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3.冤罪



 交易の街トルティックは、メルディの言葉どおり、活気のあるところであるらしい。

 到着する前、馬で徐々に近づいていった時から、それが判るほどだった。そこは他の街と同じように周りがぐるりと壁で囲まれているものの、それでさえ、中にいる人々のざわざわとした喧噪が伝わってくるからである。

 子供たちの甲高い声や、男性が何かを大きく呼び止める声、どこかで鳴らされている鐘の音などが、どれも明るくこちらの耳に届く。その陽気な雰囲気は、テトやサザニでは決して感じられなかったものだ。

 街へと通じる門のあたりでは、今まさに入ろうとしている人や、出て行く人、何をしているのかは知らないが立ち止まっている人の姿が見える。

 彼らの顔つきは一様に活力に満ちていて、このところそういうものにお目にかかれなかったためもあり、ひどく安心させられた。



 一歩街の中へ入ってみて、俺は思わず、「へえ」と声を上げた。

 トルティックは、俺が知っているどの街とも、少しばかり違っていた。入ってすぐのところからいきなり店が並んでいるのもそうだが、なにより、あちこちにある建物の形が変わっている。他の街では同じような大きさ、同じような四角い石の家が並んでいるところだが、ここではその中に、見慣れない丸っこい屋根のついた家が混じっているのだ。

 多分、あれはカントスの建築様式なのだろう。大きな火山が国の真ん中にあるカントスでは、小規模な噴火があるたび灰が積もり、その重みで建物に負荷がかかるのだという。だからなるべくそれを防ぐように、平面ではなく丸みを帯びた屋根がついている、と聞いたことがある。

 そしてもちろん建物だけではなく、カントスの民も、トルティックの街中ではよく見かけた。カントス国民はニーヴァ国民と似たような赤色の髪と瞳を持っていることが多いのだが、こちらの赤茶色とは違い、あちらは燃えている炎のような鮮やかな色だから、比べてみれば一目で判る。

 店先には、カントスのものなのだろう見慣れない品物がずらりと並び、その店の前で台に座って客と話をしているのはカントスの民だ。トルティックの街では、旅人としてだけではなく、住人としても、かの国の民を受け入れているらしい。


「まるで異国に来たようですね、シイナさま」


 街に入ってすぐ、厩のある宿屋を見つけて馬を預け、しかしまだ陽が高いからとあたりを巡ってみることにしたのだが、ミーシアの口から出るのは、そんな感嘆の言葉とため息ばかりだった。

「そうですね。今までの街とは、ちょっと違う感じがします」

 いちいち驚いたり声を上げたりするミーシアに対し、守護人はさほどの感銘は覚えないようで、相槌は打つものの、その表情も口調もいつも通り変化もなく淡々としている。まあ、そりゃ無理もないか。彼女にとってはこの世界そのものが、「異国」なんだからな。ましてや、ニーヴァの街だって、そんなにたくさん知っているわけでもない。

「あれ、なんだろ。食べ物かな?」

 他の街をいくつも知っているわけではないのはニコも同じだと思うが、こちらはもう、入る前から好奇心いっぱいの顔つきをしていた。その好奇心はおもに、食べ物方面にばかり向かっているのだが、きょろきょろと周囲を見回しては、あれを指し、これを訊ね、並んでいる店をちょろちょろと走り回っては覗いている。守護人はむしろ街の様子よりも、そちらのほうを気にしているようだった。

「ねえシイナさま、あっちのほう見てきてもいーい?」

「一人で行くと迷子になりそうだからだめ。みんなで順番に見ていこう」

「はあい」

 素直に返事はするのだが、守護人の注意がちゃんと耳に入っているのかどうか。俺たちの歩くペースがゆっくりめのため、ニコはずっと、いかにもうずうずとした顔で足踏みをしている。ちょっと目を離すと、何かに引きつけられて一直線に走って行ってしまいそうだ。

 守護人は小さな息を吐きながらその様子を眺めて、今度は俺のほうを振り返った。

「トウイさんは、大丈夫ですか」

「は?」

 問われた意味が判らなくて、首を傾げる。大丈夫かって、何が?

