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3.疑念



 その後もルチアに話したのと同じ説明を何回か繰り返して、ようやく、家にまで押しかけてきてあれこれと訊ねてくるやつや、外から物見高く家の中を覗き込もうとするやつの姿がなくなった。

 はー、とげんなりする。肝心なところをぼかした俺の説明に一応は頷いても、納得しかねて首を捻ったり、余計に好奇心を露わにして問い詰めたりするのもいたから、これから街の中ではさぞかし、無責任に尾ひれのついた噂が駆け巡ることだろう。俺のことはどんな風に言われても構わないが、怪我人たちの養生に差し支えることがないのを願うしかない。

 ──そして、その中で、別の問題も発生していた。



「実はその……みんな、『護衛対象であるお嬢様』は、ミーシアのことだと思い込んでいるらしくて」

 俺はちょっと面目なく頭を掻きながら、仲間に向かって告げた。

 ミーシアは、驚いたように「まあ、どうして」と目を丸くしている。そちらにも守護人に対しても申し訳ない気分で、小さくなるしかない。

 ……まあ、バカみたいに単純な話だ。

 俺はこの件の説明をする時、他の連中にもルチアにしたのと同じように話した。つまり、「階級の高いさる方のお嬢様の護衛」、というように。

 お嬢様、といえば、普通は女の子のことである。しかし守護人もニコも、一見しただけでは女の子と思われないような恰好をしている。おまけに、負傷したのは仲間、と明言してしまったので、メルディも除外される。そうすると、その単語に該当するのはミーシアしか残らない。第三者の目線では。

 つまり住人たちは、一目瞭然でミーシアがお嬢様だと、勝手に確信してしまったのだ。

 俺がその行き違いに気づいた時には、もう手遅れなくらいに、誤った情報が人々の間に事実として浸透してしまっていた後だった。

 で、本物の護衛対象である守護人が住人たちにどう見られているかといえば、それがもうこちらも迷いなくきっぱりと、ニコと共に「お嬢様に仕えている小間使い」であるとして認識されていた。俺とロウガさんとハリスさんが護衛、メルディはミーシアの侍女と思われているので、つまりこの中の誰よりも位が低い、ということだ。

 街の年寄りが、ひもじかったらこれでもお食べ、と守護人とニコに焼き菓子をそっと施しているのを見た時の、俺の心中を察して欲しい。


「……しかしそれならそれで、かえって都合がいいんじゃないか?」


 と言ったのはハリスさんだ。ようやく整えられた寝台の上で、上半身だけを起こし、考えるように顎に手をやっている。

 俺はそちらを向いて首を傾げた。

「都合がいいって?」

「もともとトウイとは顔見知りだってこともあって、街の住人の中には、根掘り葉掘り事情を詮索しようと思うやつだっているかもしれない。この面子でいちばん嘘をつくのが苦手なのはミーシアだから、『身分が高い』という柵で囲ってしまうのはいい手だろ」

「ああ……」

 それもそうか、と納得する。

 街の住人たちはもちろん悪いやつらではないんだけど、余所から来た人間というものに慣れていない分、好奇心が刺激されやすい。俺のことを昔から知っている、という理由もあって、無遠慮にこちらの領域に侵入してくる可能性も高い。性格的に嘘をつけないミーシアは、本当なら真っ先にそういう連中の標的になりそうだ、というのは予想できる成り行きである。

 その点、階級の高いお嬢様、という設定にしておけば、あちらから接触してくることはほぼなくなる。身分という名の強固な壁は、人々の中にこそ存在しているからだ。

「……でも、そうすると、シイナさまが」

 と、ちらっと守護人のほうを見る。ミーシアを「お嬢様」だと思わせたままにしておく、ということは、街の住人たちが今後も守護人を「小間使い」として見るのを黙認する、ということだ。

「…………」

 もらった焼き菓子をひとつずつニコの口に入れていた彼女は、難しい顔つきで眉を寄せていた。

「わたしは別にどう思われてもいいですけど、それでミーシアさんの身に危険が及ぶようなことはありませんか」

 階級が高い人間だと思われて狙われるようなことはないか、と心配しているらしい。

「まあ……それはない、と思いますけど」

 サザニの街のようなところならそういうこともあり得るかもしれないが、ハルソラの場合、たとえそんな悪巧みをするようなやつがいたとしても、実行力が追いつかない。ゆったりと進んでいく時間を、ただ平穏に過ごすことだけを考えながら生活しているような人たちだ。たとえ誰かを攫えと命じられても、まずその手立てを思い浮かべることも出来ないだろう。

