2.別離
それから馬を連れて家に戻り、片付けを手伝ったり、ロウガさんと二人であちこちから借りた寝台を返しに行ったりして、バタバタと過ごした。
今まで貸してもらっていた礼を言う俺に、相手が口にする言葉は大体同じだ。
「そう、もう街から出ていくのかい」
それと共に、じゃあ元気でね、と言ったり、旅の道中は気をつけなよ、と言ったりはするものの、どの顔にも、ほっとするような安堵の色が浮かんでいる。
「もう出ていくのか」という台詞とは裏腹に、彼らが「やっと出ていくのか」と思っているのは明白だった。
──ま、仕方ないよな。
シキの森で大量の死者が出たというだけでも不気味な話だというのに、その死者たちはどこから来た何者で、何のために集まっていたのか、今もって不明なまま。明らかに異様な死に方は、いくら「大型の野生の獣に襲われたのだろう」と自分に言い聞かせていても、心のどこかで納得できない気持ちと、抑えつけてもなお湧き出てくる疑問や不安があるはず。
この不吉な出来事は、俺たちが到着して間もなく起こった。そして実際、俺とロウガさんがこの件に関わっていることを、多くの住人が知っている。言葉にはしなくても、「あいつらがこの街に厄介の種を持ち込んできたんじゃないのか」と考えるのは、無理もないことなのだ。
ハルソラは平穏が続く街。
だからこそ、この街に住む人々は、変化を嫌い、非日常を受け入れず、異端を拒絶する。
彼らが今の俺に向ける目は、昔、俺の父親に向けられていたものと、まったく同じだ。
「……すまんな、トウイ。ここはお前の大事な故郷だったのに」
最後の寝台を返し終わって帰る道すがら、ロウガさんに謝られた。ロウガさんも、住人たちの顔つきを見て、何か思うところがあったらしい。
俺は微笑んで手を振った。
「いいんですよ、そんなの。この街に行きませんか、って言ったのは俺なんだし」
シキの森にあの集団が居着いたのは、俺たちがこの街に入るよりも前だ。もしもここに来ていなかったら、イーキオの枝の魔の手や妖獣の被害は、ハルソラ全体にまで及んでいたかもしれない。
そうならなくて、まだしもよかった。俺の中に、ここに来たことを後悔する気持ちはない。
「しかし……」
「平気です。もともと、ここに帰ってくる予定はなかったんですから」
風人である父親に連れられてここを出た時点で、もう帰ることはないだろうという覚悟は決めていた。ハリスさんとメルディが負傷しなければ、ハルソラに立ち寄ろうなんて考え、俺の頭を掠めもしなかっただろう。
それに、たとえシキの森で何も起きなかったとしても、今後俺がこの街に足を踏み入れることは、二度とないと思う。
「……いずれ、時間がいろんなものを変えるだろうさ。この街も、お前も、お前の友達も、他の人たちもな」
俺の内心を察してくれたのか、ロウガさんが独り言のように言った。特に訊ねてくることはなかったけど、いくらこのテのことにニブいロウガさんでも、俺とルチアの間にあったことには気づいているようだ。
「どうでしょうね……」
俺も呟くように言って目を眇め、ハルソラののどかな街並みを眺めた。
そして、前方に見えてきた、自分の家を。
……さあ、お別れだ。
家の中をすべて綺麗にし、置いてある家具には再び布を被せた。旅装束を整え、すべての荷をまとめて、馬に括りつける。
それで完了だ。あとはもう、馬と一緒にハルソラの街の門を出るだけ。大分旅慣れてきたこともあって、一旦準備を始めてしまえば終わるのはあっという間だった。
「じゃ、行きましょうか」
馬に乗って手綱を握り、すぐ前にいる守護人と、さらにその前のニコに声をかける。
あー、こういうの、久しぶりだなあ。神ノ宮を出てからずっとこうだったから、今ではこの位置がいちばん落ち着くくらいだ。
「そうですね……もうちょっと……」
しかし守護人のほうは、俺とは違ったらしい。妙に落ち着かなさげにそわそわと片足を揺らし、右を向いたり左を向いたりしながら周りを気にする素振りを見せている。返事も適当だし、その横顔はどこか上の空だ。
「どうしました?」
「いえ別に……。ハリスさん、どうですか、大丈夫ですか」
「もちろん。今すぐに馬を駆けさせても平気なくらいですよ」
同じく手綱を握るハリスさんは、楽しげにニヤニヤしながら、守護人の問いかけに答えた。口調はちょっと面白がっているが、久しぶりに馬に乗られて嬉しいのは本当なのか、寝台に縛りつけられていた時とは別人のように瞳が輝いている。
