2.信頼
拝礼日の翌日、王ノ宮からの呼びだしを受けた。
なにごとも拙速な──という言い方が悪ければ、浮世離れしてゆったりおっとりとしている神ノ宮と比べれば、まだしも王ノ宮の動きは早い。
カイラック王が昨日のことで守護さまのお話を伺いたいとの仰せにて、と文字を読み上げるように一本調子で伝える王ノ宮からの使者に、わたしは頷いたけれど、大神官は少し顔を顰めた。
「これはまた急なこと……しばし準備のための時間を頂かねば」
電話やパソコンのないこの世界では、通常、王ノ宮からの要請があって、神ノ宮から大神官なりわたしなりが出向く場合、二、三日前から、その手のやり取りが使者の口を通じて交わされ、手配や準備を整える。急用の時でも朝に報せが入って出かけるのは昼以降、といった調子だ。神ノ宮というのはとかく万事において、時間を湯水のように使う傾向がある。わたしの世界でいうと、彼らの時間に対する感覚は、平安時代の貴族とかに近いかもしれない。
だから今のように、やって来た使者がそのまま迎えにもなっていて、「今すぐおいでください」などと言おうものなら、大神官はなんたる不躾さよと気分を害してしまったりするのである。
もちろんわたしはそんなものに付き合う気はないので、さっさと着替えのために私室に向かうことにした。街の男の子のような格好のままでは、わたしはいいけれど、王ノ宮には入れてもらえない。
「すぐに用意しますから、五分ほど待っていてください」
と言うと、使者は怪訝な顔をした。こちらには、「分」、という時間の概念がないので、意味が判らないのだろう。しかし説明するつもりもないから、彼にくるりと背中を向けて足を動かす。時間が惜しい。
「お待ちください、守護さま。私のほうも王ノ宮に参上する準備に入りますが、お時間を──」
使者を迎える部屋から出ようとしたわたしを、慌てたようにそう言いながら大神官が追ってきた。
「どうぞごゆっくり。わたしは先に行きますから、大神官さんは準備が出来次第、あとで来てください」
「そ、そのようなわけには」
足も止めずに言うと、大神官はびっくりして目を見開いた。どうしてここでびっくりされるのか、そっちのほうが意味が判らない。大神官の「準備」とやらには、一体どれくらいかかるのか予想もつかないというのに、その無駄な時間をただ待つことで消費しろというのか。
「なんなら、大神官さんはお留守番していてくれてもいいんですけど」
「まさか、守護さまが王ノ宮に行かれるという時に、私がお供しないなどとは」
「護衛官の人にはついてきてもらうから心配ありません。それに、馬車も王ノ宮が用意してくれたらしいし」
「それとこれとは話が違いましょう」
部屋のドアの取っ手に手をかけて、わたしはようやく足を止め、まだ同じ場所に控えている使者にちらっと目をやった。彼はさすがに神ノ宮の神官ほど鈍感ではないらしく、少しだけ苦笑を浮かべてから、深々と頭を下げて見せた。
「カイラック王におかれましては、守護さまと急ぎお話を、とお望みでございますが、お忙しい大神官様にわざわざご足労の手間をとらせるのは忍びない、とのことでもございました。それゆえ、大神官様の代わりに、なんとしてでもご無事に守護さまを王ノ宮までお連れせよ、との命令も受けております。ご心配には及びませぬので、なにとぞ私どもにお任せの上、大神官様はこちらでごゆるりとお過ごしくださいますよう。守護さまが神ノ宮になくてはならぬ方であることは重々承知、お話がお済みになれば、またすぐにこちらまで丁重にお送りいたします」
「王ノ宮は、私の立場をないがしろにされるおつもりか」
「いえいえ決してそのような」
大神官がぐずぐずと不満を並べはじめた隙に、わたしは今度こそドアを開けて足を踏み出した。
あとのことは、如才ない使者に任せておけば、なんとか宥めてくれるだろう。多分カイラック王も、大神官は邪魔なのでついてきて欲しくないのだ。だからこその、この急な呼び出しである。
廊下に出ると、待機していたハリスさんが軽く一礼した。今日の護衛官は彼だ。必然的に、このまま王ノ宮までついてきてもらうことになる。
「今から王ノ宮に行きます」
それだけを短く言うと、ハリスさんは一瞬黙った後で、「は」と返事をした。
***
「拝礼日が無事終わったとのことで、なによりであったの、守護どの」
カイラック王は、わたしを前にすると、挨拶の言葉もそこそこにそう切り出した。
