5.炎の向こう
フィリーを抱いた男が去っていき、他の五人の男たちも、来た時と同じように声も足音も立てず、静かにそこを立ち去った。
ニコの泣き声と叫び声はまだ続いていたが、しばらくしてからそれは、扉を叩く音と共に、唐突に止んだ。
再び、しんとした静寂だけが広がる。
俺は守護人を腕の中に閉じ込めたまま、小さな家をじっと窺った。
「……シイナさま、少しの間、ここで隠れていてもらえますか」
目線を一点に集中させながら低い声で囁くと、予想よりもずっとあっさり、「はい」という返事が返ってきた。手の力を緩めた途端、守護人の身体が俺から離れ、膝を曲げて小さくなる。
「いってらっしゃい」
そう言われ、ちらっと彼女のほうに視線をやったら、その顔は、今まで俺が据えていた方向に向けられていた。自分たち二人が今、見ているものと考えていることは、どうやら同じであるらしい、と気づく。
余計な説明が要らないというのは、こういう場合、心底ありがたい。ロウガさんやハリスさんはともかく、同じ神ノ宮の護衛官同士でも意思の疎通が難しいこともあるのに、本来なら立場的に隔たったところにいる守護人と、それが円滑になされるのは不思議だな、と俺は思った。
時々、守護人は俺が思っているよりもずっと、俺のことを知っているのではないか、という気がすることがある。
その小さな窓から、最初に出てきたのは足だった。
窓から地面までは結構な高さがあるから、頭から出たら着地できないことくらいは、もう経験として知っているのだろう。しかしそこから飛び降りようとする前に、まずは外の様子をこっそりと覗いてみる、という手間すらかけようとしないのは、今はそれだけ焦って気が急いている証なのかもしれない。
とにかく、窓から勢いよく飛び降りて──というよりは落っこちてきた幼い身体が、打撲や擦り傷などをこさえる前に空中で受け止めてやった時、その子供は驚くよりもまず真っ青になり、次いですぐに逃げ出そうとがむしゃらに暴れた。
「待て待て」
腕の中で跳ね回る子供をちょっとばかり強引に押さえつけ、俺は慌てて言った。ここで騒がれては困るので、何かを叫ぼうと開きかけた口を掌で塞ぐ。
「落ち着けよ、フィリーを助けたいんだろ?」
俺のその言葉に、子供は手足を振り回すのを、ぴたっと止めた。恐怖の混じった真ん丸に見開かれた目が、俺の顔のほうを向く。唇はわなわなと震えているが、とりあえず大声を出そうという気はなくなったらしいのを見届けて、ゆっくりとそこを塞いでいた手を離した。
「あ、あんたは……」
疑問と、訝しさと、混乱しか乗っていなかったが、まだあどけなさの残る声と口調は、確かに聞き覚えのあるものだった。
「ニコだな?」
ようやくちゃんと見られた顔に向かって、確認する。
小刻みに全身をぶるぶると震わせているニコが、おずおずといったように、それでもこっくりと首を動かして頷いた。
誰も整えてくれなかったのだろう、灰色の髪は肩近くまで伸びているが、フィリーという子よりはまだしも状態がマシで、ほっとした。きっと、友達を助けるため、元気づけるために、自分までが気力を失ってはいけないと、精一杯努力していたのだろう。
もっと肉がついて、もっとちゃんとした環境に置かれていたら、どれほど可愛いかと思うような、凛とした顔立ちの男の子だった。でも今、そのくりっとした大きな目に無邪気さはなく、青白い顔はこれだけ動いているのに赤味も差さない。その顔といわず、細い手も足も、あちこちが傷だらけだった。
