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2.沈黙



 案内をしてくれるハリスさんについて宿に向かいながら、わたしはゲナウの街並みを観察した。

 すぐに気づいたのは、大部分はマオールの街と似たような感じであるけれど、一部異なるところもある、ということだ。

 マオールは、どこを見ても、同じような形、同じような大きさの四角い建物ばかりだった。街全体が、というわけではなく、区画によって同じくらいの建物が揃っているのだ。小さいところはみんな小さく、大きいところはみんな大きい。

 それに対しゲナウでは、その中にぽつりぽつりと、違う大きさの建物が混じっていた。

 大きいといっても他の家の二倍くらいだけど、それが縦に細長かったり、横に広がっていたりする。そして他の家は、小さな窓が明かりとり用に二つか三つあるだけなのに、これらの建物は、窓が四つも五つも等間隔で並んでいる。

 最初、わたしはそれを見て、これは学校なのかなと思った。その窓の並び具合が、なんとなく校舎を連想させたからだ。

 でも、学校にしては小さいし、数が多い。そういった建物に出入りする人々を何度か見かけたけれど、みんな大人ばかりで、どちらかというとお年寄りが多く、子供は一人もいなかった。


「あれは工房ですよ」

 わたしがしげしげと眺めていることに気づいたのか、隣を歩くメルディさんがそう言った。


「工房?」

「ゲナウは織物で有名な街だ、ということはもうご存知でしょう?」

 問われて、こくりと頷く。盗賊に襲われる前、ゲナウの街に向かう馬上で、トウイが教えてくれた。ぜんぜん気にしたことはなかったけど、神ノ宮のわたしの私室にも、ゲナウの製品がいくつかあったらしい。

 「ゲナウの織物」とは、それだけ、非常に質の良いものであるということ、また、上の階級の人間が使うくらいに高価なものであるということだ。

「ゲナウはもともと小さく貧しい街だったんですけどねえ、織物技術を街全体で向上させていくことで名を上げて、ここまで規模を広げたんですよ。なにしろ織物ってのは、作るのに時間も手間もかかるものでしょ? みんながそれぞれ少しずつちまちまやってたんじゃ生産性が悪い。そこでいくつも工房を作って、人手を集めよう、と考えたわけです」

「へえ……」

 つまり工場だな、と合点がいった。わたしの世界のそれとは大分違うけど、効率を第一に考える、という原点はたぶん同じなのだろう。

「だから、お年寄りが多いんですね」

 織物なら、そんなに力は要らないのだろうし、それよりは腕や経験などのほうがよほど尊重されそうだ。

「まあ、そうですね。ここじゃ、老若男女、働き口に困ることはないでしょうよ。……この街はそういう意味でも、恵まれてますよね。他のところと比べたら、ずっと」

 メルディさんは、独特の皮肉っぽい微笑を浮かべて、片目を眇めた。何かを含んだような言い方だったけれど、それを説明するつもりはないようだった。言っても判らない、ということか、あるいは、いずれ自分の目で見て判ることだから、ということか。

 ……どちらにしろ、この世界、この国で、わたしの知らないことはまだまだたくさんあるらしい。



          ***



 ハリスさんたちが話をつけたというゲナウの宿屋は、そんなに大きくはないけれど、街では珍しい二階建ての建物だった。

 一階が食堂と宿屋の主人の家族の住居で、二階が客を泊める場所になっている。

 部屋は全部で五つ。通常は、見知らぬ客同士で相部屋になるところを、わたしたち一行は人数が多いので、男女三人ずつで計二部屋を使うことになった。

 ──と、説明してから、ハリスさんは改めて確認するようにわたしの顔を見た。

「そういうことで、よろしいでしょうかね」

「はい」

 わたしは頷いたけれど、ハリスさんはどこか納得できないような顔をしている。

「本当によろしいですか」

「はい」

「男女三人ずつだと、一部屋が俺とロウガさんとトウイ、もう一部屋がシイナさまとミーシアとメルディ、ということになってしまうんですが」

 なってしまう、って。

「わたしは構いません。ミーシアさんも、それでいいですか」

「ええ、もちろんです。シイナさまがなるべく窮屈な思いをされないように、頑張ります」

 何をどう頑張るのかよく判らないけど、張り切った顔をしているミーシアさんに水を差すのは悪い気がしたので、黙っておくことにした。

「……密偵は、やっぱり数に入れないほうが」

 ハリスさんは顎に手を当て、なおも考えるようにぶつぶつと言っている。その声を耳にして、ロウガさんが窘めるような真面目な顔つきになった。

「ハリス、いくらメルディが王ノ宮からの命でここにいるといっても、旅の間は俺たちの仲間だ。神ノ宮を密かに探っていたというのはもちろん気分のいいものではないが、今この場所で彼女をそこまで警戒する必要はあるまい」

