3.弱点
わたしは一日に三回、神獣のいる最奥の間に行かなければならないことになっている。
朝・昼・晩、食事の前に一回ずつだ。毎回食前にお飲みくださいね、と病院で処方された薬みたいなもの、とわたしは思うことにしている。苦いし、我慢して飲んでもしばらく口の中が不味いし、喉を通っていく感触も不快でたまらないけれど、服用が義務づけられていて、ちゃんと飲み込むまでは周囲が目を光らせているから、仕方なくイヤイヤ飲まざるを得ないもの。
この場合、飲むのを見張っているのはお母さんではないし、げんなりしながら飲んでもその後に身体が楽になるわけではない、というところが違うだけ──いや。
最奥の間に行って神獣の顔を見ると、必ずと言っていいほど気分が悪くなるので、実際は薬というよりは、毒かもしれない。
それでも、守護人の務めとして、わたしはやっぱりその部屋に足を運ばなくてはいけないのだった。
「今日、王ノ宮に行ってきたんだってね」
その日の夕方、最奥の間に入ったわたしに、神獣が開口一番でそう言った。
最奥の間は、どこもかしこも一面真っ白、というかなり気持ちの悪い部屋だ。壁はもちろん、天井、床、せっかくついている窓にも白い布がかけられている、という徹底ぶり。
置かれたベッドやテーブルや棚などは、非常に手の込んだ装飾が施された高級そうなもので、やはりすべて白一色で統一されているのだが、それらの家具を神獣が使用しているのを一度も見たことがない。
わたしがここに入る時はいつも、神獣は真っ白の椅子に座ってニコニコしている。大きくて、真ん丸で、ふかふかの椅子は、足がついていなければ、ハンモックチェアのようにも見える。そこにすっぽりと埋もれるようにして、神獣はわたしを出迎えるのである。
「大神官から聞いたの?」
どこもかしこも白い空間というのは、遠近感が判らなくなるし、平衡感覚を失う。まともな人間なら、三十分もいるのが耐え難い場所だ。だからここに入って、大神官のようにずっと平伏して顔を伏せる以外のことをしようと思うと、やむなく神獣の顔を見るしかない。神獣自身も白い肌、銀の髪で、背景とそう変わりはないとはいえ、この部屋では唯一の、色のついた生物だからだ。
「うん、大神官も報告に来たね。なんだかやけに愚痴っぽくなっていたから、ほとんど聞いていなかったけどね。だって別に大神官に言われなくても、ボクにはわかることだし」
神獣は、この部屋から出ることはない。ベッドやテーブルがあっても、寝たり食事を摂ったりするかどうかも定かじゃない。狭間ではない、「この世界」にいる時の神獣は、神ノ宮の最奥の間の中でひたすらじっとしているだけだ。それでも、なぜか神獣は、あらゆることを知っている。本人は──人ではないのかもしれないけれど──わかる、のだと言う。
「だったらわたしが王ノ宮に行って何をしたのか、カイラック王が何を言ったかもわかるんでしょ。わざわざ聞かなくてもいいじゃない」
「いやだなあ。ボクはキミとの会話を楽しみたいんだよ。守護人と接している時が、ボクのいちばん心安らぐ時なんだから」
思わず剣の柄に手をかけたわたしを見て、神獣は声を上げて笑った。
「キミって本当に短気だよね。こんなことでいちいち腹を立てているようじゃ、今度も失敗してしまうんじゃない? せっかく一度目の危機を乗り越えたのに」
「…………」
ゆっくりと息を吐き出してから、柄から手を離す。目線を落とし、銀色に輝く剣を見つめた。
「一度目……」
ぽつりと零したわたしの独り言に、神獣は金色の目を面白そうににいっと細めた。
「もちろん、そうさ。100日が終わるまで、まだ何度も危機は訪れる。物事は、そして人の心は、縄目のように絡み合い、網目のようにもつれ合っている。ひとつの出来事が、次の出来事へとつながるきっかけとなる。キミは常にその先を読んで動かなければいけない」
神獣の言葉は、まるで歌のように流暢で朗らかだ。
「……カイラック王が、神獣は未来を読む力を持ってる、って言ってたけど、それは本当?」
最初、トウイが神獣の説明をしてくれた時も、そういうことを言っていたはず。神獣は過去も未来も見通せる力がある、と。この世界で最も高潔な生き物、というようなことも言っていて、それはまったく事実とは異なるけれど、少なくとも、人々はそう信じているということだ。
「そうだなあ」
わたしの問いに、神獣はくすくす笑った。
「けれど、そうだとしたって、キミには関係ないことじゃない? これから何が起こるにせよ、ボクはそれには関与しない。見ているだけだ。たとえそれが『わかって』いるとしても、ボクはキミにそれを教える気はない」