現在わたしたちがいるのは、王ノ宮の中の一室だ。もちろん豪華だし、煌びやかな造りにはなっているけれど、謁見の間のような大きな広間ではなく、普通の部屋である。
謁見の間が公式に客を迎え入れる場所だとすると、ここは非公式の客を呼び入れる場所、ということか。警護の人も、ドアの前に一人と最小限。廊下側には二人いるらしいが、この重厚そうなドアなら、外に声が漏れる気遣いは要らないようだった。
ここには入れないハリスさんは、今頃、厳つい顔をしたその人たちと向かい合って立ち、欠伸を噛み殺しながらわたしが出て来るのを待っているだろう。
「もしもあのまま騒ぎが起きていたら、私もこうしてのんびりとはしておれなんだわ」
布張りのソファに悠然と腰かけるカイラック王は、当たり前だけれど、神官たちとはまったく異なる服装だ。神官が身につけているのは裾の長いローブ状のものだが、それよりは護衛官や警護の人たちの正装に近い。豪奢で、優美で、飾りは多いものの、基本的には詰襟の上着とズボンとブーツ。凝った織りの上等そうな赤い布が緩く首元に巻かれていて、端が左肩から前に長く垂れている。
そういう格好こそいつもと変わりなかったけれど、足を組んで背もたれにゆったりと身体を預ける王は、確かに、謁見の間で見る姿よりもずっと寛いでいる感じがした。
「王ノ宮のみなさんにもご協力いただき、ありがとうございました」
向かいのソファに座ったわたしが礼を述べると、カイラック王は満更でもなさそうに笑みを漏らした。
「なんの、あれしきのこと造作もない。暴動を食い止められたは、守護どのの機転のおかげであったとか。報告では、民たちの間では、守護どのを崇める声で溢れていたそうな」
「…………」
門の外で身を伏せていた人々を思い出し、視線を落とす。暗く沈みかけた気持ちを、すぐに振り払って顔を上げた。今はそんなことを考えている場合じゃない。
「結果的に、何事もなくてよかったです。……でも、今回のことで、思ったのですけど」
なるべく慎重に口にすると、機嫌のよさそうなカイラック王は、うん? というように首を傾げた。
「王ノ宮との連絡が、取りづらいですね」
「連絡、とな」
「『拝礼日のことで、王様とお話がしたい』と、わたしが大神官さんに伝えてから、実際に使者の人が神ノ宮に来てくれるまで、まる一日かかりました。その人に伝言をお願いして、答えが来るまでにもまる一日」
わたしは勝手に神ノ宮の外には出られない。だから王ノ宮にいるカイラック王と話をしたいと思うと、どうしてもその形をとらざるを得ない。前回はそれが上手くいかずに失敗した。
「こうして直接お話しすれば、一時間……いえ、一限もかからずに済んだことだったのですが」
「ふむ」
カイラック王は一言言って、片目を眇めた。王の後ろに立っている宰相が、不快げに眉を寄せている。王に目通りするだけでも畏れ多いことなのに、時間がかかりすぎるとはなんと不遜な物言いを、と思っているのだろう。
──たかが異世界から来た小娘風情が、と。
王ノ宮の人たちは、神ノ宮とはまったく違った目で、「守護人」というものを見ているのだ。
「私もなかなか忙しい身ゆえにな」
そうでしょうとも、とわたしは内心で皮肉っぽく応じる。
「神ノ宮の人たちが、ちょっと頭が固い、ということは王様もご存じのことと思いますが」
「さもあろう」
くつくつと王が笑った。
「大神官さんも、その例外ではありません。今回のことでも、王ノ宮にはすんなり話が通じましたが、大神官さんにそれを理解してもらうには、大変な手間がかかりました」
拝礼の時間を延長するという、たったそれっぽっちのことに承諾をもらうのに費やした時間のことを思い出し、再びイラつきが込み上げる。今現在、門を挟んで騒ぎになっているというのに、「たかが平民のために、この神ノ宮の決まりを曲げろと言われるか」とずっと渋い顔で言い張っていた。あのクソジジイ。
そもそも、拝礼に訪れた人たちに、神ノ宮がもっと柔軟な態度をとっていれば、あんな騒動は起きなかったのだ。そして今もって、事の重大さが、彼らには何も判っていない。
今度のことで、王ノ宮も、カイラック王も、それを認識しただろう。神ノ宮の神官たちは、いざという時、なんの役にも立たない。そのことを、彼らに納得させる契機にはなったはず。
「今後、もしも──もしも、また『何か』があった時。もしくは、ありそうな時」
わたしはカイラック王と目を合わせ、ゆっくりと言った。