「そうですよハリスさん。メルディはシイナさまやミーシアと同じ、女性なんですから。まさか一人だけ外に寝かせるつもりじゃないでしょう?」

「はじめから思っていたのだけど、ハリスさんはメルディに対して、ちょっと態度がひどいのではないかしら。密偵というのは王ノ宮から命じられていた仕事としてのことであって、それを個人の好悪感情に結びつけるべきではないわ。メルディ自身はとてもよく気のつく、正直ないい子なのよ」

「そうそう、そうですよー」

 ハリスさんに向かって、ロウガさんとトウイと後輩思いのミーシアさんから、一斉に苦情が降り注ぐ。ちなみに最後の調子のいい相槌は、ものすごく楽しそうにニコニコしているメルディさんのものだ。

「…………」

 ハリスさんは、非常に苦いものを呑み込んだように口を曲げて、四人を見返した。うん、まあ、無理もない。

 不機嫌そうに眉を上げ、くるりとまたこちらに向き直る。

「シイナさま、本当にアレと同室でよろしいんですね?」

「はい」

「夜も同じ部屋で寝ることになりますよ」

「構いません」

 メルディさんは確かにこの上なく胡散臭い人だけど、「そういう意味」での警戒心を抱いたことはない。身体を拭いたり着替えたりする時は、部屋から追い出せば済むことだし。それに想像だけど、わたしたちが眠っている時にこそ、あの密偵は外に出て元気に活動をしていそうだ。

「そうですか。そういうことなら、俺もそれでいいですけどね。じゃあとりあえず、部屋に行きましょう」

 ハリスさんが憤然と言い捨てて、宿の階段を上る。

 それに続いて足を動かしながら、くっくと喉の奥で笑い続けるメルディさんが、こそっとわたしの耳元で囁いた。

「彼は、護衛官たちの中でいちばん、洞察力が鋭いですねえ」

「そうですね」

 やっぱり「女好き」という評判はダテじゃない、ってことかな。女の人が好きだからこそ、女の人のニセモノには嗅覚が働くのかもしれない。確信しているのか、薄々気づいている程度なのかは、定かではないけど。

「今後、どうしましょうか。神ノ宮を出た今となっては、私も別に、この格好をしてる必要はないんですがねえ」

 メルディさんが今身につけているのは、ミーシアさんと同じく長めのスカートだ。それをちょいと指でつまんで、首を傾げる。

「うーん……」

 わたしは小さく唸って、ちらっと後ろを歩くトウイに視線をやった。

 ……さっき、まったく疑いのない口ぶりで、「女性」って言いきってたなあ。

 美人だと憧れてるメルディさんが、ホントは男だってわかったら、やっぱりショックが大きいかな。

「自然にバレるまで、放っておきましょう」

 なるべくトウイの夢は壊したくないし、と思いつつそう言うと、メルディさんは可笑しそうに声を抑えて笑った。

「連中に甘いですよねえ、シイナさまは。その甘さは、どっか変な方向に向かってるようですけど」




 ここですと言われてドアを開けたら、そこにあるのは、小さなテーブルと椅子が一つずつ置かれ、あとは三つベッドが壁に沿って並んでいるだけの、素朴で簡素な部屋だった。

 雰囲気としては、わたしが最初に扉を開けた時、監禁されていた部屋に近いかもしれない。余っているスペースがあんまりないので、ここで三人がいっぺんに座ろうと思ったら、全員でベッドの上に乗るしかなさそうだ。

「まあまあ上等な部屋じゃありませんか。ゲナウはわりと豊かなんですねえ」

 わたしの後ろからひょいと覗いて、感心したように出されたメルディさんの言葉から察するに、街によっては、もっともっと下もある、ということらしい。はずれのほうとはいえ、このゲナウも、首都セラリスの中にあるのだから、当然といえば当然か。

