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2.誤認



 さてこれからどうするか、ということを、馬に乗りながら話し合った。

 とりあえず共通している意見としては、どこか大きめの街に立ち寄る必要がある、ということだ。

 ハリスさんの働きで当座の腹は満たされているとはいえ、これから先、ずっと干し肉などの携帯食だけで済ませていては、体力が続かない。イルマの乳は非常に栄養価が高くて、疲労回復にも大変良いとされているので、旅の間は欠かせない飲み物だが、日保ちがしない。そういったものをあちこちで買い足しながら進んでいかないといけないのに、結局サザニでは、物資の補充がまったく出来なかった。

「とはいえ、このあたりは小さい街ばかりなんですよねえ」

 ハリスさんの馬に乗ったメルディが、地図を広げて、うーんと唸った。

「小さな街だと、お店がないんですか」

 と守護人に問われて、いやいやと首を横に振る。

「店くらいはありますよ、どこにでもね。ですけどどうしても、小さなところは品揃えが悪くって。あれはあるが、これはない、ということになると、他の街にも足を延ばさないといけないでしょう? そうすると結果的に、余計に手間がかかってしまうわけです」

「馬車商人と会えれば手っ取り早いんですけどね」

 俺もメルディの言葉に口を添える。しかし馬車商人はあちこちの街を巡って商売しているから、会おうと思って会えるものでもない。するとやっぱり、大きな街で一度に買い物をするのが最善、ということになる。

「ね、シイナさま」

 メルディが地図から顔を上げて、守護人のほうを振り向いた。

「いっそ、トルティックにまで行ってみませんか?」

「トルティック?」

 守護人と、俺の声が重なった。

 守護人は純粋に意味が判らなかったのだろうが、俺は驚きからの反問だ。声の調子でその違いに気づいたのか、もの問いたげに振り返られたので、簡単に説明をした。

「トルティックは、隣国カントスとの国境門近くにある街で──」


 ニーヴァとカントスとの間には長く連なる山脈があって、それが互いの国境ともなっている。

 国と国の出入りは自由とされているので、その山を通るのも別に禁じられているわけではないが、実際にそんなことをする人間はいない。なにしろ険しいし、道があるわけでもないので、山中で迷ってしまったが最後、下手をしたらどちらの国にも辿り着けずに死んでしまう、という可能性だってあるからだ。

 だから普通、カントスとニーヴァの出入りは、国境門というものを使う。子供でも通行可能なように、国と国の間に作った道だ。一応検問所が設置されてあって、あまりにも怪しい風体をした人間はそこで止められることもあるが、基本、誰でもそこを通れば国同士を行き来できる。

 ニーヴァとカントスとの国境門は、一つだけ。その唯一の門の近くにあるのが、トルティックという街なのである。


「トルティックは、別名『交易の街』とも呼ばれていましてね」

 俺が最低限の説明を終えたところで、メルディが続けた。

「当然ですけど、このニーヴァの中で、いちばんカントスに近い街なので、あちらの民も多いし、店ではあちらの品物も多く取り扱っているんです。だから旅人や商人も多く来る。マオールほどではないけど規模が大きく、とにかく賑やかで、活気のあるところなんですよ」

「しかし……」

 ここまで黙ってやり取りを聞いていたロウガさんが、眉を寄せて口を開いた。

「トルティックまでは、いくらなんでも、時間がかかりすぎるだろう」

 そうなんだ。俺がその街の名前を聞いて、まず驚いたのも、それが理由だ。

 トルティックはニーヴァの端、最も国境寄りにある街なのである。ここからだとかなり方向転換しなければならないし、向かおうとしていたニコの故郷、グレディールからも遠ざかる。つまり、テトの街にいたやつらの足取りを掴もう、という目的からも外れることになってしまう。

