4.忠告
「このすぐ近く」、とリリアという女性は言ったが、実際には彼女の家は、往来から少し離れ、家と家との間の狭い道を通り抜けた先の、奥まったところにあった。
街を取り囲む高い壁がすぐ間近に迫っているその場所は、一般的に、街の端と呼ばれる区域だ。小さな家々が密集して建てられている上に、部屋に入りきらない生活用品などが無造作に外に放り出されていたりするので、余計に雑然とした雰囲気に満ちている。交易の街とはいえ、こういう光景は、他の街とそう大差はないらしい。
「ここですの、どうぞ」
リリアさんが招き入れてくれた家も、やっぱり他と同様に小さいものだった。俺たちは、その建物の丸っこい屋根を珍しげに眺めながら、中に足を踏み入れた。
もちろん部屋は決して広いものではなかったが、家具が非常に少ないので、その分がらんとして見える。目立つものといえば、ちんまりとした丸い卓と、二脚の椅子くらい。リリアさんの勧めに従い、その椅子に守護人とニコを座らせて、俺たちは立っていることにした。
わずかにある家具は、この家と同じように、ニーヴァのものとは少々外観が異なっている。きっと、カントスのものなのだろう。ここだけを見れば、確かに異国にいるような気分になる。
部屋には、ふんわりと甘い香りが、わずかに漂っていた。
食べ物、の匂いじゃないな。花だろうか。でも、どこにも花が飾られている様子はないんだけど。
椅子に座ったニコは、まだ落ち込んでいるのか、下を向いてうな垂れたまま、じっとして動かない。
「ここに、お一人で?」
傷の手当てのための薬や布を取り出し、卓の上に置くリリアさんに、ハリスさんが問いかけた。
俺が同じことを聞いたら疑念が強く出てしまいそうなその質問だが、さすがにハリスさんは上手い。あくまでも世間話のついでのような、さらりとした言い方だった。
──だって、さ。
何か変な感じなんだよな。家具が少ない、飾り気もない、というのは階級が下のほうの家ではよくあることだから、まだ判る。でも一人暮らしにしては、台所にある調理器具が充実していて、食器の類も複数ある。とはいえ部屋の中は妙に寒々として、彼女以外の住人がいるような気配がない。
掃除はきちんとされているようで室内は清潔なのだが、全体的にひっそりとして暗いのは、なにも窓からあまり陽が射し入らないことばかりが原因ではなさそうだった。
「今は、一人です」
ハリスさんの問いに対するリリアさんの返事には含みがあった。ニコの手当てをミーシアに任せると、今度はお茶を淹れるためにか、台所に向かう。
そこに立って、カチャカチャと音をさせながら、彼女はこちらには顔を向けずに、静かに続けた。
「夫と子供がいたのですが、事故で亡くしてしまいましたの」
その答えに、ああ、と納得した。そういうことなら、この家とリリアさんを覆う、なんとなく寂しげな空気も理解できる。
俺は失礼にならないよう、さりげなく室内を見回した。よくよく見てみれば、家族の思い出の品らしきものが、ちらほらと目に入る。
部屋の隅の棚にある、無骨な形状の彫り物用の刃物。窓辺に置かれた籠の中の、途中で放置されたままの小さな編み物。
リリアさんの夫は、彫り物を生業にしている人だったのかもしれない。そして二人の間の子供は、まだうんと幼かったのかもしれない。彼女はその二人を、いっぺんに失ってしまったのか。
「家族三人で、カントスから、このニーヴァに来て、少し経った頃のことでした。早いところ仕事を軌道に乗せて、いつかは子供に首都を見せてあげようと、張り切っていたのですけど」
