3.涙珠
もう戻らないといけない、と言うニコの姿が壁の向こうへ消えたところで、俺たちはテトの街から離れることにした。そろそろ祈りの時間が終わる、とのことだったので、いつまでもその近辺にいては、こちらの存在まで中の連中に気づかれる恐れがある。
再び馬に乗り、しばらく進ませると、ちょうどよく、さらさらと流れる川辺に出た。周りは大小の岩に囲まれているから、人目にもつきにくい。そこで馬を降り、ようやくさっきのことを、ハリスさんとメルディに話して聞かせた。
そしてみんなで相談するつもりだったのだ。どうやったら、二人の子供をあの街から出してやれるのかを。
──が。
「私は反対ですね」
あっさりと放たれたその言葉に、俺は耳を疑った。
メルディは、顔色一つ変えずこちらを見返している。その綺麗な眉も、微笑の形になっている唇も、話を聞く前と後でなんら変化がない。すらりとした口調もまったく同じまま、彼女はそう言いきった。
……ニコたちを助けるのは反対だ、と。
「なに言ってるんだ、メルディ。俺の話をちゃんと聞いてたか?」
「聞いていたから反対だと言っているんです。どうやらあなたはそのニコという子供のみならず、もう一人の子供まで助ける気満々なようですけど」
「当たり前じゃないか!」
声を荒げてそう言ってから、ハリスさんとロウガさんを見る。
そして、すうっと腹の中に冷たいものが落ちてくるような気分になった。
俺はてっきり、二人も自分に同調して憤慨してくれるものだと思っていたのに、彼らの顔つきを見る限り、必ずしもそうではないということに、今になって気がついたからだ。
「ロウガさんはあの子の声を聞いてたでしょ?! たすけて、って泣きながら何度も言ってたのを聞いたはずだ!」
ハリスさんとメルディは、あの時離れた位置にいて見張りをしていたから、ニコの小さく抑えられた声が聞こえなかっただろう。だから実感できなくても無理はない。でもロウガさんにはしっかり届いたはずだ。あの切羽詰まった懇願が。
三頭の馬を川辺に連れて行って水を飲ませていたロウガさんは、食ってかかるように確認する俺を見て、少し困ったように眉を寄せた。
「トウイ……まずは落ち着け」
「落ち着けって?! むしろどうしてこの状況で落ち着いていられるんです?! 事態は一刻を争うんだ、殺されるのは今夜かもしれないし、明日かもしれないってニコは言ってた。フィリーって子の精神は極限状態にある。今すぐ助け出さないと二人ともどうなるかわからないってのに、どうして悠長に構えてられるんですか!」
「やれやれ、若いのは血の気が多すぎていけません」
軽く肩を竦めるメルディを睨みつけると、ハリスさんが大きなため息をついた。
「この密偵がいけすかないのは山々だが、今だけは同意せざるを得ないな。ロウガさんの言う通りだ、ちょっと落ち着けトウイ。思ってもいなかったことを聞かされて混乱してるのはわかるが、お前の頭はマトモに働かせられる状況じゃない」
「けど!」
「何にしろ、今すぐあの壁をぶち破って中に飛び込んでいこうってほど、お前も単細胞じゃないだろ。座って、気持ちを鎮めろよ」
「……っ」
忌々しいが、ハリスさんの言葉には理が通っている。確かに、いくら俺が焦ったところで、今すぐどうこうできる話じゃない。
下の砂を蹴りつけるような乱暴な動作で、その場にどっかりと座り込む。
守護人はさっきから、静かに岩にもたれて腰を下ろしていた。その無表情と沈黙からは、彼女が何を考えて、どちらの意見に与しているのかはまったく窺い知れない。その傍らで、おろおろとした風情のミーシアが、あちらとこちらを見比べるように顔を動かしている。