 しかもトルティックまでは遠い。交易の街に行けば、確かに物資の補充には十分すぎるほど事足りるだろうが、そこに到着するまでに数日はかかるというんじゃ……

「テトの街の連中のことを調べるのもいいでしょうけど」

 ロウガさんと俺の疑問の眼差しを受けて、メルディは薄く微笑した。

「ここらでひとつ、別口のほうを探ってみるのもよろしいんじゃありませんかね」

「別口?」

 俺の問いに、ゆったりと頷く。


「灰色の髪の男ですよ」


 その言葉に、前に座る守護人の肩が、わずかにぴくりと動いた。俺は急に不愉快な気分になって、むっつりと口を結ぶ。

「そもそも、リンシンと名乗ったあの男は、モルディムから、スリック、カントスを通ってこのニーヴァにやって来た、と言ったんでしょう? それが事実かどうかは判りませんが、もしも事実だとしたら、カントスとの唯一の国境門を通ったことになる。いくら交易の街とはいえ、灰色の髪は珍しいですからね、聞いてみれば誰かの記憶には残っているかもしれません」

「確かに、そうだな……」

 ハリスさんが、考えるように顎に手をやり、同意した。

「あの男がなんらかの鍵を握っているのは間違いないんだろうし、そっちから攻めてみるのはいい手かもしれない。今のところ奴については何ひとつ判っていないのが現状だから、国境を通ったか通らなかったかを知るだけでも収穫だ」

「…………」

 守護人はじっと黙って耳を傾けていたが、身体を少し傾けると、自分の前にいるニコの顔を覗き込んだ。

「ニコ、グレディールに帰るのが、少し遅くなってもいい?」

 俺はひそかに、ニコが「ええー」と不満げにするのを期待したのだが、実際に返ってきたのは、

「うん、いいよー」

 という、清々しいまでに陽気な承諾だった。

 この様子を見るに、ニコはあまり、故郷に帰りたいという希望は持っていないらしい、というのが察せられる。話に聞く限り、「おじさん」と呼ぶ人物と良好な関係を築いていたとも思えないし、あれこれ考え合わせると、この子供を一刻も早くグレディールに送り届けるのが果たして本当に良いことなのかも自信がなくなって、俺は口を噤むしかない。

「オレ、おっきい街って見たことないんだー。楽しみだなあ!」

 本気で嬉しそうに目を輝かせている姿を見たら、なおさら何も言えなくなった。俺が無言になったのを同意のしるしと解釈したのか、ロウガさんが「では、トルティックに向かおう」と馬首を翻す。

「なるべく最短距離で行こうとすると、道中は野宿になることもあろうかと思うのですが、シイナさまはそれでよろしいでしょうか」

「はい、もちろんです」

 守護人の返答に、迷いはまったく含まれていなかった。ミーシアは、「カントスの珍しい食材の中に、シイナさまのお口に合うものがあるとよろしいのですけど」とニコニコしている。要するに俺以外の全員が、この結論に文句なし、ということだ。

 はあ、と俺はこっそりため息を落とした。



          ***



 トルティックまでの道のりに、これといった難所があるわけではない。

 途中、川があったり、起伏が緩やかではなかったりして、進路を多少変更せざるを得なくなることはままあったものの、大幅な回り道をすることは免れて、俺たちはおおむね平和に旅路を進んでいった。

 ただひとつ問題があったとすれば、途中、街はぽつぽつと見かけたが、どれも地図にも載っていないような小さなところばかりだった、ということだ。

 つまり、そこに厩つきの宿屋などは、望むべくもない。

 馬を放って自分たちだけ宿屋に泊まるわけにはいかず、かといって守護人たちだけを街の中で眠らせて、俺たちは街の外に出るというんじゃ、いざという時に困る。で、結果、全員が揃って街の外で野宿する、ということになる。

 メルディは文句が多かったが、決まってしまえば行動にそつはなかった。今夜も外で寝ることになりそうだとなると、ハリスさんと先に馬を走らせ、どうやってか毎回、寝床に最適な場所を見つけて戻ってくる。相変わらず喧嘩は多いのだが、この二人がいなければ、ここまでスムーズな道行きにはならなかっただろう。

 こういった旅に慣れていないんじゃないかと思っていたミーシアも、案外さして疲れた様子は見せなかった。


「だって、とても貧しい暮らしをしていた時もあったもの。家はあったけれど、そんなに外と変わりはない、というくらいだったのよ。地面は固くても、毛布がたくさんあるから、気にせず眠れるわ」