人数分のお茶を運んできたリリアさんが、悲しげな微笑を浮かべて言った。編み物の入った籠に向ける優しい眼差しは、すでに諦めの色に包まれている。夫と子供の死をもう受け入れてはいるけれど、彼女は多分、どうしてもその編みかけの小さな衣類を、片付けてしまうことは出来なかったのだ。
「すると、ご主人もカントスの方なんですね」
立ったまま、お茶の入った器を手にして、ハリスさんが慮るような口調で言う。この人の場合、どこまで本気で慮ってるのかは怪しいもんだけど、それでもきっと、俺やロウガさんがヘタクソな相槌を打つよりは、リリアさんの心をほどく効果はあったのだろう。
「ええ」
と頷く彼女の声が、懐かしさと愛しさに彩られ、少し明るくなった。
「私と夫は、十八の時に知り合って──」
と、二人の出会いから結婚に至る経緯などを、ハリスさんに促されるまま話し出す。口を動かしているうちに、当時の感情が甦ってきたのか、頬がうっすらと紅潮しはじめて、そのまま止まらなくなった。目線を遠くに飛ばして、夫と子供のことを喋り続ける彼女は、守護人が椅子を譲って自分を座らせたことにも気がつかないほどだった。
しばらくして、ようやく、はっと我に返ったように口に手を当てた。
「まあ、いやだ。私ったら、つい夢中になって……申し訳ございません」
今になって、自分が椅子に腰を下ろしていることにも気づいたのか、ぱっと赤くなり慌てて立ち上がる。気まずさを取り繕うように、手当てを終えたニコの傍らで膝を折った。
「まだ痛い? お菓子はないのだけど、冷たい飲み物はあるのよ、どう?」
ニコは、びくっと肩を揺らして、顔を上げた。リリアさんと一瞬目を合わせたかと思うと、また俯いて、ぶるぶると勢いよく首を横に振る。人懐っこいニコにしては、珍しい態度だ。まださっきのことから、立ち直れていないんだろうか。
顔色も、青いままだ。
リリアさんは、同情の眼差しをニコに向けた。
「大変だったわね。でも、あまり気にしないで。ああいう人たちは、結局は自分のことしか考えられない、気の毒な人たちなの。みんなが、あんな傲慢な考えを持っているわけではないわ」
彼女が子供にかける目つきも声音も優しいものだ。口調は柔らかく、言葉には真情がこもっている。
「──本当に、可哀想な人たち。あの女性も、あの護衛も、あんな人々に囲まれて育つことになる、あの子供も」
ぽつりと言って、微笑を浮かべた。
その瞬間、背中に悪寒が走った。
「……?」
なんだろう。今、ものすごい違和感が駆け抜けたんだけど、それが何なのかよく判らない。
咄嗟に他のみんなを見回してみたが、俺以外には誰一人、訝しさを覚えた人間はいないようだった。ミーシアはともかく、守護人も、ロウガさんも、ハリスさんもだ。何かを感じとっていれば、表には出さなくても、緊張感は伝わる。でも、その場の空気には、針で引っ掻いたほどの乱れもなかった。
視線を戻してみれば、リリアさんはニコの手に自分の手を重ね、慰めの言葉を出し続けていた。そこには、夫と子供を失った、寂しい身の上の一人の女性の姿以外のものを見いだすことは出来ない。
「彼らはこの街の住人ではないのですか」
「ええ、あなた方と同じく、旅の途中でここに立ち寄ったのでしょう。この街には、ニーヴァではなかなか手に入らない、カントスの珍しい品が多くありますから。上の方々は、そういうものを買い求めるために、よくいらっしゃるのですよ」
ロウガさんが訊ね、リリアさんが答える。何事もなく和やかに、時間が流れていく。こうなると、自分が何をどうおかしいと思ったのか、ますます判らなくなってくる。
俺は一瞬感じた違和感の正体を掴めないまま、それを胸の奥に押し込める他なかった。