「──確かにね」
大きなため息をついて、わたしは納得した。
神獣が過去や未来、これから起こるすべてを見通すことが出来たとしたって、それはわたしにとって、なんの関係もない。託宣どころか、神獣はそれについての小さなヒントすら、わたしに与えるつもりは毛頭ないのだから。
「でも」
神獣が笑いながら付け加えた。
「ボクは『この世界』のことはすべてわかっていても、そこから弾かれた存在のことまではわからない。この世界の因果律については把握していても、そこに異分子が介入することによって、変化し、方向が曲がり、新しく生じる結果は、ボクにだってわからない、ということさ。それが楽しいんだ」
「…………」
判りにくいことを言う、とわたしは眉を寄せた。
神獣は無慈悲で、性根がひん曲がっていて、見るだけで腹の立つ不愉快な生き物だ。でも、少なくともデタラメなことは言わない。その言葉の意味を咀嚼するようにして考えてみた。
──つまり、この世界の外から来た人間である「わたし」が入り込むことによって、因果律に乱れが生じ、神獣にも判らない未来を作り出すことになるかもしれない、と、そういうことか。
そうか。だから、「ゲーム」なのだ。
今さらのようにそれを理解し、顔が強張るのを自覚した。
世界のすべてが「わかって」しまっている神獣にとって、異世界から来た人間は、ただひとつの不確定要素。それが動くことによって、神獣の知らない結果を導き出す。
それを眺めるのが、楽しい、と言っているのだ。どちらに転ぶかは、たぶん神獣にとって、まったく問題じゃない。
ニーヴァという国とそこに暮らす人々がどうなろうが。
トウイが生きようが、死のうが。
「──……」
下唇を強く噛みしめる。左手で、腰にある剣の鞘をぐっと握った。
「……ねえ」
ようやく声を絞り出すと、神獣の白い顔と、金色の目がこちらを向いた。周囲の白色に溶けてしまいそうなその姿に、そこだけ獣のような瞳がある。頭がくらりとして、わずかに足元がふらついた。
吐き気がする。そろそろ限界だ。この白い部屋に、長い間はいられない。
闇に包まれた狭間と同様、この場所は、容易く人間の裡から狂気を引き出してしまう。
「どうしてあんたは、こんな悪趣味なゲームをしたがるの」
その質問に、神獣が珍しくきょとんとした。思ってもいなかったことを聞かれた、という顔ではなく、答えの決まりきったことを改めて聞かれて、不思議がっているようだった。
「どうしてって」
こちらを見返す。神獣は、瞬きというものをしない。細められた金色の瞳に、感情は見えない。そこには、ただ、立ち尽くすわたしの姿が映っているだけ。
他には何もない。
「退屈だからさ。当たり前じゃないか」
そう言って、あはははは! と笑う。
「拝礼日は無事終わった。……さあ、次は何があるんだろうね、ボクの守護人?」
本当に、楽しそうな口調だった。
***
最奥の間を出ると、そのまままっすぐ主殿の外に出た。
建物をぐるりと廻り、裏手に向かってすたすたと歩を進める。そのあとを、ハリスさんから護衛を交代したトウイが、何も言わずについてきた。
どこという目標も目的もなく、脇目もふらずにずがずかと突き進んだ。正直、この時ばかりは後ろを歩くトウイのことも、ほとんど意識になかった。人間の精神を追い詰めさせる効果しかない、あの部屋の一点の汚れもない白に、あるいは神獣の毒気に当てられて、ちょっと頭がおかしくなりかけていたのかもしれない。
……ううん、そもそも。
果たして、わたしは今、「まとも」な状態なんだろうか。
何度も何度も扉を開けて、そのたび同じようで違う人たちと、同じようで違うやり取りを繰り返し、自分一人だけが知る記憶をお腹の中に溜めて、どんどん積み上げていくだけの今のわたしは、まともだと言えるのだろうか。
本当は、もうとっくに、狂気に蝕まれているんじゃないだろうか。
胸の中に、ぽっかりと空いた、冷たく空虚な穴がある。わたしの一部はどこか醒めて、状況を見極めようと常にそればかりを考えている。
「今回」は失敗しないように。
なんのため? もちろん、トウイを助けるためだ。じゃあトウイってどこの誰? わたしが本当に助けたかったトウイはもういないのに。
いくら扉を開け続けたところで、あのトウイにはもう決して会えないのに。
100日。それさえクリアすればいい。トウイが生きていればそれでいい。他の人のことはどうだっていい。
神獣の笑い声が頭の奥で響く。退屈だからはじめたゲーム。これはゲーム。違う、違う、わたしにとってこれはゲームなんかじゃない、わたし、わたしは──
