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2.暗雲



 昼間のサリナとのやり取りを話して聞かせたら、ハリスさんは遠慮会釈なく大笑いした。

 まあ、そうなるだろうとは思ってたんだけどさ。

 そんなに笑わなくたっていいじゃないですか、とふてくされつつ、同時にほっとしたのは、こうやってハリスさんに笑い話として片づけてもらいたいという期待があったからだ。あんまりカッコいい話ではないけど、街に出て、酒を飲みながら軽口を叩き合うには、これくらいの内容がちょうどいい。

 ……せっかくハリスさんが、タネルさんの件で落ち込んでいる俺を、元気づけようと誘ってくれたんだからな。今は、俺も笑っていたい。

 夜の酒場は、ガサツな男所帯の護衛官詰所とは違い、賑やかに交わされる声のそこかしこに、女性の嬌声や笑い声が混じっている。そんなに高級な店ではないので、丸い木の卓も装飾品も豪華なものではないが、薄紅色の覆いがされたランプが、あちこちでぽわりとした灯りを浮き上がらせ、柔らかい雰囲気を作り出していた。

 ここはハリスさんの馴染みの店らしい。俺ははじめて来たが、このあたりの酒場にありがちな、いかがわしい感じがほとんどなかった。適度に浮かれていて、適度に落ち着ける、滅多にないくらいの良い店だ。きっと、あるじがしっかりした人物なのだろう。いつもだとハリスさんにわらわらと群がってくる女の人たちが今夜はいないのも、そのためなのかもしれない。

「それくらいで慌てるところが、男としても護衛官としても経験不足なんだよなあ」

 ハリスさんにからかうように目を眇められ、ええー、と俺は唇を突きだした。

「どっちも経験不足なのは否定しませんけど、護衛官として、ってのはこの場合、関係ないじゃないですか」

「なに言ってんだ。もしも本当にその侍女が、神ノ宮に入り込んだ刺客だったらどうすんだよ。色仕掛けに泡喰って、お前が剣を下ろした途端、隠し持っていたナイフでズブリだぞ」

「……うーん」

 唸ってしまった俺に、ハリスさんが笑う。

「だから女に免疫つけとけってことだよ。俺みたいにさ」

「どうやってもハリスさんみたいにはなれそうにありません。……正直言うと俺、ああいうの、苦手なんですよね」

 ちょっと頭を掻いてから、もう片方の手に持っていた杯を傾ける。入っているのは酒だが、俺はハリスさんのように強くもなければ、そんなに好きというわけでもないので、時々思い出したように口に含むものの、一向に中身は減っていかなかった。

「だから、女がだろ」

「女っていうか、ぐいぐい迫って来られるのが」

 まあ正確に言うと、迫って来られたのは別に口説かれたわけではないのだが。でも、サリナの関心の対象が、俺ではなくて守護人だと知った時、肩透かしを食らうような気分はそりゃあったが、どちらかといえば安堵したほうが大きかった。

 女の子と話すこと自体は別に苦手じゃないし、もちろん嫌いでもない。これまでにまったく経験がないかといえばそういうわけでもない。

 でもなあ……なんていうか、そんなに踏み込みたいと思うほど、「女」ってものに興味があるわけでもないんだよなあ。

「女と戯れるより、剣と戯れてるほうが楽しいってか」

「それも否定はしませんが、なんか語弊があります、その言い方」

「そりゃお前、あれだろ、女の本当の奥深さってやつをまだよく知らな」

「待った、変な方向に話を持っていこうとしてますね? あんまり下品なことばかり言うなら、俺帰りますよ」

「俺がいつでも上手な口説き方を教えてやるのに」

「上手な逃げ方を教えてくれと言ってるんです」

「俺、誘われて逃げたことなんてないからわかんない」

 ハリスさんは、杯の中身を喉に流し込みながらそう嘯いて、くっくと可笑しそうに笑い転げた。一杯目を持て余している俺と違って、ハリスさんはもう何杯目かもよく判らないくらいだ。よく飲むよなあ。そのわりに、まったく顔に出てないけど。

 俺も笑って、つられるように、少しだけ濁ったその液体を口に入れた。喉を通っていく時に、ぽっと熱くなるのを感じるが、やっぱり、そんなに美味しいとは思わない。飲んでいくうちに旨いと感じるようになるのかねえ……と思いつつ、杯を手の中で廻してゆらゆらと揺らしてみる。

