな表情だ。

「さっきも、誰もそんなことは口にしていないのに、『ダウスの北に行く』ってことをちゃんと理解してたじゃないか。今まで俺たちと一緒にいてさ、きっとそうなんだろうなと予想したんだろ? 初対面の相手だったら、そんなことは思わないよな? これまで積み重ねてきた時間と経験から、こういう時みんなだったらこうするんじゃないか、って俺たちの考えを想像して、推測したんだ。そうだよな?」

 ニコは少し考える時間を置いてから、「……うん」とこっくり頷いた。なんとなく、納得したらしい。

「きっと誰もがそうやって、自分の見たこと、聞いたこと、感じたことを基にして、人の気持ちを推し量るしかないんだよ。そういうのが、『誰かのことを知る』ってことなんじゃないかと、俺は思う。……それで、俺が見てきた範囲で言うと」

「うん?」

 首を傾げてニコが問い返す。俺は一息吸って、正面からそちらに真顔を向けた。


「──お前が迷子になった時、いつも最初に気づいていたのは、シイナさまだったよ」


 その言葉に、ニコは口を噤んだ。

「街にいる時は、フラフラするニコを、いつだって目で追ってた。姿が見えなくなると、真っ先に動いて探しに行こうとしたのはシイナさまだ。歩いていたら転ばないように手を差し出してやっていたし、馬が揺れたら自分を安定させるよりも先にニコの身体を支えてた。お前が食べものを口の中いっぱいに押し込んで、喉を詰まらせそうになった時は、いつも隣からすぐに飲み物を渡されてたよな?」

 それは決して、偶然などではなく。

「あの人は確かに、口数少なくて無表情が多くて時々無言で暴力的な行動に出ることもあって、考えも感情もほとんど外に出すことはないけど、それでも、何を考えてるのかまったく想像も出来ない、ってことはないだろ?」

「…………」

 ニコは唇をまっすぐに引き結び、また下を向いた。

 きっと、いろんなことを思い出しているんだろう。サザニの街で、ミーシアと隠れていたニコを最初に見つけたのは誰だったか。トルティックの街で、盗人の疑いをかけられていたニコを信じて庇ったのは誰だったか。ハルソラの街で、ずっと辛抱強くニコの勉強に付き合ってやっていたのは誰だったか。

 俺も他のみんなも、それを自分のこの目で見てきて、知っている。たとえ決して言葉に出されることはなくても、そこにある感情がちゃんと伝わってきている。ニコ自身はもっと深く、その目に、その手に、その心に、直に感じ取れていたはず。

「シ……シイナさま、が」

 ニコの声が揺れた。大きな目からぽとぽとと零れ落ちる涙が、馬の鬣を濡らしている。

「シイナさまが、オレをグレディールに戻そうとするのは、オ、オレが、邪魔になったから、じゃ、ないよね……?」

「そんなわけないだろ」

 きっぱりと言うと、ニコは自分で確認するように何度も頷いて、両手の拳でごしごしと頬を拭った。見るだけで痛ましいその姿に、手の中の手綱をぐっと握る。

 自分が誰かに邪魔にされること。疎まれること。見捨てられること。灰色の髪を持って生まれたニコは、そういったことを数えきれないほど経験してきたのだろう。明るく振る舞ってはいるが、この子供の小さな心は、すでに周囲の人間から無数の傷をつけられている。慣れているから気にしない、と口では言っていても、そんなことがあるわけないんだ。


 だからこそ、自分が好意を抱いた人間に捨てられることを、心の底から怯えている。


「ハリスさんとメルディが傷を負った時、ニコは心配しただろう? もしも死んじゃったらどうしよう、って怖くなったんじゃないか?」

「……うん」

 ぐしゅんと鼻を鳴らして、ニコが律儀に返事をする。

 ニコは友達だったフィリーの死を経験した。その経験が、新たな喪失に対する恐怖心へと繋がっている。

 誰だって、大切な誰かとの永遠の別れは怖い。

「それと同じなんだ。シイナさまは、お前のことがものすごく大事だから、少しでも危険な目に遭ってもらいたくないんだ。もしもニコの身に何かあったらと思うと、怖くて怖くてたまらないんだろう。だから旅に同行させるよりも、グレディールの街に置いていくことを選んだんだと思うよ」