 そう言いながら、ふふふと屈託なく笑う。どうやら、ロウガさんとミーシアの兄妹は、かなり階級の低い生まれだったらしい。現在の二人に付いている「セム」という家の階級を示す名前はそんなに下層のものではないので、金を貯めて買ったのかもしれない。階級で差別されることが多いこの世界では、わりとよくあることだ。

 両親は早くに亡くしているということだったし、神ノ宮に入るまでのロウガさんとミーシアは、兄妹二人でずっと苦労しながら身を寄せ合って生きてきたのだろう。それを思えば、ロウガさんのちょっと行き過ぎた妹への愛情も、理解できないこともない。

 しかしどちらにしろそうやって、下のほうの生活を経験している人間はまだいいのである。ニコも、今までが今までだっただけに、食事が質素なのも外で眠るのも、まったく気にせず元気いっぱいだ。

 でも、守護人は違う。

 彼女はこちらの世界に来てから、ずっと神ノ宮で暮らしていた。いわば、この国における、最上に近い衣食住に囲まれていたわけだ。人間というものは、下から上にいくのは喜ばしくても、上から下にいくのは我慢が出来ないものなんじゃないだろうか。

 野宿の場合、すべての準備を自分たちでするのだから、宿屋のようにゆったりと寛いではいられず、陽が暮れる前から誰もが慌ただしい。雨が降れば、濡れない場所を確保するため、あちこちを奔走しなければいけないし、盗賊や、野生の獣に対する警戒も必要になる。外で寝るのはお世辞にも快適ではないが、守護人だけに寝台を用意するわけにもいかないので、俺たちと同じ場所で、同じように過ごしてもらう他ない。

 口ではなんと言おうとも、そんな生活が続けば、そのうち嫌気が差して疲労困憊してくるんじゃないか──と心配していたのは俺ばかりでなく、ロウガさんとハリスさんもだったようで、二人ともそれとなく注意深く、守護人を観察していた。

 が、予想に反して、守護人はむしろ、ほっとしたような顔をしていた。煮炊きをなどで忙しいミーシアを手伝ったり、ニコと一緒に枯れ枝を拾い集めたりしているその様子は、神ノ宮で建物の中や外をぐるぐる歩き回っている時よりもずっと、雰囲気が和らいでいるようにも見えた。


 考えてみれば、今まで誰も、守護人に「仕事」を与えなかったんだよなあ、と俺は思った。


 神ノ宮で彼女に課せられていたのは、日に三度、神獣の許に行くことだけ。それ以外のことは何もしなくてよかった。というより、何かをするのは許されない、という空気があった。

 外に出ても、そうだ。

 俺たちは、守護人の身を護ることだけを第一に考えて、彼女に何かを求めることはなかった。指標を決めてもらえれば、すべての算段は他の人間がする。彼女はただじっとしていればいい。守護人だから、それが当然、と思い込んでいた。

 ──でも、それってけっこう、本人にはしんどいことだったのかもしれない。

 きっと、他のみんなも、守護人を見てそれに気づいたのだろう。彼女が動き回って働くことに、誰も、何も、言わなかった。

 そうだよな。本来の立場や身分はどうあれ。


 ……今の俺たちは、旅の仲間なんだから。



          ***



 そうやって何日か過ぎて、ようやく、明日にはトルティックの街に着けるだろう、というところまで来た。

 とはいえまだ距離があるので、夜になっても、街の明かりが見えるわけでもなく、静寂と暗闇が包むばかりである。

 トルティックにはもちろん宿屋が多くあるから、とりあえず明日の夜には寝台の中で眠れるわけだ。やれやれ、と俺は肩をぐりぐり廻しながら、欠伸を噛み殺した。

 目の前には、ばちばちと爆ぜるようにして燃える炎。周りでは、それぞれ毛布にくるまって、俺以外の六人が眠りに就いている。野宿の場合は、俺とロウガさんとハリスさんが、交代で火の番をするので、ぐっすり安眠とはいかない。昼はひたすら馬に乗っているだけだから、そろそろ身体のあちこちが軋むように痛みだしてきた。