「いいですか? もう出発……」
「まだちょっと」
「は? どうしました?」
「いえ、メルディさんが、トイレに行きたいような顔をしてるなと思って」
「ちょっとやめてくださいよシイナさま、美形はそんな場所には行きません」
「じゃ、忘れ物がないかどうか、もう一度確認を……」
「最後に一通り確かめましたが……どうなさいました、シイナさま?」
心外そうなメルディと、訝しげに首を傾げるミーシアの反論も耳を素通りしているらしく、守護人はそちらに顔を向けもせず、眉を寄せて別の方向に目をやっている。相変わらず、意味が判らない。
「何もないなら、行きますよ」
手綱を引いて馬首の向きを変えようとしたら、「待って」と余所を向いていた守護人が、今度はきっぱりとした口調で言った。
「……来た」
え、何が? と守護人を見て、彼女が見ている先へ俺も視線を移す。
──と。
「トウイ!」
大きな声を出して、片手を挙げながら、こちらへと走ってくる人物が目に入った。
一瞬、このまま馬を進ませようかと思ったが、諦めた。守護人が、手綱を握っている俺の手を、自分の剣の鞘でぐぐっと下に押さえつけているからだ。無言だが、わりと容赦ない力が込められているので、痛い。あの、止めるなら、もうちょっと暴力的でない手段を取ってもらいたいんですけど。
家からずっと走って来たらしいルチアは、俺が乗っている馬のすぐ近くまで到着すると、ぜいぜいと肩で息をしながら眉を吊り上げて、きっとこちらを睨みつけてきた。
ある意味、非常にルチアらしい表情だったので、つい俺の気持ちもほぐれてしまう。
「なんだよ、わざわざ見送りに来てくれたのか?」
「当たり前でしょ! 今日が出発だってことも言わないなんて、この薄情者!」
うん、言わなかった。言わなかったのに、一体どこから伝わったんだろうなあ。
俺の前にいる守護人は反対方向を向いて、聞こえないフリをしている。白々しい。
「結局、助けてもらったお礼だってちゃんと言ってないのに! お父さんと出ていった時もそう! なんなのよ! ホントにあんたって人は、いつもいつも……!」
泣き出すんじゃないかと心配になったが、ルチアはひたすら怒って文句を言って、悔しそうにじたばたと地団駄を踏んで暴れていた。こいつの感情の出し方は、子供の頃からちっとも成長していない。
……現在のルチアの上に、まだ幼かった頃のルチアの姿が重なる。
怒った顔。なにかというと「トウイのバカ!」と泣いて叫んだその声。涙で滲んだ大きな目。
でも、昔と重なるのはそのうちの一部分だ。すべてが同じわけじゃない。何かは変わらないまま、何かは変わった。お互いに。
時間が進んで失われていくものは、確かにある。少し寂しいことではあるけど──
でもそれは、悲しむようなことではないよな?
「最後に会えてよかった」
俺が目を細めてそう言うと、ルチアの顔がより一層くしゃっと歪んだ。もう俺がこの地に戻ってくることはないと、少なくとも俺自身はそのつもりでいると、気づいたのだろう。
「……元気でいなさいよね! ケガも病気も、するんじゃないわよ!」
それでも、ルチアはぐいぐいと拳で乱暴に目許を拭って、そう言った。
胸がじわりと、熱くなる。
──「別れの挨拶」だ。ルチアは、俺に対して、その言葉をかけることを選んでくれたんだ。
「俺がガキの頃から頑丈だけが取り柄なの、知ってるだろ」
「その代わり、無茶なことばっかりしてたでしょ!」
うん、そこは俺も、あんまり変わってないかも。
「気をつける」
軽く笑いながら手綱を引いた。今度は、守護人も制止しなかった。
「危険なことに巻き込まれないようにね!」
「お前が言うな。ルチアこそ、変なものには寄っていくなよ」
俺はもう、お前を助けてはやれないから。
「わかってる! あたし、もう大丈夫だよ!」
馬が歩を進めても、ルチアはその場に止まったままで、足を動かそうとはしなかった。でも、口を動かすことはやめようとしなかった。威張るように胸を張り、両手を口元に添えて、次第に離れていく距離に負けないよう、声の音量も上げていく。
「だからトウイも頑張りなさいよねー!」
「ああ」
「こーんないい女をフッて、死ぬほど後悔するだろうけどねー!」
「…………」