「……見捨てろ、っていうんですか」
喉の奥から絞り出すようにして問いかけた俺の言葉に、ロウガさんとハリスさんがちらっと互いの顔を見合わせた。
「そんなことは言っていない。しかしまずは慎重にならなければ、ということだ」
ロウガさんの冷静な声に、苛つきが募る。顔を見せないように下を向き、右手を自分の髪の毛に突っ込んでぐしゃりと掻き廻した。
慎重に、って。
ロウガさんは、いつもそればかりだ。そんなことを言ってる場合じゃないだろ。早く行動に移さないと、二人の子供が死んでしまうかもしれないのに。
……サリナの時だって、結局、間に合わなかった。
「トウイ、よく考えてみろ。そのニコって子供の言ったことが、事実かどうかも定かじゃないんだ。まだ小さいから、物事を大袈裟に言っている可能性もある。子供の目で見ていることが、大人の目で見ても正しいとは限らない。ただ単に、他人にうつる病気の子供を隔離して保護しているだけ、ってケースもあり得るんだぞ。もっと言えば、閉ざされたあの街の中にいる子供たちの、退屈を紛らすための遊びってことも──」
「ハリスさんは見てないから!」
俺は怒鳴って、地面を掌で激しく叩きつけた。
「あの子の怯えた目を、フィリーをたすけてって頼むあの泣き顔を見てないから、そんなことが言えるんだ! 見てたら、絶対にそんなことは言えっこない! あれがウソや遊びなんかであるもんか! あんなにも痩せ細った腕を、一生懸命こっちに伸ばして、救いを求めてたんだ!」
もがくように、縋るように、こちらに向かって伸びてきた小さな手。
あれを見たら、遊びだなんて口が裂けても言えるはずがない。
「では、それが事実だったとして」
メルディが、どこか揶揄するような、しかし芯までひえびえとした声音で言った。
「なぜ、関係のない私たちが助けてやる必要がありますか?」
「な……」
俺は目を瞠った。
何を言ってるんだ?
「私たちがやろうとしていたのは、テトの街に住み着いている連中が信奉しているという『神』について調べること、でしょう。そのしょうもない儀式がどんなものなのか見届けるというのならともかく、生贄にされる可哀想な見ず知らずの子供を助ける、というのはまた別じゃございませんか。危険を冒してまで、彼らの命を救ってあげる義理も義務も、こちらにはない、という話ですよ。一言で言えば、知ったこっちゃない」
「いい加減にしろ、メルディ!」
思わず立ち上がり、冷笑を浮かべているメルディを、女性だということも忘れて掴みかかりそうになる。
「やめろ、トウイ。あんたもだよ、密偵。いちいちこいつを挑発するような言い方をするな」
俺の腕を掴んで止めたのはハリスさんだった。うんざりした表情を隠しもしないハリスさんに、メルディがくくっと笑いながら後ろに退く。
「メルディのお遊びに乗るんじゃない。ああやってわざわざ露悪的に言って、お前を怒らせようとしてるんだからな」
ハリスさんはそう言って、「あのな、トウイ」と苦々しい顔つきで俺を見た。
「言い方は悪いが、基本的には俺もメルディの意見に賛成だ」
俺は驚いてハリスさんを見返した。
そりゃ、ハリスさんは確かに他人を突き放すようなところもあるけど、俺にとっては世話好きで気安いよき先輩だ。そんなことを言う人だとは、思ってもいなかった。
「……そんな、最低の人でなしを見るような目をするなよ」
ハリスさんが、ますます苦虫を噛み潰したような顔になる。
それからいきなり、俺の腕を掴んだ手にぐっと力を込めた。ぎりぎりと容赦ないくらいに絞めあげて、俺に厳しい目を向ける。
「じゃあ聞くが、トウイ、お前の役目はなんだ?」
「な……なにって」
