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5.過ちの代償



 護衛の男は、お嬢さんをどこにやった、と喚くばかりだった。

 半分くらい裏返っているその怒声も、凄まじいまでに歪んでしまった形相も、明らかに正常とは言い難い。男は完全に、度を失ってしまっていた。

 大体、こいつは何をしたいんだ。いなくなった赤ん坊の行方を問いたいのか、俺を殺したいのか。

「……とにかく、落ち着け、って」

 空中でせめぎ合っている剣を、なんとかあちら側に押し返しながら、呻き声と共に言葉を出す。体格のいい男は上から圧をかけてきていて、俺はそれを下から止める形になっている分、余計に力が要る。なんの計算もなくひたすら死に物狂いで向かってくる相手に、同じように死に物狂いで付き合っていたら、こっちの体力がもたない。

 ふっと力を抜くと、闇雲に押していた男が歯止めを失って前のめりになり、均衡が崩れた。俺は素早く剣を引いて、右足で男の脇腹を蹴りつける。衝撃で相手が二、三歩後ろへずれると同時に、自分も飛び退って距離を取った。

 すぐさま剣を構え、「話を聞けよ」と言ったが、男の耳に入っているかどうかは甚だ疑問だ。蹴られた脇腹を押さえて、荒い呼吸を繰り返している男は、今にも血を噴き出しそうな顔色で、凶暴そうにぎらつく目を俺に据えつけている。

「俺たちは無関係だ」

「でたらめを、言うな」

 肩を揺らし、再び剣を持ち上げる男は、やっぱりこちらの言い分に耳を貸そうという気はなさそうだった。目が爛々と凶暴に光り、こめかみには青い筋が浮き出している。その顔には、燃え上がるような憤怒と焦燥しか乗っていない。

「だったらなぜ、この人形があった! これはヴィルマさまが、あのガキにくれてやったものだ!」

「人に渡した。リリアっていう、カントス人の女性だ。赤ん坊を見つけたいなら、こんなところで時間を取っていないで、そっちを探せ」

「嘘をつくな! 逆恨みしたお前たちが、お嬢さんを連れ去ったに決まっている! どこへやった?! お嬢さんを無事に連れ戻さねば、ヴィルマさまが……ヴィルマさま……このままだと俺は、ヴィルマさまの近くにいられなくなってしまう……!」

 苦しげに呻いて、男の全身が震えた。

 その口からは、何かにとり憑かれたように、ヴィルマさま、ヴィルマさま、と一人の女性の名前しか出てこない。男がなにより心配し、怖れているのは、赤ん坊の安否よりも、自分が彼女の傍らにいられなくなる、ということのようだった。

「きさまらを全員殺してでも、お嬢さんを取り返す!」

 吠えるように言うと、男が躍りかかってきた。

 今度は剣で受けずに、身をかわす。びゅっと空気を切る音が耳の近くで鳴ったと思ったら、間髪入れずに、斜め下から次の攻撃が来た。剣の刃先が俺の頬を掠め、ぱっと鮮血の飛沫が舞う。

「トウイ!」

 守護人が叫んだ。

 その声を耳にして、俺は足を踏ん張り、ぐっと柄を握る手に力を込めた。

 再び唸りを上げて振り下ろされた剣を弾き返す。剣先が逸れた一瞬の隙をつき、男の手許を狙って剣の峰で思いきり打ち据えた。

 弾き飛ばされた剣が、地面に落ちて、ガチャンという大きな音を立てた。


「──はい、そこまでにしましょうか」


 パン、という手を叩く音と、場にそぐわない陽気な声が響いた。

 飛んで行った剣を拾おうと、動かしかけていた男の足が止まる。地面を靴裏で擦るようにして態勢を整えていた俺も、やって来る人物を目にして、半ば口を開けた。

「メ」

 名前を舌に乗せようとしたが、メルディに目顔で制止されたので、そのまま喉の奥へと引っ込める。いきなり割って入ってきたその美女を、男はやはり射殺さんばかりの怒りを孕んだ眼で睨みつけた。

「何だお前は。こいつらの仲間か」

「いえそんな。ただの通りすがりでございますよ」

 メルディは微笑んで、しれっと嘘をついた。

「さきほどから聞いていましたら、そちらの方はどうも、攫われたお嬢さんとやらを探されているご様子なのでね。それなら教えて差し上げた方がよろしいかと、野暮とは思いつつ、途中で入らせていただきました」

