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5.小さな灯火



「……タネルさん」

 剣の柄を握ったまま動きを止めて、名前を呟くと、タネルさんの冷笑がさらに深まった。

「へえー、守護さまに名を覚えていただいているとは、光栄なことですな。使い捨ての護衛官のことなんざ、もうとっくにその頭の中には微塵も残っていないと思っていたんでね。それとも何かな、俺はよっぽど守護さまには覚えのめでたい人間だったんですかね? あなたさまの御前で、面白い見世物を演出した、ってことで」

 あからさまに作り声と判る調子で滑らかに言葉を紡ぎながら、タネルさんがゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。彼がまとう険悪な空気に押されるように、わたしはじりっと後ずさりした。

 ここは袋小路の行き止まりだ。あと二、三歩下がれば、背中が壁に当たる。

「故郷に帰ったんじゃなかったんですか」

 視線を周囲に巡らせて、わたしは訊ねた。目の前には、今さっき自分が倒したばかりの男の身体が横たわっている。タネルさんが進路を塞ぐようにして道の真ん中に立ちはだかっているのに、これを乗り越えてここから逃げだすことは可能だろうか。

 タネルさんは脇を向いて、ぺっと乱暴に唾を吐き捨てた。


「寝言をほざいてもらっちゃ困りますね。どうしておめおめ故郷に帰れるってんだ。俺はなあ、あそこを出る時、住人総出で祝ってもらったんだぜ。ニーヴァの端の、小さな小さな街から、神ノ宮の護衛官になれるやつが出るなんて、こんな栄誉なことはないってな。偉いさんにも手を握られて、お前はこの街の誇りだ、英雄だと、さんざん持ち上げられて出発したんだ。それがほんの数年で放逐されて、おまけに仲間にリンチを受けてこんな身体になったなんて、どのツラ下げて言えると思う? 今も自分の息子が首都で誉れ高い職に就いてると信じて疑わない母親は、ただでさえ病がちなのに、これを知ったらあっという間に昇天するだろうさ」


 長い台詞は、後半へ行くほど、冷静さが抜け落ちて、がなるような大声に変わっていった。

 言い終わると同時に、勢いよくこちらに向けて自分の右腕を突きだす。

「見ろよ、守護さま」

 タネルさんは、ギラつかせた目をわたしのそれに据えつけて、命令した。

 彼の右腕はまっすぐに伸びることはなく、肘のところで中途半端に曲がったまま、わずかにぶるぶると震え続けている。

「大事な利き腕がこんなになっちまってよ、もう剣のような重いものを振り回すことなんざ、到底できねえ。神ノ宮で来る日も来る日もつらい訓練に耐えてきたってのに、その努力もすべてパアだ」

「…………」

 わたしは表情を変えずにその腕を見て、タネルさんの顔を見た。


「──ミーシアさんたちを攫うよう指示を出したのは、あなたですね?」


 タネルさんが嘲笑し、「おう、そうさ」とあっさり認めた。

「まさかこのサザニで、ロウガやトウイの懐かしい顔を拝めるとは思ってもいなかったんでね。最初に見かけた時は、あいつらが憎いあまり、とうとう幻を見るようになっちまったかと自分の正気を疑ったよ。おまけに、守護人も一緒ときてる。嬉しくて嬉しくて、思わず泣きそうになったさ。これこそ、神のオボシメシ、ってやつじゃありませんかね、ええ、守護さま?」

 わたしは小さく頷いた。こういう形で災厄と巡り会うことを、「神の思し召し」というのなら、まさにその通りだとしか言いようがない。

 つまり、メルディさんが感じた物騒な視線の持ち主は、このタネルさんだったわけか。探っても捕まらない、とメルディさんが言っていたのも納得だ。一応神ノ宮で、トウイと同じくらいの腕を持った護衛官だったのだから、そこらにいるチンピラみたいな人たちとは、一線を画しているに決まっている。

 わたしも、おかしいなとは思っていたのである。「暇つぶし感覚」にしては、わざわざあんな大勢でいた中でミーシアさんを選ぶのも変だし、逃げたと判った時の男たちの慌てようも変だった。

 ましてや、仲間を呼び集めてまで、どうしてわたしたちを捕まえる必要があるのかと。


 それはすべて、裏に、タネルさんがいたからだったのだ。


「あの妹がロウガの宝物だってのは、護衛官内では有名な話だったからな。そいつが男たちから酷い目に遭ったりすりゃ、ロウガもさぞかしショックだろうと思ってよ。そのツラを見れば、多少はこっちの気も晴れるかと楽しみにしてたのに。まったく、クズはクズだな。女を拉致するなんて簡単なことすら、マトモに出来やしねえ」