痛みに顔を顰めて、俺は困惑しながら口ごもった。
「お前がまず最優先にしなきゃいけないのは、護衛の仕事のほうだろうが。なにより真っ先に考えなきゃいけないのは、シイナさまの安全。そうじゃないか? 守護人の護衛官を解任されて、それでもお前は自分自身の意志で、この旅の間、彼女を護ると決めたんだろう。忘れたのか?」
俺は思わず、ぱっと守護人を振り返った。
彼女は何も言わず、何も動かず、いつもと変わらない表情と態度で、俺のことをじっと見ていた。感情を読み取らせない、吸い込まれそうな黒い瞳が、逸らされもせずこちらを向いている。
そうだ、俺は彼女の護衛だ。近くにいて、護ろうと決めたのは自分。もちろん、忘れてなんていない。
「お前が勝手に突っ走って、そのとばっちりで、シイナさまにまで危険が及ぶようなことになったらどうする? テトの街の中にいるのが、攫ってきた子供を躊躇なく次々に手にかけるような狂った連中だったら、なおさら、どんな行動に出るのか予測がつかないんだぞ。見知らぬ子供を助けて、代わりに、シイナさまが傷を負うようなことが、万が一にもないとは言えない。この際だからはっきり言うが、お前のその子供じみた正義感は、時には凶器にもなりかねないってことを自覚しろ」
「──……」
その言葉は、俺の心臓をまっすぐ直撃した。
両肩が落ち、身体から力が抜ける。それを確認して、ゆっくりとハリスさんが手を離した。
凶器にもなりかねない、子供じみた正義感。
そうなんだろうか。
俺の単純な行動のせいで、守護人だけでなく、他の仲間にも危険が降りかかったら──
「何もしないと言っているわけじゃない、トウイ。だが実行に移すのは、もっとちゃんと調べてからにしよう。あの子供の言うことが本当なら、治安警察だってこのまま放置はしないはずだ」
宥めるようなロウガさんの声に、俺は唇をぐっと引き結んで、視線を下に向けた。
その意見に、間違いはないんだろう。守護人の護衛としては、きっとそれが模範解答なんだ。今すぐにでもテトに取って返してニコたちを助けたいと思う、俺の考えこそが、あまりにも幼くて浅はかすぎる、ということだ。
でも。
本当に、それでニコたちは救えるのか?
調べて、警察に訴えても、すぐに対応してもらえる可能性は極めて低いと、ロウガさんだって知っているだろうに。
ぐずぐずしている間に、二人もの命が失われてしまうかもしれない。そのことが判っていて、それでも歯噛みをしながら時期を待つのが、果たして「正しい」ことなのか?
「……俺はあの子に、必ず助けるって約束したんだ」
ぽつりと呟くと、ハリスさんが素っ気ない口調で止めを刺した。
「だったら、そこからがお前の失敗だったんだ。お前は軽々しく、そんなことを約束しちゃいけなかった。確実性のない希望を与えることは、同時に、絶望を与えることにもなると、これから肝に銘じておけ」
「…………」
強く拳を握りしめる。
──俺はあの子に、希望ではなく、絶望を与えたってことか。
今か今かと暗闇の中で一筋の光を頼るように、助けを待っているあの子供が、どこからも救いの手が差し伸べられないと悟った時、どれほどこの世界と人とを、恨み、呪うだろう。俺はその恨みと呪いと絶望とを、ただ大きくする手助けしかしなかった、ってことか。
だけど、じゃあ──じゃあ。
俺はあの時、どうすればよかったんだ。
あの小さな手を、必死に伸ばされた細い腕を、掴まずに見ているだけにしておくべきだったのか。
いつか助けが来るから頑張れと通り一遍の慰め方をして、あとは他の誰かに任せておけばよかったのか。
ニコへの対応は失敗だった、次からは気をつけよう──それでいいのか?