「なんだと」

 男が目を見開き、俺を無視して食ってかかるようにメルディに大股で迫る。

「何か知っているのか?! さっさと言え!」

「今から言おうとしてるんじゃないですか。せっかちな男は嫌われますよ。──ですから、赤茶の髪の赤ん坊を抱いた、カントスの民でしょ? それをさっき見かけたから、こうして教えてあげようと」

「どこだ?! どこにいる?!」

 メルディののんびりした説明を最後までろくに聞きもせず、男はその場所を耳にすると、乱暴に剣を掴んで突っ走って行ってしまった。

 あんな調子じゃ、もしも本当にリリアさんを見つけたら、何をするか判ったもんじゃない。咄嗟にあとを追おうとした俺の肩を、メルディがぽんぽんと叩いて、にっこり笑う。

「放っておきなさい」

「けど──」

 反論しようとしたが、守護人がすぐ間近まで駆け寄ってきたので、口を噤んだ。

 いつもあまり動揺したところを見せない彼女なのに、今はずいぶんと白っぽい顔色をしている。

「シイナさま、ご無事でしたか」

「そんなことより、傷は大丈夫ですか」

 は? と問い返して、思い出した。ああ、頬の傷のことか。動きに支障のない傷なので、まるで意識にのぼらなかった。

「平気ですよ、掠り傷なんで」

 ちょっとじんじんするが、大した怪我じゃない。刃先を避けそこなって負傷というのは、剣筋が見切れていないという意味でもあるので、あまり自慢にならない──というより、みっともないことだ。俺は恥じ入り、守護人から傷を隠すように身体を斜めにした。

 ……と。


 それを追うように、白い指先が伸びてきた。

 するりと柔らかい感触が頬を撫でる。

 そっと触れて、すぐに離れていったが、その一瞬、全身に痺れが走った。


「…………」

 俺は硬直した。


 守護人が、自分の指先についた血を、じっと眺めている。

 流血には、慣れているはずだ。彼女は今までに何度も、人の死を目の当たりにしてきた。その経験が彼女の心に傷を与えなかったわけではないのだろうけれど、それを表に出すことは一度もなかった──のに。

 どうして、今はそんなにも、苦しそうに顔を歪めているんだろう。

 ……まるで、自分のほうがずっと痛みを覚えているかのように。


「まったく、ちょっと私が離れている隙に、なんでこんな厄介なことになってるんです。みんなして私を除け者にして楽しんじゃって」

 ぶうぶうと不満を並べ立てるメルディの声で、我に返った。

 俺は表情を変えずに、メルディのほうにぎくしゃくと不器用に顔を向けた。思考が完全に停止していたので、顔も身体もほとんど石のように固まって動かなかったのである。中身、つまり頭と心臓が大変なことになりすぎて、かえって外にまで出てこないっていうか。

「誰が楽しんでるんだよ。お前こそ、どこかをぶらぶらほっつき歩いていたと思ったら、美味しいところだけ掻っ攫っていきやがって」

 ハリスさんが忌々しそうに顔を顰めて、言い返す。

「もうちょっとだけ待っていてくれればよかったのに。私が宿屋に戻ったら、ミーシアさんが、みんなたった今出て行ったところだ、って教えてくれたんです。それで二人から事情を聞いて、追って来てみたら、なんだか面白いことになっていてねえ」

 面白くはない。

 メルディのとぼけた文句を聞いているうち、俺はようやく正気づいてきた。そうだ、今は気持ちをあっちこっちに振り乱している場合じゃない。

「ロウガさん、ハリスさん、早くあいつを追わないと。これじゃ、リリアさんに話を聞くどころじゃない」


 リリアさんにどういう思惑があったのか。どうして赤ん坊を攫ったのか。そもそも俺たちに近づいたのは、こうやって罪を被せるのが目的だったのか。

 ──ニコに向けた、温かい微笑みや優しい言葉は、すべて演技だったのか。

 聞きたいことは、たくさんあるんだ。


「せっかちな男は嫌われると言ったでしょう。どこに行くんです?」

 今にも走り出そうとした俺に、メルディが呆れたように言った。

「どこって、だから、さっきメルディが口にした場所……」

 と言いかけ、気づく。よくよく考えたら、赤ん坊を抱いたリリアさんを、たまたまメルディが見かける、なんて偶然があるもんか? もしかして、あれは男をとりあえずこの場から追い払うための、でまかせだったんじゃ?