 忌々しそうに、大きな鼻息を吐き出す。

 わたしは彼の後方に用心深く視線を向けたけれど、誰もこの場所にやって来る気配がなかった。何かタネルさんの気を逸らせるようなことがあれば、その隙に剣が抜けるのに。

「タネルさんのほうが、あの人たちよりも立場が上だということですか」

 とにかく、ここは時間を稼がないと。わたしとトウイでははなから勝負にならないように、トウイと同じくらいの力を持ったタネルさんとも、正面からやり合ったって勝機はない。

「ああそうさ。故郷には戻れねえ。かといって行くアテもねえ。神ノ宮を出て、ふらふらとこのサザニまで流れてきたんだ。力がモノをいうこの街は、俺のような男には都合がよかったぜ。剣は持てないったって、まだまだ、そこいらのクズどもを叩きのめすくらいは出来るからな。そこをザックスさんに見込まれて、自警団に入らないかと誘われたってわけよ」

 すると、自警団というのは、街のあちこちに立って見張りのようなことをしている人たちよりは、格が上だということか。なんのことはない、本来、街の治安を守るはずの自警団は、日和って機能していないのではなく、そもそも悪党の親玉に雇われた人たちだったのだ。それならいつまで経っても、この街は悪人の天下のままでいられる。

「腐ってますね」

「守護さまにはおわかりにはならないでしょうが、世の中にはね、その腐った場所にしかいられない、って連中もいるんですよ」

「ここで寝ている人のことですか」

 視線を自分が倒した男に向ける。タネルさんの目も、そちらに向かった。

 その瞬間、柄を握った手に力を込めて、わたしは剣を鞘から抜こうとした。しかし、刀身を引き出す一歩手前で、素早くタネルさんの腕がバネ仕掛けのように動いた。

 手首に重い一撃を与えられ、掴んでいた柄が手の平から離れる。その衝撃で、神獣の剣は、鞘から抜けて前方の地面まで跳ね飛ばされた。

「……っ」

 強打を受けた右の手首を左手で押さえた。じんじんと痺れて、感覚がなくなっていた。これでは、どうにかして剣を取り戻しても、握ることが出来ない。

「ニーヴァの至宝、神獣の剣か」

 タネルさんは転がった剣を一瞥して、口許を吊り上げた。


「……なあ守護さま、俺はあの時、確かにあんたの部屋から、あれを掠め取って、トウイの寝台の中に突っ込んでおいたはずなんだぜ。それがどうして、いきなり訓練用の剣にすり替わっていたんだ?」


 わたしは手首を押さえたまま、剣を見つめ続けた。

「さあ」

「あんたが何かをしたんだろ」

「それこそ、神力というやつじゃないですか」

「ふざけんじゃねえ!」

 タネルさんの声が、激しい怒声に一変した。顔が醜悪に歪んだかと思うと、空気を裂くようにして右手が飛んでくる。

 避けるのは無理だった。右の頬に大きな手の甲が命中し、わたしの身体は横に吹っ飛ばされて、壁に激突した。態勢を整える前に、つかつかと大股で寄ってきたタネルさんに、ぐいっと胸倉を掴まれる。強い力で持ち上げられて、わたしの足の裏が宙から浮いた。

 凶暴に底光りする二つの眼が覗き込んでくる。胸元をぎりぎりと絞められて、呼吸をするのも難しかった。額から汗が滲み、食いしばる唇からは、血が滲んだ。

「なにが神力だ」

 タネルさんが濁った太い声で、唸るように言った。


「神ノ宮にいる神獣は、まがいものだって話じゃねえか」


 わたしは目を見開いた。

「誰、が、そんなこと、言いました」

 自分の口からは、喘ぐような声しか出ない。タネルさんは手の力を緩めないまま、唇の端をまくるように上げた。

「この間、街に来た余所者から聞いたんだよ。なんでも、この世界には本当の神が別にいて、そいつは何もせずに神ノ宮でふんぞり返っている神獣と違い、『本当の幸福』ってやつを授けてくれるそうだぜ。話に乗るなら、一緒に来るといい、とさ」

 ははっ、と乾いた笑い声を立てる。目は爛々と怒りに燃えていた。

「笑えるじゃないか。なんで俺にそんな話をするって聞いたら、そういう目をしているから、だとよ。意味がわからねえよ」

 そういう目──


 自分が不幸であることをどうしても認められない、という目か。


 今の自分のこの境遇は不当なものである。こんなことになっているのは自分のせいではなく、他の誰かが悪い。他人を貶し、見下し、もっと不幸なほうへと引きずり落とすことで、自分はあれよりはまだマシだと思う──そういう、目。