 ……だからこそ、剣を生業にして殺伐とした世界に身を置いていた父親のような人間は、この街ではずっと異端のままだった。

「そうだな。ここでしばらく逗留するからには、シイナさまという存在をなるべく目立たせたくはない。ミーシアを隠れ蓑にするのはいい方法だ」

 ロウガさんも賛成したというのに、守護人は口を結んだまま、まだ頷かない。彼女は、自分自身の危険はあまり顧みず突っ走っていくわりに、時々ひどく慎重さを覗かせることがある。

 しばらく黙って考えていた守護人は、やがて決意を湛えて顔を上げた。


「──では、これからロウガさんは、常にミーシアさんの近くにいること。ここにいる間、ロウガさんはミーシアさんの専属護衛です。いいですね?」


 きっぱりと出された言葉に、ロウガさんとミーシアが同時に戸惑った顔をした。

「は、しかし」

「それでは、シイナさまが」

「平和な街だというし、トウイさんがいるから大丈夫です。わたしもなるべく、この家の中にいるようにする、と思います、たぶん」

 ぜんぜんアテにならない言い方だな。

「そうと決まったら、ミーシアさんはもっと偉そうにふんぞり返ってなきゃいけません。専属護衛のロウガさんはお嬢様であるミーシアさんを壊れ物のように大事に扱って、なによりも真っ先にその安全を確保することを考えてください。小間使いのわたしがそこらへんをウロウロしていても、気にしちゃダメですよ」

 なんか、最後の言葉がすごく気になるんだけど。

「…………。可能な限り、努力します」

「がっ、頑張ります……」

 早くもこの案に賛成したことを後悔しはじめているらしいロウガさんと、泣きそうな顔つきのミーシアが、揃ってうな垂れるようにして頭を下げた。



          ***



 五日も過ぎると、ある程度街全体に噂が行き渡ったのか、家の周りはすっかり静かになった。

 相変わらず、この家に仮住まいをしている男女を気にする人間もいるが、そういうのは大体、すごく素敵な人 (ハリスさん)がいる、という情報をどこかから聞きつけて、差し入れを口実にその顔を拝もうとする若い女の子たち、あるいは大変な美人 (メルディ)がいると聞いて、あわよくばお近づきになりたい、と寄ってくる男ばかりだ。

 それ以外の住人は、俺たちが本当に怪我人を静養させるためだけにここに立ち寄った、ということを理解すると、あまり積極的に関わってくることもなくなった。階級の高い人間の事情などに口出しして、とばっちりを食うような事態になってはと、警戒しているのだろう。

 またすぐに街から出ていくのだろうから、それまでは静観していよう、というのが、大半の見方であるらしかった。



 ハリスさんとメルディは、一応は大人しく療養しているが、かなり退屈そうだ。身体は動かせないものの口のほうは元気なので、しょっちゅうケンカばかりしている。二人とも、自分自身の負傷には少なからず鬱屈が溜まっているらしく、一度ケンカをはじめると、これがなかなか収まらない。

 口論がこじれて傷が開いたら困るし、こちらも面倒なので、昼の間は、手の空いている守護人とニコが、その部屋に居座って看病および監視をすることになった。まったく世話の焼ける人たちだ。

 ──というわけでこのところずっと、守護人とニコは、部屋に卓と椅子とを持ち込んで、二人で勉強をしている。ニコは計算、守護人は文字を。

「じゃあ、十一足す五は?」

「うーと、えーと、十、六?」

「ニコ、手と足の指を使って数えてたら、二十を越えた数の答えが出せないよ。十五足す六は?」

「ええ~……」

 わかんないよう、と泣き言をこぼすニコと、ニコに教える傍らで、せっせと文字の書き取り練習をする守護人の姿は、非常に微笑ましい眺めだった。そこに、寝台にいるハリスさんとメルディが、「ニコ、まず五と六を足してみな」とか「私は二十三だと思いますねえ」とかのかけ声やデタラメな答えでニコを混乱させては楽しんでいる。これなら二人もケンカをしようなんて気は起こらないだろう。

