4.現実
神獣の守護人には侍女がつく。
この国では、身分が高ければ高いほど、身の回りの世話をする人間の数が多くなる傾向がある。神官たちも、勢力を持ちだすと、途端に望みたがるのが新しい侍女の補充だ。日常のこまごまとしたことを他人にやらせて自分は何もしない、というのが、対外的に顕示できるステータスのひとつになる。神官ですらそうなのだから、ましてや神獣の守護人は大勢の侍女がついて当然、と誰もが考えていた。
だが、大神官が引き連れて並ばせた数人の侍女の中から守護人たる少女が選んだのは、ミーシア・セム・ライドただ一人だけだった。
なんでも、「着替えも食事も自分で出来るから面倒を見てくれるのは一人で充分」というのが彼女の言い分だったそうだ。
それでは下の者に示しがつかない、と大神官はやっぱり反対したが、「わたしはイレギュラーだから上も下もありません」と平然と返され、やむなく引き下がったらしい。そろそろ大神官も、この守護人を言葉で説き伏せるのがいかに困難であるかということに、気づきはじめてきたのだろう。
そんなわけで、その大役を任されたミーシアは、緊張し、上擦り、またこれ以上なく、張り切ってもいた。
「どうして守護さまが私を選んでくださったかは判らないのだけど、とっても光栄なことだもの! 何ひとつご不自由な思いをされないように、気をつけなくちゃ!」
ミーシアはロウガさんの妹で、護衛官の詰所にもよく顔を出すし、俺とは年齢が近いこともあって、以前から会えば親しく会話を交わす仲である。神ノ宮で顔を合わせた彼女は、興奮と喜びに少しふっくらとした頬を紅潮させ、俺に向かって早口で意気込みを語った。
「ミーシアの、『お世話したいです』って気持ちが、あからさまに顔に出てたんじゃないのか?」
俺はそんな彼女に若干苦笑して、率直に思ったことを口にする。
ミーシアは兄と違い、かなり感情表現が豊かなのだ。腹を立てれば怒るし、悲しい時はしくしく泣くし、楽しい時は周りまで朗らかにさせるほど屈託なく笑う。心を読む能力がなくたって、ミーシアが何を考えているかは、俺でも判るくらいだ。
「まあ、いやだ、トウイったら! そんなことはないわ、私は他の侍女たちと一緒に頭を下げていたんだもの! 顔なんてご覧になってないのよ。なのに守護さまは迷われもせずにすっと私の手をお取りになって、『わたしの世話はこの人にお願いしたいんですけど』って仰られたの! 夢のようだわ!」
「夢じゃなくて現実だよ。ただ、ちょっと頭の中の物語と混同してるだけじゃない?」
ミーシアの口調とうっとりした顔つきが、まるで王子に見初められたようなものだったから、ついからかう言い方になった。案の定、「まあ!」と眉を上げられる。
「失礼ね、本当よ! きっと、私がものすごく緊張して手も足もぶるぶる震えていたから、気を遣ってくださったんだと思うわ。守護さまはお優しいかたね、トウイ!」
「さあ……」
優しい、かどうかは俺にはなんとも言えないので、曖昧に首を捻る。実際のところ、特に理由なんてなくて、その時適当に目についた侍女の手を取っただけなんじゃないかな、という気もするんだけど。あの少女の淡々とした態度を思い返すに、そちらのほうが可能性としては高い。
しかし事実はどうあれ侍女にとって名誉なことには違いないので、俺は余計なことは口にせず、友人の幸運を祝うことにした。
「よかったな、ミーシア」
「ええ」
ミーシアがにっこり笑う。
ちょっと単純なところや、感情がわかりやすいところは、侍女としてマイナスの資質なのかもしれないが、俺はそこも彼女の長所であると思う。なにより、とても心根が優しくて、愛情深い。きっと、何も言われずとも、せっせと少女の身の回りのことに心を砕き、裏表のない忠誠を尽くそうとするだろう。