 その時、


「ずいぶんと楽しそうね」


 ふわりと甘い香りが漂ってくるのと一緒に、艶のある声をかけられた。

 杯から目を上げると、いつの間にか、すらりとした美女が空気も乱さず同じ卓にちゃっかり同席して、微笑んでいる。

「二人で来るなんて珍しいこと。今日は可愛らしい人とご一緒ね」

 そう言いながら、彼女がにっこりと向ける視線の先にいるのは俺だ。もしかしなくても、可愛らしい人っていうのは俺のことですか。

「俺の後輩」

「あら、そう」

 ハリスさんの短い紹介に、美女が納得したようにまた微笑む。

 現在の俺とハリスさんは、護衛官の制服ではなく、店にいる他の客たちと同じような格好をしている。街に出ると、ことさら神ノ宮仕えを宣伝して注目を浴びようとする護衛官や警護もいるが、俺はそういうことは黙っているほうだ。ハリスさんに至っては、親しい仲になった女の子にも、適当に出鱈目な職業を名乗っているらしい。だからそれを知っているということは、この美女はそれだけ特別、ってことなんだろう。

 それに気づいて、俺は腰を浮かしかけた。この場面で、どう考えても邪魔なのは俺のほうだよな。

「じゃ、俺、そろそろ──」

「あら、そんなこと言わないで。もうちょっとゆっくりしていって頂戴、お客さん」

「うわ!」

 有無を言わさず、美女にぐいっと腕を掴まれて、強引にもう一度座らされた。たおやかな見た目なのに、結構力がある。

「まだあまり飲んでいないじゃないの。この店のお酒は、他のところとは違って混ぜ物なしよ。これが口に合わないのなら、他のものをもう一杯いかが?」

「あ、はあ……いや」

 目を丸くしていると、ハリスさんがぷっと噴き出した。

「トウイ、シャノンはこう見えて、この店の女あるじなんだぜ。しかも金儲けが上手い。美人だからって油断してると、懐の中身をすっからかんにされるから気をつけろよ。この見た目に騙された男が、何人泣かされたか」

「まあ、いやだ、人聞きの悪い」

 うふふと笑いながら、シャノンさんが素早くハリスさんの腹に拳を叩きこんだ。どすっ、という重い音がして、ハリスさんは卓に突っ伏した。

「今、ものすごい音が……」

「あら、気にしない気にしない。そう、トウイっていうのね。よろしくね」

 シャノンさんは本当にハリスさんのことは気にせずに、俺に向かって晴れやかな笑顔を向けた。

 くるくると綺麗に巻かれた赤茶の髪を片側に垂らしたその姿は、大人の女性としての色香に溢れているが、鮮やかに彩られた唇には零れるような愛嬌がある。惜しげもなく開かれた胸元からは深い谷間が覗いて豊満さが強調されており、そちらに目をやらずにいるのが難しいくらいだった。

「トウイは、いくつなの?」

「え、と、十八です」

「十八! いいわねえ、いちばん瑞々しい時期よね。あたしも死んだ亭主と出会ったのが、ちょうどそれくらいだったわあ。それからいろいろ紆余曲折あって、結ばれるのに時間がかかったけど、念願かなって結婚できた時はそりゃもう幸せの絶頂でねえ」

 シャノンさんが頬に手を当て懐かしそうに言うので、俺はきょとんとした。

「シャノンさん、結婚されてるんですか」

「そうよおー、もともとこの店は、亭主が親から継いだものなのよ。結婚して数年の間は、二人で苦労しながらも楽しくやってたんだけどねえ。亭主が死んじゃって、それ以来ずーっと、未亡人になったあたしが、この細い女手一つでなんとか店を支えてるってわけ。もう五年になるかしら」

「それは大変ですね……ていうか、シャノンさん、今いくつなんですか」

 てっきりハリスさんと同じ二十代半ばくらいだと思っていたのだが、もしかしてもっと上なのかな。十八で出会って、結婚するまでに時間がかかって、数年後旦那さんが亡くなって、それから五年、ってことは……