「すみません」

 俺はその部屋の扉から顔を覗かせ、声をかけた。

「ちょっと、買い物に行ってきたいんですが、いいですか」

「おう、行ってこいよ」

 軽く返してくれたのはハリスさんだった。身動きがままならなくなってからというもの、仏頂面をしていることが多かったが、今はずいぶん機嫌がよさそうだ。

 俺が守護人のほうを気にしたのが判ったのか、にやっと笑う。

「お前がいなくなったって、この部屋にいりゃそう危険なことなんてないだろうさ」

「そうですとも。元気なトウイさんと違って不自由な身体の私たちでも、シイナさまの盾になることくらいは出来ますからねえ」

 守護人は、いちいち突っかかるような言い方をするメルディに顔を顰めたが、俺を見て、「わたしも一緒に行ってお手伝いしましょうか」と椅子から立ち上がりかけた。

「あ、いや、平気です」

 俺は急いで手を振って辞退する。

「でも、一人だと大変なんじゃ?」

 ミーシアを身分の高いお嬢様としてしまった以上、街中の店に買い物にやるわけにはいかない。家の中の掃除や料理などは彼女が中心になってやってもらっているが、外に出て住人と接触したりする役目はおおむね俺がこなしている。

「いや、その」

 なんとなく口ごもる。悪いことをするわけではないのに、妙に言いにくい。


「……ルチアが、手伝ってくれるそうなんで」

「…………そうですか」


 一瞬、微妙な間が空いた、ような気がした。

 守護人がこちらに向ける顔も目も、なんら変化はないはずなのに、俺は薄っすらと背中に冷や汗をかく。

「買い物かあ。オレも行きたいなあ」

 その場の空気をすっぱり無視した、ニコの羨ましそうな屈託のない声に、心からほっとした。ニコ、お前、いいやつだな!

「うん、じゃあ、一緒に」

「お邪魔虫はいけませんよ、ニコ。トウイさんはともかく、あちらの人に睨まれるのは、イヤでしょう?」

 一緒に行こうぜ、と笑って手を出そうとした俺の言葉は、この上なく面白がっているメルディの声によって押し潰された。あちらの人、という部分に、これみよがしな強調がされている。

「いや、俺は別に」

 むしろニコが一緒に来てくれるのなら、そのほうがいい。慌ててそう言おうとしたのに、その反論は、今度はハリスさんによって封じられた。

「ニコは今、勉強中だ。二人いるのなら十分、買い物の手は足りるだろ?」

「えー、オレ、邪魔かなあ」

「今度、わたしと一緒に行こう。ニコ、さっきの答えは?」

「え、えっとー」

「…………」

 素っ気ないハリスさんと、もうこちらを見もしない守護人に、俺はそれ以上何かを言うのを諦めた。

「……いってきます」

 ため息をつきながら部屋の扉を閉める。

「いってらっしゃい」

 守護人はそう言ってくれたが、壁と扉の隙間から見えるその顔は、最後まで俺のほうを向かなかった。



          ***



 最初の日以降、一日のうちに何度もちょくちょく顔を見せにくるルチアは、何かというと俺の近くにいようとする。

 食料品調達のための買い物も、守護人とニコを街の案内がてら連れていこうと思っていたのだが、毎回かなり強引に、じゃああたしが一緒に行ってあげる! とルチアがくっついてきてしまうので、まだ実行できていない。

 あれこれと手伝ってくれたり、街の住人たちとの間の橋渡し役として奔走してくれるのは、ありがたいと思っている。そもそもが知らない仲ではなくて、昔はよく街の中を駆けずり回って遊んだ友達だ。つい断りきれなくて、ありがとうな、とそれを受けていた俺にも問題があるのだろう……が。


 これはやっぱり、まずいよな。


 こうまであからさまに態度に出されると、いくら俺でも判る。ルチアが歩く時にも話す時にも俺との間の距離をぎっちり詰めてくるのは、外見は変わっても中身が変わっていないから、などという理由ではない、ということが。

 今も、買い物を終えて、家に戻ろうとする俺を、ルチアは必死になって引き留めようとしていた。昔はあんなことがあったこんなことがあったと、さかんに思い出話を一人で喋り続け、「ねえ、今から二人で行ってみようよ」と俺の腕に自分の腕を絡めて引っ張っていこうとする。