 あー、早く明日にならないかな、と思いながら、手持無沙汰に枝を火の中に投げ入れる。

 寝台で眠るのも待ち遠しいが、いい加減、変わり映えのしない景色を眺めるのも飽きてきた。疲労と睡眠不足、その上に退屈ときたら、いくら護衛官としての訓練を積んだといったって、ため息のひとつくらいは吐きだしたくなる。


 ……トルティックでは、本当にリンシンの情報が耳に入るのかな。


 眠気を少しでも追い払うため、埒もないことを考えてみた。

 そりゃあさ、そりゃ俺だって、判ってはいるんだ。あの野郎がこの件に関わっているのなら、少しでもこれまでの痕跡を辿る努力をしてみるべきだってことは。俺は個人的に話だって交わしているわけだし、もっとそれについて躍起になってもいいはずなんだ。

 リンシンはきっと、何かをしようとしている。

 そしてそれは、もしかしたら、ニーヴァという国にも影響を及ぼすかもしれないことだ。


 ──いずれ神獣はニーヴァと共に沈む。その時こそ、私たちの神と、選ばれた者たちが新しく世界を作り直す。


 テトで捕らえた男はそう言っていた。気味の悪い言葉だ。あの時の男の確信に満ちたような顔には、妄想、という一言では片づけられないような、不気味さがあった。

 その意味を、リンシンは知っているのかもしれない。だったらあいつのことをもっと探ってみるべきだ、というメルディの意見も肯える。サリナのことも、湖の国の民のことも、すべての元凶がリンシンだったとしたら、俺は何が何でも奴の尻尾を掴んでやらなきゃいけない。それが判っているから、反論も反対も出来なかったし、しなかった。

 ……でも、どうしても、気が乗らない。

 多分、俺は、守護人をこれ以上、あいつに関わらせたくないんだ。俺一人だったら迷わず突っ走っていけるけど、守護人がリンシンに近づくことになるかもしれないと思うと、不安でたまらなくなる。

 なんでだろ。

 最初は、あの女好きそうな言動が、ひたすら鼻についただけだった。守護人に馴れ馴れしくするのがやけに苛ついて、腹が立った。

 でも、あの男の本性らしきものが、ちらちらと覗いてくるにつれて。

 俺は、妙に怖くなったのだ。もちろん、リンシンという男が怖いという意味じゃない。あの人を人とも思わない冷酷さは嫌いだし、怒りも覚えるが、怖いと思ったことはなかった。


 怖いのは、守護人が、間違いなくあの男に「何か」を抱いている、ということだ。


 なんだろう。好意や嫌悪なんて言葉では言い表せられない、何か。

 彼女があの男に向ける目に潜む、激しく共鳴する光。

 なぜか、盗賊のかしらに神獣の剣を突き刺した時の、守護人の闇のように底知れない真っ黒な瞳が、脳裏を過ぎる。

 まるで、もう一歩近づけば、彼女の心も魂も、「あちら側」に吸い取られてしまいそうで──

「…………」

 ここまで考えて、俺は自分の思考を止めた。

 なんだかんだ言っても、結局これって、単なるアレじゃないだろうか、と思いついたのである。というか、ハリスさんあたりだと、きっぱり口に出してこの感情に名前をつけてしまいそうだ。よかった、言わないでおいて。だってこれは、アレとは違うもんな。……いや、違わない、のか? ダメだ、自分でも混乱してきた。

 やめよう。これ以上は考えないでおこう。俺はそもそも、難しいことを考えるのは向いていない。

 頭をぶんぶんと振って、雑念を外に追い出す。

 それから、ちらっと、眠っている守護人に視線を向けた。


 よく寝てるみたいだな──と、ほっとする。


 ミーシアはああ言っていたけど、俺が火の番をしている時に、彼女がうなされていることは一度もなかった。大体いつも、すやすやと穏やかに寝息を立てている。そのすぐ隣には、大きく口を開けてかーかーと寝こけているニコがいるわけだが。

 この二人が一緒に寝ることについて、ミーシアとメルディにはなんの異論もないらしい。守護人が当たり前のように自分の傍らを空けるから、俺たちも何も言わないのだけど、実は疑問でいっぱいだ。いいのかねえ。