お前な、そういうことを大声で言うなって。みんなそれぞれ知らんぷりで空を見たりしてるけど、ハリスさんとメルディなんて、どう見ても笑いをこらえられていない顔をしてるぞ。
「いつかトウイよりもずーっと素敵な男を捕まえて、幸せになってやるんだからねえーーっ!」
ほとんど絶叫だ。でもその怒鳴り声は半分泣き声にもなっていて、俺は噴き出してしまった。
「ああ、幸せになれ。ルチアは昔よりもずっと綺麗になったから、すぐにいい男が捕まるよ」
そう言って、片手を挙げた。
馬の脚が速まるにつれ、両手をぶんぶんと振っているルチアの姿が、だんだん遠ざかっていく。
昔、母親と一緒に暮らした家が小さくなる。
ハルソラの街から、離れていく。
口をぎゅっと引き結び、それらを見やってから、俺は後ろに向けていた顔を前へと戻した。
すぐ近くには、守護人の小さな頭がある。なんだかほっとして、唇が綻んだ。
……別れる前にルチアと言葉を交わす機会を作ってくれたことへの礼を、言っておこうか。
「シイナさ……でっ!」
呼びかけた途端、腹部に衝撃が来た。
「すみません、馬が揺れたので」
「え……は?」
守護人は前を向いたままで、どんな顔をしているのか俺からは見えない。しかし気のせいか、その声はやけに冷たい。馬……揺れたっけ? それにどうして馬が揺れると、俺の腹のど真ん中に神獣の剣の鞘先が食い込むような羽目になるんだ?
でも、一気に下がった気温にこちらの血の気まで引いていきそうで、俺はその疑問を口に出せなかった。
「アホが……」
「こういう時には、すんなり『綺麗』って言葉が出せるんですねえー」
頭を抱えるハリスさんと、けたけた笑いながら茶々を入れるメルディは、負傷する前となんら変わりない。
うん、また元通り。よかったよなあ。
俺はしみじみしながら、ずぎずきと痛む腹を、自分の掌でそっと押さえた。
***
グレディールは国の端のほうに位置している街である。それも、火の国カントスではなく、砂の国ゲルニア寄りだ。
一般的に、カントス国民は賑やかで気が強く、ゲルニア国民は静かで我慢強い、とされている。その性質の違いから、戦いの場では、カントスは短気ですぐに突進してくるが、ゲルニアは裏であれこれと陰謀を張り巡らせる、とも言われている。
カントスとゲルニア、どちらもニーヴァの隣にあって油断のならない国なのだが、資金力は圧倒的にゲルニアのほうが低い。国土の三分の一が砂漠に占められた土地柄からか、自国でとれる作物が少なく、資源もあまり豊かではないからだ。まあ、そのために砂の国では、地の利を活かした独自の技術開発が進んでいるらしいとも聞くが……
いや、問題はそこじゃない。とにかくゲルニアは、カントスよりも貧しい。だから一口に「ニーヴァの端」と言っても、カントス寄りの街よりもゲルニア寄りの街のほうが、小さくて貧しくなる傾向がある。同じニーヴァ国内とはいえ、近い隣国から流れてくる人や物資に影響を受けるのは当然の成り行きだ。
──グレディールに近づくと共に、徐々に寒々とした景色が広がりはじめ、そこに暮らす人々の顔が疲労と暗い影に覆われていくのを見て、俺は改めてその現実を噛みしめた。
マオールやゲナウではあった活気のある声なんて、ほとんど耳に入ってこない。
トルティックでさえまだ明るさはあったから、俺もきっと芯からは理解していなかったんだろう。こうしてこの目で見て、確かにニーヴァという国は荒れてきているのではないかという実感が、足許からじわじわと這いのぼってくるようだった。
グレディールまではけっこう距離がある。ハリスさんとメルディはまだ馬を飛ばしていいような状態ではないし、傾斜のある場所も大変かもしれないので、遠回りでもなるべく平坦でなだらかな道を選び、ゆっくり進んでいくことにした。
……いや、というか。
誰も口にはしなかったけど、そこにはきっと、出来るだけたくさんのものをニコに見せてやろう、という気持ちもあったんだろう。
グレディールに戻ったら、おそらくニコの身に、さほど自由というものが与えられているとは思えない。次にこの子供が、広い世界を見て廻る機会を得られるのは、いつのことになるか判らないから。
ニコは以前よりもずっと口数が少なくなり、その代わり、ぼんやりと空を眺めることが多くなった。
いつでも屈託ない笑いを浮かべ、あれこれと楽しそうに言葉を紡ぎだしていた口は、今は滅多に開くこともなくなり、固く結ばれている。