「昔、あの小さな穴に二人で潜り込んで遊んだじゃない? あそこ──」

「あのさ、ルチア」

 俺は彼女に捕われていた自分の腕をそこから引き抜いて、真面目な表情になった。

「悪いけど、俺はこの街を懐かしむために来たんじゃないんだ」

「わかってるわよ、護衛の仕事でしょ? でも、少しくらいはいいじゃない。お嬢様の護衛は、あの厳つい顔の人がいれば十分だと思うわ。トウイだって、お嬢様の近くにいるより、あの男の子たちと一緒にいることが多いんだもの、特に必要とされてないってことでしょ?」

 だからそれが本当の護衛対象だからだよ、とは言えずに、口を噤む。やっぱり早いうちに誤解を解いておくべきだったか、と後悔した。何も知らないルチアは、ミーシアを見かけるとさっさと逃げて行くのに、俺が守護人のそばにいると、すぐに割り入ってきてそこから引き剥がそうとするのだ。


 このところ、落ち着いて守護人と話す機会がない。


「……ルチア」

 この際はっきり言っておいたほうがいいだろうか。そう思い、彼女のほうをくるりと向いて口を開くと、その前に相手の口が先に動いた。

「ねえ、トウイ、あたしのことどう思ってるの?」

「…………」

 いきなり直球で来られて、かえって二の句が継げなくなる。まっすぐこちらに据えられるルチアの熱っぽい瞳に思わず一歩後ずさったら、逃がさないとばかりに両手で右腕を掴まれた。

「どうって……だから、友達だよ」

 昔よく遊んだ、仲の良い友達だ。今もルチアに対する情はあるが、それに名前を付けるなら、「友情」以外のものにはなりそうにない。

「男友達?」

 ルチアがくすっと笑って皮肉っぽく言う。子供の頃の俺が彼女に対してどう思っていたのか、ちゃんと知っていたらしい。

「わかってるわよ、以前のトウイがあたしをそうとしか認識していなかったのはね。でも、それでもよかったの。あたしはずーっとトウイのことが好きで、一緒にいられれば楽しかった。二人で遊ぶのは、いつもすごく楽しかったわよね? 男友達だと思ってるから、あたしはトウイのすぐ近くにいられる。それでいいと思ってた」

 でも、とルチアの赤茶の瞳に強い光が灯った。

「……でも、あたしはその頃からずっと、女の子として、トウイのことが好きだった。あんたがお父さんと一緒にこの街を出て行った時には、本当に悲しくて悲しくて、大泣きしたわ。そしてすごく後悔した。こんなことなら自分の気持ちを伝えておけばよかったって。だから今回トウイが戻ってきて、とっても嬉しかったの。あたし、もう同じことで悔やみたくない。ねえトウイ、この街にちゃんと帰ってきて。またここで一緒に暮らそうよ」

「…………」

 正直、ルチアの告白を聞いて、俺の心に湧いたのは困惑だけだった。

 俺がこの街を出たのは、十二か十三の頃だ。そんな頃から恋心を抱かれていたと聞かされても、ピンとこない。その当時の俺は、ただ自分の境遇に不安を抱くだけでいっぱいいっぱいの、頼りない小さな子供でしかなかった。

 それからもう六年以上が経過している。その間、俺は父親を失い、本当の一人きりになり、途方に暮れて、やっと入れた神ノ宮という場所で自分の居場所を見つけるために必死だった。新しい出会いはいくつもあったし、別れだって経験したし、喜びもつらいことももたくさんあった。

 ハルソラという街のことも、よく遊んだルチアという仲の良い子供のことも、ほとんど思い出すヒマもないくらいだった。

 なのにルチアは、その六年の間、ずっと俺のことを想い続けて、今の俺に対してもその気持ちはまるで変わらない、というのだろうか。


 ……それは、変だろ。


 どうしても、そう思わずにはいられない。

 六年だ。赤ん坊でもそれだけあれば見違えるくらいに大きくなる。俺だって、泣いて、怒って、笑って、いろんなことを乗り越えて、多少は成長もしたはずだ。ここにいる俺はもう、母親の墓の前でずっと座り込み、ルチアに慰められていた子供じゃない。

 ルチアが「好きだ」と思ってくれていた昔の俺と、今ここにいる俺が、まったく同じであるはずがない。

 なのに、どうしてそんなにも迷いなく、こんな台詞が出せるんだろう?