「やっとそこまで考えが追いつきましたか」

 メルディに、やれやれと首を振られた。なんだか激しくバカにされているような気がするけど、この際棚に置いておこう。それならそれで、一からリリアさんと赤ん坊の行方を探さなければいけないということじゃないか。

 と思って慌てていたら、メルディが朗らかな声で、「じゃあ、行きましょうか」と言った。俺は目を瞬く。

「え、行くって、どこへ?」

「決まってるでしょう、そのカントスの民に会うんですよ。ニコがテトで嗅いだのと同じ甘い匂い、というのにも非常に興味をそそられますしね」

「だから、これからリリアさんを探すんだろ?」

「さっき見たと言ったじゃないですか。宿屋の近くでね。赤ん坊を抱いて、まっすぐ門へ向かっていましたよ」

「宿屋の近くって、それ、さっきあいつに言ったのとは全然別の方向じゃ」

「どうして私が、見ず知らずの男に、タダで情報を渡してやらなきゃならないんです?」

 メルディは真顔でそう言いきると、さっさと踵を返して、歩きはじめた。

 唖然としてから、急いでその背中を追い、はー、とため息をつく。

「……なんか、疲れた……」

 げっそりして呟いた俺の肩を、ハリスさんがしたり顔で、「だろ? だろ?」とうんうん頷きながら何度も叩いてきた。

 守護人は、さっきからずっと黙ったまま、下を向いて足だけを動かしている。



          ***



 国境門の前で待ち構えていた俺たちを見たリリアさんは、困ったように眉を下げ、儚げに微笑んだ。

 彼女の腕には、しっかりと大事そうに、赤ん坊が抱え込まれている。赤茶色の髪の赤ん坊。夫もカントスの民だったというリリアさんからは、決して生まれることのないニーヴァ国民の色だ。

 赤ん坊は、リリアさんの腕の中で、すやすやと眠っているようだった。昼間見た時の、真っ白で上等そうな布ではなく、端切れを繋ぎ合わせた柔らかそうな布にふんわりと包まれている。

「……なぜ、先回りできたのかしら。私、誰にも何も言わずに街を出たのに」

 リリアさんの声も表情も、穏やかだった。ニコの手を取り、「元気を出して」と優しく言った時と何も変わらない。

「あんたが門のほうへ向かったのを、見ていた人間がいたんだよ。さして金もない女が、赤ん坊を攫い、トルティックの街を出て、どこへ行くとなったら、故郷に向かうしかないだろう。そりゃ、赤ん坊連れの女よりは、馬のほうが早いさ」

 ハリスさんの言葉に、リリアさんは静かに頷いた。

「そうですね……それしか、思い浮かびませんでした。カントスに帰って、この子と二人で人生をやり直そうと」

 そう言って、愛しげに腕の中の眠る赤ん坊を見やる。彼女は、赤ん坊の他には、身の回りのものだけを詰め込んだような、小さな荷物しか持っていなかった。

 トルティックの街にある、夫と子供の思い出が染み込んだ家と品々を捨ててでも、リリアさんは故郷でもう一度、やり直そうとしていたんだろうか。


 他人から奪った赤ん坊と、二人で。


「……最初から、ニコを利用するつもりだったんですか」

 俺が問うと、リリアさんは悲しそうな顔をした。

「ごめんなさいね。あの子には、悪いことをしました。このことを知ったら、また傷ついてしまいますね。……少しだけ、そちらに彼らの目を向けさせて、時間を稼ぐつもりだったんです。私があの街を出て、カントスに向かうまでの時間を。ええ、そういう意味では、間違いなく私はあなた方を利用しました。申し訳ありません」

 殊勝に頭を下げられて、俺の中の苛立ちは余計に膨れ上がった。リリアさんは、自分がしたことが悪いことだと自覚している。申し訳ない、と謝罪しているのも本心なのだろう。けど。

 けど──この人は、まったくそれを後悔していない。

「どうして、こんなこと」

 思わず声を荒げると、リリアさんは「どうしてって」と不思議そうに首を傾げた。


「この子が、気の毒だからに決まっているではないですか」

「な……」


 当然のように返されて、絶句する。

 言い訳でも、弁解でもなく、リリアさんはその言葉を、ただの事実を述べるように口にした。赤ん坊に向ける眼差しは、どこまでも優しく慈悲深いもので、俺は背中が冷たくなった。