「あなたも、元気を出して。灰色の髪だからといって、なにも恥じることなんてないんですもの。偏見に負けてはいけませんよ」
子供がいたというだけあって、リリアさんは母親のような顔をしてそう言い、ニコの手をそっと両手で包んだ。ニコは下を向きながら消えそうな声で、うん、と返事をするだけだ。
……その手が、小刻みに震えている。
俺はそれに気づいた。守護人も気づいたのだろう、かすかに眉を寄せた。
「こんな子供に、盗人の嫌疑をかけるなんて、ひどいこと。……ねえ、もしよかったら、その人形、私が預かっておきましょうか? あなたにとっても嫌な記憶に繋がるものでしょうし、私は街の中の店で働いているから、機会があれば、あの赤ん坊に返してあげることも出来るかもしれないわ」
小さな手の中に、今もまだ問題の人形が握られていることに気づいたのか、リリアさんは労わるような目になってそう提案した。
ニコは、自分がまだ人形を持っていることを、今になって思い出したらしい。びっくりしたように目を真ん丸にして、それを見た。
その人形は、返すことも出来ず、捨てることも出来ないという、厄介な代物だ。それを見るたび、ニコは悲しい気持ちになるだろうし、自分は悪いことをしていないのに、どこか後ろめたいような思いもするだろう。実際に返されるかどうかはともかく、第三者の手にあったほうがいいのかもしれない。
だからニコが、差し出された掌の上に人形を置くのを、誰も止めはしなかった。
「じゃあ、そろそろ失礼します。ありがとうございました」
人形がニコからリリアさんの手に渡るのを見届けてから、守護人が口を開き、礼を述べた。すっかり委縮しているニコの様子を見て、早くここを出たほうがいい、と判断したのだろう。俺もそう思う。
「まあ、もう?」
少し残念そうに頬に手を当てリリアさんは言ったが、ニコはほっとしたように息をついた。
家を辞去する際に、ロウガさんが、わずかばかりだがお礼を、と申し出た。でもリリアさんは、それを決して受け取ろうとはしなかった。
そんなつもりで声をかけたわけではないのですから──と、穏やかだがきっぱりした口調で、彼女は言った。
***
それから一度、宿屋に戻ることにした。
メルディはまだ姿を見せない。けれど守護人とハリスさんは、それをまったく気にする素振りもなかった。密偵とはいえ若い女性なんだし、もうちょっと心配したっていいんじゃないかと思うんだけどなあ。
ミーシアは、元気のないニコを連れて近くの店に買い物に行くと言い、ロウガさんがその供をすることになって出かけて行った。守護人は部屋で彼らを待つと言うので、俺はそちらにつくことにする。
しかし、一旦部屋に入った守護人は、どういうわけか、またすぐに扉を開けて、廊下に飛び出してきた。
「どうしました?」
驚いた俺が問いただしても、なかなか返事が返ってこない。肩で大きく息をして、呼吸を整えているが、どうして部屋に入っただけでそんなにも息を乱しているのか判らず、俺は困惑するばかりだ。
……なんか、こういうこと、何度かあるよな。宿屋の部屋に、まだ慣れないんだろうか。
「なんでもありません」
とか言いながら、眉を吊り上げて、部屋の扉を思いきりドカッと蹴飛ばしてるし。なにやってんだ?
「もしかして、また虫が出たとか」
「もしかしたらそんなようなものかもしれません」
「はあ……?」
なんなんだ、その曖昧な返事は。
守護人は顔をこちらに向け、ぽかんとしている俺を見た。
それから──俺の気のせいかもしれないけど──ほんの少し、ほっとしたように表情を緩めた。
「トウイさん、ちょっと」
「はい」
手招きされて寄っていくと、守護人は俺を扉の前に立たせて、「ちょっとここにいてください」と言った。