「街の外には盗賊が多くうろついているのだから、夜などは用心しなければ。ミーシア、戸締りは厳重にな。俺たちは隣の部屋だから、何かあったら大声で叫べ」

 ロウガさんに言われて、ミーシアさんが神妙に頷く。そうだ、それで思い出した。

「みなさん、まず中に入ってもらえますか」

 わたしが言うと、ロウガさんとハリスさんとトウイが、それぞれ目を見交わして、廊下から部屋の中に足を踏み入れた。ただでさえ狭いので、それだけで部屋はもう大入り満員状態だ。わたしとミーシアさんとメルディさんがベッドに乗り、あとの三人には立っていてもらうことにした。

「これを、分けておきましょう」

 自分のカバンの中から、ずっしりと重い布製の袋を取り出して、そのままひっくり返す。


 じゃらじゃらとやかましい音を立ててベッドの上に広がった硬貨の山と紙幣の束に、メルディさんを除く四人が驚いたように目を見開いた。


「大きいお金ばかりあっても使いにくいので、いろいろと種類を揃えてもらったんですが、わたしにはよくわかりません」

 こちらの通貨は、「ガレ」という単位であることはわたしも知っている。ただ、実際にお金を使う機会は一度もなかったので、その価値などについてはさっぱりだ。

 ちょっと錆びたような赤胴色の小さな硬貨一枚が、一ガレ。それよりも一回りくらい大きい硬貨が十ガレ、その上が五十ガレ。金額が上がるたびにサイズが大きくなり色が白っぽくなっていくので、いちばん大きい百ガレは、灰色のようなにぶい銀色をしている。こちらの世界は、白銀がもっとも高貴な色だと言われているから、そのためだろう。

 紙幣は一種類、千ガレ札しかない。これがいちばんの高額貨幣ということらしい。

「たとえば、この一ガレで何が買えますか」

 赤銅色の硬貨を手にしてわたしが訊くと、ロウガさんは少し困ったように眉を寄せ、首を捻った。

「そうですね……パンがひとつ、というところでしょうか」

 ということは、日本での一円玉や十円玉よりも高いってことか。物価もよく知らないのに、安い高いで判断してはいけないのだろうけど。

 ……ん? でも、それっておかしくない?

 一ガレでパンひとつが買えるとして、もっと価格の低そうな、たとえば飴をひとつ買った場合はどうなるの? お釣りが出せないってことだよね? いくらわたしの世界と違うといっても、いちばん安いものがパン、ってことはないような気がする。

 そこを重ねて問うと、答えはあっけなく返ってきた。

 つまり、ガレの下に、ガレルという通貨があるのだそうだ。一ガレル硬貨百枚で一ガレ硬貨一枚に替えられる。

 街の人々がよく使うのも、このガレル。でも、上の階級のほうでは、ガレルはほとんど使われない。彼らにとっては、あくまで一ガレが最小単位なのだという。だからこの袋の中にも、ガレル硬貨は一枚も入っていない。

 上と下では、そんな日常的なところで大きな認識の差がある、ということだ。神ノ宮で、この世界の基本的なことを神官たちに教わったけれど、それは要するに「彼らにとっての世界」だということを、肝に銘じておかないと。

「じゃあこの千ガレ札一枚で、何日くらい暮らせますか」

 ロウガさんは、ますます首を捻った。

「それは……暮らし方次第ですので、なんとも」

 それはそうか。うーん、難しいな。こういうことはやっぱり、実際に経験しないと判らない。

「しかし、こういう街では、普通、紙幣なんて滅多に使うことはありません。出された相手のほうが驚くくらいかと」

「そうなんですか」

 それを聞いておいてよかった。日本と同じ感覚で気軽に紙幣を使って支払いをしたら、変に怪しまれてしまう、ということだ。

「じゃあ、とにかく」

 わたしは大雑把に硬貨と紙幣を小山にして分けていった。はじめ、小山は五つにしていたのだけど、メルディさんがひとつ足りないと騒ぐので、渋々六つの小山に分け直した。メルディさんはメルディさんで、ちゃんと王ノ宮から調査費みたいなのが支給されてるはずなのに。

「この一山分を、それぞれ持っていてください。これから何があるかわかりませんし、別々に行動することもあるでしょうから。宿代などは分担して出し合うことにして、あとは各自の判断で使ってもらって構いません」