「いくら裕福でも、あんなにも傲慢で、人を人とも思わぬ母親の許で育っては、あまりにも可哀想でしょう? あの母親、自分の子供だというのに、抱きもしないし、笑いかけもしないんですもの。近くにいるのだって、子供に暴力を振るって平然としている護衛と、ただの置き物のような乳母だけだなんて。あれではきっと、この子の性格まで歪んでしまいます」

 可哀想にね、とリリアさんが赤ん坊に囁く。

「……ですから私が、救ってあげるんです、この子を。死んだ子の代わりに、たっぷり愛情を注いで、可愛がって、いつも一緒にいて、幸せにしてあげるんです」

 リリアさんの目が焦点を失った。視線がふわりと彷徨う。顔に乗っているのは、柔らかく、幸福そうな笑みだ。彼女はその表情のまま、赤ん坊に繰り返し、言いきかせているのだった。

 私があなたを救ってあげる、と。


 ぞっとした。


「──リンシンという男を知っているか?」

 ロウガさんが硬い口調で訊ねた。きっと俺と同じように、ひやりとしたものを感じているのだろう。テトにいた連中と同じだ。今のリリアさんは、なんともいえない不気味さを身にまとっている。

 リリアさんは顔を上げ、ロウガさんを見た。その瞳は、もうさっきまでの危うい色合いは帯びていない。テトにいた連中と違うのはここだ。リリアさんが「その顔」を表に出すのは一瞬。それを裡に閉じ込めておけるくらいの理性を、まだ彼女は持っている。

 俺たちに対して、楽しげに夫や子供の話をした時のように。ニコの手を包み、笑いかけて温かい言葉をかけた時のように。


 ──まだ、彼女の中には、「本来のリリアさん」が、残っている。


「ええ、知っています」

 リリアさんは、あっさりと肯った。

「リンシンは、あなたに何を言った? あいつは何をしようとしている? どんな話をしたんだ?」

 畳み掛けるロウガさんに、リリアさんは少し可笑しそうに笑った。

「知っているといっても、あの灰色の髪の方のことは、私も詳しくは存じません。お会いしたのは、夫と子供を亡くして、一人で放心していた頃でしたでしょうか。話といっても、これといって特別なことは何も」

 そんなはずはない、とロウガさんが言いかけるのを遮るように、「……ただ」とぽつりと言った。

「そうですね、ただ、大事なことを教わりました」

「大事なこと?」

 俺たちは一斉に身を乗り出した。リリアさんが、ふふ、と微笑する。

 真っ赤に染まる夕日に照らされた彼女は、まるで人とは違う生き物のようにも見えた。


苦しみから(・・・・・)解き放たれる方法を(・・・・・・・・・)


 その時、守護人がゆっくりと前に出てきた。

「……赤ちゃんを、お母さんに返しましょう、リリアさん」

 静かな声だった。説得する、というような気負った響きはまったくない。言い方は淡々としていたが、守護人が目の前の女性に向ける瞳には、労わるような光が灯っていた。

 リリアさんの顔から、笑みが消えた。

「いやです」

「その子が幸せかどうかは、リリアさんが決めることじゃありません」

「いやです」

「大事な人たちを失って、苦しかったんですね。でもその苦しみは、消えたわけではないでしょう?」

 その言葉に、リリアさんは驚いたように目を大きく見開いた。俺も驚いた。守護人は、何を言おうとしてるんだ?

「私は……」

「何をしようと、どうしようと、消えることはない。すべてを忘れてしまわない限り、胸の中に在り続ける。それはずっと、死ぬまで、背負い続けていかなきゃならないものなんです」

「そんな……そんなこと」

 今まで迷いのなかった、リリアさんの目線がゆらゆらと揺れた。腕の中の赤ん坊が唯一の拠り所だというように、ぎゅっと強く抱きしめる。

「その子は、リリアさんの子供じゃありません。あなたの子は、もう死んでしまったんです。誰も、その代わりにはなれません。……決して」

 リリアさんは、唇を引き結び、無言で首を横に振った。

「その子を代わりにするというのなら、じゃあ、本当のリリアさんの子は、どうなるんです? リリアさんと、リリアさんの旦那さんとの、楽しい思い出を共有した子──今は風になり、大気になって、あなたを見守っている子は」