ボロボロの衣服に包まれた身体も、おそらくそうなんだろうと思えば、腹の中にふつふつと滾ってくる怒りを抑えるのが難しいほどだ。
「毎回、あの窓からこんな風にして抜け出してたのか? 無茶なことして──下手すれば、動けなくなるくらいの怪我をしたかもしれないんだぞ」
俺が眉を寄せて言っても、ニコはなんの反応もしない。逸らしもせずにひたすら俺の顔を凝視して、動きを止めたままだ。暴れないでいるのは助かるが、こうも放心状態でいられるのも不安になる。
抱き上げた身体を、ちょっと揺らしてみた。
「おい、大丈夫か。しっかりし」
「あ、あんた」
ニコの口から、再び同じ言葉が出た。壊れた人形みたいに、がくがくと首を振り、目をいっぱいに見開いて、ぎこちなく手を動かす。
「あんた、壁の向こうにいた人? あの時の、旅の人?」
その小さな手が、俺の顔にそっと触れた。夢や幻ではないかと、確かめるように。
「そうだ。来るのが遅くなって悪かった」
俺はニコをまっすぐ見返して、はっきりと言った。その指が自分の顔を這うのにまかせ、軽い身体を抱く手に力を込める。もう片方の手で、いかにも頼りない痩せた背中をぽんと撫でるようにして叩いた。
「っ、ホ……ホントに」
俺を見つめるニコの目から、大粒の涙がぼたぼたと落ちた。
「──ホントに、来てくれたんだ……」
呻くように歯の間からその言葉を絞り出すと、ニコは俺の肩に自分の顔を強く押しつけて、嗚咽を洩らした。本当は、手放しで大声を上げて泣きたいのだろうに、この頭のいい子供はまだ、それすら自分に許そうとはしないのだ。
ニコのちっちゃな手が、ぎゅっと俺の衣服を握りしめる。俺はもう一度、その背中をぽんぽんと叩いてやった。
「……うん」
そっと、息を吐く。
俺はたぶん護衛としてまだまだ未熟で、甘ちゃんなところもあって、ハリスさんが言うとおり、突っ走ることしか能のないガキでしかない。自分の力のなさを棚に上げて、あれもこれも助けてやりたいなんてのは傲慢な考えだ。この単細胞な思考と行動を、正義感、なんて聞き触りのいい言葉に置き換えるのは、とても危険なことなんだろうと思う。
ガキの俺は、ハリスさんやロウガさんの意見を、理解は出来ても納得は出来なかった。護衛としてはそちらの言い分が筋が通っているとは思いはしても、どうしてもそれが正しいことだとは思えなかった。
もちろん、今の自分がしていることが正しいとも、思ってない。
俺のしたことは、結局、守護人を巻き込み、仲間たちに迷惑をかけることになっただけ。これが最良の道であったはずがない。何が本当に正しかったのか、どうするのがいちばんよかったのか、未だに俺は判らないままだ。
だけど──この温もりを感じることが、間違いだったとも、やっぱり思わない。
強くならないと。心も、身体も。もっとたくさんのものを、ちゃんと守れるように。
今度こそ自信を持って、「これが正しいんだ」と胸を張って進めるように。
「……ニコ、フィリーはどこに連れて行かれた?」
ニコの嗚咽が弱まってきたところで、薄っぺらい身体を自分から剥がし、顔を覗き込んで訊ねた。頬を涙でびっしょりと濡らしたニコが、みるみる苦しげに顔を歪める。
「き、きっと、街の真ん中だと思う。やつらが神様に祈りを捧げるのは、いつもそこなんだ。祭壇があって、そこに、神様への、み、貢ぎ物を置くんだって」
そこまで説明して、言葉に詰まる。この場合、「貢ぎ物」とは、食べ物などを指すのではないのだろう。いや、そういうものを指すこともあるかもしれないが、今はおそらく違う。
バカが、何が貢ぎ物だ。