「はあ」
「動いちゃいけませんよ」
「……はあ」
訳が判らないまま言うとおりにしていると、守護人はゆっくりと部屋の扉を大きく開けた。今入ったばかりなのに、どうして、そんな風に警戒するように開ける必要があるんだろう。
開いた扉の向こうには、寝台が並んだ普通の宿屋の一室がある。というか、それしかない。マオールやゲナウほどではないものの、旅人が多い街だけあって、質素だがそれなりにちゃんとした部屋だ。
守護人はしばらく黙ってそれを眺めてから、ふー、と大きな息を吐きだした。
「ここはトルティックの宿屋ですね」
「……そうですね」
「それでいいです。では、わたしはちょっと休みます」
「……あの」
「トウイさんも部屋で休んでください。じゃあ」
「…………」
こちらから訊ねる隙も与えずに、守護人はそれだけ言うと、再びパタンと扉を閉めてしまった。
「???」
俺はその扉を見て、首を捻るしかない。
……相変わらず、変わってるよな。
守護人の言葉に従って部屋でのんびり休む気にはならなかったので、俺は閉じられた扉の前の廊下に座り込んだ。
壁にもたれ、頭の後ろで手を組む。と、階段を上る足音が聞こえて、廊下の向こうから、ハリスさんがやって来た。
床に腰を下ろした俺の近くで足を止め、見下ろしてくる。
「シイナさまは?」
「少し休むそうですよ」
「そうか。なら、ここは俺に任せて、お前も部屋で休んでろよ。疲れてんだろ?」
「大丈夫ですってば」
反論すると、ハリスさんは鼻を鳴らして、腰を屈めた。ちらりと部屋の扉を見やってから、またこちらに顔を戻し、声を潜める。
「バタバタ動き続ける手足を三本か四本余分にくっつけてるような、せわしない性格のあの守護人が、ミーシアとニコだけを行かせてここに残ったのは、何のためだと思ってんだ? 判りにくい気の遣い方だが、あれで一応、お前の身体のことを案じてるんだぜ。その意を汲んで、休んでおけよ」
ハリスさんの言い方も、大概遠慮がないよなあ。
「判ってますけど、今はのんびり寛ぐ気になれないんですよ」
「なんだよ、まだ、ニコのことで腹を立ててんのか」
うん、それもある。それだけではないけど、それもある。未だに、あの護衛の男の顔を思い出すと、腸が煮えくり返るくらいだ。
「あいつ、あんなに感情的で、護衛が務まるんですかね」
「お前が言うな」
文句を言ったら、ぶはっと勢いよく噴き出された。そりゃ、俺だって決して冷静沈着なほうではないけど。でも、あそこまでじゃない──と思う。そう思いたい。
「ま、護衛対象に惚れちまった時点で、護衛失格ってことさ」
「え」
軽く出された言葉に、俺は目を見開いた。ハリスさんは俺のその反応に、かえって驚いたように見返してきた。結果、二人でまじまじと見つめ合うことになった。男同士でこんなことしたって、ちっとも嬉しくない。
「なんだよ、気づかなかったのか? 呆れるくらいニブいやつだな」
呆れるというより、ハリスさんは感心するように言った。
「だって、相手は旦那がいるんでしょ? 子供だって」
しかもその旦那は、きっとかなり身分が高く、権力も金も持ち合わせている人物だ。とてもじゃないが、護衛を仕事にするような男が、張り合える相手ではない。
それにあのヴィルマという女性──何に対してもまったく興味も関心も抱かなさそうな、下手をすると護衛の名前さえ知らないと言いきりそうな、そんな雰囲気の人だった。ニコが拾った玩具を「汚らわしい」と表現した時のあの表情、あの口調からして、日常、自分よりも身分の低い相手にどういう態度をとっているかくらいは、推し量れる。
そんな女性を?