「神ノ宮だけでは対処できないことがあるかもしれません。けれども、神ノ宮の人々は、それを容易に認めようとはしないでしょう。その結果、神獣の身に万が一のことが起きないとも言いきれません」
あの神獣は殺そうったって死なないけれど、カイラック王にとって大事なもの、必要なものは、神ノ宮ではなく、神獣だ。王の眉がぴくりと動くのを、わたしは見逃さなかった。
「その時に手遅れにならないよう、今のうちから手立てを考えておくに越したことはないのではありませんか」
「…………」
カイラック王は何かを考えるように手を顎に当て、じっとわたしに視線を据えた。
ふとそれを逸らし、今度はちらっと後ろを振り返って、宰相と目配せをする。
「──今日、守護どのにおいで願った理由なのだが」
またわたしに目を戻すと、彼は今までとは少し違う口調で話しはじめた。組んだ足の上に肘を突いて、若干、姿勢も前のめりになる。
「先日、守護どのからの伝言を聞いて、正直、私を含め、ここにいる宰相も、大臣も、みな半信半疑だった。中には、守護どのはずいぶんと大げさにものを考える性分であられることよ、と笑いを隠さぬ者もいたほどでな」
後ろに立つ宰相が目を逸らした。
「拝礼日、何かが起きるかもしれないので、それに向けての心積もりをせよ──とは」
そんな命令口調で言った覚えはないのだけれど。ちゃんと、もっと丁寧な言い方をしたでしょうに。
「まあ、それで守護どのが安心できるのならと、承知したとの返事をした。率直に言えば、王ノ宮では誰もが、そのことを軽くしか考えておらなんだ。が、いざ拝礼日を迎えてみれば、守護どのの申されたとおり、実際に、あのようなことが起きかけたわけだ。あそこで暴動が起こっていたら、こちらもちと困ったことになったと推測される。それでお聞きしたいのだが、守護どのは、何かが起きる、ということを、どのようにして知り得たのであろうか」
王と宰相の探るような目がこちらに向けられる。
「知ったわけではありません。王様にお願いした時点で、わたしも可能性の一部として考えていたに過ぎなかったんです。ですから、『かもしれない』と言いました」
わたしはごく正直に言ったけれど、二人は揃って疑わしそうな顔をした。
何かが起きるかもしれない、とは思っていた。
しかし何が起きるかは、自分でも判らなかった。
どちらも本当だ。
「──神獣は未来を読む力を持っており、国の一大事の前には、託宣をして救いの手を差し伸べる、というが」
ウソつけ。未来を読む云々は知らないけれど、あの生き物は、人間を救うために自分の指いっぽんだって動かしたりしない、と断言できる。人が死に、国が滅亡していくのを、ただ大笑いしながら眺めているだろう。
「あるいは守護どのも、似たような力をお持ちか」
「……さあ」
わたしは曖昧に返事をした。扉を開けた分、カイラック王より知っていることがあるのは確かだけれど、それを「未来を読む力」と言えるかどうかは甚だ疑問だ。本当に未来が読めるのなら、こんな簡単なことはない。
しかし王ノ宮にそう思ってもらえるのなら、わたしにとっては都合がいい。肯定も否定もしないでおくことにする。
「わたしに、神獣と同じような力があるかどうかは知りませんけど」
「うむ」
「でも今、少し、判っていることはあります」
カイラック王と宰相の顔に、さっと緊張が走る。わたしはなるべく、さらりとした調子で続けた。
「これからも、何かは起きます」
その言葉に、カイラック王がわずかに動揺したように身じろぎした。
「何かとは……何が」
「それは判りません」
それが判っていれば、なんの苦労もない。
「でも、間違いなく、何かがあります。それはひょっとしたら、神ノ宮にとっても、王ノ宮にとっても、打撃になることかもしれません」
前回、ニーヴァは、妖獣の襲撃によって滅びた。
カイラック王も妖獣に首を引き千切られて死んだ。
トウイを死に至らしめる道は、大体の場合、神ノ宮、王ノ宮、そしてこのニーヴァ国までも巻き込む、大きな災いを伴っている。
100日の間に、確実に、そういう「何か」が起きる。わたしはそれを、知っている。
「その時、わたしが何か気づいたことがあって、早く王様にお伝えしたくても、今回のようなことをしていたら、間に合わないこともあるんじゃないか、と危惧しています」
「……うむ」
カイラック王は強張った表情でしばらく黙り込んでいたけれど、ややあって、決心したように目を上げた。
「相判った。その件については、早急に手立てを考えよう」
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる。