内心で、吐き捨てるように思った。実際に、反吐が出そうだった。ここにいるのが俺一人だったら、そんな胸糞悪いことを考えて実行しようとする連中を、手当たり次第に叩きのめしてやるところだ。
「フィリーも俺が助けてやる。いいかニコ、お前はある人と一緒に、すぐにこの街から出て──」
そう話している途中で、ニコの顔が恐怖に引き攣ったことに気がついた。子供の目は、俺を通り越して、その後ろに向けられている。
素早く身体を捻り、俺は左足を振り上げた。
一瞬で目視しただけに過ぎなかったにしては、鋭い蹴りは正確に相手の腹のど真ん中に決まった。舐めてもらっちゃ困るよ、これでも神ノ宮の護衛官は、剣術だけでなく格闘術もみっちり仕込まれるんだから。
そろそろと背後から近づき、俺の後頭部をぶん殴って失神させようとしていたらしい男は、蹴りをまともに喰らって、持っていた太い棒と一緒に、吹っ飛ぶようにして地面に倒れた。ニコを抱いたまま、次の攻撃に備えて態勢を整えた俺が拍子抜けするほど、呆気なかった。
「おいおい、弱すぎだろ」
あまりの簡単さに、困惑してしまう。痛めつけて詳しい話を聞きたかったのに、あっという間に男は目を廻して意識を手離してしまった。俺、少しは手加減したつもりなんだけどな。
「強いね、あんた」
目を真ん丸にしたニコに感心されたが、対象がこれなので、ちっとも嬉しくない。よく見れば地面に伸びている男はやっぱりガリガリに痩せ細っていて、なんだか弱い者苛めをしたような気分にさせられる。
しかし、弱くとも、寄ってくる気配をほとんど感じなかったのは確かだ。なんだろう、生きた人間の覇気というものが、まったく伝わってこないというか──蹴った時に肉体の感触はあったし、まさか本当に亡者というわけでもないと思うんだが。
「ニコ、あそこに、天井が落ちた建物があるだろ? ほら、お前が手を出した穴のすぐ近くだ」
ニコを下ろして立たせてやり、俺は守護人が隠れている建物を指し示した。ニコがそちらを見てから、また俺を振り返り、心配げな顔をする。
「あそこの裏に、もう一人いる」
「あ……あんたの、仲間?」
そう聞かれて、つい、首を捻ってしまった。神獣の守護人を、軽々しく「仲間」呼ばわりしていいものか悩む。かといって、俺が護衛をしている人だよ、という答えは、ただでさえ混乱しているニコを、ますます混乱させてしまいそうだ。
「……俺の大事な人だよ」
悩んでから出した返事に、自分で狼狽した。いや、守護人は神獣と共に敬われるべき、国にとっても民にとっても大切な存在なんだから、この言い方も間違ってはいない。間違ってはいないんだろうけど……なんか、変じゃないか?
「とにかく、味方だ」
慌てて言葉を継ぐ。深く考えないでおこう。
「すごく、頼りになる。俺を信じてくれるなら、その人のことも信じてくれ。お前はこれから、その人と一緒に街の外に出て、先に逃げるんだ。俺はフィリーのところに」
「イヤだよ!」
最後まで言い終わらないうちに、ニコが叫んだ。叫んでから急いで自分の口に両手を当て、眉を下げきった顔で俺を見返した。
「オレもフィリーを助けに行く。自分だけ逃げるなんて、できない」
俺は口を曲げて渋い表情になった。言うと思ったんだよなあ。性格的に、そう言いたい気持ちはものすごく判るから、俺にハリスさんみたいな冷たく突き放す演技が出来るか不安だ。
「お前がいると、足手まといなんだよ」
「だって、だって」
「だってじゃない。フィリーって子はもう自力じゃ動けないんだろ? そうすると、俺が抱えて運ばなきゃならない。その上お前の面倒まで見られると思うか?」