「やっだー、女に年齢を聞くもんじゃないわよ!」

 思わず指を一本ずつ折って数えはじめた俺の額のど真ん中に、かこーんと強烈な指弾が飛んできた。

 頭全体が後ろに吹っ飛ぶかというくらいの威力だった。少なくとも、やりかけていた頭の中の計算は、すべて吹っ飛んだ。

「やめとけトウイ。もう一度同じ質問をすると、たぶん殺されるぞ」

 腹への一撃から立ち直ったハリスさんが俺にこっそりそう言ったが、その忠告はもう少し早くして欲しかった。

「……シャノンさんは実は、ハリスさんの武術の師匠とか、そういう人ですか」

「こんなおっかない女は師匠には向かない」

 まだ頭がくらくらする。昼といい夜といい、そろそろ俺は女性不信になりそうだ。

「あらまあ、本当に仲がいいのねえ」

 俺たちが顔を寄せてぼそぼそ話しているのをどう解釈したのか、シャノンさんがちょっと意外そうに唇に手を当てた。

 それから、俺を見て、今までとは少し違う温かい笑みを浮かべた。

「歓迎するからいつでもいらっしゃい、トウイ。ハリスと一緒にね」

 まあ、俺一人でこんな酒場に来ることはないから、また来ることがあれば、ハリスさんと一緒だろう。そう思いながら頷くと、シャノンさんはまた笑みを深めた。ハリスさんは、知らん顔でそっぽを向いている。

「仕事が仕事だから、そう頻繁には難しいでしょうけどねえ」

「シャノンさんは、俺たちの仕事のこと……」

「知ってるわよ。世の中のことは大体なんでも知ってるの、あたし」

 あはは、と笑いながら、ウソかホントか判らないことを言う。それから、ふと笑いを収め、卓に肘を置いてこころもち前に身を乗り出すと、声音を抑えた。


「──ねえ、最近、あんまりタチのよくないのが街の中をうろついてるって、知ってる?」


「え」

 その言葉に、俺とハリスさんは、さりげなく周囲を見回した。店の中は、さっきまでとまるで変わりなく、陽気なざわめきが満ちているばかりだ。

 シャノンさんは、違う違うというように、無造作に手を振った。

「この店にはいないわよ。あたしが入れさせるもんですか。でも、外にはいるの」

「タチのよくないのっていうと……暴れたり、物を壊したりするのか?」

「そういうんじゃないんだけどね。逆に、やつらは目立つようなことは何もしやしないのよ。ひたすらコソコソしてるだけ」

「それだけじゃあな……」

 ハリスさんが顎に手を当て、顔を顰める。

「でもねえ、お天道様になんら恥じるところのない人間が、頭からすっぽり布を被って、顔を隠すもんかしらね? そういうのが、人目を憚るようにして、あちこちをコソコソ動き回ってんのよ? ちらっと見えたけど、どうも髪の色からして、この国の住人じゃないみたいだし」

「この国の人間じゃない?」

 同時に問い返し、俺とハリスさんは顔を見合わせる。シャノンさんは、難しい表情をして眉を寄せていた。

「やつら、ってことは複数か。何人くらいだ?」

「さあね、あたしが見たのは今のところ三人ほどだけど、もしかしたら、もっといるかもしれないわね」

 ハリスさんの質問に、シャノンさんが肩を竦める。

 首都の街中に、顔を隠した異国の人間が数人潜んでいる。それは確かに気になる情報ではあるが、しかしそれだけでは、どうにも動きようがないというのも事実だ。だからこそシャノンさんも、こんな渋い顔つきでいるしかないのだろう。ニーヴァに他国の人間がいること自体は、なにも珍しいことではない。

「何か企んでいるような感じはするのに、放っておくしかないなんて、悔しいったらないわ……だからさ、あんたたちも、気をおつけなさい」

 真面目な瞳になって、俺たちを見据えた。シャノンさんがこの話をしたのは、俺たちにそいつらをどうにかして欲しい、ということではなかったようだ。

「あたしだったら、この国で何か騒ぎを起こすとして、まず狙うのは神ノ宮だもの。王ノ宮はがっちりと警備が固いし、今の神ノ宮には守護人がいるでしょ。神である神獣には手が届かなくても、人間である守護人なら何とかなりそうだ、なんてこと、いかにもバカな連中の考えそうなことじゃない? 万が一守護人の身に何かあったら、あんたたちなんてあっという間に、こうよ」

 そう言って、シャノンさんは掌で自分の首元の空を切る真似をした。実際、神獣の剣を盗んだ罪で死罪に追いやられるところだった俺に、それは笑い事じゃない。引き攣ったように唇の端を上げるのがやっとだ。