 時間の止まったようなこの街にいるから、ルチアは自分以外のすべても、何も変わらないままだと信じてしまえるんだろうか。

「──ルチア、俺は昔の俺とは違うよ」

 失くしたものはもう取り返せない。でもその分、新しく手にしたものもある。俺にも、ルチアにも、きちんと経過した分の年数が積み重なっている。昔の面影を引っ張り戻して、今の俺の上にそのまま乗せられても困る。


 人は、一日一日、何かを得たり捨てたり、何かに気づいたりするたび、変わっていくものじゃないのか?


「同じよ。トウイはトウイだわ」

 ルチアは頑なな眼つきをしてそう言いきった。

「俺は俺だよ。けど、ルチアが好きでいてくれた俺は、今の俺じゃないだろ?」

「そりゃ、姿かたちはちょっと変わったかもしれないけど」

 俺は彼女を正面から見返して、はっきり首を横に振った。

「姿かたちばかりじゃない。中身だって変わってる。ルチアはそれを何も知らないし、知ろうともしていない、と言ってるんだ」

 この街に来てから五日の間、ルチアが話すのは昔のことばかりだった。会わなかった六年、俺が何をして、どんなことを考え、どう生きてきたのか、聞こうともしなかった。経過した時間をないものにしようとしているルチアの考えには、俺はついていけない。

 ──昔はよく一緒に笑い合った友達だった。今はもう、こんなにもすれ違う。それだけでも、俺たちが変わっていることの証じゃないか。

「そんなことない!」

 ルチアは眉を吊り上げて怒ったように大声を出すと、突然俺の顔に自分の顔を近づけてきた。

 唇の横の頬に、柔らかくて温かい感触が乱暴に押し当てられる。

 一方的に強引なキスをして、ルチアは持っていた荷物を投げつけるように俺に渡すと、そのままくるっと背を向け、駆けて行ってしまった。

「…………」

 俺は小さくなっていくその背中を見送って、大きな息を吐き出し、歩き出した。



          ***



 家に帰ってハリスさんたちの部屋に行ってみると、守護人とニコの姿はなかった。

「ニコが頭から湯気を出しそうだったんで、気分転換に外に連れていくとさ」

 ハリスさんにそう言われて驚く。俺がここに着いた時、ロウガさんは玄関の前で薪割りをしていたはずだが。

「もしかして、二人だけで?」

「この家の裏に出るだけだって言ってたからな。それくらいなら、くっついてなくても大丈夫だろ」

 俺の家は他の家から少し離れて建っているので、周囲には多少の空間がある。そもそもハルソラは住人の数があまり多くないので、建物も密集して建てられてはいないのだ。

 裏か──と思い、部屋を出ようとした俺を、ハリスさんが「トウイ」と呼び止めた。

「はい?」

「卓の上、見てみろよ」

 視線を移すと、そこには今まで守護人とニコが使っていたらしき、紙の束とペンが無造作に置かれている。

 近づいてみたら、その紙には、ニコが懸命に書いたのであろう計算式や、守護人が書いたと思われる、たどたどしい筆致の文字がたくさん書き連ねてあった。

 いかにも慣れない感じで、それでも一文字ずつ丁寧に書かれてあったそれ──は。


 俺たちの名前、だった。


「…………」

 ニコ。トウイ。ミーシア。ロウガ。ハリス。メルディ。

 どこか幼くも見える、でも、几帳面に記されたことが伝わってくる文字。六人分の名前がいくつも並んで、何度も繰り返されている。

 そこに特に意味はなかったのかもしれない。至極現実的な理由でまずは名前からと考えたのかもしれないし、じゃあ「ニコ」はどうやって書くの? という他愛ない会話から始められたものなのかもしれない。

 けれど。


 ……それでもとにかく、最初に覚えようとしたのは、この文字だったのか。


「可愛くないけど、たまに、憎めませんよね」

 メルディが、いつものからかうような笑いではなく、少し複雑そうな苦笑を浮かべて、ぼそりと呟いた。




 裏口から外に出ると、二人の姿はすぐに視界に入ってきた。

 建物の裏は少し傾斜がついていて、ちょっと見上げた場所に彼女たちは立っている。どちらもこちらに背を向けているので、俺のことには気づいていないようだ。

 守護人は身を屈め、ニコの顔に自分のそれを寄せて、何かを話していた。頭を巡らせ、空のほうを指差している。両手を振り、両足をじたばたと動かしているニコは、陽気にはしゃいでいるらしいのが後ろ姿からでも判るほどだ。

 こうしてみると、本当に姉と弟……じゃなくて、姉と妹みたいだな。あまり感情を顔にも声にも出さない守護人だが、ニコに対する愛情はかなり態度に出ていると思う。本人がそれに気がついているかどうかはともかく。

 ──と。

 守護人が背筋を伸ばして、右手を肩の高さまで持ち上げた。

 その右手は、何かを握っている。なんだろう。白い──紙?