俺が疑問を顔に丸出しにしていたせいか、ハリスさんは肩を竦めた。
「護衛ってのは、どんな相手であろうと、対象に情が湧きやすいもんさ。そりゃ普段からべったり近くにいて、いざ事が起こりゃ、我が身を挺してでも護らなきゃならないんだからな。そのうち、護衛としての仕事と、自分の気持ちが入り混じって、特別な存在だって錯覚に陥るやつもいる」
「──錯覚」
俺が呟くと、ハリスさんは強い口調になって、「錯覚だ」と断言した。
「仕事だから護ってるに過ぎないのに、そばにいるうち、大事だから護る、って取り違えるようになるんだよ。あの男みたいに、崇拝する目で相手を見たりする。それがひどくなると、恋だの愛だのとトチ狂って、冷静な判断力を失い、自滅する羽目になる馬鹿もいる。──けどそんなもんは、ただの錯覚なんだ。そう思うことで、護衛としての自分に意味や意義を見つけようとしているだけだ。ただの仕事だと割り切ることが出来なくなったら、そいつはもう護衛でもなんでもないんだよ」
ハリスさんの鋭い視線が、こちらに向けられる。
「いいな、トウイ」
「…………」
確認するように言われて、俺は目を伏せ、黙って頷いた。
──と、その時。
バタバタと新たな足音がして、買い物に出かけたはずの、ニコを連れたミーシアと、ロウガさんが姿を現した。
ミーシアは、心配そうにニコを見やっている。ニコはぐしゃぐしゃに泣き崩れていた。
「どうしたんだ、ニコ。また何か……」
言いがかりでもつけられたのか、と俺は立ち上がった。自分の両腕で、流している涙を押さえているニコは、よく顔が見えない。二人の後ろにいるロウガさんに目をやると、こちらは困ったように眉を寄せて、首を傾げるだけだった。
「……俺にもよく判らん。ずっと黙りこくっていたかと思うと、いきなり泣き出してな。ミーシアが何を言っても、首を振るばかりだ。トウイとシイナさまに言わなきゃ、としか答えないから、連れ帰ったんだが」
「どうしました?」
声が聞こえたのか、部屋の扉が開いて、守護人が顔を覗かせた。たたっとそちらに駆け寄り、いきなりしがみついてきたニコに、驚いたように目を瞬く。
「どうしたの? ニコ」
「シイナさま、シイナさま、あのね」
ニコは泣きながら、顔を守護人の身体に押しつけた。その頭に手を置いて、ぽんぽんと軽く撫でてやりながら、守護人が「うん」と返事をする。いつもの動じない声に安心したのか、ニコは勢いよく鼻を啜って、泣き声を抑える努力をした。
「……あ、あの人、いい人、なの?」
唐突な質問に、守護人が戸惑っているのが判った。
「あの人?」
「さっきの、女の人」
「リリアさんのこと?」
訊ねられ、ニコはこっくりと頷いた。
守護人は、一旦自分にへばりついたニコを離すと、改めて膝を折り曲げ、目線を同じ高さまで持っていった。
「ニコには、そうは見えなかった?」
「わ、わからない。いい人、なのかな? だったら、オレが、間違ってるのかな? こんなにも、怖いと思う、オレが悪いのかな?」
ニコはしゃくりあげ、つっかえながら言葉を出した。リリアさんの家にいる間中、この子供がずっと顔色悪く、びくびくしていたことを思い出す。手も震えていた。じゃああれは、その前の出来事が原因ではなく、目の前にいるリリアさんに対する怯えから来ていたものだったのか。
……何が、そんなにも怖かったんだ?
「ニコがそう思ったことに、嘘はないんでしょ? どうして怖いと思ったのか、その理由は自分でわかる?」
守護人の声にも表情にも波はない。しかし、目許のあたりは引き締まっている。
ニコはまた、こっくりと頷いた。
「に……匂いが」
「匂い?」
守護人がそう言って、素早くこちらに目を向けた。頷いたのは、俺だけじゃない。リリアさんの家の中には、花のような甘い香りが漂っていた。花はどこにも見当たらなかったのに。
「あの、匂い」
ニコはごくんと唾を飲み、それから吐き出すように一気に言葉を続けた。
「同じ、だったんだ。テ、テトにいたやつらが、『お祈りの時間』の時、祭壇で、必ず細い枝を焚いてた。細かく削って、火をつけると、すごく甘い匂いがする。あ、あの匂いと、まったく、同じなんだ……!」
叫ぶように言ってから、ニコは大きな声で泣き出した。
その時、俺は自分が覚えた違和感の正体を悟った。
──本当に、可哀想な人たち。