迂闊に開けてしまえば余計なことを言ってしまうんじゃないかと、まるで自分自身に戒めているようだった。
本当は、このままみんなと一緒にいたい、と。
ニコがそう考えているのは痛いほどよくわかる。その願いを口にするまいと必死に耐えているのもわかる。わかるからこそ、あまりにもその姿が切なくて、ロウガさんでさえ時々そっと視線を外して、短く息を吐きだしているほどだった。
──でも、俺たちに、ニコを安心させてやれるようなことなんて、何も言えるわけがない。
ニコの気持ちはわかるが、同時に、守護人の決意が固いのもよくわかるからだ。
草原地帯に向かう前にニコを故郷の地に帰す、と決めた守護人に、ニコは怒りも反発もしなかった。文句も泣き言も言わなかった。
そして、避けることもしなかった。
むしろ、今まで以上にべったりと、守護人の近くにいるようになった。馬上でも、降りても、ぴったりと寄り添うように彼女にくっついている。少しでも離れると途端に不安そうな顔になるので、守護人とニコの手が繋がれていない時のほうが少ないくらいだった。
守護人は、何も言わないし、表情も変えない。
ただ、ニコがそろそろと伸ばす小さな手を、必ずすぐに気づいて、ぎゅっと握ってやっていた。
基本、夜は外で寝たが、昼間はなるべく見かけた街に立ち寄るようにした。
そちらはニコのためというよりも、もっと現実的な理由だ。要するに、街がどこも小さすぎて、一所では物資の補充が十分に出来ないからである。
店に並ぶ品物は、量が少なく質も悪く、商いそのものをやめてしまっているところもある。外の畑はどこか閑散としていて、青々とした野菜の姿をほぼ見かけることがない。ためしに土をすくってみたら、ひどく硬くて、パサパサしていた。
土地が痩せているんだな、と俺は暗澹たる気持ちで思う。ここ数年の天候不順で大地が栄養不足に陥ったのはどこも同じだが、こんな辺境には、王ノ宮が打ちたてる救済策も届かないのか。
「あそこに街がありますよ」
いちばん目敏いメルディが声を上げる。
彼女が指差す方向には、確かに塀で囲まれた小さな街が見えた。早速ハリスさんが手綱を握りながら地図を広げたが、やっぱりそこには載っていない。このあたりはほとんどそういう街ばっかりだ。そう考えれば、地図に名前が載っている分、グレディールは他のところよりも規模が大きい、ということなのかもしれない。
「ま、宿屋までは期待しないが、行ってみるか」
「なにか甘いものが売っているといいのだけど」
やれやれという調子で言うハリスさんに、ミーシアが頬に手を当て思わしげに呟く。あまり食べなくなってしまったニコに、少しでも好きなものを、と考えているらしい。ハルソラを出てから、次第に、菓子などの嗜好品も手に入りにくくなりつつあった。
「ついでに、何か食べていきましょうか。店があれば、の話ですけど」
「はい」
俺の提案に、守護人が頷く。その前に座るニコは、じっと前を向いたままだ。
今までなら、食べ物の話となると途端に目をキラキラさせて大喜びしてたのになあ、と思うと、胸がチクチクと痛む。
ため息をつきそうになるのを、なんとか呑み込んだ。
***
「ここはダウスの南だよ」
街の中に入り、かろうじて見つけた食堂で、店主がそう教えてくれた。
へえー、と返事をしてから、首を傾げる。ダウス「の南」ってなんだ? ダウスっていうのが街の名前なんだろうけど……どうしてその後に余計な説明をくっつけるんだろう。わざわざ東西南北で分けるほど、広い場所ではないのだが。
「あの、『ダウスの南』って……?」
同じ疑問を抱いたのか、ミーシアが問いかける。店主の男は、よくぞ聞いてくれたというように、いきなり鼻息を荒くして、ずいっと彼女に顔を寄せた。と同時に、ロウガさんの眉がぴくっと動く。
「あんたたち、旅の人だろ。どこから来たんだい?」
「え……あの、首都からですが」
ミーシアは少し身を引きながら答えたが、その答えに、店主はますます鼻息を大きく吐き出し、さらに間近に詰め寄った。ロウガさんがそろそろ剣の柄に手を置くんじゃないかと、俺は気が気じゃない。ちょっと! シイナさまとハリスさんとメルディ! なに完全に無視してメシ食ってるんですか! ロウガさんが暴れ出したらちゃんと手伝ってくれるんでしょうね?!
「首都からかい! そりゃあいい!」
「は?」
手を打って喜ばれ、ミーシアはぽかんとした。俺もだ。
何がいいんだ?