ほとんど気持ちの動きが読めないあの守護人の傍に仕えるのなら、確かにこういう人間のほうがいいのかもしれない──とミーシアの笑顔を見ながら考えて、俺は今さらなことに気がついた。
……そういえば、神獣の守護人が笑ったところを、今まで一度も見てないな。
***
一通り神ノ宮の建物内を見て廻って満足したのか、今度は少女は建物の外を徘徊しはじめた。
徘徊、ってのも言葉が悪いかなとは思うんだけどさ。少女の足取りに相変わらず迷いはないが、特にこれといった目的があるようにも見えないんだからしょうがない。あっちこっちをぐるぐると巡って、神ノ宮の高く頑丈な塀を見上げて口を曲げたりしているのは、一体なんの意味があるのか。まさか脱走でも企てているんじゃあるまいな、と勘繰りたくもなる。もしもそんなことになったら、俺たち護衛官は比喩ではなく首が飛ぶ。
ある日、神ノ宮の建物裏の端までずんずん進んでいく少女を見て、とうとう辛抱の切れた俺は、彼女の後ろ姿に向かって声をかけた。
「守護さま、ご覧のとおり、こんな所には何もございません。早くお戻りを」
どこもかしこも美しく整えられた神ノ宮──と言いたいところだが、敷地が広大すぎるゆえに、どうしても目の届かない場所というものはある。建物から離れ、人目につかず、雑草まで生い茂ったこんな区域に、これからも軽々しく立ち入られては困る。思わぬ危険がないとも限らないし、なにしろ手入れの行き届かない場所だから、草で引っ掻いたり棘が刺さったりすることもある。俺には大したことのないものでも、守護人の身体に傷がついたら一大事になりかねない。
少女は、俺の言葉にぴたりと足を止めて、こちらを振り返った。
「もうすぐ最奥の間に──」
「トウイさん、あそこ」
言いかけたのを遮るようにして声を発したのは、最奥の間に行くのをごまかそうとしたわけではないらしい。細い人差し指で示された方向に、ん? と俺も顔を向ける。
指されたところにある塀は、下の部分が一部壊れて、小さな穴が開いていた。
「ああ……壊れてますね」
さして驚きもせず、俺は言った。
神ノ宮は伝統のある古い建物だからな。威儀を示すためにも、人の目に触れるところはいつも美しく保たれて、どこかが欠けようものならすぐに修繕されるのだが、さすがにこんな隅っこのほうまでは目も手も廻りきらない。
「あれが、どうか?」
「危ないですよ」
「危ない?」
あんな穴くらいで、塀全体が崩れてくることはないと思うんだけど。
「侵入者が入りやすいです」
「侵入者?」
間抜けな反問を繰り返す。子供が興味半分で覗いてみたりすることはあるかもしれないが、さすがにここに入ってくるような愚は犯さないだろう。神ノ宮への不法侵入はいかなる理由があろうと死罪、そんなことは誰でも知っている常識だ。
「賊が入り込むと? そんなことはあり得ません。たとえばどうやってかこの敷地内に入り込めたとしても、神ノ宮の厳重な警護をかいくぐって建物内に侵入するのは不可能ですから」
「…………」
少女は口を噤んで俺の顔を見た。
もしかして、そんなことを心配して、今まで神ノ宮の中と外をうろついていたのかな、と思いつく。まるで、家に泥棒が入ってこないかと空想してドキドキし、やたらと戸締りを気にする子供みたいに。しっかりしているようで、やっぱり思考は幼いところもあるのか、と考えれば、なんとなく微笑ましい。
「一人や二人ならそうでしょうけど……」
少女は眉を曇らせて、塀の穴を見ながら呟くようにそう言い、再びくるっとこちらを向いた。
「トウイさん」
「は、はい」
今度は何だ。その真面目な顔つき、緊張するからやめてくれ。幼い、と思ったのがバレたかな?
「……知っている範囲でいいので、この国と他の国の現在の情勢を教えてもらえませんか?」
「は?」
この国と他の国の情勢?