そう言いながら、リリアさんの唇は、微笑をかたどっていた。でもそれは、それまでのような、気弱で寂しげなものではなかった。俺たちに向けていた、温かな思いやりが含まれたものでもない。
あまりにも、その台詞にはそぐわない──
幸せそうな、笑みだった。
瞳が焦点を失い虚ろに彷徨う。それでもどこか夢見るように、リリアさんはあの時、うっとりと笑ったのだ。
ほんの一瞬、ほんの刹那のことで、彼女はすぐにその顔を消し去ってしまったけれど、俺は確かにそれを見た。
だから、寒気を感じたんだ。他のみんなが気づかなくても無理はない。だって、それを知ってるのは俺だけ。話を交わし、この目で見たのも、俺だけ。あの時、守護人は離れた位置にいて、ロウガさんもハリスさんもいなかった。
「誰も、何も、怖くない」と言って笑った、テトの男。
リリアさんが浮かべていた笑みは、あれとそっくりだった。
***
もしかしたらニコの思い違いということも考えられるし、ただの偶然の一致である可能性も高い。
しかし時間を置いてからにしようというほど呑気な気分にはなれず、なにより守護人が放っておいたらさっさと一人で行ってしまいそうだったので、ニコとミーシアを宿屋の部屋に残して、俺たちは再びリリアさんの家へ向かった。
が、何度呼びかけても、返答がない。
「働いてるということだったし、仕事に行ってるのかもしれませんね」
「店、と言っていたが……どこの店かまでは聞かなかったな」
「仕事先が判ったとしても、押しかけて話を聞くわけには」
ということで、やむなくまた引き返すことになった。メルディがいれば何か情報を掴んできてくれたかもしれないなあ、と俺が思ったことをハリスさんも思ったのか、「まったく肝心な時に役に立たない密偵だな」とぶつぶつ言う。
そろそろ、空が赤く染まりだしてきていた。
「今頃はもう戻ってきている頃かもしれません。夜になったらまた行ってみるか、それとも明日にするか、みんなで考えて──」
と言いかけた守護人の口が止まる。
その理由は、俺にも判った。
リリアさんの家から離れ、もと来た道を戻るために通りを歩いていた俺たちの許へ、一直線に突進してくる人物がいる。
そいつは俺たちを見つけると、走りながら腰の剣を抜いた。
俺たち三人も一斉にさっと身構え、それぞれ剣を抜く。守護人が、強張った顔つきで前に出ようとしたので、ロウガさんとハリスさんが前後に立ってその動きを封じた。
ヴィルマという女性の護衛は、ものも言わずにいきなり剣を振り下ろしてきた。俺はそれを、自分の剣で受け止めた。ギイン、という金属質の音が響いて、そこらを歩いていた通行人たちが仰天したように悲鳴を上げ、逃げだしていく。
「……なんの真似だ」
剣を受けながら、俺は喰いしばった歯の間から問いを絞り出した。向かってくる剣の勢いと重さは、相手の本気を示している。この男がどういうつもりでこんなことをするのか、さっぱり判らない。今になって、意趣返しをする意味がどこにあるのか。
「どこ、だ」
間近に迫った男の形相は、明らかに尋常ではなかった。目はぎらぎらと血走り、呼吸は荒く、髪もぼうぼうに乱れている。ニコと守護人に対して剣を向けて怒鳴っていた時、この男は怒ってはいたが、それでもまだ余裕を感じた。今はそれがまったくない。
俺の声も耳に届かないのか、どこだ、どこだ、と何度も繰り返す。口からは泡を吹き、唾を飛ばして、男は真っ赤な顔で喚き続けていた。
まるで、狂人だ。
「どこだ、って何だ」
まだニコに対して因縁をつける気か、と思ったが、男が叫んだ言葉はそんな予想を遙かに超えていた。
「お、お嬢さん、を、ヴィルマさまの、子を、どこにやった!」
「なんだと?」
問い返したが、あちらからの圧力はちっとも弱まらない。とにかく遮二無二力押しをしてくるので、受けるだけで精一杯だ。男の柄を握る手は、力が込められすぎて、ぶるぶると震え、白い筋が浮き出ている。
俺の額にも、玉のような汗が噴き出してきた。理性を失った相手は、次にどういう行動に出るのかまるで判らないから力が抜けない。なまじ、一応の腕はある相手なら、なおさら。
「なんの話だ」
「とぼけるな!!」
男が絶叫した。
「お嬢さんがいなくなった! どこに攫った?! お前らの仕業だろうが! 近くにこれが落ちていたんだぞ!」
剣を握るのとは反対の手に握っていたものを、俺に向けて突き出してくる。
それは、ニコがリリアさんに渡した、カラカラと音の鳴る人形だった。