 テトに向かった人たちは、自分たちが持っているのと同じものを、このタネルさんの中に見つけたのだ。

「バカバカしい。それが本当だったら、俺たちは今まで、正体もわからない何かのために、厳しい訓練を受けたり、自分の身を張って護衛をしたりしてたわけだ。異世界から来た小娘にも頭を下げてよ。その挙句に、こんなところにまで落ちぶれちまった」

 胸元を締め続けていた力がふっと抜けた。それと同時に、自分の身体がくるりと半回転して、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。タネルさんの手の平が手加減なく後頭部を押さえつけ、じゃりっとした小石と砂が、わたしの頬を擦った。

「──神なんて、いるもんか」

 頭上から、タネルさんの低いしゃがれ声が響く。

「バカげたことをほざいたそいつも、さんざん痛めつけてやった。あの野郎も、目を覚ませばいい。この世界に神なんざいねえ。いざという時、頼りになるのは自分だけだ」

 頭を押さえつけられながら、わたしはなんとか目だけを動かして、剣を探した。

 地面に転がった神獣の剣。このあたりにあるはず。手さえ届けば……

「神獣や守護人がなんだっていうんだ。ずっと神ノ宮の中に閉じこもってりゃよかったのに、あそこからひょこひょこ出てきたのが運のツキだぜ。てめえも男たちから嬲り者にされちまえ。ロウガも、トウイも、この手で殺してやる」

 探って這った左の指先が、ひんやりとした何かに触れた。柄の先か、刃か。どっちでもいい、掴めさえすれば。

「それともいっそ、てめえもこの場で殺してやろうか?」

 わたしの背中の上には、タネルさんが膝を乗せている。身体を移動させることは出来ない。体重をかけてのしかかられているため、胸部が圧迫されて苦しい。勝手に呻き声が洩れて、タネルさんが喉の奥で楽しげに笑った。

「まずはこの気味の悪い色の髪の毛を、全部切り落としてやろうか、ああ?」

 髪の毛を鷲掴みにされて、ぐいっと勢いよく引っ張られた。地肌から強引に引きちぎられてしまいそうな痛みに、思わず顔を顰めながら、頭を後ろに反らせる。

 そして、見た。

 ちょうどその時、息を切らせてこの袋小路に飛び込んできた人の姿を。

「タネルさん……?」

 呆然と名を口にしたトウイに、タネルさんが思いきり哄笑した。



          ***



 目の前が真っ暗になりそうになった。

 ──どうして、この時に。どうして、この状況で。

 トウイからは、どのように見えているのだろう。地面に腹這いになり、髪の毛を掴まれて、タネルさんに押さえ込まれた形のわたし。

「よう、トウイ」

 棒立ちになったままのトウイに向かって、タネルさんは機嫌のよさそうな声を出した。

「久しぶりに会った先輩に、挨拶もないのかよ。それとも、神ノ宮を追い出されたやつは、もう見知らぬ赤の他人だってか、え?」

「どうして、ここに……」

 トウイの視線が、タネルさんとわたしの間を行ったり来たりしている。まだ思考がまとまらないらしい。わたしはタネルさんに悟られないよう、目線はトウイに固定させたまま、懸命に指を伸ばして、剣を引き寄せようと試みた。

 この手触り、たぶん、柄だ。中指の先がかかるものの、手繰り寄せるまではいかない。

 小刻みに震えはじめた指先は、ちっともわたしの意のままに動かなかった。力を入れようとして、かえって柄を弾いてしまい、もどかしさに歯噛みする。

「どうしてもへったくれもねえ、全部、お前らのせいじゃねえか。お前らのせいで、俺は神ノ宮の護衛官でいられなくなり、こんな吹き溜まりのような街で惨めに暮らすことになった。お前らが揃って、俺をハメやがったんだろうが。ロウガ、ハリス、守護人、そしてお前だ。いつか絶対に報復してやると、俺は心に決めてたんだ」

 あの時、トウイを罠に嵌めようとしていたのは間違いなくタネルさんのほう。けれどタネルさんの頭の中では、それが逆転してしまっている。事実であるかどうかは関係なく、タネルさん本人がそう思い込んでいる分、それはもう真実よりも強い。