「……そんなわけない」
ぼそりと低い声が、勝手に自分の口から滑り出た。俺の近くを離れて馬のところに行こうとしていたハリスさんが、ちっと舌打ちしてまた振り返る。
「トウイ、お前まだ……」
俺はそのハリスさんを、キッと強く睨み返した。
そうさ、俺は単細胞で、考えなしの、浅はかな子供だ。いつもこうやって、頭に血を昇らせて、バカな過ちばかりを繰り返し、周囲に迷惑をかける。わかってる、わかってるんだ。けど。
「けど、そんなわけない! あの時、ニコは本当に心の底から、助けを求めて手を伸ばしてた! その手を掴まないほうがよかった、なんてこと、俺は絶対に思わない! 自分の目の前に、すぐそこに、失いかけている命があるっていうのに、それを見過ごしてまで他の何を守れるのかわからない! それが正しいことだなんて、俺は認めない!」
怒鳴ると同時に、ハリスさんの腕が伸びてきて、胸倉を掴まれた。
「お前が認める認めないなんざ関係あるか! 自分がなんでも出来るなんて自惚れんなよ、このガキが! てめえのこともてめえで守れないやつが、偉そうなことばっかりほざくんじゃねえ!」
「なんでも出来るなんて、思ってない! 自分にぜんぜん力が足りないことはわかってる! でも、それとこれとは別だ!」
「別のわけあるか! お前は物事の優先順位もつけられないのか!」
「なんの優先順位ですか! 命の?! そんな──」
命に優先順位なんてつけられなくて当然だ、と続けようとした俺の口が、そこで止まった。
半ば口を開けたまま、視線がそちらに据えられ動けなくなる。怒鳴り返そうとしたらしいハリスさんも、俺のその様子に怪訝な面持ちになってそちらの方向を振り返り、同じように言葉を呑み込んだ。
呆然としたまま、俺はそれを見つめることしか出来ない。
……守護人が、泣いている。
見間違いなんかじゃない。
表情は変わらないのに、伏せられた彼女の黒い瞳からは、確かに、涙の粒が落ちていた。
ぽつり、ぽつりと。
透明な滴が、珠のようにひとつひとつゆっくりと零れては、光に反射して輝く。
彼女は瞬きをせず、だからこそもどかしいほどの緩やかな動きで瞼の下から湧いてくる涙は、静かに地面へと落下しては消えていった。
誰もが言葉を失ってしんとしている中、守護人がするりと立ち上がった。
「シ、シイナさま……」
張り詰めた表情と声で名を呼ぶミーシアに、一言、「……顔を洗ってきます」とだけ告げて、川のほうへと歩いていく。
まるで、自分が泣いていることに気づいていないように──そんなことがあるわけないのに、彼女は、零れ落ちる自分の涙を拭いもしなかった。
「…………」
俺はその背中を黙って見つめ続けた。すっかり気が削がれたハリスさんが、小突くように手を離したが、それさえも意識にのぼらないくらいだった。
声も出ないほど、自分が激しく動揺しているのが判る。
どうして?
どうしていきなり、泣きだしたんだ。俺のせい、なのか? 俺とハリスさんが争っているのがそんなに怖かったのか。いや、その理由はあまりにも、今まで俺が抱いていた彼女のイメージにそぐわない。まだしも、目にゴミが入ったとか、そういうことのほうが納得できる。
いや──いいや。
実を言うと、そんな理由だって、どうでもいい。
はじめて見た、彼女の涙。
どうしてこんなにも、胸が痛むんだ。
***
俺とハリスさんの言い争いはうやむやのまま終わってしまったが、とりあえず夜までこの場所で時間を過ごして、テトの街にいる連中が寝静まった頃、こっそりと様子を見に行こう、ということになった。
あくまで、様子を探りに、ということで、ニコたちを助けに、ということじゃない。
街の中に入れるならそうするが、張り番が立っていたりして無理なようなら諦めて、朝になったらゲナウに引き返し、治安警察に連絡する。守護人の名前は出せないが、なんとか街の有力者から頼んでみるよう努力しよう、とロウガさんは言った。
今はそれで我慢しろ──と。