「俺は別に、いきなり走り出して迷子になったりはしませんけど」

「誰がそんなことを言いました」

 だってその目、ニコを見る目と同じじゃないか。

「疲れているなら、宿屋で休んでいたほうがいいんじゃないですか」

「…………」

 少し黙ってから、俺は自分の顔を掌でざっと撫でた。

「──そんなに俺、疲れているように見えます?」

「見えます」

 確認してみたら、きっぱりと断言された。

 他のみんなにも視線をやると、言葉にはしないものの、小さく頷かれたり、軽く肩を竦められたりした。少なくとも、誰ひとり、守護人の意見に異を唱えてくれる人はいないらしい。

「すみません、大丈夫ですから」

 俺は背中と声に力を入れ、しっかりと返事をした。

 ダメだな、守護人を護る立場でありながら、こちらのほうがニコのように気遣われていては意味がない。

 本当にそれじゃ、意味がない。


 ……今の俺は、護衛として、彼女の傍らに在るのだから。


「すみません」

 もう一度、同じ言葉を繰り返す。守護人は俺の顔を見て、何かを言いかけたが、思い直したように口を閉じ、目を逸らした。

「……あれ」

 そして、他の場所へと向けたその目を、見開いた。

「ニコがいない」



          ***



 ニコがどこかに消えた、ということがはっきりすると、途端にオロオロしたのはミーシアだ。

「ま、まあ、どうしましょう。私がよく見ていなかったから」

 今にも駆けだして探しに行きそうなのを、ロウガさんが「落ち着け」と腕を掴んで引き留める。この上ミーシアの姿まで見失って、サザニの二の舞にでもなったりしたら、目も当てられない。

「まったく落ち着きのないガキだな」

 やれやれという風情でため息をついたのはハリスさん。メルディは単独で動くと言って宿屋の前で別れたため、この場にはいない。

「仕方ない、二手に分かれて探そう。トウイとハリスはシイナさまに付いていてくれ。サザニほど危険があるとは思えないが、注意は怠るなよ」

 この間と違い、今回はまず間違いなくニコが勝手にはぐれたと思われるので、ロウガさんも冷静だ。俺とハリスさんは了解の返事をして、すでに足早に歩きはじめている守護人の後を追った。



「もう少し、厳しく言い含めておいたほうがよかったでしょうか」

 人の多い往来を歩きながら、守護人がぼそりと思わしげに呟いた。

 彼女ははっきりと「一人で行ったらだめ」と警告していたのだから、どちらが悪いかといえば、それは当然ニコのほうだ。しかし守護人のこの言葉、まるで、こうなった責任は自分にある、とでも思っているかのようだった。

「……ニコは、たぶん」

 俺は少し考えてから、言った。

 以前、森に行くか行かないかで、守護人とニコが今ひとつ噛み合わない会話をしていたのを思い出す。あの時から思っていたことだけど。

「心配される、ということに、慣れていないんだと思いますよ」

「慣れていない?」

 こちらを向いた守護人に問い返され、頷く。

「きっと、今までずっと、そういう生活をしてたんでしょう。自分が何をしようが、誰も気にかけない。ましてや、心配なんて、されることもない。そういう風に、生きてきたんじゃないかと思います。だから、『心配だからだめ』ということが、よくわからないし、理解も出来ないんですよ」

 誰かを心配する、というのは、裏を返せば、「危険な目に遭ってもらいたくない」、「無事でいてもらいたい」ということだ。

 つまりそこには、他人に対する思いやりの心がある。

 ニコは心根の優しい子供だから、人へのそれは持っている。でも、自身にはほぼ無関心、無頓着だ。おそらく今まで、誰からも、そういうものを自分に向けられることがなかったのだろう。

 だから、慣れていない。判らない。理解も出来ない。どうして禁じられるのか、その意味が汲み取れないから、何を言ってもあの子供の芯の部分には響かない、ということなのではないだろうか。

「…………」

 守護人はしばらく口を噤んだまま前を向いて足を動かしていたが、やがて唐突にぴたっと立ち止まった。

「いた」

 と一言言って、走り出す。

「え、ちょっ」

 止める間もない。ぱっと駆けていった守護人は、前方にあった人だかりの中にするっと入っていって、あっという間に姿が見えなくなった。どうやら、あの人々の隙間から、ニコが見えたらしい。しかし俺がそちらに顔を向けた時には、人の壁に遮られて、もう何も見えなかった。

 というか──なんでこんな道の真ん中に、人が集まってるんだ?