祭壇があるというその場所に、今頃はもうここの住人たちも集まりはじめているかもしれない。たとえあちらが腕力も体力もない人間ばかりでも、数が多ければ、その中から子供を奪還するのはちょっとした手間だ。いくら俺でも、二人の子供を抱いて戦うのは難しい。
「…………」
ニコは泣きべそをかく手前のような顔になって、くしゃりと表情を歪めた。どうやら納得してくれたらしい。涙を落とさないだけ、根性がある。
「──フィリーを」
「助ける、と約束しただろ? お前もそろそろ、自分のことを心配しろよ……っと」
ニコの頭に置いて励まそうとした手を引っ込め、代わりに、自分の頭に振り落とされようとした棒を、がしっと掴む。ニコが驚いてその場に尻餅をつくのを横目に、掴んだ棒をそのまま捩じって、それを持っていた男の体を傾けさせた。
その脇腹に、蹴りを一発。今度もまた簡単に地面に転がったが、かなり力を抜いたので失神まではしなかった。
「どんどん新手が現れるな」
呆れて呟きながら、倒れた男が立ち上がらないうちに素早く膝で地べたに押さえつける。握っていた棒をもぎ取り、ぽいっと放り投げた。
敵を仕留めようとする獲物が棒ばかりということは、おそらくここの連中はまともな武器は所持していないのだろう。まあ、剣があったとしても、この細い腕じゃ持ち上げることも出来なさそうだけど。
しかし、気配を悟らせず、するすると寄ってくるのはまったく厄介だ。一体どこから湧いてくるんだか。
「話を聞かせてもらうよ。あんたの神について、ここに住み着いてるやつらについて。それから、バカバカしい祈りの儀式とやらについてだ」
身体を膝で拘束し、後ろ首を手でぐっと押さえて、俺は厳しい声を出した。不自由な態勢で、目だけを動かしてこちらを見上げる男は無表情だ。この状況で、気味が悪いくらい落ち着いている。
いや、落ち着いている──というか。
感情というものが抜け落ちている、ような。
近くで見ても、男は年齢不詳だった。皺はないが、赤茶の髪には白いものも混じっている。この男が、さっきの六人の中にいたかどうかもはっきりしない。顔の造りは違っても、どいつもこいつも、雰囲気が酷似しているからだ。
「好きにするがいい」
男が言葉を発した。しわがれて、低い声だったが、そこにははっきりとこちらを見下し、嘲笑う調子が含まれていた。
「私たちに、怖いものなんて、何ひとつありゃしない。誰も、何も、怖くない。私たちには神がついておられる」
この台詞、ハリスさんから聞いた話と同じだ。あの話の中に出てきた人間と同一人物なのか。それとも、このテトにいる連中は、みんな同じことを言うのか。
どちらにしろ、こいつのこの声、この言い方、この目つき。
幸福そうな笑顔。
……ぞっとする。
「だからその神ってのはなんだ。神獣のことじゃないのか」
「神獣?」
俺に首根っこを押さえつけられて、頭を動かすこともままならないのに、男はくっくっくと笑った。
「あの、まがいものか」
それを聞いて、背中がひやりとした。
湖の国の民が、死に際に残したのと同じ言葉。
「お前らは、せいぜいあのまがいものの神に縋って、虚しく願っていればいいさ。私たちの神は、あんな何もしない神獣なんかと違い、本当の幸せを授けてくれる。私たちのように、選ばれた者たちだけが、神の恩恵を受けられる。いずれ神獣はニーヴァと共に沈む。その時こそ、私たちの神と、選ばれた者たちが新しく世界を作り直す」
ニーヴァと共に沈む?