俺はそれに、頷いた。
川の水で顔を洗った守護人は、涙を零していたことなんて錯覚だったかのように、いつもと変わりなかった。やっぱりゴミが入っただけなのかもしれない。なんとなく、誰もそのことについては訊ねなかったので、本当のところは判らないままだった。
テトに様子を見に行くのは、ハリスさんとメルディの二人に任された。守護人とミーシアはもちろん留守番だから、ロウガさんは彼女らの護衛のためこの場に残る。俺を行かせると暴走しかねない、と危惧されているのか、「お前も残れ」と命じられた。
俺はそれにも、頷いた。
動くのは夜が更けてから、状況次第によっては明け方までここには戻れないかもしれないので、ハリスさんとメルディは日暮れから軽く仮眠をとる。その間、残る俺たちは、夜のための準備をはじめることにした。
「こんな硬い地面で眠らなきゃならないとはねえ」
メルディは不満げにぶつぶつ言いながら、毛布にくるまった。
「お前、ホントに密偵かよ。地面が嫌なら、岩の上で寝ろ」
と言い返したのはハリスさんだ。寝る時まで、この二人は喧嘩をしないと気が済まないらしい。
「枝が足りないですよね」
もっと暗くなったら火を焚かなければいけないが、なにしろこのあたりは岩は多いが樹木は少ない。いろんな場合を想定して、ニコの話を聞きに行くまでの時間で、薪用の枯れ枝をかき集め、荷と一緒に馬に括りつけておいたのだが、それでも夜通し焚くには少々心許ない量だった。
「ギリギリ、というところかな。どちらにしろ、そう目立つほど火を大きくするわけにはいかないし、今は寒い時期でもないから大丈夫と思うが……」
ロウガさんが考えるように、積んだ枝を見て首を傾げる。
「夜は煮炊きをするんだろ? ミーシア」
俺が聞くと、ミーシアは兄と同じように首を傾げた。
「そうね……シイナさまに、少しは温かいものを差し上げたいから」
これからその支度に取り掛かるのだろう。荷物の中から、小さな鍋を取り出したり、食材を揃えたりして、忙しそうだ。守護人はその様子を眺めて、バタバタするミーシアの周りから、つまずいて転びそうなものをさりげなく取り除いてやっていた。
「じゃあやっぱり足りないかもしれないですね。俺、もう少し探してきます」
「……お前一人でか?」
ロウガさんの俺を見る目には、ありありと警戒心と猜疑心が宿っている。信用ないな、と俺は苦笑した。
「だってハリスさんには少しでも休息を取っておいてもらわないといけないでしょ? ロウガさんまでここを離れるわけにはいかないし。まだそんなに暗くないから、俺一人でも大丈夫ですよ」
「そういうことじゃなく……」
勝手なことをするつもりなんじゃないだろうな、という含みをたっぷりもたせた言い方をして、ロウガさんが測るような目つきをした。他にどうしようもなくて、俺はますます苦笑を深くする。
「さっきは興奮しちゃったけど、俺、これでも、ハリスさんの言ったことも、ロウガさんの言ったことも、ちゃんと理解してます。確かに、感情的になりすぎてました。ニコのことは心配だけど、今夜すぐにどうにかなるってことでもないですよね。ハリスさんたちが何かを探ってきてくれるのを待って、それからのことはまた考えます」
「──うん」
ロウガさんが重々しく首を縦に振る。もともと表情が厳ついから判りにくいけど、俺の言葉に安堵しているようだった。
「じゃ、いってきます」
軽く手を挙げ、俺は踵を返し、走り出した。
ちょっと走ってから、後ろを振り返り、五人の姿が岩の向こうに隠れていることを確認し、ほっとする。見通しが悪いってのは、こういう時、便利だよな。こちらからも見えないってことは、あちらからも見えないってことだ。
俺はそのまま、勢いよく地を蹴った。
もちろん、薪を集めに行くためなんかじゃない。
すみません、ロウガさん、ハリスさん。
俺はやっぱり、二人の言うことを理解はしたけど、納得は出来ない。