「……ま、心に留めておくよ。じゃあそろそろ帰るか、トウイ」

 ハリスさんは少し考えるような顔で答えてから、席を立った。



「ロウガさんに、このこと伝えますか?」

 店の外に出てから俺が問うと、ハリスさんは黙って空を見上げた。

 今夜の空は雲に覆われていて、月が隠れている。あちこちで照明代わりの火が焚かれているが、それは神ノ宮のものよりもずっと小さいものばかりだ。月が照らさなければ、このあたりは足許もはっきりとは見えないほどに暗い。

「……そうだな」

 闇に目を凝らすハリスさんの視線は、妙に厳しかった。

「あの守護人は……」

 呟いて、すぐに口を閉じる。

 そして、ようやく顔をこちらに戻した時、その表情はいつもと同じ、人をからかうような軽いものになっていた。

「一応、報告しておいたほうがいいだろうな。お前も、二度も死罪になりかけたらたまらないだろ」

「そりゃたまりませんよ」

 二人で少しだけ笑った。

 そうやって、胸の中のざわざわとしたものを吹き飛ばすように。



          ***



 ロウガさんには、ハリスさんから話をしてもらった。

 それを聞いたロウガさんは、すぐに護衛官の上官に報告した。上官は、「他の国の人間がうろついているというだけのことだろう」と鼻先であしらいながらも、念のためにと神官の耳に入れた。

 ……そして、そこで終わった。

 神官は、その話を聞いても、特になんの反応も示さなかったし、関心すら持たなかった。

「そうか、わかった」

 その一言でおしまい。自分が聞いて了解したのだからこの件はもういい、というのが、その神官の判断だった。

 薄々予想はついていたが、俺はそれを知って、やっぱり失望した。いちばんいいのは、大神官にまで話がいって、神獣と守護人の護りを厚くするための指示を出してもらうこと、あるいは王ノ宮に連絡されて調査の手が伸びることだったのだが、それは叶わないということだ。運よく大神官のところまで進んだとしても、やっぱり「そうか、わかった」だけで済まされてしまった可能性も大きいのだが。

 神官から何も言われなければ、上官も特に何もしようとはしない。いくらロウガさんが皆から信頼されているとはいえ一護衛官であることに変わりはないので、神ノ宮の警備の体系を勝手に変更することは出来ない。せいぜい護衛官と警護の面々に、口頭で注意を促すくらいだ。

 もどかしい。これが神ノ宮のやり方だということは嫌ってほど知ってはいるけど、俺はなんとか苛々を押し潰すので精一杯だった。外で不審な動きがあると判っていて何も対応しないとは、上官や神官たちの頭は、あまりにも空っぽだと思わずにいられない。

 平和ボケだ。連中は、ずっと長いこと、ぬるま湯に浸かるようなここでの生活に慣れきってしまって、「明日」はただの「今日の続き」としか見ていない。王ノ宮と神ノ宮の近くに顔を隠した異国民がうろついているという情報を、自分たちに降りかかる変事の前触れとは繋げて考えられないのだ。

 なぜなら上の連中は、拝礼日の騒ぎを直接見ていないから。そして、タネルさんの事件を知らないから。

 拝礼日、門の外で怒鳴って喚いて、今にも錠を壊さんばかりに暴れていた人々の、何かに取り憑かれたような憤懣と狂乱も。

 一人の護衛官が国の至宝を持ち出して、大勢の人間の首が飛ぶ一歩手前までいきかけたことも。

 そう思い、ひやりと冷たいものが背中を撫で上げた。

 守護人が来てから、俺たちは、「明日も今日と同じように続くとは限らない」という事実を知った。

 でも、この神ノ宮を支配する神官たちの認識は、まるで何も変わらない。

 それってかなり、厄介なことなんじゃないだろうか。



          ***



 二日経ったが、今のところは何もない。街中でも、特におかしな動きはないようだ。

 ──本当なら、今すぐにでも街に出て、調べてみたいんだけどなあ。

 と思いながら、俺はそわそわと、神ノ宮の長く続く塀を見る。

 シャノンさんの話だけでは、漠然としすぎていて捉えようがない。自分で見て廻ったり聞いて廻ったりすれば、もう少しはっきりしたことが判るだろう。その結果、問題がなければそれでいい。