「トウイ」

 立ち尽くしているトウイに、タネルさんが呼びかけた。

「今ここで、自分の剣で胸を突け。言うことを聞かなければ、お前の目の前で守護人をくびり殺す」

 トウイの顔から血の気が引く。

 わたしは一瞬、強く目を瞑った。

 ……これは、悪夢の続きか。




「だめ」

 わたしはトウイと目を合わせて、はっきりと言った。

「はやく、逃げて」

 トウイは身じろぎもせず、わたしの顔を凝視している。彼が何を考えているのか、彼の思考がどちらの方向に向かおうとしているのか、今までの経験でわたしにはそれが手に取るように判る。

 ここでわたしが弱いところを見せれば、トウイはすぐにでも腰の剣に手をかけるかもしれない。だから表情を動かさず、口調も変えず、わたしは繰り返した。

「自分でなんとかします。あなたがいると、足手まといです。はやく行って」

 トウイの眉が上がった──ように見えたけれど、あっという間に再びタネルさんの手によって頭を下に押しつけられてしまったので、はっきりとは判らなかった。

 夢で見た断片が脳裏を過ぎる。あれは夢。でも、あれは現実。実際に、わたしの目の前で起きた出来事。今回もまた、同じ道を辿るのか。

 渾身の力を込め、後頭部に置かれた手の平を押し返す。必死になって、左手の指を剣の柄に向けて伸ばした。


 間に合って。

 トウイが剣を抜く前に、早く。


「まさか守護人を見捨てて一人で逃げるなんて真似はしねえよなあ、トウイ? お前はなんたって、神獣の守護人の護衛官に選ばれた人間だ。守護人のために命を捨てられりゃ、本望ってもんだろう、違うか?」

「…………」

 黙ったままのトウイに、タネルさんが「早くしろ!」と威嚇を込めて怒鳴った。

「守護人が死んでもいいのか、ああ?! 早く剣を抜け、トウイ!」

「……タネルさん」

 ようやく発されたトウイの声は、タネルさんと対照的に、静かだった。平坦な口調に、わたしは動きを止めて、目を上げた。

「彼女を、殴ったんですか」

 その質問は、明らかに今の状況からズレている。

 わたしはますます不安になった。トウイが、混乱と動揺のあまり、どうかなってしまったのではないかと思ったからだ。

 タネルさんも、きっと同じことを思ったのだろう。愉快でたまらないというように、大きく口を開けて笑った。

「それがどうした? 尊い守護人さまに手を上げた極悪人は、死罪にすべきだって、神ノ宮か王ノ宮に突き出すか? でもあいにくだな、俺はそんなもん、これっぽっちも気にしていないんでな。何が守護人だ、こいつはただの非力な小娘だ」

「そうです、女の子です。自分が暮らしていたのとは別の世界に来て、守護人という名前を押しつけられただけの、まだ十六歳の女の子です。……あんたはその女の子を殴って、力任せに地面に組み伏せてるんだぜ」

 無感動なくらいの目を向けて、トウイは冷ややかに、そして痛烈に吐き捨てた。


恥を知れ(・・・・)最低野郎(・・・・)


 その途端、タネルさんが咆哮するような喚き声を上げた。

「トウイ、てめえ! ぶっ殺してやる!」

「来るなら来いよ。何も持たない女の子を人質にしなけりゃ、俺に向かってくることも出来ないのか。ああそうか、剣も持てないんだったな? だから怖くてそうやって遠くから吠えるしかないのか。哀れだね、『先輩』」

 蔑みのこもった目と口調は、いつものトウイからかけ離れたもので、わたしは困惑した。彼のこんなところ、これまで一度だって見たことがない。

「このガキが!」

 怒りに我を忘れたタネルさんが腰を浮かせる。わたしの頭を押さえつけていた手が離れた。その一瞬の隙を突いて、伸びたわたしの手が、しっかりと神獣の剣の柄を掴む。

 そのまま身を思いきり捻って、剣を振った。背中の上にいたタネルさんがはっとして、慌てて飛び退り、刃をかわす。

 ようやく自由になった身体で、わたしが地面をごろごろ転がって距離を取るのと同時に、走ってきたトウイが、おそろしいまでの速さで、タネルさんの腹部に拳を叩き込んだ。

 体勢が崩れて、ぐらりと前のめりに倒れかかったところを、今度は右足が閃いて強烈な回し蹴りを入れる。呻いて顔から地面に突っ伏していきそうなのを、容赦なく後ろ襟首を掴んで引き戻し、鼻の真ん中に重そうな一撃を放った。

 ぐしゃ、という何かが潰れる音がした。

 体格差をものともしない、圧倒的かつ一方的な攻撃だった。トウイの流れるような動きに、わたしは剣を抱いたまま、半ば放心して座り込んでいることしか出来なかった。

 鼻から鮮血を噴き出したタネルさんの身体が、鈍い音を響かせて地面に沈む。あが、あが、という意味不明の音を発してのた打ち回るタネルさんを、トウイはまっすぐ立って見下ろした。