 人々は何かを中心にして輪になっているようなのだが、よく判らない。見世物でもやってるのかな。それなら、ニコが興味を惹かれたとしても無理はない。守護人は、その見物人の中に、ニコの顔を見つけたんだろうか。

「なんだ?」

「さあ」

 同じく怪訝な表情をしたハリスさんと顔を見合わせ、首を捻る。もしも見世物がやっているのなら、守護人とニコを楽しませてから戻ってもいいかな……などと呑気なことを考えていた時。


「謝れ、と言っている!」

 という、激しい怒鳴り声が聞こえてきた。


 俺は弾かれたように地を蹴り、ひしめく人波を押しのけて、中に強引に割り入った。

 二重、三重になっている人の輪の中央にまで出ると、ようやく視界が開ける。ぽっかりと空いたその場所には、五人の男女がいた。

 一人は大柄な体躯の男。さっきの声はこいつだ。抜き身の剣を右手に持ち、恫喝するような視線をすぐ前に向けている。

 男の向かいにいるのは、真っ青になって地面にぺたりとしゃがみ込んだニコと、それを庇うようにして片膝をつき腰を低くしている守護人だ。守護人はニコの背中に手を廻して、髪を包んだ布の下から、感情の窺えない黒い瞳で対峙する男を見上げていた。

 男の後ろには、ほっそりとした女性が立っている。明らかに金のかかっていそうな、上等な衣服や装飾品を見るに、相当階級が高い身分だろうと推測された。女性のすぐ近くには、年嵩の女性が影のようにひっそりと侍り、その腕には、真っ白な布にくるまれた赤ん坊が抱かれていた。


「跪いて謝れ!」

「その必要はありません」

 いきりたつ男とは対照的に、守護人はどこまでも静かな双眸で、相手を見返している。


 何があったのかはまったく判らないが、俺はすぐに人の輪の中から飛び出して、守護人とニコの前に立ち、剣の柄を握った。

「なんだ、きさまは」

 男がじろりと俺を睨みつけてきた。見たところ、二十代後半くらいか。赤茶色の目が、今にも火を噴きそうなくらいの怒気に染まっている。

「俺はこの人の護衛だ」

 俺の返事に、男の顔が妙に歪んだ。驚いたような、馬鹿にするような、怒ろうとしているような、笑いだしそうな、そんな感情がいっぺんに湧いて、どれを表に出そうか本人にも収拾がつかない──という顔だ。

 周りからも、ざわめきが洩れた。護衛だって? あの子供の? という声があちこちから聞こえてくる。

「護衛だと? そのガキどもの?」

 まあ、正確にはそのうちの一人のほうだけどね。しかしそれを説明する義務もなければ、あちらにもまともに聞く気がなさそうだったので、俺は無言を通した。

「子供の護衛を、子供がしているとは笑わせる。保護者はどこだ」

「人にものを訊ねる時は、剣をしまったらどうだ」

 その子供相手に、剣を抜いているのはどこのどいつだ。状況から考えて、この男が脅しつけていたのはニコだったのだろう。そこに人が集まり、気づいた守護人がニコを守っている、そんな構図だ。

「生意気なことをほざくなよ、小僧! そこにいるガキは、卑しい盗人だ! すぐにでも斬り殺さなかっただけ、感謝しろ!」

「盗人?」

 俺は剣の柄から手を離さず、顔だけを後ろに振り向けた。守護人に半分抱かれたような恰好のニコは、俺と目が合うと、泣きそうな顔でぶるぶると頭を横に振った。

「ち、ちがうよ。オレ、これを拾っただけなんだ。だから、渡そうと思って」

 震える拳を自分の胸の前に持ってきて、手の平を開く。

 中に入っていたのは、小さな木の人形だった。手足や頭が紐で繋がれていて、動いた拍子にカラカラと音が鳴る。誰が見ても判る、それは子供の──赤ん坊の玩具だ。

「道に、落ちてたんだよ。誰かが落としたのかなって、探してみたら、近くにいたのがあの女の人に抱かれた、赤ん坊だったんだ。だ、だからオレ、あの子に返してあげようと思って」

「嘘をつくな」

 ニコの必死な弁明を、男は一言の許に振り捨てた。

「腰かけて休んでいた乳母が余所見をしているのをいいことに、お前はお嬢さんの手からそれを奪い取ったんだろう。俺は見たんだぞ、お前がお嬢さんに近づいて、人形を取り上げているところをな!」