「…………」

 ニコの目から、またぽとりと涙が落ちた。

 俺はそれを見て、深い息を吐きだしそうになるのをなんとか飲み下す。

 もちろん、今ニコにかけた自分の言葉に嘘はない。それで間違っていないだろう、という確信だってある。

 ただ、これは口には出せないことだけど。


 ……現実的な問題として、俺たちがニコという子供にしてやれることはあまりにも少ない、というのもあるんだ。


 草原地帯に向かい、そこで守護人がなんらかの納得をすれば、実質そこで旅の目的は達したということになる。どういう経路を辿ることになるかはまだ判らないが、あとは神ノ宮に戻るしかない。おそらく、それ以上のことを王ノ宮も許しはしないだろう。

 で──神ノ宮に戻って。

 俺たちはいいんだ。守護人の言葉どおりなら、神ノ宮の護衛官としての職にまた戻れるはず。ミーシア以外の侍女をあの守護人が認めるとは思えないから、彼女もまた元通り神ノ宮仕えとなるだろう。メルディはそもそも王ノ宮の密偵だし。

 だけど、そこにニコの居場所はない。

 俺たちのような護衛官や侍女は無論、いくら守護人が要求を押し通そうとしても、神ノ宮にニコのような子供を入れることはまず無理だ。年齢の問題だけでなく、灰色の髪であることも、大神官の首を決して縦に振らせない理由になるだろう。

 つまり、ニコのこれからの人生、というものに責任を負える人間は、俺たちの中に誰もいない、ということだ。

 ──だったら、いかにソリの合わない人物であろうとも、「おじさん」と呼ばれる保護者の手に戻すのが、ニコにとって最善なのではないか。

 そう、考えざるを得ないのだ。胸が痛くても、もやもやしたものが頭の中に充満していても。


「……ね、トウイ」

 長い沈黙を経て、ニコがようやく口を開く。顔を上げて、こちらに向ける口元には、ぎこちないながらも微笑が浮かべられていた。

「うん」

「オレも、シイナさまのこと、大好きだよ」

「……うん」

「グレディールで、オレが笑ってさよならしたら、シイナさまは喜ぶかな」

「…………」

 俺はそれには答えずに、足を動かして、馬を引くのを再開した。

 なんと言えばいいのか、さっぱり判らない。

 こういう時、一体、何が「正しい」のだろう。



          ***



 ダウスの北は、外観は南とまったく変わりなかった。

 どれも建物は小さく狭く、住人が死んだのか放棄したのか、無人の家があちこちにある。それらは端が欠けたり崩れたりして、四角い形を保っていないものも多い。外には誰のものとも判らない甕や樽などが放置され、いかにも雑然とした雰囲気を醸し出していた。

 住人の姿もちらほら見かけたが、誰もかれもが疲れきったような顔をしているか、険しい表情でせかせかと歩いているだけで、のんびりと立ち話をしているところや、明るい笑い声を立てているところを、まったく目にすることがない。

 そこには、暗く、澱んだ空気があるばかりだ。

 しかし、南とは明確に異なっているところもあった。



「なんだって、首都から?」

 何も知らずにぶらりと立ち寄った旅人の態を装って、わずかな品物を並べている店に入り、話をしていたら、途中で応対していた中年女性の態度がいきなり豹変した。

 南の食堂の主人とは違い、その女性は、俺たちが首都から来たのだと知るや、噛みつくような剣幕で、出ていって、と怒鳴ったのだ。

 なんだどうしたと、その声を聞きつけて店の奥から女性の夫らしい男が出てくる。女性が、「この人たち、首都から来たんだってさ!」とまるで犯罪者を見つけたかのような口調で言うと、その夫までもが「なんだって」と形相を一変させた。

「出てってくれ! この店に、首都のやつらに売るようなものは何もねえからな!」

 そう言いながら、どん、と小突かれたのはハリスさんだった。大抵の女性の受け入れ間口を容易に広げてしまうハリスさんだが、この場においてはその力も発揮できないらしい。女性がハリスさんに向ける目は、まるで汚い害虫を見るがごとしである。メルディがこっそり拍手しながら大喜びしているが、そんな場合じゃない。

「……しかし、ここは店だろう。素性によって客を振り分けてたんじゃ、商売にならないんじゃないか?」

 色男としての誇りが許さないのか、ハリスさんが口を曲げて文句を言ってみたが、相手はまったく聞く耳を持ってくれなかった。

「なんと言われようと、お断りだ! 首都でお前らがのうのうと暮らしていけるのは、すべて俺たちが犠牲になっているからなんだぞ! これ以上、お前らに楽をさせてたまるか! 出ていけ!」