 はいはい、と返事をしてさっさとお金を取ったのはメルディさんだけで、他の四人は目の前の山を見つめたまま、しばらく動かなかった。

「どうしました?」

 訊ねると、ハリスさんがちょっと苦笑した。

「神ノ宮の護衛官には目もくらむような大金なんでね、少し戸惑ってるんですよ」

「…………」

 わたしは口を閉じ、目の前の四種類の硬貨を見た。

 馴染まない色と大きさ。硬貨なのに不揃いで、少し形が歪なものもある。彫ってある模様にどんな意味があるのかも判らないし、文字だってなんて書いてあるのか読めない。

 見慣れた十円玉や百円玉とは違いすぎて、わたしは意識をしないと、これが「お金」であることすら忘れてしまいそうになる。一万円の束を見るのと、千ガレ札の束を見るのとでは、抱く気持ちが全く異なる。

 トウイたちの戸惑いが、理解はできても実感はできない。

 この感覚、価値観の違い。


 ……結局、ここでのわたしは、異端者なのだ。


「とにかく」

 ベッドの上の小山をずいっと手で押し出す。

「持っていてください。これが大金であるのならなおさら、わたし一人が持っているよりも、分散させたほうがいいと思います。まだまだ、いろんなことがあるでしょうから」

「盗賊に襲われるなんて、私はもう懲り懲りですよ」

 メルディさんが大きなため息とともにそう言うと、ミーシアさんがあの時のことを思い出したのか、自分を抱くようにしてぎゅっと身を縮めた。

「一日目からあんな危険な目に遭うとは、思いもしませんでしたもの。シイナさまも、さぞ恐ろしかったでしょう」

「だから、お前は残っていろと……」

「まあ兄さん、何を言ってるの! あんな経験をしたら、なおさら私だけ神ノ宮に残ってなんていられないじゃないの!」

「今からでも遅くないから、戻」

「絶対にいや!」

 言い合いを始めた兄妹を横目に、ハリスさんはやれやれと肩を竦めて、ようやくベッドの上のお金の山を手に取った。

「確かにこんなもん、誰か一人がまとめて持っているほうが物騒だ。何が起こるかわからないし、用心に越したことはない。まあ、盗賊に襲われるなんてことは、そうはないだろうけどな」

 なんでもない調子で出されたその言葉に、わたしの手の指先がぴくりと揺れた。

 トウイは黙ったまま、動かない。彼の目は、硬貨や紙幣ではなく、じっとわたしに向けられている。

 その目を見られず、視線を落とした。


 盗賊の一件は、ただのはじまりに過ぎないこと。

 これから、いくつもの危険が降りかかること。


 わたしだけが、それを知っている。

 ……知っているのに、黙っている。




          ***



 宿が出してくれるのは朝食のみだ。だから夜は、街のどこかで適当に買ってくるか、外に食事をしに行くしかない。

 水を借りた家の男の人が言っていた、「あっちもこっちも」という言葉が気になるし、いろんな情報を耳にするにはやっぱり後者のほうがいいということで、お湯で簡単に身体を拭いてから身なりを整え、街の中へ行くことにした。

 外はもう闇が落ちている。建物の壁に取り付けられた燭台では、明かりとして火が焚かれているけれど、その光の届かない場所は真っ暗だった。

 宿から出るとすぐに、

「私は別行動をとらせてもらいますよ。ついでに少し探ってみましょう」

 とメルディさんが離脱して、

「俺も、一人のほうが話を聞けそうなんで」

 とハリスさんもぶらりと暗闇に姿を消した。

 メルディさんは王ノ宮への報告をするのかもしれないし、ハリスさんは女性にターゲットを絞るのだろう。そりゃあ、一人のほうがいいよね。

 わたしを含めた四人は、とりあえず食事の出来る店を探そうということで宿から離れて歩き出したのだが、しばらく進んだところで、ミーシアさんが「あ!」と素っ頓狂な声を上げた。

「どうしました?」

 わたしが聞くと、ミーシアさんは夜目にも判るほど真っ赤になって、おろおろした。

「まあ、私、どうしましょう、お金を入れた袋を部屋に忘れて」

「ミーシア……」

 ロウガさんのため息交じりの声に、ミーシアさんがますます赤くなる。

 部屋を出る前、わたしの準備のためにバタバタと忙しく動いていたから、うっかりしてしまったのだろう。ミーシアさんは、わたしの世話を細やかに焼いてくれる半面、自分のことはおざなりになりがちだ。