「えっと……そういうことは、神官のほうからお聞きになったほうがよろしいのでは?」
異世界から来た守護人にこの世界のことをいろいろ教える勉強係、みたいな役割の神官が、複数いるはずだよな。礼儀や作法やしきたりなんかと一緒に、そういった基本的なことも説明されているはずだけど。
「神官さんたちはダメです。あの人たちはこの神ノ宮の外に出ないから、本に書かれた知識しか頭にありません。視野が狭いし考えも偏屈です。おまけに、いばりんぼうです。自分の知っていることが世の中のすべて、と思い込んでいるフシがあります。そういう人たちに、客観的な観察眼は望めません。わたしはもっと生きた情報が知りたいんです」
「…………」
いばりんぼう……。
「神官は、ダメ、ですか」
「ダメですね」
ふうやれやれといった調子で首を横に振る。
「お偉い神官様」たちも、守護人にかかると一刀両断だな、と噴き出しそうになった。
神官というのはえてしてやたらと気位ばかりが高くて、人を人とも思わない態度をとるやつも多いので、気分的に、ちょっとスカッとするのは否めない。
「しかし俺、いや私も、そんなによくは……」
「ですから、知っている範囲でいいです。それから、トウイさんの話しやすい言葉で構いません。ここには人の目も耳もありませんし」
「…………」
当惑したが、こちらにまっすぐ向かってくる真っ黒な瞳の真摯さと、どこか逸らすことを許されないような一途さに負けた。
確かに、ここなら誰にも見られることも、聞かれることもないし。
……少しくらいは、いいよな。
「本当にそれほど大したことはお教えできないと思いますけど」
「お願いします」
そう言って、少女がちょこんとその場に座り込み、話を聞く態勢になった。下は地面だというのに、まったく気にする素振りもない。ちょいちょいと手で促され、やむなく俺もその場に腰を下ろす。
こうしてると、なんだか変な気分だな。座って向かい合うと、身体だけでなく、気持ちの距離まで近くなるっていうか。いいのかね、神獣の守護人とこんなことして。
少女はいつものように街の男の子のような格好をしているが、靴はあの扉を通った時に履いていたものだった。俺には複雑そうに見える履物でも、これが彼女にとっていちばん動きやすいということだろう。
その靴から覗くくるぶしが細いことに気を取られそうになって、俺は空咳をしてから改めて口を開いた。
「えーと、七つの国のことについてはご存知ですか」
俺の問いに、少女は「はい」と頷いた。
「このニーヴァを一ノ国として、二ノ国ゲルニア、三ノ国カントス、四ノ国スリック、五ノ国モルディム、六ノ国キキリ、七ノ国ドランゴ、ですね」
「その通りです」
応じながら内心で舌を巻く。こっちに来てまだ日が浅いのに、こんなにもスラスラと国名が口をついて出るとは。大した記憶力だ。
七つの国は、それぞれその国を象徴する別名を持っている。砂の国、火山の国、湖の国、森の国、鉱山の国、大地の国、というのがそれだ。一般的に、正式な国名を呼ぶよりも、こちらで呼ぶ場合が多い。そのほうが、判りやすいからだ。
七国の中で唯一神獣を戴くこのニーヴァの国の別名は、「光の国」という。
「あちこちで小競り合いは絶えませんが、今のところ、目立った動きはないかと。砂の国ゲルニアと、火山の国カントスは、以前からニーヴァの領土を虎視眈々と狙っているようですが、国力は断然こちらのほうが上ですから、一歩たりとも侵略を許さぬ構えとなっているはずです。あと、鉱山の国キキリと、その隣国である大地の国ドランゴは国境でずっと争っていて、まだしばらく決着のつく様子はありません。森の国モルディムは最近王が代替わりして内政が安定しておらず、湖の国スリックは昔から穏やかな治世が続いているようです」
俺は地面に指で七国の地図を描き、国を一つずつ示しながら説明した。
「…………」
少女は目線を下に向け、じっと黙って考えているようだったが、少しして、ぼそりと、「かなり……違う」という戸惑ったような低い声が唇から洩れた。
それからまた顔を上げた。彼女の指が、輪のようになった七つの国の真ん中を指す。
「──八ノ国については、どうですか」
その質問に、俺は意表を突かれて一瞬言葉に詰まった。神官は、そんなことまで守護人に話していたのか。
「八ノ国、といっても、それは」
「知っています。そこは正式には国じゃない。妖獣の住む土地、人間は誰も入れないという草原地帯ですよね?」
「そうです」
八ノ国、妖獣の国、草原の国。
そんな風に呼ばれているが、実際、そこは国でもなんでもない。七つの国の中心、世界の真ん中に、ぽつんとある草原地帯、人跡未踏の地のことだ。
一面に広がる草原に住むのは、恐ろしげな外観をした妖獣のみ。彼らはその地から出てくることはないが、代わりに人間の侵入も許さない。一歩でもその領域内に入った人間は、あっという間に妖獣たちに喰われてしまうという。