これで、王ノ宮との直通の連絡手段が手に入ると考えていいだろう。王ノ宮は王ノ宮で、神獣の傍にいる守護人から情報を得ることは悪くない、と考えているはずだ。
わたしはすっとソファから立ち上がった。
「お話がそれだけなら、私はこれで」
「う、うむ。そうだな、神ノ宮まで送らせよう」
「王様、ひとつお聞きしたいのですが」
「うむ、なんであろう」
「今のニーヴァで、大きな病気が流行っている、ということはありますか?」
「なに?」
カイラック王はぽかんとした。どうやら、演技ではないようだ。後ろに控えている宰相も同じ顔をしている。
「大きな病気……はて」
「いえ、いいんです。それでは失礼します」
一礼して、出口へと向かう。
歩きながら、頭の中で考えた。
──人々を荒れさせているのは、とりあえず、疫病の類ではない、ということか。病気なら広がるのに時間がかかるから、あるいは国の端から徐々に感染しているのでは、と思ったのだけれど。王ノ宮にもそんな話がまったく届いていないというのなら、違うのかもしれない。
ゆっくりと、人の心の中に入り込み、疲弊させ、追い詰め、蝕んでゆくもの。
じわじわとニーヴァという国を覆っていく暗雲の正体を、わたしはまだ、まったく掴めていなかった。
***
神ノ宮に戻ると、知らせを受けたのか、大神官がすぐに駆け寄ってきた。
「これは守護さま、無事お戻りになられ、なによりです」
「はい」
わたしは素っ気なく言って、そのまま足も止めずに私室に向かう。無事もなにも、神ノ宮と王ノ宮とは、馬車で三十分もかからない距離にある。大神官が心配顔をしているのは、本当はそんな理由じゃない。
「……して、カイラック王のお話とは、どういった」
案の定、窺うような言い方で問われた。
ちらりと見返ると、下から掬うようにこちらを見ている顔があった。大神官は堂々とした体格のカイラック王とは違い、細くて貧相だ。わたしに向けられる眼は、落ち着きなく瞬きを繰り返している。目元には皺、少しこけた頬は加齢のためだろう。確か五十半ばを過ぎたくらいだったか。
そういえば、カイラック王は何歳なのかな。見た目、四十代だけど。こちらの人は、実際の年齢よりもちょっと上に見える外見をしているので、判りにくい。何度も扉を開けて、一方的に長い付き合いの大神官とカイラック王であるけれど、彼らの個人的情報は、ほとんどわたしの頭に入っていなかった。
「昨日のことを聞かれただけですよ」
わたしは歩きながらそう答えたが、大神官は簡単には引き下がらなかった。長い裾を引きずり、磨き抜かれた主殿の建物の廊下を滑るように移動してついてくる。その後ろをハリスさんが従っているけれど、よくあの裾を踏まずに歩けるなと感心してしまう。
「それでしたら、なにもわざわざ守護さまが王ノ宮まで行かれずとも」
「わたし以外に、昨日のことを王様に説明できる誰かがいましたっけ」
少し皮肉も込めて言うと、大神官は言葉に詰まった。
神官、大神官は、昨日は結局最後まで、様子を見るどころか、人々の前に姿を現すことすらしなかった。騒動の一部始終をいちばん詳細に説明できるのは、あの時あの場にいた護衛官と警護の人たちだが、彼らに王ノ宮に行ってもらうわけにいかないことは大神官も判っている。
「しかし、これは神ノ宮の問題……王ノ宮は、少々立ち入りすぎなのでは」
実際、神ノ宮だけでは解決できなかったでしょうが。
ぶつぶつ文句を零す大神官にそう言ってやりたい気持ちは山々だったけれど、わたしはなんとかそれを胸の底まで押し込めた。
現場を見ることも知ることもしなかった神官たちの間では、今でも、「民が騒ぎ立てただけの些細な揉め事に、王ノ宮が首を突っ込んで介入してきた」という不満がくすぶっている。それを煽り立ててもいいことはない。
「そうですね。騒ぎが収まったのは、大神官さんの決断があったからです」
手間と時間がかかっても、最終的にどうしても、大神官の決断が必要だった。それは事実。
再びあの門を開けることは、わたしの力だけでは出来なかった。強硬に進めてしまえば、必ずどこかにひずみが出る。
……そしてまた、新しい火種が生まれてしまう。
「王ノ宮はあくまで応援に来てくれただけです。でも、事情くらいは把握しておきたいと思うのも、当然じゃないでしょうか」
「しかし──」
大神官はなおももごもごと言っている。わたしはため息を押し殺した。
神ノ宮と王ノ宮、両者の関係は複雑だ。