結局、どうしようもなくガキなんだ。そういうことだよ。
***
テトの街に着いた頃には、辺りはもう暗くなりはじめていた。
もうしばらくしたら、ロウガさんも俺が戻らないことに気づくだろう。ハリスさんを叩き起こして、こちらに向かわせるまで、そんなに猶予がない。それまでに街の中へ入り込む方法を見つけておかないと。
腰を屈めて身を低くしながら、壁に沿って歩く。相変わらず、中からは人の気配も話し声もしなくて、ひどく不気味だった。いくらなんでも、もう寝てるってことはないだろうと思うんだけど。
中の連中がどんな風に暮らしているのかまったく判らない以上、迂闊に壁によじ登ったりするわけにはいかない。高さがあるからまず土台が必要になるし、一人では難しい。壁の上まで登りきったところを簡単に見つかったら、それで何もかもが台無しだ。
「やっぱりどこかの穴から入るしかないか……」
「そうですね」
「…………」
独り言のつもりで呟いたら、返事があった。
ぱっと振り向いたら、俺のすぐ後ろに、守護人がちんまりと足を折り曲げて腰を落としていた。驚愕で、目と口がぽっかりと丸く開いた。叫び声を上げなかっただけ、まだしも俺は偉い。
「なっ……な、な、な」
「しー」
動転しきってどもる俺に、守護人がしれっとした顔で人差し指を唇に当てる。俺は身分とかそういうものを一切忘れて、彼女の両肩をがしっと掴んだ。
「なにしてんです?!」
眉を吊り上げ、ひそひそ声で詰問したが、守護人は平然としたままだ。
「なにって、トウイさんを追ってきたんですけど。けっこう疲れました」
ホントになに言ってんだ?!
「ロ、ロウガさんが」
はっと気づいて顔を上げ、慌ててキョロキョロと周囲を見回す。ロウガさんと一緒に追ってきた、という意味なのかと思ったのだが、目を皿のようにしてもその人の姿は見当たらない。
「ロウガさんとミーシアさんには、ちょっとトイレ、と言ってきました」
「勝手に一人でここまで来たんですか?!」
叱りつけるようにそう言った途端、守護人を取り巻く空気がすうっと冷えた。表情は変わらないのに、なんか怖い。
「どの口がそれを言うんですか。この口かな?」
唇の横の皮膚を思いきりぎゅううっと引っ張られる。ついでに容赦なくつねられる。痛い痛い痛い!
守護人は、ぱっと手を離してから、ふうーと深い息を吐きだした。
「どうせすぐに気づかれますよ。首根っこ引っ掴んで連れ戻される前に、街の中に入る手段を見つけましょう」
じんじん痺れる頬をさすって、俺は唖然とした。
「ま……まさかと思いますけど、シイナさまも一緒に」
「仕方ありません」
いや、仕方ないって、なんか変じゃないか?! 守護人を巻き込まないために俺一人でここに来たのに、それじゃ意味がないというか、より悪いんだけど!
守護人はもう一つため息を落として、視線も一緒に下に落とした。
「……いっそ、トウイさんの手足を縛りつけておくか、首から下を埋めちゃおうかな、とも思ったんですが」
真顔で物騒なことを言うのはやめて欲しい。冗談に聞こえない。
「でも」
守護人の目がふらりと彷徨うように揺れた。
地面から虚空へ、何かを探すように。
「──でも、きっと、それじゃ意味がないんですね。そうすれば確かに止めることは出来るんでしょうけど、それを、『助ける』とは、たぶん、言わない……」
小さな声で、ぽつぽつと言葉を出すその姿が、不意に、頼りないひとりの女の子に見えた。
自分の手が動きかけていることに気づいて、意志で強引に押さえつける。
……俺は、何をしようとしてんだ?
「トウイはトウイのまま、生きなきゃいけない。そうでなければ、わたしはここにはいないから」
そう呟いて、彼女の視線がこちらに戻ってきた。
まっすぐ向けられるその瞳から、俺は目を離せない。
「だから、一緒に行きます」
揺るがない声で、きっぱりとそう言った。
俺は知ってる。イヤってほど、知ってる。この顔、この言い方。
もう、誰にも止められない。