「俺が憎いんだったら、憎めばいい。殺したいと思うなら、どこまででも追ってくればいい。いつでも、俺の全力で相手をします。その上で、タネルさんはタネルさんの進む道を決めてください。俺も、あの時ああすればよかったなんて悔やむのは、もうやめます」

 きっぱりと言ってから、「でも」と強い調子で言葉を継いだ。

 赤く輝く光を放つその瞳を見て、タネルさんが怯えたようにびくりと身を竦ませた。

「──でも、今度こんなやり方をしたら、許さない」




 それきり、トウイは倒れているタネルさんに、見向きもしなかった。足を動かして、わたしの近くまで来ると、腰を屈めて手を差し伸べる。

「立てますか、シイナさま」

「あ、はい」

 と返事をしたものの、極度の緊張から解けたばかりで、なかなか思うように身体が動かない。立ち上がろうとして地面に突いた手が、ぶるぶる震えてちっとも支柱としての用を成さないのを見て、トウイが苦笑してわたしの両手を取って立たせてくれた。

 そのまま握った片手を引くようにして、歩き出す。

 しばらく、黙々と二人で足を動かした。他の追手はどこに行ったのか、街の中はしんと静まり返っていた。

「ミーシアとニコは、ロウガさんが連れて行きました。二人とも、無事です」

 やがて沈黙を破り、トウイが言った。

「そうですか」

 ほっとする。きっと、メルディさんが二人に伝えてくれたのだろう。

「ハリスさんはまだシイナさまを探して走り回ってると思います」

「じゃあ、見つけないといけないですね」

「シイナさまは、ハリスさんが待てと言うのを無視して走っていってしまったそうで」

「そうでしたっけ?」

 とぼけたら、ぴたりと立ち止まったトウイが、怖い顔でこちらを振り向いた。

「どうしてそう、一人で突っ走っていくんですか」

「…………」

 よりにもよって、トウイにそんなことを言われるとは思わなかった。

「護衛として信用する、って言いましたよね?」

「言いましたね。でも、あの時と今とは」

「……足手まといで、悪かったですね」

 むっつりとした膨れっ面で呟かれた。どうやら、根に持たれているらしい。

「もしかして、今、ものすごく怒ってます?」

 首を傾げて訊ねると、トウイはますます眉を吊り上げた。

「怒ってますよ! 当たり前でしょ! 俺がどれだけ死ぬほど心配して走り回ったと──いやそれはともかく、あんなこと言われたからって、俺がシイナさまを置いて一人で逃げたりするわけないでしょ!」

「…………」

 その言葉に、わたしの視線が下を向く。急速に、気持ちが沈んだ。

 今回は幸い、悪夢の再現にはならなかった。けれどやっぱり、トウイは基本的にあの時とまったく変わっていないのか、と思ったからだ。

 でも、そこから続く言葉は、わたしの予想と違っていた。


「逃げる時は、シイナさまと一緒に逃げます」


 ……え?

 トウイはわたしが驚いていることにも気づかず、むくれた顔でぶつぶつと不満を零し続けた。

「テトでだって、そうしたじゃないですか。なのにまったく……」

 そして、無言のままのわたしを覗き込んだ。

「聞いてます? シイナさま」

「はい……はい、聞いてます」

 聞いてるよ。


 今までとは違う、その言葉。

 胸が震えるほど、聞きたかった言葉。

 ちゃんと、聞いてる。


「だから今度からは、ああいうのはなしですよ。いいですか」

「はい」

 今度。「このトウイ」との、今度。

「……あの、痛いですか」

 わたしが俯いてしまったので、トウイは急に心配そうな顔つきになった。水で冷やしたほうがいいかな、それよりも早く戻って手当てをしたほうがいいかな、とオロオロして言いはじめる。

 さっきとは、別人みたいだ。

 何度も何度も、扉を開けて、トウイに会った。

 ……それでもまだ、わたしの知らなかったトウイがいる。

「すみません、遅くなって」

 神妙に謝るトウイに向かって、首を横に振った。

 握っている手にぎゅっと力を込め、前を向いて、足を動かす。

「行きましょう、トウイさん」



 神獣の言うとおり、確かに何かが、変わっているのだろう。

 けれど、その変化が、「さらなる絶望のはじまり」のはずがない。

 わたしはそう信じることにした。


 この道の先には、明るい光がある。

 ──きっと。



      (第十章・終)





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