干渉不可の草原帯。妖獣のみしか生きられない不毛の「国」だ。
しかしそれが七国の真ん中にあるからこそ、七つの国は他国を容易に攻められない、という事情もある。
「実際、妖獣の姿を見たことはないので、話として聞くだけなんですけど」
しかし神獣とは違い、妖獣の絵姿は国のあちこちに出回っているから、なんとなくこんなものかと思い浮かべることは出来る。四つ足だったり二本足だったりする毛むくじゃらの巨大な獣、大きく凶暴な嘴をもった怪鳥は、明らかに家畜などとは種類の違う生き物だ。
「そういえば」
妖獣のことを考えていたら、最近耳にした、どこまで本当か判らない与太話を思い出した。守護人にわざわざ言うまでもないようなことだが、ついでだしな、まあいいか。
「近頃、その妖獣の数が減ってるらしい、っていう噂があるんです」
「え?」
少女が目を大きく見開いた。こちらを凝視したまま、動きを止める。
「減ってる?」
「まあ、噂なので、どこまで本当なんだか……草原地帯とニーヴァの国との境には、一応、見張りのための砦があるんですけど、そこからたまにちらっと姿を見かけていた妖獣が、このところまったくなくなった、っていう話なんです。草原地帯の上を飛ぶ鳥のような妖獣もめっきり見かけなくなったって。もしかしたら、このまま数が減っていって、いずれ滅んでいく種族なのかもしれませんね」
噂が本当なのだとしたら、そう結論づけるしかないだろう。自然淘汰というやつだ。しかしあの草原地帯がなくなったら、その時こそ、国同士の本格的な争いが始まるのかもしれないな。
「……トウイさん」
突然、すっと少女が立ち上がる。光の加減でか、顔色があまり良くないように見えた。
「建物に戻りましょう」
「あ、はい。どうされましたか、ご気分でも」
建物に戻ってくれるのはありがたいが、体調を崩したとしたら大変だ。少女は俺の問いかけもろくろく耳に入らない様子で、すでに方向を変え、歩きはじめていた。慌ててその後を追いかける。
強い眼差しを前方に向けて足を動かしながら、彼女は左の腰に下げている剣の鞘をぎゅっと握った。
「トウイさん」
「はい?」
「姿が見えなくなったのは、数が減ったから、とは限らない」
「は?」
「──どこかに偏っている、という可能性もあります」
***
それから、少女の動きはさらに不可解なものになった。
最奥の間に行かなければならない時間以外は、ひたすら大神官と話をしたがる。どんな話をしているのか、その場から護衛官は締め出されているので内容は判らないのだが、どうも何かを頼んでいるようだ、ということは薄々判った。
神獣の守護人の頼みであるなら一も二もなく聞きそうなものなのに、大神官の困り果てた顔を見るに、それは彼の一存だけでどうにかなるものではないようだった。
「急を要するって言ってるじゃないですか!」
一度ならず、扉の向こうから、そんな声が聞こえてきたこともある。あの少女が声を荒げるなんてよほどのことではないかと思うのに、大神官の返答は歯切れが悪い。「とにかくあちらに使者は送ってありますので、どうぞもうしばらくお待ちを」と言いながら、逃げるように扉を開けて出てくる。部屋の中では、拳を握り唇を噛みしめる少女の姿が見えた。
大神官でも対応を急がせることが出来ない相手──というと、考えられるのは王ノ宮にいるカイラック王くらいしかいない。
どうやら少女は、王への謁見を求めているらしい。
そして王は、今のところその求めに対し、無視を決め込んでいるらしい。
きっと、神獣の剣の一件を未だに腹に据えかねておられるんだろう。王も大人げない。どんな用件にしろ、守護人がこんなにも切羽詰まった表情で頼んでいるのだから、応じてやってもよさそうなものだ。
けど、まあ、いつまでも知らんぷりでいられるものでもないからな。数日くらい焦らして楽しんでから、もったいぶって謁見の許可を下すつもりなんだろう。
少女はじりじりした顔つきで、神ノ宮の中を歩き回ることもせず、私室にこもることが多くなった。
そうなったら、その場所には立ち入れない俺は、彼女の顔を見る機会もなくなる。
最近は食も細くおなりで、夜もあまり眠っていらっしゃらないようなの──と、侍女であるミーシアが心配そうに言うのを、どこか疼く胸を持て余しながら聞くだけだ。
片時も剣を手放さず、寝台の上で座り込み動きもしない。よくよく見れば、指の先が小刻みに震えている。
あの真っ黒な瞳で宙の一点を見据え、まるで必死に恐怖と戦っているようだ、と。
──結果として、カイラック王からの謁見の許しが、神ノ宮の少女の許に届くことはなかった。
その前に、王ノ宮が、妖獣の大群によって襲撃を受けたからだ。
ニーヴァ国は、そこから一気に滅亡へと向かうことになる。
非情な「現実」のはじまりだった。