 とはいえ、忘れたのが他のものならともかく、お金となると放っておくわけにもいかない。こちらでは、大金を置いてそのまま食事に行けるほど、宿というのは安全な場所ではないらしいから。

「す、すぐに取りに行ってまいりますので、お待ちを……いえ、先に行っていらしてください」

「待て、ミーシア」

 ロウガさんが、今にも走っていきそうなミーシアさんの腕を掴んで引き留める。ミーシアさんが泡を喰って暗がりを走ったら、その勢いで派手に転んで怪我をする、という展開になるのはわたしでも容易に読めた。

「代わりに俺が行くから」

「わたしが行きます」

 ロウガさんの言葉を遮って、わたしはきっぱり言った。ミーシアさんが、大事なお金だからと、自分の荷物の奥深くにしまい込んでいたのは知っている。年頃の女性として、いくら兄とはいえ異性に、着替えなども入っている荷物を掻き回されるのはイヤだろう。

「そんな、とんでもない」

「シイナさまは先に」

 慌てて口を開きかける二人にくるっと背中を見せて、わたしはさっさと走り出した。こんなところで揉めているより、宿に戻ったほうが早い。

「俺が一緒に行きますから、二人はそこで待っていてください」

 後ろで、ロウガさんに向かって言っているのだろうトウイの声が聞こえた。ちょっとの距離だし、別に護衛は必要ないと思うんだけど。

 ──このままだと、トウイと二人になっちゃうのか。

 そう気づいて、わたしは走る速度を上げた。

 後ろからは自分のものとは別の足音が聞こえてくる。

 まるで、逃げているみたい、と心の片隅で呟いた。



 競争をしているかのように宿に到着して、わたしは階段を駆け上った。大分息が荒くなっているけど、後ろから聞こえるトウイの呼吸はあまり乱れていない。ちょっと腹立たしい。

「少しだけここで待っていてください」

 別に一緒に部屋に入ってもいいけど、ぜいぜいいっている自分の呼吸音を聞かせたくなくて、ドアの取っ手に手をかけながらそう言った。廊下に立ったトウイが、はい、と返事をする。

 ドアを開けかけた時、不意に、

「──シイナさま」

 と呼ばれた。

 その声の調子がいつもと違うことに、鼓動が跳ねた。

 手の動きを止め、そちらを向こうか向くまいか迷う。

 結局、視線を前方のドアに固定したまま、「……なんでしょう」と返事をした。

「大丈夫ですか」

 トウイの口調にぶれはない。こちらにまっすぐ向かってくる彼の視線を痛いほど感じる。なぜか、空気だけがぴんぴんと張りつめていた。

「…………」

 何に対して、大丈夫か、と訊いているのだろう。思いきり走って来たこと? 息が苦しくなっているのを気づかせないよう、無理やり呑み込んでいること?

 それとも──それとも、もっと別の。

「……大丈夫です」

 向かってくるものをすべて振り払い、わたしはそれだけを素っ気なく言うと、今度こそ取っ手を引いてドアを開けた。

 開けると同時に素早く部屋の中に入って、パタンと閉める。

 下を向き、ほー……と細く長い息を吐きだして、顔を上げた。

 その瞬間、衝撃で心臓が凍りついた。



 そこは、真っ白な部屋だった。

 さっきまであったはずの、ベッドとテーブルと椅子の置かれた宿屋の部屋は完全に消失して、現在そこにあるのは、わたしがよく知っている、すべてが白に覆われた密閉空間だった。

 人の心を狂気に導く、白い世界。

 そして、中央には、真ん丸の白い椅子に埋もれるようにして座り、感情のない笑みを浮かべている子供。

 白い肌、銀の髪、黄金色の瞳。

 子供が目と唇を三日月の形にする。

「やあ、旅はどうだい、ボクの守護人」



 足ががくがくと震えた。目の前の現実が受け入れられない。頭の混乱と動揺が激しすぎて眩暈がした。

 血の気のない顔で立ち尽くす。浮かぶのは、同じ言葉ばかりだ。

 どうして。どうして。どうして。

 ここ……ここは。


 ──最奥の間(・・・・)




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