そのふたつは、どちらもニーヴァになくてはならないもの。どちらかに力が偏りすぎていてもいけない。けれど、お互いに、この国を支えているのは自分のほうだという自負と矜持を持っている。
綱引きみたいなものだ、とわたしは思う。
どちらも、真ん中の赤い印をなるべく自分の陣地に引き込もうとしている。でも、印が明らかに片方に引っ張られすぎてもいけないことも判っている。
両者が引っ張っているから、綱はぴんと張られているのだ。どちらかに力がありすぎたら、均衡が保てず全体が崩れてしまう。あちらにありすぎても、こちらにありすぎても駄目。そうやってお互いに相手を牽制しつつ、自分の綱を強く握りしめている。
大神官は、わたしが王ノ宮に引き入れられやしないかと、警戒しているのだろう。
「守護さま」
改まって呼び止められた。その低い声に、足を止め、大神官を振り向く。
彼はわたしにぴたりと視線を合わせると、確認するように言った。
「守護さまは、この神ノ宮のもの。神ノ宮に神獣がおられるから、守護さまは守護さまとしていられるのです。神ノ宮でなければ、守護人の名は意味を成しませぬ。──そのことを、ゆめゆめお忘れなきように」
「…………」
わたしはしばらく口を閉じ、大神官の顔を見た。
それから、頷いた。
「もちろん、わかってます」
答えて、くるっと踵を返す。
そんなことは、わかってる。
──所詮、お前は神ノ宮の飾り物、余計な真似はするな。
そう言いたいんでしょう?
ようやく大神官から離れて、やれやれという気分で主殿の長い廊下を進んだ。早く着替えて、ミーシアさんに温かい飲み物を淹れてもらおう。
わたしの私室はかなり奥まった位置にあるので、近づけば近づくほど人の姿は見えなくなる。しんとした廊下を歩いているのは、わたしと後ろのハリスさんだけだった。
こつんこつんという二人分の足音が響く。
そんな中、先に言葉を発したのはハリスさんのほうだ。
「……守護さま」
周りを憚っているのだろう、抑えられた声音で呼びかけられ、わたしはまた歩きながら顔だけを振り向かせる。
「はい」
「少々、お伺いしてもよろしいでしょうか」
ハリスさんから話しかけられるなんて、珍しいこともあるものだ。ずーっと警戒されていたようだから、そろそろ辛抱が切れたかな。
ハリスさんは背が高いので、わずかに上体を前方に傾けた。いつもあまり感情を見せない人なのに、わたしに向けるその双眸は、強い不信感をたたえて底光りしている。
「はい、どうぞ」
「失礼ながら、守護さまは、どちらで剣技を覚えられましたか」
「別の場所で」
「もといらした世界で、ということでしょうか」
「前にいた、ここではない世界、といえばそうです」
「そこで剣を扱っておられたと」
「そうです」
「こちらにいらしてから、誰かに教わったということは」
「ここでは、ありません」
「ございませんか。まったく?」
「そんなヒマがなかったのは、ハリスさんもよくご存じだと思いますけど」
「…………」
ハリスさんは少し黙りこくってから、薄く微笑んだ。
「失礼いたしました。あまりにも先日の剣筋がお見事だったもので。非礼をお許しください」
それきり口を閉ざして、またわたしのあとを一定距離を置いてついてくる。
どうやら、剣闘訓練の一件で、何かを怪しまれているらしいな、とわたしは思った。守護人だから、という理由ですべての不可解を呑み込んでしまうほど、ハリスさんは単純ではない。
ロウガさんも、ハリスさんも、わたしのことを信用していない。それは当然だ。そして、それで構わない。彼らがわたしを信用していなくても、わたしは彼らを信頼している。それでいい。
守護人という名の利用価値ばかりを考える王ノ宮のことも、守護人をただの置物としてしか見ていない神ノ宮のことも、わたしはまったく信用していなかった。カイラック王も、大神官も、信じない。彼らは状況が変われば、あっさりと、たくさんのものを切り捨ててしまう人間だ。
でも、ロウガさんとハリスさんは違う。
トウイが危地に陥った時、この二人だけは、いつも彼を庇う方向で動いてくれる。
怒っても、叱っても、呆れても、バカだガキだと罵っても。
必ず、彼らは最後には、トウイの味方をしてくれる。逃がそうとしてくれる。制止しようとしてくれる。助けようとしてくれる。
これまでずっとそうだった。だからわたしは、二人を信じている。
彼らが助けようとするのは、トウイだけでいい。
……だから、わたしに対するそれは、必要ない。