 びくりと肩を揺らし、リリアさんがきょろきょろと周囲を見回した。目には見えない、亡くした子供の魂を探すように。

「その赤ちゃんは、リリアさんの記憶の中にある子供の姿と重なることはありません。同じように育てても、同じように愛しても。大きくなるにつれて、その違いは顕著になっていくでしょう。リリアさんはそれを見て、きっと、もっと苦しくなりますよ。それとも、その時は、リリアさんの中にある記憶のほうを、捨ててしまいますか?」

 赤ん坊を抱くリリアさんの手が震えはじめた。

「死んでしまった人は、生き返らない。どうしても、どうやっても。そんなことは、出来ないんです」

 守護人は目を伏せて、まるで自分にも言い聞かせるように、ぽつりと言った。

「……だけど、忘れてしまったら、その時こそ、何もかもが消えてしまう」

 ああ、そうか。

 こんな時なのに、俺はすとんと納得した。


 ──彼女の心の中に住んでいる「誰か」は、もうこの世には、いないんだ。

 すでに死んでしまった人。もう決して会えない人。それが判っていてもなお、彼女の目はその人だけを追い求め、探している。

 苦しみと共に。



 心臓が、何かに掴まれているみたいだった。

 胸に手を置いて、衣服ごとぎゅっと握った。

 頬の傷は誰の目にも見える。でもこの場所の傷は見えない。自分にも、他人にも。

 ハリスさんは、錯覚だと言った。

 ……だったら、この痛みも、このつらさも、錯覚なのか。



「すべてを忘れてしまわない限り、苦しみは消えないと、そう言うのですか」

 顔をくしゃりと歪め、リリアさんが呟いた。

 目線を下げ、腕の中の赤ん坊を見つめる。

 ぽろりと、涙を落とした。

「──夫と子供を一度になくした時、私は、どうして私だけがこんな思いを、と思いました」

 優しく働き者の夫。ようやくお喋りを始めたところだった、可愛い子供。その二人を失った時の、リリアさんの喪失感はどれほど大きかったのだろう。

「二人とも、何ひとつとして、悪いことなんてしていない。私は夫も子供も大好きでした。愛していました。貧しくたって、ずっと幸せだったんです。それなのに、どうして夫と子供は死んでしまったのか。どうして私だけがこんなに苦しまなければならないのか。世の中には、悪人も、情の通わない夫婦も、親に愛されていない子供も、いくらだっているのに、どうしてそちらではなかったのか」

 どうして、他の誰かではなく、自分が、自分ばかりが、こんなにも不幸にならなければならないのか。

 リリアさんはそう思った。泣き悶え、悔やみ、妬み、すべてを呪った。

 やるせない悲しみは、向けどころのない怒りへと変わった。

 苦しくて、苦しくて、苦しくて。

「そんな時、あの人……リンシンさんに会いました」

 赤ん坊の顔に、はらはらと熱い滴が降りかかる。それをまったく気にもせず、気持ちよさそうに眠り続ける姿を見て、リリアさんは泣きながら微笑んだ。

「そんなにも苦しくてたまらないのなら、少しの間だけ、それを忘れてしまえばいい、と彼は言いました。現実なんて見ずに、幸せな夢だけを見て、それに浸っていればいい。僕はその手助けをしてあげられますよ、と」

 自分にとっての美しい夢だけを見ていればいい。

 それの何が、悪いんです?

 リンシンはそう言って、目を細めたのだという。

「……その通りにしたら、とても、楽になれました」

 身を締めつける苦しみが、すうっと和らいでいくようだった、とリリアさんは言った。

「夢の中で、私は幸せでした。二人が死んだということを、忘れてしまいそうでした。そのうち、現実のほうが夢なのではないかと思うようにもなりました。幸せな私は、いつも他の人たちを憐れんでいました。可哀想に、と思うと、なぜかひどく安心したからです」