「おい、どういうことだ。あんたたちは一体何を──」
手の力を増し、俺は声の調子を強くしたが、その時、すぐ近くでニコが息を呑んだ。
「フィリー!」
ぎょっとしてニコを見て、子供が目を向けている方向に顔を巡らせる。
そして、本気で驚愕した。
闇の中、こちらに向かって歩いてくる男がいる。そいつは、フィリーを軽々と肩に担いでいた。
さっきの六人とも、俺を襲ってきた二人とも、まったく違う、しっかりとした体格。長身に、後ろでひとつに括られた灰色の髪。丈の長い、異国の衣服。
「──リンシン?」
俺は唖然とその名を口にした。
***
「やあ、どうも」
リンシンは、俺たちの近くまでやって来ると、朗らかに笑ってそう言った。
はっとして、すぐに立ち上がり、ニコを引き寄せて剣の柄に手をかける。もう、こいつの外見に惑わされるもんか。この男はミニリグを持っていて、なおかつそれを人に放っても平然と笑っていられる神経の持ち主だ。
俺の拘束が外れた途端、男が逃げようとしたのか身をよじるようにして立ち上がりかけたが、すぐにリンシンによって阻止された。
歩きざまに男の腹を蹴っ飛ばし、呻いてうつ伏せになったところを踏んづけて動きを封じる。リンシンはそちらに目をやらず、まったく注意も払わなかった。ただそこに倒木があるから踏み越える、という感じで、愛想の良い笑顔はずっと俺のほうに向けられたままだ。
「あ、傷つくなあ、その態度。僕、命の恩人として、もうちょっと君に感謝されてもいいんじゃないかと思うんだけど」
何を言ってやがる。
「……なんでお前、ここにいる?」
じりじりと後退しつつ、相手との距離を慎重に目測しながら訊ねた。右手で剣、左手で今にもフィリーの許へ駆け寄っていきそうなニコの腕を掴み、力を込める。
「そうですねえ、やっぱりこういうの、見過ごすわけにはいかないでしょう」
「なに?」
その返事に戸惑う俺から視線を外し、別の方向を向いたリンシンの細い目が、ますます細められた。
「ああ、シュッシーナ。君の可愛らしさは、陽を浴びても月の下でも、変わりませんね」
びっくりして振り返ると、隠れていてくれと頼んだ場所から、守護人が出てくるところだった。来たらダメだ、と俺は制止しようとしたが、彼女の表情を見て、その言葉を喉の奥に引っ込めた。
守護人は、はっきりと色の失せた顔をしていた。視線はリンシンに向けられているものの、その顔よりももう少し下の位置で、釘付けになっている。こちらに寄ってくる足取りは、わずかにふらついているようにも見えた。
「……なに、を、したんですか」
強張った問いが、守護人の口から発された。
俺は最初、その意味が判らなかった。顔を戻し、彼女の目線が据えつけられているほうを見た。
リンシンは、肩にフィリーを担いでいる。フィリーは意識を失っているのか、まったく身動きしない。はじめ、俺の注意はそちらに向けられていたから、リンシンの裾の長い衣服の下から抜き身のままの剣の先が覗いていることに、気づいていなかった。
──その切っ先から、ぽとぽとと赤い血の滴が垂れていることにも。
「なにって」
リンシンがそう言って、人懐っこい笑みを浮かべた。他人の警戒心を削ぐような、陽気で親しみやすそうな笑み。
でも、足の裏から冷気が這い上がるような、笑み。
「ちょっと、後始末をしただけですよ。……ああトウイ、その二人は、街の真ん中に連れて行かないほうがいい。血の海なんて、お嬢さんと子供の目に見せていいものではないからね」
「血の……」
茫然と呟く。
血の海だって?