「ちがうよ! オレ、その子に返してあげようと思ったんだよ! 手を伸ばしてたから、はい、って」

「出鱈目言うな、この盗人めが!」

 大声を上げて、男が剣を振り上げる。同時に、俺も自分の剣を抜いた。周りの群衆から、悲鳴が起こる。

 剣の動きを止め、憤怒の形相になった男の顔に視線を据えつけ、俺は口を開いた。

「どう考えたって、ただの言いがかりだ。この年齢の子供が、そんな赤ん坊の玩具を盗って何になる? ニコは本当にそれを拾って、返そうとしただけだ。たったそれだけのことで、子供に剣を向けたのか?」

「黙れ! 灰色の髪の子供のことだ、どうせどこかに売って小遣い稼ぎでもしようと思ったに決まってる! ヴィルマさまが高貴なお方だというところに目をつけたんだろう。その汚い手がお嬢さんの持ち物に触れたなど、反吐が出る!」

 ヴィルマさま、というのが、男の後ろに立つ女性の名前らしい。おそらくはこの男の雇い主で、赤ん坊の母親なのだろう。

 彼女は、この騒ぎの中、しかも周りから衆目を浴びているというのに、それをなんとも思っていないようだった。非常に繊細そうな細面で、美しい顔立ちをしているが、まるで人形のように表情がない。男が怒鳴り散らしているのも、見物人たちにひそひそと囁かれているのも、まったく耳に入らないかのように、ただすらりとその場に立っている。

「お前ら三人、そこに手をついてヴィルマさまとお嬢さんにお詫びしろ! そうすれば、警察に突き出すだけで勘弁してやる!」

「……いい加減にしろ」

 あまりにも話の通じない相手に、俺の辛抱も尽きかけてきた。低い声で言って、剣の柄を握り直す。

 階級の高い人間が傲慢に振舞うのも、理不尽な要求を押し通そうとするのも、慣れている。俺一人なら、頭を下げてこの場を収めることも考えたかもしれない。こんなことでいちいち反抗していたら、この世界ではやっていけないからだ。

 でも、ここで俺が頭を下げたら、それはすなわち、ニコに罪があると認めるということになってしまう。そんなこと、出来るわけがない。守護人がさっきからきっぱりと拒否しているのも、それが理由に決まっているのに。


「アホ、これ以上騒ぎを大きくしてどうする」

 剣を構えようとしたところで、後ろから声がかかった。


 人波をかき分けて出てきたハリスさんは、俺の持つ剣の刀身を手で押さえて下に向けさせると、未だ険しい顔をしている男に薄く笑って見せた。

「悪いね、こいつもまだ若いんでね。頭に血が昇りやすいんだ」

 男は、新たな人物が介入してきたことに、さらに眉を上げた。それでも動かなかったのは、ハリスさんの腰にある剣にちらっと目をやったからだろう。

「お前はなんだ。こいつらの保護者か」

「いやー、こいつらの保護者なんて立場にだけはなりたくない」

 ハリスさんが、ヘラヘラしながらそう言って、俺の隣に立つ。

「俺も、こちらの方の護衛でね」

 俺がそう言った時とは違い、今度の男の顔に表れたのは、驚愕のみだった。俺とハリスさんを見て、それから信じられないというように、後ろにいる守護人を見る。

「護衛が、二人……?」

「もう一人いるが」

 そう言って、人混みの中からのっそりと姿を見せたのはロウガさんだ。さては騒ぎを聞きつけて、駆けつけてきたな。

「ここで問題を起こすのは、我々としても本意ではない。剣を収めてもらおう」

 神ノ宮で護衛官をしごく時のような、ドスの利いた声を出すロウガさんの目は剣呑だ。いろいろ腹立たしい気分なのは判るけど、どさくさまぎれに俺の脛を蹴飛ばすのはやめて欲しい。

「……な」

 男の剣の先がふらふらと揺れた。同じように、こちらに向ける目線も、不安定に揺れる。さっきまで全身から立ち昇らせていた威圧感は、見る影もなく萎んでいった。

 通常、階級の高い人間が自分を護らせるために置く護衛は、一人だ。大臣クラスでも二人が相場。三人となると、常識的には、それよりも上、ということ。

 身分を嵩にかけて威張る人間が怖れるものはひとつ──自分よりも、もっと身分の高い存在だ。

「……失礼した」

 男が絞り出すようにその言葉を出して、やっと自分の剣を鞘にしまった。それを見届けてから、俺も剣を引っ込める。

 でも、男がこちらに向けるのは、言葉と態度とはまったく裏腹な、憎々しげな目だった。こいつ、絶対まだ納得してないな。灰色の髪の子供と、そこらを走り回っている男の子のような衣服を身につけている人間が、自分の主よりも上だなんて認められない、ってところか。