 とにかく、これでは話にもならない。俺たちは大人しく引き下がることにして、別のほうへ行ってみることにした。



 その件を踏まえて、次に行ってみた店では、「どこから来たんだい」という問いに、「ハルソラから」と答えることにした。別に嘘じゃないから問題ない。

「ああ、ハルソラっていうと、街の真ん中に大きな樹があるところだろう。あのあたりはまだ、ここよりはいいのかねえ」

 今度は拍子抜けするほど穏やかな態度である。いやどこもやっぱり不景気だよと言えば、やっぱりねえ、と同情と共感の混じったため息をつかれた。

「この街に、宿屋はあるのかい」

「以前はあったけど、廃業しちゃってねえ。ほら、なにしろこんな辺鄙な場所だから、わざわざ寄っていく酔狂な旅人もいなくて……おや失礼」

 はは、と店の主人は笑ったが、それはいかにも寂しげな、寒々とした笑い方だった。

「でも、たまには首都からやって来たり……」

 と探りを入れてみようとしたら、今度もまた主人の空気がぱっと変わった。気弱そうに垂れていた眉毛がぐっと上がり、不快さを隠しもせず顔を顰める。

「首都だって! 冗談じゃない、そんなやつらはこっちからお断りさ!」

「…………」

 ちょっと戸惑ってしまう。一人一人は普通の住人たちだと思うのに、どうしてこんなに過剰な反応をするのだろう。

「……なんでまた、そんなに首都に対して悪感情を抱くんですかね。言っちゃなんですけど、このあたりとはまったく関係ない場所でしょうに」

 メルディが少し面白そうに問いかける。主人が憤然と腰に両手を当てたのは、その皮肉っぽい言い方に腹を立てたから、というわけではないらしかった。

「そうさ、関係ないんだよ! だからこそ首都のやつらはこちらの苦労も知らずに、呑気に暮らしているんだ。俺たちからたくさんのものを吸い上げておいてね。……あんたたち、知ってるかい。なんでも神獣の守護人は今、王太子と熱烈な恋に落ちているんだとさ」

 おっと。こんなところにまで、その噂は伝わっているのか。ちらっと守護人のほうを窺ってみたが、彼女はまったくの無反応だ。ちょっと安心するような、ちょっとイラッとするような。

「まったくおめでたいもんだよ。一体何をしに来たんだかわかりゃしない。神ノ宮での自分の仕事すら放棄して、毎日浮かれ騒いでいるんだろうさ。ニーヴァには、俺たちのように日々苦しさに喘いでいる人間もいるってのに」

「…………」

 忌々しそうな口調で続けられた言葉に、俺は思わず眉をひそめた。

 そりゃ王太子との恋云々は気に食わないし、ここぞとばかりに守護人の名前を利用しようとする王ノ宮のやり口も腹立たしいとは思うけど……


 でも、これじゃ、人々の悪意が神獣の守護人に集中して向かってしまうんじゃないか?


 王ノ宮が意図的にこの噂を流すことによって、守護人が神ノ宮を離れていることについての正当性を持たせようとしているのだとしたら、それは完全に逆効果、ということになっていないか。

「守護人がそんな無責任だから、神獣もやる気が出ないんじゃないのかね。だから俺たちみたいに真面目にコツコツと働いている人間も、救ってくれる気がないのさ。──なにが、神だ」

 最後の言葉だけは、独り言のようにぼそりと落とされた。

 主人の顔にはもう、世間話をしていた時に見せていた、人の好さそうな温和さはほとんど残っていない。あるのはただ、どろりとまとわりつくような、怒りと恨みの念だけだ。

「不公平と不平等を正してこその、神じゃないか。なあ、そう思うだろう?」

 そうか、と俺は腑に落ちた。

 問題なのは、首都との格差、被差別感情ではない。それを是正しない、「神」というものに対する苛立ちだ。

「あんたたち、知ってるかい」

 もう一度、同じことを言われた。しかし今度こちらに向けられた目は、どこか底光りしているように見えた。


「──ゲルニアでは、どうやら新しい技術を開発するのに成功したと聞いたよ。もしもその技術で、あの国が大いに栄えたりしたらどうなる? いつかニーヴァよりも上の立場になったりしたら? そんなことになったら、俺たちはあの貧乏な国民よりも下、ってことになる。そんなことになってもいいと思うかい? ニーヴァには神獣がいるってのに……ただ一つ、神がおわす国だというのに、他の国の下になるなんて。神獣がいて、神獣の守護人までが来訪して、この国は他よりももっともっと富んでもいいはずじゃないか。今までどんなに困窮したって、ゲルニアよりはマシだと言い聞かせていたのに、これからあっちのほうが上になったらどうする。今度はこっちが見下されるほうに廻っちまう。冗談じゃないよ。どうして、俺たちばかりがこんな目に。どうして神獣は、れっきとしたニーヴァ国民である俺たちの苦しみを無視するんだ?」