 あの人たちはあんなにも不幸で、可哀想に。


 でも、と下を向いたまま、小さな声で続けた。

「でも、本当に忘れてしまってはいけないのですね。すべてを忘れてしまうくらいなら、永遠に苦しみ続けているほうがまだマシです」

 そっと、目を閉じる。

「──私は、どこで間違えたのですか」

 守護人が、ぐっと歯を喰いしばり、俯いた。



          ***



 リリアさんは、自分で赤ん坊を返しに行くと言った。

 彼女がしたことは間違いなく犯罪だし、警察に捕まれば、階級の差から考えて、かなり重い罰が下されることが予想できる。なんとか上手に取り成してみるから、と俺たちが言っても、リリアさんはそれを受け入れようとしなかった。

「……あの女性も、きっと今頃は心配して、生きた心地がしていないでしょう。せめて、きちんと謝罪したいのです」

 俺は正直、あのヴィルマという女性が取り乱している姿を想像できなかったのだが、それでも母親なのだし、そんなことを言うのは酷に過ぎるかもしれない。それにリリアさんの事情を話せば、あの女性でも多少は同情心が湧くかもしれない。

 そんなことを思って、トルティックの街に戻り、赤ん坊を抱いて歩くリリアさんのあとを、俺たちもついていった。口添えできるものならいくらでもしよう、という気分もあった。

 が。

 間の悪いことに、母親の許に辿り着くまでに、護衛の男のほうに見つかってしまった。

 男の手には、まだ抜き身の剣が握られたままだ。どうやら、あの後もずっとこの街の中を、赤ん坊を探して走り回っていたらしい。男の顔にある狂気は、さらに強く大きくなっていた。

「お嬢さんっ!」

 男は、リリアさんに抱かれた赤ん坊に目を留めると、驚愕と歓喜の叫び声を上げた。それと同時に、怒りが凝縮したような激しい憎悪の目をリリアさんに向けた。

 ものも言わずに男がこちらに駆けてくる。

 その殺気を感じ取り、俺とロウガさんとハリスさんが剣を抜いた瞬間。

 リリアさんが突然、守護人に抱いていた赤ん坊を押しつけるように渡した。驚いた守護人が咄嗟にそれを受け止めると、ぱっと身を翻して走り出す。


 男のほうへ。


「リリアさん! だめ!」

 守護人が叫ぶ。俺は飛び出すようにその後を追った。

 でも──間に合わなかった。

 リリアさんは、護衛の男が振り下ろした剣に肩口から斜めにばっさりと斬りつけられた。おびただしい量の血が噴き出す。周囲の人々が悲鳴を上げた。男はなおも容赦せず、続けざまに正面からリリアさんの腹部に剣をまっすぐ突き立てた。

 リリアさんの身体がくずおれる。血溜まりの中に、ぱしゃんと倒れ込む音を耳にして、俺たちはその場に立ち尽くすしかなかった。

 男は無表情で剣を振って血を払うと、すぐにこっちに向かってきた。

 守護人を庇って剣を構える俺たちにはまったく頓着せず、無造作に手を伸ばす。蒼白になった守護人が、覚束ない手つきで抱いていた赤ん坊を差し出すと、もぎ取るようにひったくった。

「お嬢さん、ご無事で。ああ、これでヴィルマさまも、俺をお許しくださる」

 男は安堵の息を吐きだし、満面の笑みを浮かべた。

 そして、赤ん坊を片手に抱き、自分が手にかけた女性を振り返ることもせず、一直線に主の許へ走り去った。




「……リリアさん」

 守護人が血だらけの手を取って呼びかける。

 リリアさんは、瞼を上げてわずかに目を開いた。灰色になった顔には、すでにくっきりと死相が現れている。息が続いている分、苦痛は並大抵ではないだろう。心臓を一突きされるよりも、もっと悲惨だ。

「リリアさん」

 血の中に膝をついて、自身も真っ赤に染まりながら、守護人は何度も声をかけ続けた。リリアさんは、ひくひくと引き攣るように、唇を動かしている。もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。

「……こ、れで、よかった、んです」

 喉に何かがからんだような、かすかな声で、彼女は言った。

「ニ、ニコという子に、ごめんなさいと、伝えて、ください」

 それだけが心残りだというように、眉を下げる。

「これで、や、やっと、夫、と、こ、子供に会えます」

「…………」

 彼女の手を握っている守護人が、何かを言った。でも、あまりにも小さな声で、何を言ったか、俺には聞こえなかった。リリアさんにも、聞こえなかっただろう。

 彼女の死に顔は、「本当に」幸福そうに、微笑んでいた。



      (第十一章・終)






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