「わかってもらえれば、いいんです」

 守護人が立ち上がり、素っ気なく言った。

 俺はまだ腹の底のほうで怒りがくすぶっているけど、守護人がそう言うのなら、これで終わりにするしかない。渋々、剣を鞘に収める。本当は、あっちこそ謝るべきなのにな。

 そしてこの言葉を機に、周りを囲んでいた野次馬連中も、やれやれと場を離れはじめた。騒動はこれで収束した、というのを感じ取ったのだろう。

 しかしその時、男の後ろの人物がはじめて、口を開いた。

「ねえ、そこのあなた」

 れっきとした大人の女性のはずなのだが、彼女の口から出たのは、ずいぶんと子供っぽい声と口調だった。なんていうか、一般の大人が持ち合わせているような、礼節とか礼儀とか遠慮とか距離感とか、そういうものをすべてどこかに置き忘れてきたような。


 ヴィルマと呼ばれた女性の切れ長の目は、まっすぐハリスさんのほうを向いていた。


「あなた、名前は?」

 今まで、騒ぎの中心にいたにも関わらず、ただ突っ立っているだけでなんの反応もしなかったのに、いきなり人の名を訊ねてくるなんて。

 どういう人なんだ、この人は、と俺は困惑した。

 彼女は相変わらず人形のように無感動な顔をしていて、何を考えているのかまったく判らない。無表情なのは守護人だって同様だが、この女性の場合は、自分の意志や自我というものを、ちっとも感じさせない分、なんだか異様だった。

 美しい女性なんだけど。そのまま絵になりそうなほど、儚げな雰囲気を持った人なんだけど。

 ──中身が空っぽ、そんな感じがする。

「ヴィルマさま?」

 彼女の護衛の男が、驚いたように目を丸くしている。どうやらこいつにとっても、女性の出し抜けの言葉は意外だったらしい。

「ハリス、と申しますが」

 ハリスさんは、唇の端だけを少し上げた微笑で、問いかけに応じた。女性に向ける瞳は、普段の口説きモードの時とはまったく違う、ひややかな空気を含んでいる。

「ハリス。名前を全部言ってちょうだい」

「……ハリス・ミド・シルフィ」

「ミド?」

 女性はわずかに首を傾げる仕草をした。何を思ってその部分だけを復唱しているのか、ちっとも判らない。

「変ね……」

 独り言のように、綺麗に彩られた唇から言葉が漏れ出る。ハリスさんは黙ったままだ。

「あなたと、会ったことがあると思うのだけど」

「気のせいでしょう。俺のようなのが、階級が上の方々と個人的に面識があるはずがない」

 うっすらとした微笑を貼り付けてハリスさんが言うと、すかさず護衛の男が、「そうですよ、ヴィルマさまがこのような男と知り合いなんて」とムキになったように力強く同意した。うるさいやつだな。

「そう……? まあ、いいわ」

 女性はそこで一切の興味を失ったかのように、ハリスさんから視線を外した。そのままくるりと身を翻し、立ち去ろうとする。

 その背に、慌てて立ち上がったニコが、声を出した。

「あ、あの、この人形、その子に……」

 乳母を引き連れ歩き出していた女性は、ゆるりとした動作で後ろを振り返った。

「あげるわ、あなたに」

「でも、あの」

「だって、そんな汚らわしいものを、わたくしの子に持たせるわけにはいかないもの」

 そう言うと、固まるニコにもう見向きもせず、また顔を前へと戻す。

 俺は思わず一歩を踏み出しかけたが、ロウガさんの手によって止められた。

 女性と赤ん坊を抱いた乳母、そしてこちらを振り返りつつその後につく護衛の姿が小さくなっていく。それを見送って、俺は勢いよく地面を蹴りつけた。


 ──くそったれ!