 でも、まさか無断で神ノ宮を抜け出すわけにもいかないし。夜の自由時間なら許可を得て街には出られるけど、そんな短時間で何が出来るか甚だ疑問だ。こうやって神ノ宮の中で、何かがあるかもしれない、なんてことを思いながらまんじりと過ごすのは性に合わない。

「どうかしましたか」

 前を歩いていた守護人に声をかけられて我に返った。

 気がつけば、少女はいつの間にか歩く足を止め、こちらを振り返っている。そうだ、護衛の最中なんだった、と俺も慌てて姿勢を正した。外を警戒しすぎて肝心の守護人の護衛を疎かにしていたら、本末転倒もいいところだ。

「失礼しました。なんでもありません」

 俺が頭を下げると、守護人は何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局、そこから言葉は出ずにまた閉じられた。俺から視線を外し、前を向く。

 昼間の神ノ宮は、明るい陽射しに照らされて、穏やかで平和な姿を見せていた。今歩いているのは、建物の裏や敷地の端っこなどではないので、植え込みや置き石も美しく配置され、見渡す限り整然とした景色が広がっている。

 木々は白い花をつけ、人が歩くための小道が緩い曲線を描き、どこからか甘い香りまでがかすかに流れてくる。

 その中を、ふわふわと波間を漂うように歩く白い装束をつけた神官たちや、彼らに道を譲って頭を下げる侍女たちが、ちらちらと見えるわけだ。そこには、静かに澄んだ時間と空間だけがある。はじめてこの神ノ宮に足を踏み入れた人間は、ここはまさに地上の楽園だ、と思うらしい。内実はかなり歪な楽園だが、この日常を続けてきた神官たちが危機感を覚えないのも、無理はないのかもしれない。

 けど、いざ事が起こってから危機感を覚えたって遅いんじゃないか──と思いながら、なにげなく周囲を見回し、俺はあることに気がついた。


 またか。


 大きなため息が出そうになる。これがロウガさんだったら、こっぴどく雷を落とされるところだぞ。大体、自分の仕事はどうしたんだよ。

「守護さま、大変申し訳ありませんが、ほんの少しだけ、お傍を離れます」

 声を落として守護人に囁くと、怪訝そうな顔を向けられた。いつも無表情なので、ちょっとした変化が新鮮だ。いやそんな場合じゃない。早く済ませてしまおう。

 二、三歩普通に歩みを進めてから、唐突に止まり、同時に素早く身を翻して後方に向かって駆ける。相手はすぐに気づいてぱっと逃げようとしたが、その前に腕を捕らえた。

「サリナ、いい加減に──あ、あれ?」

 守護人を尾け廻しているなんてことが知られたら、不敬だと取られて処断されても文句は言えない。ましてや、ロウガさんからの通告があって、護衛官と警護はみんな一様にピリピリしている。俺以外の誰かに見つかって問題になる前に、こんな真似はきっぱり止めさせないと、と思い、俺が怖い顔で捕まえたその侍女は……

 サリナじゃなかった。

「あんた誰」

 思わず言ってしまってから、まじまじと女の顔を見る。小柄な体躯、大きな瞳、いかにも快活そうな雰囲気。……なんか、見覚えがあるな。

「まあ、怖い」

 侍女はそう言って、俺に腕を掴まれたまま身体をくねらせたが、ちっとも怖そうじゃなかった。この間のサリナが涙まで浮かべて口もきけず蒼白になっていたのに対し、こちらは顔色も変えずけろりとした口調で、いやだわ怖いわ、と元気に繰り返している。

「……すみません、メルディさんが何かしましたか」

 背後からやって来た守護人が、なんとなくうんざりしたような声をかけてきた。

「メルディ?」

 侍女がにっこりする。

「わたくし、守護人付きの、新しい侍女でございます」

「わたし付きじゃなく、ミーシアさんのオマケです」

 そこは譲れない、とばかりに守護人が訂正した。今ひとつ、話が見えないのは俺だけか。メルディと呼ばれた侍女は、まあオマケだなんてひどい、と表情だけは悲しげにしながら、言っちゃなんだが楽しそうだ。