「首都には神獣がおられるだろう?!」
店主の言葉に、一瞬、全員の動きがぴたっと止まった。
「は、はい。そうですね」
嘘のつけないミーシアは、ちらっと守護人のほうを見たが、本人はまた知らんぷりで食べ物を口に運びはじめた。しかしさっきと違って、耳のほうは店主に集中して向けているらしいのがわかる。
「神獣は神と同じ。カイラック王よりも敬うべき存在だ。そんなもん、ニーヴァ国民なら赤ん坊だって知ってる常識さ、違うかい?!」
「ええ、その通りですね」
ミーシアが素直に同意すると、店主までもがうんうんと激しく首を縦に振った。薄くなった頭のてっぺんから、湯気が出そうだ。
「だろう、首都の人たちはやっぱりよくおわかりだ! なのにさ、北のやつらは、そう思っちゃいないんだ! 神獣は自分たちに何ももたらしてくれない、王ノ宮と神ノ宮だけが恵まれてこちらには何も廻ってこない、同じニーヴァ国民なのに平等に幸福を与えないのはおかしい、なんて言うんだよ!」
「北のやつら」?
「……つまりこの街では、神獣を敬う派と、そうでない派に分かれて、南と北で対立している、ということでしょうかね」
頬杖を突いたメルディが、薄っすらと楽しげな笑みを浮かべて口を挟む。店主が今度はそちらを向いて、身を乗り出した。
「そうさ、まったく北の連中なんざ、どいつもこいつも不逞の輩ばっかりさ! あんなやつらはみんな不敬罪でとっ捕まっちまえばいいんだ! まったく同じ街にいるというだけで恥ずかしい。まあ、神獣はきっと、ちゃーんとお見通しであられることだろうがね! あんな連中と俺たちとは違う、ってことが」
店主は憤然としながら、「北の連中」を口汚く罵り続けている。俺たちは互いの顔を見合わせた。
「──あの、すいません」
椅子から立ち上がりながら、俺は口を開いた。
「このあたりに、少しの間だけ馬を預かってもらえそうなところはないですか。ちゃんとその分の金は払いますから」
「ん? 馬?」
興奮していた店主は、そこでようやく我に返ったように身体をまっすぐにし、目を瞬いて俺を見た。顔を巡らし、店の外に繋いである三頭の馬に視線を移す。
「ああ、あれか。金が貰えるんなら、うちで預かっておくよ。厨房の裏手に連れていくといい。厨房には女房も手伝いの子もいるから、盗人に狙われないように言いつけておこう。なに、北にはタチの悪いのが多いが、そんなやつらに手出しはさせんよ。なんたってあんたらは俺たちと同じで、神獣をお守りする仲間だからな!」
まあ、ここにいるのは神獣の守護人と神ノ宮の護衛官なのだから、間違ってはいない。
「ありがとうございます」
礼を言って、歩き出す。
数歩進んだところでふと思いつき、足を止めて、くるりと振り返った。また引き返し、椅子に座ったままぼーっとしているニコに手を伸ばして、勢いよく抱き上げる。
「わっ、な、なに、トウイ?」
「一緒に行こうぜ、ニコ」
有無を言わせずニコを肩に担いだまま、再びすたすたと歩いて外に出た。
繋いである馬にニコを乗せ、紐を外して三頭を引いた。一人で乗っても怖さは感じないのか、ニコは大人しく馬の背で揺られている。
「……ダウスの北に行くの?」
少しして、ぽつりと言った。
今回はちゃんと人の話が聞こえていたらしい。そうか、いつもは食べるのに夢中だけど、今日はいくらか口に入れただけで、あとは手が止まっていたからな。
ちゃんと聞いてさえいれば、この子供はこうして言葉にされないことも推測できる賢さを持っている。……いや、もしかして、それだけ俺たちの思考と行動に慣れた、ということなのかもしれない。
そんなことが出来るくらい、一緒にいたんだから。
「気になることは、調べないとな」
俺がそう言うと、ニコは下を向いた。
「そうやって、どんどん調べなきゃならないことが出来たら、グレディールに行くのもどんどん遅くなる?」
「…………」
目をやると、ニコは表情も変えずに下を向き続けていた。喜怒哀楽のわかりやすい、素直に感情を表に出す子供なのに、今は何をどう出せばいいのか、途方に暮れているようにも見える。
「──ねえ、トウイ」
喉から強引に押し出すような、弱々しい声だった。
「うん?」
「シイナさま、オレが嫌いなのかなあ」
聞こえないくらいの小さな声でそう言って、ニコはぽとりと涙を落とした。