          ***



 しょんぼりとうな垂れて、手の中の玩具を見つめる子供の小さな頭にぽんと掌を乗せ、ぐしゃぐしゃと灰色の髪を掻き回した。

「気にすんな、ニコ」

「……気になんて、してないよう。オレ、こんなの慣れてるもん」

 無理やり作っているのが丸わかりの笑顔が痛々しい。目尻がぴりぴり引き攣っているのは、精一杯涙を堪えているからなのだろう。

 確かに、こういう扱い、あんな酷い言葉は、ニコにとってはよくあることなのかもしれない。もっと幼い頃から今まで、どれだけの人が同じようなものをこの子供に対して向けていたか、俺だって想像くらいは出来る。

 ……でも、そのたびにつけられる傷は、決して慣れるものでも、慣れていいものでもないはずだ。

「ニコ、一度宿屋に戻って、手当てをしよう」

 そう言う守護人の目が向かっているところを俺も見てみたら、ニコは、肘から下に大きな擦り傷をこさえていた。きっと、あの護衛の男に思いきり突き飛ばされたかしたのだろう。

 子供に剣を突きつけるようなやつだ、力の加減だってしなかったに違いない。なんとか押さえつけていたムカムカが、またぶり返してきた。

「消毒して、薬を塗りましょうね」

 人の群れが少なくなってきたことで、やっと俺たちの許までやって来れたらしいミーシアが、優しく労わるように微笑みかける。黙ったままこっくりと頷くニコの手を、守護人が取って握った。

「……あの、もし、よろしかったら」

 全員で歩き出そうとした時、後ろから声をかけられた。

 振り向くと、またしても女性が立っていた。もちろん、さっきのとは別人だ。年齢は同じくらいだろうが、今度は普通の──はっきりと言ってしまえば、少々貧しそうな身なりをした、ひょろりと痩せた女性だった。

 眉も目も頼りなく下がった顔立ちは、ずいぶん気弱な印象を見る者に与える。けれど、彼女の瞳には温かい色があり、口許には柔らかな微笑が浮かんでいた。


 この髪と目──カントスの民だ。


「ぶしつけにごめんなさい、私はリリアと申します。私の家はこのすぐ近くにあるんです。よかったら、その子の手当てを、うちでしましょうか?」

 突然の申し出に、咄嗟には誰も返事が出来なかった。こちらの当惑に気づいたのか、リリアという女性が、困ったようにさらに眉を下げ、頬に手をやる。

「あの、怪しい者ではないのですが。私、今の騒ぎをずっと見ていたんですの。でも、怖くて何も出来なくて……こんな子供が乱暴なことをされているというのに、大人として恥ずかしいことです。ですからせめて、お詫びの代わりにといいますか、罪滅ぼしのつもりで」

 奇特な人もいるもんだな、と俺は少々面食らったが、その表情と態度に、嘘はないように思えた。

 守護人を見返る。彼女は一拍迷うような間を置いて、「いいんですか?」と訊ねた。

「ええ、もちろんですわ。どうぞ、お連れの方々もご一緒に。旅の方なのでしょう? 小さな家なのですけど、お茶の一杯くらいはお出しできます」

 女性は安心したように口許を綻ばせて、軽く頭を下げた。さっきまでのやり取りを見て、ここにいるのが身分の高い相手だと思っているのか、物腰が丁寧だ。まあ、間違ってはいないんだけど、久しぶりでちょっと変な感じ。

 ひょっとしたら、そういうことが判った上で、お近づきになりたい、とか、少しでも謝礼を貰えたら、とか考えているのかもしれない。でもそうだとしても、守護人ということを伏せてさえおけば、大した問題はないだろう、と俺は判断した。

 そもそも、この街へは、リンシンの情報を少しでも得るために来ているのだ。こちらとしても、住人の話が聞けるのはありがたい。

「では、こちらへ」

 案内のために歩きはじめた女性の後について、俺たちもぞろぞろと足を動かす。ミーシアは単純に「親切な人もいるのですね」と喜んでいたが、ロウガさんとハリスさんは少し警戒するように目配せしていた。

 とぼとぼとした足取りで歩くニコは、自分の手を引く守護人の顔を見上げ、

「あの……ごめんなさい。オレが言うことを聞かなかったから」

 と、力のない声で謝った。

 それに対し、守護人が、「うん」と短く応じる。彼女の声には、どういう感情が入っているのか、耳で聞くだけではよく判らない。怒っていると感じたのか、ニコはますます身を縮めた。

 でも守護人は、その後で、握った手に強く力を込め、

「心配したよ、すごく」

 と続けた。

 ニコは口をぎゅっと引き結び、ようやく、ぽとりと一粒、涙を落とした。





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