 守護人は、眠りながら、しっかりとニコの手を握っている。そうやって子供を安心させてやろうとしているというよりは、ニコのほうが彼女にとってのお守りか何かみたいだった。

 こうして寄り添って寝ているのを見ると、姉と弟みたいだよな。違った、姉と妹だ。赤く燃える炎に照らされ浮かび上がる、邪気のないふたつの寝顔に、ついついこちらも、くすりとした笑みが洩れる。


 ……今度、あの可愛い笑顔が見られるのは、いつになるのかなあ。


 などと思っていたら、守護人がいきなり、ぱちりと目を開いた。

 げ。

 心臓がひっくり返るほど、仰天した。その場で本当に飛び上がらなかったのが、せめてもの救いだ。

 やかましく跳ね回る鼓動を悟られないように胸を手で押さえたまま、かちんと固まってしまう。も、もしかして、俺の心の声が聞こえたとか? それとも、寝顔を眺めていたのがバレた? まさかとは思うが、実はさっきからずっと起きてたんじゃないだろうな?

 守護人は、目を開けても、まったく動かなかった。ただ、じっとこちらを見つめているだけだ。

「…………」

 そして、口を開いて、何かを言った。

 でもそれは、ほとんど声にはなっていなくて、俺の耳にはぜんぜん聞こえなかった。

 これだけ静まり返っている中でもそうなのだから、きっと吐息のような声だったのだろう。

「──え?」

 まだドキドキとうるさい心臓の音を宥めながら、そっと位置をずらして守護人のほうに身を寄せる。ロウガさんとハリスさんは眠っていても気配に敏感だが、さすがに風が葉を鳴らす音にまぎれるほどのこの小さな音量の声では、目が覚めないらしかった。

 その小さな、小さな声で。


「……どこにも、いかないで」

 守護人は、囁くようにそう言った。


 俺はひとつ目を瞬いた。

 守護人の視線は確かにこちらを向いている。

 でも、違う。

 ──その目は、「俺」を見ていない。

 彼女の意識は今、現実世界ではない場所を彷徨っているのだと気づく。とにかく、覚醒した状態ではない、ということははっきりと判った。

 まだ、夢の途中にいる。

 黒くひたむきな瞳は俺に据えられているが、そこに映っているのは、ここにいる俺ではなかった。

 もっと遠くにあるもの。ここにはないもの。彼女の心の中にのみ、存在するもの。

 多分、今まで一緒に夢の中にいた人。

 その人物を、彼女は、俺の向こう、俺の後ろに見ている。


 決して俺ではない(・・・・・・・・)誰か(・・)


「そこに、いて」

 童女のような、どこかたどたどしい、それでいて切ないほどの一途な願いが込められた言葉に、俺はその場から動けない。

 純粋で、透明で、あまりにも無垢な懇願は、俺に向けて発せられたものではない、ということだけが、嫌というほど理解できて。

 ……全身から、力が抜けていった。

 真っ直ぐに向かってくる瞳に、静かに微笑みかける。

 少し強張っていたかもしれないけど、なんとか喉から声を引きずりだした。

「──うん」

 他の誰か、彼女が求めている誰かの代わりに、そう言ってやるしかない。抗えない。それほどまでに、そこにあるのは、強い希求、強い渇望だった。

 今まで誰に対してもほとんど願いや望みを口にすることのなかった守護人に、どうしてそれ以外の答えを返すことが出来るだろう。



 そこにいて。

 うん。



 その答えに安心したのか、守護人がゆっくりと瞼を下ろしていく。五つも数えないうちに、その唇からはまた穏やかな寝息が漏れ出した。

「…………」

 俺はのろりと身体を戻して、再び火の前に座った。

 さっきまで暴れていた心臓は、もうすっかり落ち着いていた。

 でも、胸が痛い。


 ──そっか。

 守護人の心には、もう、他の誰かが住み着いてるのか。





 翌日、トルティックに向けて、出発した。

 馬の手綱を握る俺の顔を見て、守護人は、「トウイさん、ものすごく疲れてるようですけど、眠れませんでしたか?」と、ちょっと眉を寄せながら言った。





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