 この主人はイーキオの枝の煙を吸っているわけではない。ごくごく普通の、貧しいながらもダウスという街に根を下ろし、必死に仕事をして、堅実な生活をしようとしている人だ。

 なのに、彼の目には、今まで俺が見てきたのと共通するものが浮かんでいる。言っていることも同じだ。

 テトの街にいた連中、トルティックの街のリリアさん、シキの森でルチアに話していた男──

 どうして、他は幸福なのに、自分ばかりが不幸であるのか。

 彼らはそればかりを繰り返す。どうして、どうしてと。

 それはまるで、怨嗟のように。

 背中に冷気が這い上がった。



 その深く昏い闇は、普通に日常を送っている人が、普通に心の中に潜ませている。

 それに気づくのは、なにより恐ろしいことであるように思えた。



          ***



 人目を避けるために、廃墟のようになっている無人の家を見つけて、その裏手で輪になって座った。みんなして、少々げっそりだ。

 下は雑草が茂り、日が当たらないから地面は湿り気を帯びていて、お世辞にも快適ではないが、街の住人の存在が感じられないだけ、ここのほうがいい。なんだか本当に、犯罪者集団になったような気分だよ。

「しかしあまりにも極端だな……南の神獣礼賛もそうだが、北の嫌悪っぷりも」

 ハリスさんが考えるように手で顎を撫でて言った。俺も同感だ。どうして同じ街なのに、南と北とでこうも違うんだろう。

「……たぶん」

 と、ぼそりと声を出したのは守護人だった。膝を抱えて座る彼女の横では、ぺたんと腰を下ろしたニコが、手持無沙汰なのか、棒で地面を引っ掻いている。

「根本にあるのは同じ、ということなんじゃないですか」

「同じ、っていうと」

「以前、ルチアさんが言ってたんですけど」

 ちらっと俺のほうを見る。いきなり出てきたその名前に「え」と間の抜けた声が出た。

「ルチアが?」

 あいつ何を言ったんだと不安になったが、守護人はまた俺から視線を外し、何もない虚空を見つめて、諳んじるように口を開いた。


「神様も、神獣も、不公平を正してくれるわけでも、人を救ってくれるわけでもない、と。シキの森にいた人たちは、きっとそのことが、腹立たしくてたまらなかったんだろうと。……たぶん、それだけ、信じたかったんだ、と」


 俺たちは揃って無言になった。

 それだけ、信じたかった──

「南の人たちも、北の人たちも、信じたい、という気持ちは同じなんでしょう。それが闇雲な信心に向かっているか、『信じていたのに裏切られた』という不信に向かっているか……方向が逆になったというだけで」

 信仰の表と裏、ということか。

 ハリスさんが肩を竦めた。

「なるほど。それが集団になったがために、余計に加熱してしまった、ということはあるかもな。人なんて、誰かと対立すると、より自分の意見に固執してしまうもんだろうし」

「そこに至るまでの下地は、すでに出来上がっていたんだろうが、しかし……」

 ロウガさんは思わしげに腕を組み、眉を寄せてその先の言葉を呑み込んだ。

「しかしこの南北の対立は、まるでニーヴァ国の縮図のようだ──と言いたいんでしょう?」

 メルディがさらっと続ける。何が楽しいのか、くすくす笑っていた。

「神獣を信じるか、信じないか。ニーヴァではどうやら、その勢力に二分化されつつあるらしい。神獣を信じようとする派はより頑なに、信じない派は、あっさりと『別の神がいるのかも』という胡散臭い話に食いついてしまう。実際、イーキオの枝を使えば、神の姿が見られて、幸福な気分にもなれるわけですからね」

「…………」

 ロウガさんが渋い顔で低く唸った。頭に浮かんでいるのはもしかして、拝礼日のことなんじゃないか、と俺は思った。

 俺自身も、それを考えていたからだ。


 ──普段非常に信心深いであろう人たちが、門を閉ざされたということに、いきなりあんな風に怒りを爆発させるものだろうか。


 もともと守護人が違和感を覚えた理由、疑問を抱いた点はそこだった。それを探るために神ノ宮を出て、今になって俺たちは、その解答に辿り着いたのかもしれない。

 もちろん、疲れだとか、怒りだとか、そういうこともあったに違いない。要因は複雑に混ざり込んでいて、どれか一つが決定打とは言えないのだろう。

 でも。

 ひょっとしたら、あの時、人々の頭には、「もしも別の神がいるとして、そちらを信仰する人たちのほうが、より幸福を得られるのではないか」という不安や焦りが大きくあったんじゃ?