「なにしたんだよ」
忌々しいが、自分の口からは、どこか気の抜けたような声しか出なかった。リンシンの言葉が嘘であるとは思えない。直感で、嘘ではない、ということだけは判って、それがかえって現実感をなくさせるようだった。
「その場にいた人間の首を、すべて刎ねました」
リンシンは、さらりとした口調で、そう言った。食事をしながら、あれこれと楽しげに女性のことを語っていた時と同じような声と言い方で。
「何人いたかな。途中で面倒になって、数えるのは止めてしまったんですがね。僕、本当はこういうのは好きじゃないんですよ。手が疲れるしね、刃も曇るし。ミニリグを使ったほうが、よっぽど楽でいい」
少しだけ、顔を顰める。その足の下で、俺が何を言っても怖れを見せなかった男が、信じられないというように、首を捩って目をいっぱいに広げ、食い入るようにリンシンを見上げていた。
「でも、仕方ありません。もともと自分が蒔いた種、といえばそうですから。まったく、それにしたってこんな風に馬鹿げた方角に逸れていかなくてもよさそうなものだ。──よりにもよって、灰色の髪の子供たちを贄にしようだなんて」
愚痴を言うようにそう続けてから、リンシンは丁寧な手つきで、担いでいたフィリーの身体をそっと地面に下ろし、横たえた。そちらに走っていこうとするニコを、俺はさらにきつく掴んで押し留める。あいつの近くに行かせたらダメだ、と、がんがん頭が鳴って警告を発していた。
「不純な血、だそうですよ。複数の血が混じると、汚れた生き物になるんですって。きっとこの人たちには、灰色の髪の子供たちは、『人間』にすら、見えてなかったんでしょう」
「だからって!」
「あれ、何を怒るんです、トウイ? 彼らにとってはつまらない命でも、僕にはそうじゃない。僕は、僕にとっての大事なものを守るため、邪魔な障害物を排除した──それだけの話です」
その言葉で、守護人が痙攣したように、びくっと大きく身じろぎした。
リンシンが、裾の長い衣服の下から、すらりと剣を抜く。
咄嗟に、俺はニコを抱えて、守護人の許まで走った。が、リンシンはこちらには目もくれなかった。ぐったりと意識のないフィリーにもだ。まだ血糊のついたままの剣を持ち、目を向けた先は、自分の真下だった。
「やめろ!」
「やめて!」
その行動の意図を悟って、俺と守護人が同時に叫んだが、リンシンにはまったく迷いがなく、躊躇もなかった。地面と垂直にした剣の切っ先を、自分が踏んでいる男の首に、まっすぐ下ろした。
どす、という音がして、ぱしゃあっと勢いよく血飛沫が舞い散った。
リンシンが男の首に剣を突き立てて引き抜くその瞬間、俺はニコと一緒に守護人の頭もかき抱いて自分の胸に押し当てたが、耳を塞いでやることは出来なかった。だからその音は間違いなく、二人の耳にも入ってしまっただろう。それで何が起きたのか大体のところを察したらしいニコは、そのまま強く目を瞑り、ぎゅうっと俺にしがみついた。
守護人のほうは、すぐに俺から離れて一歩を踏み出しかけたが、目の前の凄惨な光景に、言葉を失い立ち尽くした。夜目にもくっきりと判るほど、顔色が真っ白だ。
「彼らは要するに、『自分よりも不幸な人間』が欲しかっただけなんですよ。自分たちが不幸なことを、どうしても認められない。だからもっと不幸な存在を見つけて、誤った考えを抱く。……自分たちはこれよりもずっと優れている。選ばれた人間になる価値がある。だから他の誰かは、自分たちのために犠牲になって当然だ、とね」
リンシンは、自分が殺した男の亡骸を見下ろしながらそう言った。手も、服も、笑みを貼り付けた顔も、飛び散った血で真っ赤に染まっているのに、気にするような様子もない。
「彼らの神も、迷惑な話でしょう。望みもしない生贄を勝手に捧げられてね」
再び剣を腰に差して、リンシンがこちらを向いた。
にこっと笑う。
「──さて、もっと楽しく語らいたいのは山々ですが、残念ながら時間がありません。なにしろテトの街はもうすぐ完全に消滅しますから」
「な……なに?」
消滅?