「新しい侍女ですか。守護人付きの?」

「ミーシアさんのオマケです」

 それはいいから。

「ふふ、先日も、そちらとはお顔を合わせたはずなんですけど。護衛官の詰所の前で」

「あ」

 言われて思い出した。守護人に、神獣の剣をお持ちしましたと言って突然現れた侍女だ。暗かったし、あの時は心情的にもそれどころではなかったのであまりよく顔を見ていなかったが、確かにこんな感じの侍女だった。

 守護人付きの侍女だったのか。

 ぱっと腕を解放し、俺は頭を下げた。

「悪かった。あとを尾けていたように思えたものだから」

 メルディは心の広い性格なのか、それを聞いてもニコニコしている。こうして見ると、彼女はかなりの美人だった。サリナも線は細いが綺麗なほうだし、なんだか最近俺の周りはこういうのばっかりだな。

「まあ、あとを尾けるだなんて、まさか、そんな」

「すまない」

 とんでもない、と言わんばかりの顔をするメルディに、もう一度謝る。サリナの一件があって、俺の判断力も鈍ったらしい。無駄に驚かせて、この侍女には悪いことしたな。

「……メルディさん、特にわたしに用事がないのなら、ミーシアさんのお手伝いをしてきてください」

 守護人の声がいつもよりも低く聞こえるのは、俺の気のせいだろうか。普段、あまり話さないので、よく判らない。

 メルディは残念そうに小首を傾げ、上目遣いになった。彼女のような美人にこれをやられたら、相手が男だったらイチコロで落ちそうだ。

「守護さまのなるべくお傍にいたいですわ。だって、わたくしの仕事ですし」

 よっぽど仕事熱心な侍女なのか。それとも、サリナと同じようなことを考えてるのか。でも守護人を見るその瞳は、サリナとはまったくの別物に見えるんだけど。

「今は必要ありません」

 守護人は素っ気ない。そんなに冷たい態度を取って、メルディが萎れるんじゃないかと俺はハラハラしたが、

「ふふふ、いやですわ守護さまったら」

 萎れるどころか、めちゃめちゃ楽しそうだ。

「侍女ですもの、守護さまのお世話をいたしませんと」

「必要ありません」

「今日はよい陽気ですから、歩き回って汗をかかれたのでは?」

「まったくかいてません」

「お召し物をお替えになるのでしたら、お手伝いいたします」

「殴りますよ?」

 守護人の左手が剣の鞘を掴んだのを見て俺は慌てたが、メルディは軽やかに笑って深々とお辞儀をすると、「それでは御前、失礼いたします、守護さま」と言って、その場から立ち去った。



「……なんていうか、遠慮のない侍女ですね」

 小さくなっていく後ろ姿を呆気にとられながら見送って、俺はつい、思ったことを口にした。

 新米だから守護人との距離の取り方を知らないんだろうか。いや普通、新米だからこそ、もっと固くなって緊張しそうなものだけど。

「あの人のことはあまり気にしないでください。わたしの周りにちょこちょこ出没するかもしれませんが、放っておいて構いません」

「はあ?」

 意味不明なことを言って、守護人がまたくるっと方向転換して歩き出す。俺も急いでそのあとを追った。

 足を動かしながら、うーん、と考える。

 守護人と侍女との関係は、護衛官とのそれとは、ずいぶん違うもののようだ。だったら、ミーシアとロウガさんの、守護人に対する印象がまったく異なる、という話も納得できる。この守護人でも、侍女を相手になら、冗談を言ったりするってことか。……殴りますよ、って、冗談、だよな?

「でも、大神官様の前でもあの調子だと……」

「あの人もTPOは弁えているので、心配いりません」

 ティーピーオーってなんだろ。

「ロウガさんやハリスさんにも、あの侍女のことは……」

「目に余ったら蹴とばしてくれてもいい、と伝えておいてください」

 冗談だよな?

「……美人なのにな……」

 シャノンさんといい、美人ってのはみんな、ああも図太いもんなのかな、と思いながらぽろっと小さな呟きを洩らすと、前を行く守護人の足が止まった。

 こちらを振り返り、ちょっと黙って俺を見つめてから、口を開く。

「……トウイさんは、ああいうタイプが好みですか」

「は?!」

 思ってもみなかった質問にぎょっとした。

「ち、違います! そういう意味じゃなくて、ただ美人だなと……あ、だからって好みがどうとかってことじゃなくて」

「…………」

 あたふたと弁明する俺に、守護人は無表情のままだったが、その沈黙はやけに複雑なものを含んでいるような気が、した。




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