 そういう不安と焦りを抱えている人たちの鼻先で、非情にも神ノ宮の門が閉じられる。それを神獣からの拒絶、ととって、彼らは激高したのではないか。

 信仰心はある。神獣を信じたい。信じれば救われるとも思いたい。思いたいが、しかし。

 自分よりも他人のほうがいい目を見る。自分ではない人間が優遇される。自分が誰かよりも下になる。

 それだけは許せない、という強い気持ちが、あの時、門を揺すって怒鳴っていた人たちの胸の中に巣食っていたとしたら。

「……それほど、苦しい思いをしている人が多いのね」

 悲しげなため息と共にそう言って、頬に手を当てるミーシアを見て、メルディはふっと口の端を上げた。

「それほど、弱い人間が多い、ということです。リンシンという男は、その弱い部分につけ込む方法を心得ている。恐ろしいまでに、上手にね」

 王ノ宮、神ノ宮への不信を煽り、不安感を増大させ、イーキオの枝で人心を汚染させるリンシン。

 あいつはまるで、この国に、大きな渦を作り出そうとしているみたいじゃないか。その渦は二つに分かれて、互いにぶつかり、せめぎ合いながら、激しい嵐を巻き起こそうとしている。


 ニーヴァという一国の運命が、あの男の手によって歪められていくようだ。


「──ねえ、シイナさま」

 その時、今までずっと黙って棒で地面に数字を書いていたニコが、ぽつりと言った。

「神さまって、ほんとにいるの?」

 率直すぎるその問いに、俺は一瞬息を呑んでしまったが、守護人は表情を変えなかった。

「ニコはどう思う?」

「オレは……」

 ニコは目線を地面に向けたまま、棒を動かす手も止めずに、もごもごと言葉を出した。

「オレは、いないと思う」

「そう」

 守護人の一言だけの答えに、ニコはかえってムキになったように声の音量を上げた。何かに追い立てられるようにして、一気に言葉を吐き出す。

「だってさ、だって、神さまなんて、そんなのがほんとにいたら、オレやフィリーみたいな灰色の髪の子供が生まれるわけないもん。神さまがいたら、誰からも要らないって思われる子供を、最初から作ったりしないよ、きっと」

「…………」

 守護人が目を伏せる。その手が動きかけたのは、ニコの頭を撫ぜてやろうとしたためなんじゃないかと俺は思ったが、彼女は結局、それを握り拳にして止めてしまった。

「けど、ここの人たちも、みんなも、やっぱり神さまを信じたいんだね。怒っているけど、それでも、神なんていない、とは言わないんだね。どうしてなんだろう」

 いつだったか──確かトルティックの街で、ニコが「神なんているもんか」と呟いていたことがあったのを思い出した。

 ニコはその時と同じ、石のように固い目つきを地面に向けている。

「……たぶん、神様っていうのは、人によって違うからじゃないのかな」

 守護人は静かにそう言った。俺だけではなく、他の誰もが固唾を飲んでこのやり取りに耳をそばだてているが、ニコはそれにちっとも気づいていないようだ。

「ちがうって?」

「たとえば、ある人にとっての神様は、絶対的に自分を守ってくれる存在、のことなのかもしれない。ある人は、ただ自分の願いを叶えてくれる存在を、神様と呼ぶのかもしれない。ある人にとっては、怒りと不満をぶつけるための存在、なのかもしれない」

 ニコは顔を上げて、むくれるようにちょっと頬っぺたを丸くした。

「ヘンだよ、そんなの。神さまって、一人しかいないんでしょ?」

「そうだね、変だね」

「じゃあ、シイナさまにとっての神さまって?」

「…………」

 守護人は──神と同等とされる「神獣」の守護人は、しばらく口を噤んで、ふわりと宙に視線を彷徨わせた後で、こう言った。

「わたしに、神様は必要ない」


 その瞬間、俺は、自分の顔が強張るのを自覚した。

 守護人の返事は、俺の耳には別の言葉になって聞こえたからだ。

 わたしに神は必要ない。


 ──わたしに(・・・・)救いは要らない(・・・・・・・)





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