「……っ!」
不意に、ぴたりと足を止めた。
今にも叫びだしそうな手前で、わたしはなんとか自制心を取り戻した。ただ一心にぎらぎらと前方に据え続け、ほとんど何も映っていなかった視界に、ようやく周囲の景色が入ってくる。
はっ、はっ、と犬のように短く喘いで、びっしょりと濡れた顔の汗を手の甲で乱暴に拭い取った。ばくばくと暴れる心臓を宥めるため、深呼吸を繰り返す。
──最奥の間で神獣と話をすると、時々、こういうことがあるのだ。思考が混沌の中に引き込まれ、平常心を保つのがひどく困難になる。落ち着かなきゃ、と、大きく上下する胸のところで右手をぎゅっと強く握りしめて、自分に言い聞かせるように目を閉じた。
だめ。まだ、だめ。
わたしはまだ、狂ってしまうわけにはいかない。
「守護さま、どうされました?」
かけられた声に、はっと我に返る。急いで無表情を顔に張り付けて後ろを振り返ると、トウイが怪訝そうに眉を寄せてこちらを見ていた。
最奥の間から出てきたと思ったらそのまま建物の外へと飛び出して、ものも言わずに歩いた挙句に突然動きを止めたのだから、トウイが訝しがるのも無理はない。「今回」はわたしがトウイに話しかけることも滅多にないけれど、彼から声をかけてくるのはさらに珍しい。それほどまでに尋常ではない様子だったのだろうか。
「お顔の色がすぐれませんが。ご気分が──」
そしてトウイはこういう時、ハリスさんのように、真っ先に警戒する、ということが出来ない。無愛想でほとんど口もきかない守護人でも、様子がおかしければ、ミーシアさんのように判りやすい、心配の色を赤茶の瞳に乗せてしまう。
足が震えた。表情が崩れそうになるのを精一杯こらえた。
単純だけれど、歪みのないまっすぐな性質。
ここにいるのは、今までのトウイとは違うトウイだ。でも。
──トウイはやっぱり、トウイ。
その事実が、わたしを強くし、また弱くする。
「……すみません、ちょっと、ここで休みます」
トウイから顔を背けて、わたしは小さい声で言った。
「はい」
トウイが返事をするのを聞きながら、その場にぺたんと腰を下ろして座り込む。
立てた膝に顔を埋めて、小さくなった。
昨日の拝礼日のざわめきが嘘のように、神ノ宮はしんとした静寂に包まれていた。ふわりと吹く風が、頭を撫でるように通り過ぎていく。どこかで鳥の鳴き声がする。この世界では、鳥も、馬も、わたしの世界のそれとは外観がちょっと違っているけれど、チチチという柔らかい囀りはよく似ていた。
「──医師を呼びましょうか?」
「このまま。……もう少し、このままでいさせてください」
膝に顔を伏せたまま、こもるような声で答えると、トウイは今度は返事をしなかった。ただ黙って、その場に立っているのが感じられる。
トウイにこんなところを見せてはだめだ、と思う。弱いところを見せると、トウイは「異世界から来た女の子」に同情してしまう。いざという時、手を伸ばして、助けようとしてしまう。
そして、死んでしまう。
ふ、と短い息を吐き出し、わたしは顔を上げた。無表情を保っているか自信がなかったので、トウイがいるのとは反対の方向に頭を巡らせる。
「少し、疲れが出たみたいです」
「無理もな……ござい、ません」
口をついて出た言い訳に、トウイが後ろから律儀に返事をしてくれるが、どこかぎこちない。敬語を操るのが不得手なのは、いつものことだ。ましてや、相手が自分よりも年下の女の子だからなおさらなのだろう。慌てて言い直そうとしてかえっておかしくなっている言葉に、ちょっとだけ気分が軽くなった。
よく見たら、この場所は、「前回」トウイと座って向き合い、話をしたところに近かった。誰からも忘れ去られたような神ノ宮の端っこは、あまり手入れが行き届いていなくて、その分落ち着く。ここには、他の人の目も耳もない。
あの時、「穴が開いている」とトウイに教えた塀は、今回はどこも異常はないようだった。妖獣も、ハリスさんの話を聞く限り、目立った変化はないようだし。
小さいこと、大きいこと、いろんなことが同じで、いろんなことが違う世界。たまに混乱して、目が廻ってしまう。
腰の剣を外して鞘を掴み、トウイに向かって差し出した。
トウイが、「え」と目を丸くする。
「休憩する間、持っていてもらえますか」
「俺……いや、私がですか」
「一応、ニーヴァ国の至宝なので。大事に扱うように王様からもうるさく言われていますし、地べたに放り出すよりは、誰かに持っていてもらったほうがいいと思うんですけど」
「いやでも……素手で?」
「わたしもいつも素手ですよ」