問い返す俺に、リンシンはやわらかく微笑んだ。その顔だけ見れば、判りの悪い子供に優しく教え諭す年長者そのものだ。その全身がそんなにも血で染まっていなければ、の話だが。
「お嬢さんと二人の子供を連れて、早く逃げたほうがいいですよ、トウイ。テトの街の火災が、こうまで酷かったのは、どうしてだと思います? 本来、石の家なんて、そうそう燃えやすいものじゃないのに」
「? なんの話……」
俺は、リンシンがどうしていきなりそんなことを話し始めたのか、さっぱり判らなかった。
「あのね、それはね、織物技術で名を上げたゲナウを羨んだテトの住人が、この街でも何か特産品を作ろう、と思いついたからなんです」
「特産品?」
「そう。けれど、織物で今さらゲナウよりも上にいけるわけがないし、大体のものはマオールまで行けば揃っているでしょう? 人の目を集めるには、よほど変わったもの、特徴のあるもの、このテトでしか作れないようなものでないと、意味がない。いろいろ考えて、このあたりにたくさんある岩を何かに使えないか、という結果に辿り着いたわけなんです。なにしろ材料費もかからないしね」
「岩……」
それは確かに、材料には事欠かないだろうけど。
「細工物にしようか、それとも、もっと実用に向いたものにしようか。削ったり、粉にしてみたり、溶かしたり、試行錯誤したようですよ。でも、運の悪いことに、ここらにある岩は、可燃性の成分を含んだものだったんです。そのままでは燃えませんけど、粉にしてしまうと、いけません。さらにその粉が空気中に舞って、火気に触れようものなら、大変です。爆発しちゃうんですから。──こんな風に」
ドカン! という衝撃音が、街のどこかで轟いた。
俺も、守護人も、その場で硬直した。
「なにしろその危険な石の粉は街じゅうにありましたので、火が廻るのも早かったことでしょう。それで、テトはこんな有様になってしまいました。僕ね、たまたま、その粉を手に入れていましてね」
しゃあしゃあとした顔で、リンシンは言った。
「街のあっちこっちに撒いておきました。火の手がここまで廻らないうちに、早く逃げたほうがいいですよ」
「リンシン、お前……!」
我慢ならず、俺はそちらに向かいかけたが、リンシンは気にも留めずにゆるりと首を動かし、何もない中空の一点を見つめた。
「テトの住人はきっと、ゲナウのようになりたかったんでしょうね。そりゃこんなに近くにあるんだ、どうして、って思わずにはいられないでしょう。ゲナウはあんなにも豊かで活気もあるのに、どうしてテトはいつまでもこうして、小さく、貧しく、地図にも載らない街であり続けるのかと。ゲナウに対する、憧れと、羨望と、嫉妬の念は、どれほど大きかったんですかね。……人は皆同じだ。誰かよりも下にいること、誰かよりも不幸であることが、許せないし、認められない」
静かな声で、独り言のように言った。
また、ドカン! という音がした。夜闇のそこかしこに、ぽつぽつと灯るように赤い炎が見え始める。今までどこからも声が聞こえなかったのに、女性や子供の悲鳴が耳に届いた。
「おい、トウイ!」
その時だ、後ろから聞き慣れた声が聞こえたのは。
振り返ると、猛然とした勢いでこちらに走ってくる人の姿が見えた。
「このクソガキが! 足腰立たなくなるまでぶん殴ってやるから、覚悟しとけ!」
ハリスさんは真っ先にどやしつけるようにそう言って、「早く逃げろ!」と怒鳴った。
「あとで耳から血が出るほど説教してやるからな」
そう言いながら、俺の脇を駆け抜けていったのは、ロウガさんだ。
はっとして再び顔を戻すと、もうリンシンはそこにはいなかった。どこへ、と顔を巡らせる間もなく、新たな爆発音が聞こえてくる。
ロウガさんがフィリーを、ハリスさんがニコを抱き上げて、くるりと身を翻してまた街の壁に向かって走る。いつの間にか、そこには縄の梯子が垂らされて、器用に壁の上に立ったメルディが、こっちこっちと手招きをしていた。
もう考えている場合じゃない。こうしている間にも、火の手は勢いを増してどんどん広がりつつある。俺も守護人の手を引いて、「シイナさま、早く!」と促した。
守護人は、どこかぼんやりと魂の抜けた顔つきで、さっきまでリンシンがいた場所に目をやっていた。
俺は少し乱暴に彼女の身体を持ち上げると、自分の肩に担いで、地を蹴った。急がないと、というのもあるが、彼女の心がリンシンに向けられているのが、なんだかやけに苛立たしかったのもある。
「……あの人は……」
耳の近くで、小さな呟きが、かすかに聞こえた。
ぴったりとくっついた身体は、ずっと震え続けていた。
(第九章・終)