 おかしな形に折り畳まれた紙をつまみ、手首をしならせるようにして軽く動かす。


 その「何か」が、ふわりと風に乗り、宙を舞った。


「……へえ」

 思わず、小さな声を出してしまう。

 ただの紙が、あんなにも長く空中を漂っていられるのは、どういう仕組みなんだろう。ぺらりとした一枚の紙なら、手を離せばすぐに地面に落ちるだけ。折ったところで、さらに落下が早まるくらいだ。

 なのに守護人が飛ばしたそれは、まるで風を切るようにしてまっすぐ宙を飛び続け、しばらく距離を進んでからようやく静かに地面に着地した。

 ニコが歓声を上げながら跳ねるように走ってそれを取りに行き、大事に両手で包みこんでまた守護人の許へと駆け戻る。

 再び彼女の手に返したところで、まだ裏口の前で突っ立っていた俺を見つけて、さらに大きな笑顔になった。

「あっ、トウイ!」


 その瞬間、守護人が、俺のほうが驚くほどに過敏に反応した。


 びくっと大きく身じろぎしたかと思うと、素早く振り返って俺を見る。唇をぎゅっと引き結ぶと同時に、手の中の紙を強く握りしめてぐしゃりと丸めた。

 あっ、とニコが悲しげな声を出し、表情を歪める。守護人はそれを目にして、申し訳なさそうな、後ろめたそうな表情で眉を下げた。「……ごめんね」と謝り、元の形状を留めないほどにくしゃくしゃになってしまったその紙を、ニコに手渡す。

「また、今度。次は別のを作ってあげるから」

 そう言って足を動かし、固い顔つきのまま、何も言わずに俺の脇を通り過ぎて家の中に入ってしまう。

 俺はその扉が閉まるのを見届けてから、手許に残された残骸を見つめ、気落ちしたようにしょんぼりと肩を落とすニコにのほうへ寄っていった。

「俺にびっくりしたあまり、つい力が入って壊しちゃったかな。それ、なんだ?」

「ヒコウキ、ってシイナさま言ってた」

「──ヒコウキ?」

 ニコの言葉に首を捻る。

 聞いたことがないな。守護人が暮らしていた世界にあるものだろうか。

「シイナさま、紙でいろんな形を作れるんだよ。これはこうして外で飛ばして遊ぶものなんだって」

「……ふーん」

 きっとまた作ってくれるさと慰めると、ニコは手の中を見ながら、うんと頷いた。それでもまだ残念そうに、丸められた紙を広げて、皺を伸ばそうとしている。

 俺もそれをじっと眺めた。

 ……ヒコウキ、ね。




 ──その夜。

 頼りない灯りのもと、俺は一人で、「ヒコウキ」の復元作業に没頭していた。

 みんなはもう寝ているのか、家の中はしんとしている。守護人とミーシアとニコが寝ている部屋からも、物音ひとつしない。

 一度思いきり握り潰されたものだから、そこからもとの折り目を探すのだけで一苦労だ。そもそも俺は最初がどんな形をしていたのかすら、よく判っていない。そんなに難しくはない構造だと思うんだけど。

 あれこれ試行錯誤を繰り返し、やっと、こうじゃないかなという形に辿り着いた。確かこんな風に、先が尖っていたはず。それでここを指でつまんで……

 守護人がやっていたように手を離してみたが、「ヒコウキ」はあんなにも綺麗に空中を舞うことはなく、あっという間に床に落ちた。やっぱりこうも皺だらけじゃ上手くいかないのかな。

 どうして守護人は、俺にこれを見せるのを避けようとしたんだろう。

 俺は何も知らない。ヒコウキのことも。それがあるという、ここではない別の世界のことも。いいや、この世界のことでさえ。

「──異世界からやって来た神獣の守護人、か」

 星見の塔が燃えたあの夜から、俺はずっと考えている。



 守護人って、なんだ?





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