「いや、でも……」
困惑しながら、トウイが一生懸命両手の平をズボンでこするようにして拭く。それから、おそるおそるその手を出して、剣を受け取った。
「軽……」
思わずというように声を出して、じっと手の中の剣を見つめる。子供のように、瞳がきらきらと輝いて、頬が紅潮していた。
──紙飛行機を見た時と同じ顔。
ごろんと地面に寝転んで、わたしは赤くなりはじめた空を見上げた。
しばらく適当に休むフリをしてから起き上がったら、トウイはまだ生真面目に同じ姿勢をキープして剣を持ち続けていた。
いくら神獣の剣に興味が尽きなくても、この隙にちょっと振ってみる、とか、撫でたり頬ずりしてみる、とか、そういう発想は、彼の頭に浮かばないらしい。基本、トウイは自分の仕事にごくごく忠実な護衛官なのだ。
後生大事に剣を守ってくれていたトウイは、わたしが起き上がったのを見て、すぐに差し出して返そうとした。何もそう、急がなくてもいいのだけど。
でも、そこで、あることに気がついた。
両手にある剣を持ち直し、こちらに向ける──トウイのその動きが、ちょっと妙だ。
わずかに、左腕を庇うような仕草をしている、ような。
「どうかしましたか」
剣を受け取りながら問うと、トウイが「は?」と目を瞬いた。
「左腕」
「え」
ぎょっとしたような顔をしてから、ぱっと右手で左腕の肘の上あたりを押さえる。
「…………」
あのねトウイ、それ、ロウガさんやハリスさんに見られたら、きっと怒られると思うな。
自分から弱いところを教えてどうすんだ、と。
「ここですか」
わりと遠慮なく剣の鞘先でその部分を叩いてやると、トウイが、痛てえっ、と悲鳴を上げた。
「痛いんですか」
「痛い、痛いですっ、守護さま! 何度も叩くのやめてください!」
相手が自分よりも小さい女の子だって油断しているから、そういう目に遭うんだよ。
「どうしました?」
「いやあの、申しわけありません。護衛官として、腕を負傷するなんて面目ないことを……」
「どうしましたと聞いているんです」
「痛てえっ!」
がん、と叩いたら、トウイは大声で叫んで涙目になった。
「ちょっと……不注意で」
「どこかにぶつけましたか」
「あー、まあ、そんなところです」
「正直に言わないともっと痛い思いをしますよ」
「勘弁してください! あの、ちょっと、掴まれて」
「掴まれた? 誰に?」
「いやー、誰ってことも……」
トウイはどこまでも、しらばっくれるつもりらしかった。余所を向いて、ごにょごにょ言っている。
「見せてください」
すっぱり要求すると、トウイが曖昧に笑いながら後ずさった。
「とんでもない。守護さまにお見せするようなものでは」
「わたしは護衛官に命令できる立場ではありませんが、脅しつけることは出来ますよ」
「え、お、脅し?」
「さっさと見せないとロウガさんにチクッちゃおう、とか」
「…………」
そこでようやく観念したのか、トウイが渋々のように、シャツの袖をめくった。
肘の上、二の腕の下あたりが、赤黒くなって腫れていた。トウイの腕はよく鍛えられて、引き締まり、しっかりと筋肉もついている。それがここまで酷い腫れ方をするということは、加えられたのは生易しい力ではなかったはずだ。
どう見ても、ただ掴まれただけで、こうはならない。
「誰にやられました?」
「……誰って」
「別に、その人をどうかしようなんて思っていません。わたしには、そんな権限もありません。聞くだけです」
「あの、ちょっとしたはずみだったんです。悪ふざけの延長、っていうか。揉めたわけじゃなくて。ホントに、大したことはないんです……よ」
言葉を重ねれば重ねるだけウソくさくなる、ということに本人も気づいたのか、トウイはそこで気まずそうに口を噤んだ。
少しの沈黙を置いて、やっと、「──先輩護衛官に」とぼそっとした言葉が出てくる。
「そうですか」
わたしはそれで引き下がることにした。これ以上追及したところで、トウイは決してその護衛官の名を明かしたりしないだろう。先輩といっても、ロウガさんやハリスさんはもちろん、こんなことはしない。護衛官の中で年少のほうに入るトウイは、大体いつでも、周りの人たちに可愛がられていた。
考えられるのは、剣闘訓練での相手かな──とわたしは思う。
手加減の感じられなかった大振りと、憤懣が露わだった大柄の男の顔を思い出す。試合が終わった後も、ぎりぎりと歯ぎしりしながらトウイを睨みつけていた。
名前はなんといったっけ。確か……タ……タネルさん、か。
「建物に戻ります」
踵を返して歩き出すと、トウイはほっとしたように「はい」と返事をした。